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幕間劇

大江健三郎の『沖縄ノート』について(1)

○藤岡信勝氏のアピール
 11月23日、私のe-メールに藤岡信勝氏のアピールが入っていた。
 戦争末期に沖縄で起こった民間人の集団自決という悲劇について、日本軍の現地指揮官の命令があったかどうか。この問題については、座間味島の守備隊長だった梅澤裕氏と、渡嘉敷島の守備隊長だった赤松嘉次氏(故人)の実弟・秀一氏が、人格権(名誉権)を侵害されたと、『沖縄ノート』の著者・大江健三郎氏と出版元の岩波書店を訴え、現在大阪地方裁判所で争われている。
 私も概略その程度のことは承知していた。
 
 この問題は高等学校の日本史教科書の記述にもかかわり、文部科学省は「軍の命令があったと断定できる決定的な証拠はない」という意味の検定意見をつけ、各教科書出版社はそれに従った。私は各出版社が検定申請した教科書を見ていないし、文部科学省の検定意見の正確な表現も知らない。ただ、テレビ・ニュースなどで判断するかぎり、そういう動きがあったらしい。もちろんそういう動きに批判的な人はいるはずだし、沖縄では文部科学省のやり方に抗議する県民集会が開かれた。最近のテレビ・ニュースによれば、文部科学省は教科書の「訂正申請」を受けつけることにし、ほとんどの教科書会社から訂正申請があったという。
 
 藤岡信勝氏のアピールはこのことに関するもので、自民党の中に「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」というのがある。その中の「沖縄問題小委員会」の第3回会合が11月22日に開かれ、委員長の萩生田光一氏が文部科学省の教科書課長に
「訂正申請に基づき、教科書を再度書き換えるならば、必ずその根拠を明らかにしてもらう」と問い詰めたところ、教科書課長の表情がこわばった。更に荻生田委員長が「検定審議会による専門家の意見聴取は、中立的な人選をしているか」と訊いたところ、課長は「はい。中立でやっています」と答えた。
 
「しかし」と、藤岡信勝氏は書いている「教科書課長はあきらかに嘘をついています。なぜなら、沖縄タイムスと琉球新報(20日付け)は、文科省が今月末までに、林博史・明治学院大学教授と沖縄在住の琉球史の専門家の二人に、訂正申請についての意見を文書で出してもらうことにした、と報道しているからです。こんな人選は「中立」どころではありません。林氏は「軍の強制」説の首謀者です。これは、さしずめ、犯人に裁判の判決を書かせるようなものです」。藤岡氏はこのように書き「こういう、論外ともいうべき偏った人選について、月曜日から文科省に抗議の電話をしてほしいのです」と要望してきた。

○『沖縄ノート』裁判における争点の一つ
 ただし、私は藤岡信勝氏と面識はない。メールの交換もしたことがない。つまり私は、先のアピールを藤岡氏から受け取ったわけではなく、ある知人の「転送」によって知ったわけだが、一読して不快な印象を受けた。藤岡氏はメールの受信者に、
「(電話で)文科省(03-5253-4111)から「教科書課」を呼び出し、この二人(教科書課長と教科書企画官)のうちのどちらかを呼び出し、がんがん意見を言って下さい」と呼びかけている。しかし私は、そういうやり方で圧力をかけることに違和感を覚えてしまったのである。

 ただ、それとは別に、私は、先のアピールに藤岡氏が付した「林博史氏は教科書検定審議会の意見聴取の対象として適格か」という論説を読み、なるほど『沖縄ノート』裁判はそういう方向で争われているのかと、むしろそのほうに関心が動いた。
 藤岡氏によれば、林博史氏はアメリカの公文書館で、米軍の歩兵第七十七師団砲兵隊による「慶良間列島作戦報告」という史料を発見した。その中に、
Civilians, when interrogated, repeated that Japanese soldiers, on 21 March, had told the civilian population of Geruma to hide in the hills and commit suicide when the Americans landed.”という一節がある。林氏はそれを、「慶良間島の住民は、三月二十一日に、日本兵が慶良間の住民に対して山中に隠れ、米軍が上陸してきた時には自決せよと命じたと繰り返し語っている」という意味に取り、「軍命令」説の根拠とした。『沖縄ノート』裁判の法廷(1月19日)において、被告(大江健三郎氏と岩波書店)側の代理人もこの史料を持ち出し、『沖縄ノート』の記述の妥当性を裏づけるものとしている。
 しかしこの翻訳は、3月30日の第8回口頭弁論で、原告(梅沢裕氏と赤松秀一氏)側の代理人によって次にように批判されてしまった。
《引用》
 
本件の英文は、軍人によるものであり、この用語の使い分けについても当然理解した上で「tell」を用いているものと考えられる。軍隊の文書というものは、その性質上極めて用語の使い分けには厳しいものだからである。軍人が、民間人にたいする「軍命令」(command)は存在しないことが前提で(民間人は、軍の部下ではない)、より弱い意味で多義的な「tell」を敢えて使用している。

 即ち敢えて「tell 人 to~」の用法を使用している原文は、軍による自決命令の存在を否定することを示すものというべきなのである。

 ちょっと分りにくい表現だが、いま「慶良間列島作戦報告」を書いたアメリカ軍人の立場に立ってみよう。もし彼が、「日本の兵士が慶良間の民間人に対して、自決せよと命令した」と認識していたならば、彼は軍人の用語法に従って、“Japanese soldiers…… had commanded(あるいはhad ordered)“と書いたはずだ。ところが、そのアメリカ軍人は、“Japanese soldiers……had told”と書いている。これはむしろ軍命令がなかった証拠と見るべきだろう。それに、軍人が民間人に命令を下すことなど、そもそもあり得ない。原告側の代理人はそう言ったのである。
 その点から見れば、「自決せよと命じた」という林博史氏の翻訳は不正確だったと言うほかはない。

 重箱の隅をせせるような議論にはまり込んでいるように見えるかも知れないが、裁判における事実認定の争いはそういう形で進んでゆくのである。 

○少し気楽に構えていたところが
 ところで、さて、私は前回の「「できる」と“may”」(「北海道文学館のたくらみ(23)」)を書いた後、11月半ばには小樽の皆さんと鎌倉、江ノ島を巡る、2泊3日の文学旅行に出かけた。その予備講座として「近代文学のなかの源実朝」という話をした。労働審判に次いで、新たな動きが始まるまで、そんなふうに時間を過ごすことにしたのである。
 鎌倉の旅行には家族三人で参加し、幸い天気にも恵まれて楽しく、いい気分でこんな駄洒落を幾つも連発して同行者を呆れさせた。
《引用》
 
 11月14日は、江ノ島の宿に荷物を置いて、島巡りに出かけた。全裸で琵琶を奏でている弁天様を、ありがたく拝んだ。銭洗い池があり、鎌倉の銭洗い弁天とどんな関係にあるのかなと思いながら、コインを洗った。
  夜、宿に入り、浴場からもどった妻と娘に、「どうだった?」。
  「う~ん、初めは二人だけだったので、ラッキーとか思ったけれど、5分も経たないうちに、団体さんらしい人が4、5人、どやどや入ってきて、芋洗い弁天さまみたいだった」。

  16日の3日目は、稲村ガ崎の古戦場に寄った。
  「新田義貞が鎌倉を攻め落とした時、初めは極楽寺の切通しを攻めあぐねて、ここに軍勢を集めた。義貞が黄金造りの名刀を海に投げ入れて、八幡大菩薩に祈ったところ、潮がさあっと引いて、遠浅となり、おかげで義貞たちは北条軍の背後を衝くことができた。『太平記』ではそうなってるけれど、もちろん単なる伝説でネ、潮は引かなかった」。
  「ええ」。
  「そこで、新田義貞は、黄金造りの名刀に効き目がないとは、何かおかしい、誰かあの太刀を取って参れ。……で、家臣の一人が鎧かぶとを脱ぎ捨て、素っ裸でざぶんと海に飛び込み、水底から拾ってきた太刀を、義貞に差し出すと、義貞、さっと抜いて、刃をしげしげ点検し、真っ赤になって怒鳴った。誰だ! 予算をケチったのは、これを見よ、なまくらじゃ!」。

 私の父方の従弟に、真下耕一というアニメーションの監督がいる。「ヤッターマン」シリーズで演出家としてデヴューし、現在では多方面で実験的な制作に携わっているが、血筋は争えないらしい。私は彼のギャグが大好きだった。もちろん現在、彼のギャグセンスは遥かに磨きがかかっていると思うが、私は上のようなNHKレベルの駄洒落を織り交ぜながら、気楽な「幕間劇」を書き、次の動きを待とうとしていた。
 ところが、初めに書いたように、ある知人を通して、藤岡信勝氏のアピールが飛び込んできたのである。

○関心の動き
 しかし私は、『沖縄ノート』を巡る裁判が現在どのように進んでいるか、ほとんど全く知らなかった。せっかちな判断は避けようと、念のためにgoogleで新聞記事などを検索してみたところ、「愛・蔵太の少し調べて書く日記」が大変丁寧に、大江健三郎氏が証言台立った、尋問記録を編集してくれている。どうやら争点の一つは、『沖縄ノート』の
「人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、……」という表現の、罪の巨塊」の解釈にあるらしい。
 私の手元にある『沖縄ノート』は1970年10月30日発刊の初版第2刷(初版第1刷は1970年9月)であるが、その該当箇所(P,210)を見る限り、原告側の、「罪の巨塊」が赤松大尉(当時)自身を指しているという解釈には無理がある。なぜなら、原文は
「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、……」となっており、原告側の解釈によれば、「慶良間の集団自決の責任者」は赤松大尉を指す。その上さらに、罪の巨塊」も赤松大尉を指すとすれば、「(赤松大尉は)人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい赤松大尉のまえで、……」となり、これでは文章がおかしくなってしまうだろう。

 ただ、この「罪の巨塊」という言葉はいきなり無限定に出てきて、前後の文脈からその意味を確定することはきわめて難しい。「愛・蔵太の少し調べて書く日記」に引用された、『沖縄タイムス』の記事によれば、大江自身は法廷で、罪とは『集団自決』を命じた日本軍の命令を指す。『巨塊』とは、その結果生じた多くの人の遺体を別の言葉で表したいと考えて創作した言葉」と説明したらしい。しかし、どうも腑に落ちない。
 第一に、そんな説明が必要なほど舌足らずな言葉を使う必然はなく、むしろ端的に、「日本軍の強制の結果生じた数え切れないほどの犠牲者」とでも書けばよかったはずである。
 第二に、原文自体の文脈に即して言えば、
人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、……」における主語は、慶良間の集団自決の責任者」のはずであり、それをつぐなうには」「それ」は、明らかに「あまりにも巨きい罪の巨塊」を指している。それ故この原文自体の文意は、――少しまわりくどい言い方になるが――「慶良間の集団自決の責任者は、自分が犯した罪の巨大な集積を目の前にして、とうてい自分一個の力では償い切れないと感じ、……」となり、その意味で「慶良間の集団自決」「罪の巨塊」とは、責任者」を媒介にして、同義となる。別の言い方をすれば、罪の巨塊」とは、彼の罪の対象化された実態であり、認識論的に言えば、彼はまさに眼前の「罪の巨塊」を自己認識の鏡とし、そこに映し出された自分自身の現実的な姿に直面していたことになる。
 そこまで整理してみれば、
罪の巨塊」は責任者に突きつけられた彼自身の正体を意味し、それ故「悪の巨塊」を責任者の隠喩とみる解釈も、あながち見当違いとは言えないだろう。
 
 ただし、以上はあくまでも大江の文章をどう読み取るかという解釈レベルの判断であって、なぜそういう断わりが必要かと言えば、大江自身、その「責任者」が「あまりにも巨きい罪の巨塊をまえにした」のは、戦場においてなのか、復員後の日常生活における回想の場面なのか、必ずしも明確に特定していないからである。端的に言って、これを書いたときの大江は、十分に熟さないまま「罪の巨塊」という生硬な言葉を使ってしまったのではないか。私はそういう疑問を禁じえないが、いずれにせよ以上のことは、実際にこの人物が集団自決の命令を下したか否かとは別な問題であること、言うまでもない。

○材料探し
 そんなわけで、私の関心は、俄かに『沖縄ノート』裁判に集中していった。理由の一つは、民事訴訟の進め方に強い関心があるためだが、もう一つは言うまでもなく、大江健三郎、曽野綾子という文学者の表現が問題になっているからでもある。
 さっそく私は、曽野綾子さんの『ある神話の背景』を探したが、運悪く手に入らない。ただ、その改訂版である『沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実』(ワック株式会社、2007年11月第6刷。初版は2006年5月)が手に入った。
 さらに「愛・蔵太の少し調べて書く日記」からヒントを得て、「沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会」というホームページを見つけることができた。ここには原告側の訴状や「原告準備書面」の要旨や、口頭弁論の要旨が紹介されている。全部を刷り出してみようと思ったが、ホームページを作る人の技術が悪いのか、私の印刷技術が悪いのか、うまくプリント・アウトできない。やむを得ず、全文をコピーして、ワードパットに入れ、文字情報だけを刷り出すことにしたのだが、それでもA4版で100頁を超える、膨大な記録集になった。
 他方、大江側に関しては、「大江健三郎・岩波書店 沖縄戦裁判支援連絡会」のホームページが見つかり、残念ながら大江健三郎氏の「陳述書」は見つからなかったが、「被告準備書面」要旨は1から11まであり、その他の証人陳述書を合わせると100枚近くなる。
 
 およそ以上が、私が手に入れた材料だが、とりあえずこれを基にして、特に『沖縄ノート』の中で問題になった3箇所を中心に、私なりの読み方と解釈を書いてみたい。私は「守備隊長の命令があったか否か」については判断材料を持たないが、少なくともそれを議論する仕方自体の是非については検討することはできる。
 それが現在の私の立場であるが、なお、これからは評論の一般的なルールに従って、文学者や歴史家や弁護士の名前については、「氏」とか「さん」とかの敬称は省略させてもらう。
 
○もう一つの争点
 さて、ところで、係争中の表現の中で、最も私の関心を引いたのは次のような表現であった。
《引用》
 
このような報道とかさねあわすようにして新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。僕が自分の肉体の奥深いところを、息もつまるほどの力でわしづかみにされるような気分をあじわうのは、この旧守備隊長が、かつて《おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい》と語っていたという記事を思い出す時である。
 おりがきたら、この壮年の日本人はいまこそ、おりがきたと判断したのだ、そしてかれは那覇空港に降りたったのである
(P,208。ゴチック体の箇所は、原文では傍点を打って強調)

 このような表現が、なぜ裁判で争われることになったのか。
 これもちょっと分かりにくいことかもしれないが、それを明らかにするために、ここで一つ確認しておきたい。それは大江健三郎が、
慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男「「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」という言い方で、渡嘉敷島の集団自決に責任を持つ一人の軍人がいたことをはっきりと指定したことである。
 しかも大江健三郎は
「強制したと記憶される男」という言い方をしており、これは「強制したと知られた男」、「強制したことが周知の男」と言い換えても、語義に変化は生じない。つまり彼は、その軍人のことを、たまたま大江個人が何らかの事情で知ったということではなく、既に一定数の人たちの間で、「集団自決を強制したと記憶されている、周知の男」として取り上げたのである。
 
 では、その軍人のことは、どんな人たちの間で、どのような伝達方法を通して
「記憶される」ようになったのか。その点について大江は何も語らないが、先の文章で彼は2度、新聞に言及している。その新聞の規模は分らないが、少なくとも一定の拡がりをもつ地域で、不特定多数の読者を持ち、その軍人に関する記事が読者の目に止まった。その読者の何割かによって、軍人の名前と行為が「記憶されている」。大江はそのような現実を前提に先の文章を書いたはずである。
 彼は『沖縄ノート』を書くに当たって、同じ岩波新書版の『沖縄問題二十年』(中野好夫と新崎盛暉の共著1965年)を参考にしたかもしれない。もしそうならば、『沖縄問題二十年』の次のような箇所を読んだ読者も、彼は「記憶している」人たちに数えていたであろう。
《引用》
 
だが、立ちあがることもなければ、闘うこともなく、民衆を殺しただけの軍隊もあった。ほとんどすべての沖縄戦記に収録されている、慶良間の赤松隊の話がもっとも顕著な例である。那覇港外に浮かぶ慶良間列島は晴れた日には、琉球大学のある丘から一望のもとに見渡せる美しい島々で、戦前は鹿の住み家として知られていた。この慶良間列島の渡嘉敷島には、赤松大尉を隊長とする海上特攻隊130名が駐屯していた。この部隊は船舶特攻隊で、小型の舟艇に大型爆弾2個を装備する人間魚雷であった。だが、赤松大尉は船の出撃を中止し、地上作戦をとると称して、これを自らの手で破壊した。そして住民約3百名に手榴弾を渡して集団自決を命じた。赤松大尉は、将校会議で、『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで闘いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態は、この島に住むすべての人間に死を要求している』と主張した(原告・梅澤裕、赤松秀一の「訴状」より)

 念のために一つ注意しておけば、確かに赤松大尉を隊長とする戦隊は、小型の舟艇に爆弾を2個装備して敵艦に体当たりする海上特攻隊であったが、海中を潜行して敵艦に近づく「人間魚雷」ではない。この種の勘違いは、曽野綾子が『集団自決の真実』で引用した『沖縄戦記 鉄の暴風』(沖縄タイムス社、昭和25年8月15日)や、上地一史の『沖縄戦史』(時事通信社、昭和34年1月)にも見られる。この2冊は、いわゆる沖縄の本土復帰以前の出版であり、特に前者の場合、読者の多くは沖縄の人たちに限られていたかもしれない。だが、後者は時事通信社から出版され、本土に広く行き渡っていたと思われる。ともあれ、赤松大尉を名指しで集団自決の命令者と断定する記述は、既にこれらの著書で始まっていた。中野好夫と新崎盛暉は自ら検証し直すこともなく、例の勘違いまで踏襲してしまったのであろう。
 大江健三郎が『沖縄ノート』を書いた時には、単行本のレベルにおいても、既に先のような記述が流布し、流通していた。木坂順一郎の『昭和の歴史7 太平洋戦争』(小学館、1982年12月)は、一般市民向けの通史と言えるだろうが、その中にも、
これらの事件(「友軍」による虐待と虐殺)のうち有名なものとしては、久米島で鹿山隊がスパイ容疑と命令不服従を理由に、村民一九名と兵士一名を殺害した事件、渡嘉敷島での赤松隊による住民処刑と集団自決の強要事件がある」という記述が見られる。(注1)

○「名指し」はあったのか
 さて、少し回り道をしたが、このように整理してみると、なぜ先ほど引用した表現が問題になったか、見当がついたと思う。
 原告側の読み方からすれば、大江の守備隊長に関する記述は明らかに赤松大尉という個人名と同定できる書き方になっている。そこで原告側は
「(大江の記述が)渡嘉敷島の守備隊長であった赤松大尉に関するものであることは、日本の現代史を研究するもの及び赤松大尉を知るものによっては明らか」であると判断し(「訴状」平成17年8月5日)、大江健三郎と『沖縄ノート』の出版元・岩波書店を、名誉毀損罪で告訴したわけである。
 それに対して被告側は
、「(その記述は)渡嘉敷島に守備隊長によって集団自決命令が出されたことも、赤松大尉を特定する記述もなく、一般読者の普通の注意と読み方を基準とした場合、赤松大尉についてのものと認識されることはなく、赤松大尉が集団自決を命じたと認識されるものでは全くない」と反論した(「被告準備書面(1)要旨」2005年12月27日)。
 
 また、赤松大尉が渡嘉敷島の民間人に対して集団自決を命じたか否かについても、原告側は「赤松大尉は集団自決の命令は出していないが、大江は赤松大尉が命令を下したと読みうる書き方をしている」と主張し、被告側は「赤松大尉が命令を下したと判断しているが、しかし少なくとも『沖縄ノート』では赤松大尉の名前も出していないし、彼が命令を下したとも書いていない」、それ故名誉棄損罪は成り立たない、と反論したわけである。

○「一般読者」という概念
 こうなると、問題は、原告と被告の読み方のどちらが妥当なのか、ということになるわけだが、被告側は昭和31年7月20日に最高裁判所が下した、
記事等が人の名誉を毀損するものであるか否かは「一般読者の普通の注意と読み方を基準として解釈されるものである」」という判決を引き合いに出して、次のように主張した。ある表現が他人の名誉を毀損しているというには、一般読者が本件書籍(『沖縄ノート』)を読んで、その記述自体から、表現が誰に関するものであるか特定されることが必要である」(「被告準備書面(1)要旨」)。
 つまり、『沖縄ノート』は赤松大尉の名を明示しているわけではない。だから、一般読者の注意と読み方をもって、大江の記述から赤松大尉の名を知るはずがなく、それ故赤松大尉の名誉を毀損したとは言えないだろう。これが被告側の言い分であった。

 だが、この読者論にはどこかおかしいところがある。
 自分の経験に照らしてみれば分るように、私たちの読書行為はただテクストの言うところを受動的に受け取り、字面の意味を超えない範囲に理解を限定して、それで能事足れりと満足しているわけではない。
 既に30年以上も前に、ハンス・ロバート・ヤウスや、ヴォルフガング・イーザーの読書行為論が明らかにしたように、読者は一定の予備知識と期待に促されてテクストを手に取り、テクストが与える情報に対応して知識を組み替えたり、埋もれていた記憶を呼び覚まされたりしながら、新たに喚起された期待に促されて読み進めてゆく。その意味で、読書とはテクストとの対話を通して遂行される、極めて能動的な創造的行為なのであるが、特に読書対象が『沖縄ノート』のように歴史と時事問題を取り上げたテクストの場合、当然読者は関連するテクス(単行本や雑誌、新聞など)に関心を拡げて、自分の知識をより豊かで、より正確なものにしようと試みるだろう。

 被告側である大江や岩波書店は、最高裁判決の権威に寄りかかっているほうが無難だ、と計算したのかもしれない。だがそのために、ごく当たり前な読書行為論を無視する結果となり、自ら墓穴を掘るような、やぶ蛇の議論にはまり込んでしまった。
《引用》
 
東京地裁平成15年9月5日(乙14)は、「特定人に対し、雑誌記事による名誉毀損の不法行為が成立するためには、当該記事の記載事実が当該特定人に関するものであるという関係が認められることが必要である。そして、当該記事が匿名記事であるときは、当該特定人に関する一定の情報に照らして判断するときに、匿名であってもなお当該特定人について記載したものと認められてはじめて、氏名を公表して書かれた記事と同様に名誉毀損成立の対象となりうるというべきである。そして、上記一定の情報とは、当該記事を掲載した雑誌が一般雑誌として販売されている場合には、一般の読者が社会生活の中で通常有する知識や認識を基準として、その範囲内にある情報であることが必要と解すべきである」と判示し、一般に販売されている雑誌による名誉毀損の成否が争われる事件について、ある表現が誰に関してなされたものであるかは「一般読者の普通の注意と読み方」を基準とすべきであると判断した前記最高裁昭和31年7月20日第二小法廷判決と同様の判断をしている(「被告準備書面(2)要旨」、2005年3月15日。ゴチックは亀井)

 誤解のないようにことわっておけば、これは原告側の主張ではなく、被告側の主張なのである。
 そして被告側は依然として「一般読者の普通の注意と読み方」という概念に固執しているが、私がゴチック体にした箇所を見れば分かるように、たとえ匿名の記事であったとしても、名前を伏せられた人物に関する情報が一定量流布しており、そのため「匿名であってもなお当該特定人について記載したものと認められる」ならば、「氏名を公表して書かれた記事と同様に」扱い得るのである。大江の
「集団自決を強制したと記憶される男」という思わせぶりな言い方と、その前後の表現は、まさに「当該特定人に関する一定の情報に照らして判断」させようとする書き方、つまり、読者の記憶に訴えて、忘れかけていた守備隊長の名前を思い出させ、あるいは「渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制した」とする新聞記事や、沖縄戦に関する戦史に関心を促す書き方だった。そう読むことができる。
 
 大江の、このような思わせぶりのレトリックを何と呼ぶか、正確なところを私は知らない。差し当たりここでは、婉曲語法(euphemism)の一種と読んでおきたいと思うが、ともあれ、いま私が、大江の書き方に倣って、「文壇で、日本人としては二人目のノーベル文学賞を貰ったと記憶される文士、どのようにひかえめにいってもすくなくも川端康成の受賞の言葉をわざとらしくもじったエッセイを書き、受賞祝賀の講演会で『どうもスミマセン』と林家三平もどきにおどけて、我が身を滑稽化してみせた文学者」と書いたとしよう。私の言わんとするところは自ずと明らかだろう。

○被告側の苦し紛れ
 被告側は更にこのような自己弁護を試みていた。
《引用》
 
しかし、渡嘉敷島の集団自決命令に関して赤松大尉の実名を記載した著作物が広く国民一般に読まれていたわけでなく、全国紙で報道された事実もない。したがって、渡嘉敷島の集団自決命令について記述した著作物が複数発行されていたとしても、渡嘉敷島の守備隊長が「赤松嘉次」という人物であることが国民の多くに認識されていたとはいえず、「渡嘉敷島の守備隊長が『赤松嘉次大尉』であるとの認識」が、一般読者の客観的水準となっていたとは到底いえないことは明らかである(「被告準備書面(2)要旨」)

 ある意味でこれは、私が先ほど東京地裁の判決文を逆用して被告側の主張を批判した、その理屈に対する再反論と見ることもできよう。
 しかし、既に時事通信社から単行本が出版され、岩波書店自身も新書版で『沖縄問題二十年』を出している。それにもかかわらず、
渡嘉敷島の守備隊長が「赤松嘉次」という人物であることが国民の多くに認識されていたとはいえない」と開き直るのは、これは謙遜が過ぎるというよりは、ちと白々し過ぎはしないか。

 それに、被告側は、一体どんなデータを元に「一般読者の客観的水準」などというものを割り出したのか。たぶん説明がつかないだろう。私の判断では、一般読者の客観的水準」などというものはない。
 もし読者層を想定するならば、それはその都度、テクストのジャンルと内容に応じて判断すべきであり、この場合で言えば『沖縄ノート』あるいは岩波新書が予定している読者層と、そのリテラシーを念頭に置いて議論すべきだろう。

○「命令された」は、「守備隊長が命令した」と同義
 さて、その次に私の気になるのは、
「「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいた」という表現の、命令された」という言い方の問題である。
 煩わしいようだが、この表現を含む一文を、もう一度引用してみよう。
《引用》

このような報道とかさねあわすようにして新聞は、
(A)慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、
(B)どのようにひかえめにいってもすくなくも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、

C)戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。

 このように整理してみればわかるように、この長ったらしいセンテンスは、おおきく「新聞は(主語)……報じた(述語)」という文で括られており、その中に、(A)と(B)という並列する二つの主語が、(C)の「戦友(!)ともども、……沖縄におもむいた」という共通の述語を持っている。
 これだけでも十分に複雑な構文であるが、更に(A)のフレーズについては、「この男は慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶されている」と、主語と述語を備えた文に書き直すことができる。そのほうが遥かに分りやすい文章になったと思われるが、大江健三郎は敢えて述語部分を連体修飾句として主語に掛け、修飾たくさんな名詞句を作った。(B)の場合も同様であって、「この守備隊長が、……「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいた」という主語・述語文を倒置した表現であることは言うまでもない。
 
 こういう分析は底意地の悪い揚げ足取りに見えるかもしれないが、決してそうではない。大江の文章をそのまま英語に逐語訳するとすれば、どんな文章が出来上がるか。そう仮定してみれば分かるように、彼の文章は先ほどのように、幾つかの文に別けて翻訳するほかはないのである。
 
 そんなわけで、一つのセンテンスに4つも5つも主語・述語を備えた文を盛り込む、このような複雑な構文の悪文は、普通の文章能力を持つ高校生や大学生ならまず書くことはない。それほどひどい文章なのだが、ともあれ、先のように整理してみれば、大江が(A)の
「男」と、(B)の「守備隊長」を同一人物として描いていたことは明らかである。
 見方を変えれば、(B)の
「どのようにひかえめにいっても……「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいた」という表現は、(A)の「慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶されている」をリライトしたものと見るべきであり、大江は(B)の「「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいた」という表現を、(A)の「沖縄住民に集団自決を強制した」と同義に使っている。その意味で大江の文章は、深層構造的には「守備隊長が集団自決を命令した」という命題に基づいていたとみるべきだろう。
 
 「愛・蔵太の少し調べて書く日記」に紹介された『徳島新聞』の記事によれば、今年の11月9日の公判で、大江健三郎は、
命令された」とカッコ付きで表現した理由について、「集団自決について「命令された」と括弧つきで書いた。タテの構造で押しつけられたもので、軍によって多様な形で伝えられ、手りゅう弾の配布のような実際行動によって示されたという総体を指し、命令書があるかないかというレベルでないと強調するためだ」と説明している。
 しかし、原告側の弁護士から、
自決命令について「軍のタテの構造で押しつけられた」と言われたが、「沖縄ノート」にはその説明がない」と指摘されて、大江は「その言葉は使っていない」としか答えられなかった。「軍のタテの構造」云々は、35年後の後知恵と見るべきだろう。
 
 そのことを一つ押さえ、さて、その上で
「一般読者の普通の注意と読み方」に即して言えば、命令された」という括弧付きの表現は、「決して自発的ではありえない」「強制された」集団自殺だったという大江の認識を強調する表現だった。そう解釈することができる。

 しかし初めに引用した大江の文章に関する問題はまだ終っていない。次回は「おりがきたら」という言葉の解釈にかかわる問題を取り上げることになるだろう。

(注1)なお木坂順一郎の『太平洋戦争』には、先に引用した文章に続いて、次のようなことが書いてあった。
《引用》
 
伊江島戦のあと米軍によって渡嘉敷島へ送られた阿波根昌鴻(『米軍と沖縄』の著者、現伊江島生活協同組合理事長)は、一九四五年八月十六日に赤松嘉次大尉が投降したときの様子を、私につぎのように語った。

 赤松はおぼんのような丸い顔をし、二〇~三〇人いた兵隊もみんな太っていた。彼らのあとから骸骨のような住民が、ぞろぞろついてでてきたことが忘れられない。

 兵隊さんがみんな太っていたかどうか、私には判断しようがないが、少なくとも8月16日に赤松大尉が「投降」した事実はなかったようである。

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