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幕間劇(2)

大江健三郎の『沖縄ノート』について(2)

○元守備隊長の言葉
 大江健三郎の『沖縄ノート』によれば、戦争中、沖縄の渡嘉敷島の守備隊長だった人物が、――守備隊長とは言っても当時はまだ25歳の大尉だったが――、戦後、「
おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい」と語った。(P,208)
 ただし大江健三郎は、その旧守備隊長の言葉が、何という新聞の、何日の紙面に載ったのか、書いてはいない。彼はこの記事についてだけでなく、『沖縄ノート』全体を通じて、自分が情報を得た新聞や雑誌名を省略しがちだった。そのため、彼の記述の裏づけを取ることはむずかしいのだが、大江の引用を信用して、そのまま素直に理解すれば、「沖縄と自由に行き来できる時期がきたら、一度渡嘉敷島を訪れてみたい」。そういう意味で、旧守備隊長は「おりがきたら」と言ったのだろう。
 なぜなら、当時の沖縄はアメリカの軍政下にあり、九州以北の日本列島に住む日本人が沖縄を訪れるには、パスポートが必要だった。そういう時代だったからである。

○大江健三郎の扱い方
 しかし大江健三郎は、もっと政治的な計算を含んだ言葉と解釈している。
《引用》
 
おりがきたら、この壮年の日本人はいまこそ、おりがきたと判断したのだ。そしてかれは那覇空港に降りたったのであった。僕は自分が、直接かれにインタヴィユーする機会をもたない以上、この異様な経験をした人間の個人的な資質についてなにごとかを推測しようと思わない。むしろかれ個人は必要でない。それは、ひとりの一般的な壮年の日本人の、想像力の問題として把握し、その奥底に横たわっているものをえぐりだすべくつとめるべき課題であろう。その想像力のキッカケは言葉だ。すなわち、おりがきたら、という言葉である。一九七〇年春、ひとりの男が、二十五年にわたるおりがきたら、という企画のつみかさねのうえにたっていまこそ時が来た、と考えた。かれはどのような幻想に鼓舞されて沖縄にむかったのであるか。かれの幻想は、どのような、日本人一般の今日の倫理的想像力の母胎に、はぐくまれたのであるか?P,208~209)
 
 これは、前回に引用した文章に続く箇所であり、元守備隊長だった人物に関する
「この異様な経験をした人間」という言い方は、一見したところ、元守備隊長だった人に関する同情の言葉と見えかねない。しかし実際はその反対であって、これは、前回に引用した「慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」という表現の、要約的繰り返しだった。
 そしてまことに特徴的なことだが、大江はこの人物の
「個人的な資質」には特に関心がなく「むしろかれ個人は必要でない」とさえ言い切っているのである。

○曽野綾子の調査より
 曽野綾子の調査(『沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実』)によれば、赤松大尉が指揮する海上挺進第3戦隊は、特攻舟艇を操って敵艦に体当たりする特攻隊であり、隊員は皆彼よりも若く、もちろん特攻隊員であった。昭和19年9月に渡嘉敷島に配備され、以来、毎日のように、敵艦に体当たりして自爆する訓練を繰り返した。それは自分の死を前提にした、異様に緊張した時間であっただろう。
 敵艦をそのように待ち構える彼らに対して、米軍機は昭和20年3月23日から爆撃を加え、24日も猛烈な空襲を行なったが、午後5時頃、米機動部隊は艦載機を収容して海峡の外へ出た。赤松大尉は、米軍は明日上陸作戦を開始するにちがいなく、今夜しか特攻舟艇による攻撃のチャンスはないと判断して、独断で、米軍機から発見されない所に格納していた舟艇の内3分の1を泛水(はんすい。水上に浮べること)させ、出撃命令に備えた。だが、那覇の軍司令部から出撃命令は出ず、
敵情判断不明。慶良間の各戦隊は、状況有利ならざる時は、所在の艦船を撃破しつつ、那覇に転進すべし」という主題がよく分からない、中途半端な命令が届いた。(曽野綾子『沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実』P,109)

 結局足止めを食う形になったわけだが、25日も空襲が続き、その間を縫って、船舶団本部の団長・大町大佐とその一行が着いて、泛水中止を命令し、更に26日、特攻舟艇の自沈を命じて去っていった。
 「自沈」とは自ら舟艇の舟底に穴を開けて沈没させ、装備してあった爆弾は海岸線に埋めて、米軍の上陸を阻止することである。これまで決死の覚悟の下に重ねてきた、あの厳しい訓練は一体何のためだったのか。赤松隊長と部下の兵士たちは、その空しさと、今晩にも決行が迫っていた自爆攻撃の緊張から解かれた気の緩みと、それらが錯綜して、一瞬茫然とする思いだっただろう。
 
 そしてこれが重要なところであるが、この時から赤松大尉の指揮する「戦隊」は、渡嘉敷島の「守備隊」となり、それまで想定したこともなければ、おそらく殆んど訓練もしてこなかった地上戦のために、乏しい武器を手に防御線を張り、馴れない塹壕掘りに従事することになった。しかし米軍は、彼らが態勢を整える余裕を与えずに攻撃を加え、27日には上陸を敢行し、その翌日に民間人の集団自決という悲劇が起こったのである。
 
○再び大江健三郎の扱いについて
 赤松元「守備隊」長は、以上のような意味でも
「異様な経験をした人間」なのだが、大江健三郎はその側面にも関心を示さない。上述のように混乱した状況における赤松隊長の判断と行動には、彼の個人的な資質が深くかかわっていた。私にはそう思われる。だが、大江は「(そのことについては)なにごとかを推測しようと思わない」と断言する。なぜなら、大江にとって「必要」なのは、元守備隊長個人ではなくて、その人物から抽象的に引き出すことができる、ひとりの一般的な壮年の日本人の、想像力の問題」だったからである。
 
 その意味で、大江健三郎が『沖縄ノート』でその人の実名を出さなかった理由は、「ひとりの一般的な壮年の日本人」という抽象物として扱うつもりしかなかったからだと言えるだろう。

○大江健三郎の方法
 そこで一つ疑問を呈したいのだが、大江健三郎は自分が沖縄を訪ねようとする時に感ずる深刻な葛藤を、繰り返し強調的に語っている。にもかかわらず、彼は元守備隊長が感ずるだろう葛藤には関心を示さない。これは何を意味するのだろうか。
《引用》
 
僕は沖縄へなんのために行くのか、という僕自身の内部の声は、きみは沖縄へなんのために来るのか、という沖縄からの拒絶の声にかさなりあって、つねに僕をひき裂いている。

 彼はこんなふうに『沖縄ノート』の第1章を始めている。ただし、『沖縄ノート』の記述から判断するかぎり、彼は1965年の春、初めて沖縄を訪ねて以来、少なくとも計4回は沖縄を訪ねているが、沖縄から拒絶されたことがあるとは書いていない。その意味で、「沖縄からの拒絶の声」とは、実際に沖縄の人から面と向かって拒絶された言葉ではなく、むしろ沖縄の何人かの人から拒絶的な態度を示された苦い記憶に基づく、彼自身のポリフォニックな声と理解すべきだろう。
 
 しかし私はそれを、誇張が過ぎると批判的に見ているわけではない。
 日本政府の琉球処分以来、いやそれ以前の、薩摩藩の琉球に対する強圧的、差別的な態度以来、九州から本州に至る日本列島に住む人間の沖縄に対する蔑視と、過酷な扱いの歴史がある。そして今また日本政府は、沖縄をアメリカの核戦略の拠点として提供する形で、沖縄の本土復帰という政治的プログラムを推し進めようとしている。このことに関する沖縄の人たちの屈辱感と怒りを思いやる時、大江健三郎はいたたまれない焦燥に駆り立てられ、沖縄に足を運ばずにはいられなかった。だが、自分に何ができるだろうか。というより、沖縄のために何かをしたい、できることがあるはずだ。そういう思いは募る一方だが、しかしそのように同情的に考えること自体が、既に日本人の沖縄に対する傲慢さの形を変えた現れではないか。。
 大江健三郎の沖縄にコミットしたい思いは、このように結論のない堂々巡りにはまり込み、ある意味で彼はこの堂々巡りを一つの方法として、沖縄の多様な問題に関心を拡げ、深めてゆく
「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」という、答えのない問いがリフレィンのように繰り返されるのも、そのためだろう。

○大江健三郎の「一般的な日本人」
 私はそのように『沖縄ノート』を読み、共感するところや教えられる点も多かったのだが、最終章の「「本土」は実在しない」に入る頃から、彼の文章の調子が俄かに変り、読むのが苦痛になってきた。ある種の人間に対する想像力を欠いた、または非常に偏った想像力で毒々しく描き上げた、攻撃的な表現が剥き出しに現れて来たからである。

 その対象に選ばれたのが、あの元守備隊長なのだが、そもそも大江健三郎はどのような理論的、認識論的な手続きを経て、この人物を「ひとりの一般的な壮年の日本人」として一般化したのか。別な言い方をすれば、大江は「ひとりの一般的な壮年の日本人の、想像力」を問題とする上で、なぜその人物を言挙げの対象に選んだのか。どうもその理由が、私にはよく分からなかった。
 誤解がないように断わっておけば、私は決して、あのような状況を生きてきた人物を
「ひとりの一般的な壮年の日本人」とするのは不適切だ、と考えているわけではない。そうではなくて、どのような体験を経てきた人物であれ、その人の個的な位相を「必要」ないと切り捨てて、関心の外に置き、いきなり一般的な壮年の日本人」の一人として一般化してしまう。その強引な論理の運び方に、大江自身が躊躇いや反省を感じていないことに、私は驚いたのである。

 ただ、心理的な理由は分らないでもない。彼は時には敬愛し、時には慙愧に耐えない思いで接した沖縄の人たちを鏡として、先ほども紹介した、終わりなき問いを抱える自分自身を見出した。日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」と。だがその次には、このように見えてきた自虐的で、自罰的な自己像とは対照的な、日本政府に無批判に追随し、沖縄の人たちの痛みに鈍感なまま安逸な日常に埋没し、日本人であることに自足している人間を、告発的に描き出してゆく。
《引用》
 
僕がここでのべようとすることは、そもそもの、日本が沖縄に属する、という命題によって、ざらざらした掌で逆なでされたような異和感を、一般的な日本人が持つとすれは、その感覚に直接根ざしている。それは、日本人の近代をつらぬいて、奇妙に捩れたかたちをとりながら、しぶとく生き延びつづけて、とりかえひきかえ新しい欺瞞の衣装をまとっては、歴史の転換点に公然とあらわれるところの、「中華思想」的感覚の問題である(P,91~92)
 
 彼が描く
「一般的な日本人」とは、こういう人間であった。この引用だけではちょっと分りにくいかもしれないが、彼が考える日本人は、ほとんど無意識的に「沖縄は日本に属す」と思い込んでいる。だから、もし「日本が沖縄に属する」と言われたら不快な異和感を覚え、それを表明せずにはいられないだろう。そういう「中華思想」に冒された日本人なのである。
 
 そんなわけで、これ以後、読者は、次のような表現に繰り返し出会うことになるだろう。
《引用》
 
日本人のエゴイズム、鈍感さ、その場しのぎの展望の欠如、しかもそれらがすけてみえる仮面をつけてなんとか開きなおりうる、日本の「中華思想」的感覚を、それらを具体化した者たちが、すなわちわれわれ自身が神戸駅頭を歩き廻っている(P,107~108)
 
 
宣伝カーの男は、すさまじいほどにもあからさまに、日本人と「沖縄人」のあいだへ差別意識のクサビをうちこもうとする、歪んだ意味づけにかざられた声をはげましていたのであり、それは沖縄へのいうまでもなく不当な差別の歴史に、まさに直接に臆面なく乗っかってゆくことを志願した演説であった。(中略)それは、もっと陰微に、かつ暗がりでの強い力の発動とあわせて効果的に、本土政府の政治家と官僚がうちこみはじめているクサビと結局は同一のものであり、本土の日本人すべてが、なかば無意識に、なかばあえて無意識なふりをして、ひそかに握りしめはじめているクサビの、もっとも尖った刃先であるP,158~159。ゴチックは亀井)

 大江健三郎はこのように「一般的な日本人」「本土の日本人のすべて」を描き出し、その上で彼は、あの元守備隊長を「ひとりの一般的な壮年の日本人」というカテゴリーの中に繰り込んだのである。
 しかも彼によれば、この
「ひとりの一般的な壮年の日本人」が、戦後25年間にもわたって、おりがきたら」と、ある機会を狙っていたという。更に大江によれば、この人物はある種の「幻想」に鼓舞されて、いまこそ時は来た」と行動を起こしたわけだが、その「幻想」「日本人一般の今日の倫理的想像力の母胎に、はぐくまれたもの」だ、というのである。

○眉唾ものの「日本人一般の今日の倫理的想像力の母胎」
 こうして見ると、大江が描く元守備隊長はまさに日本人一般の「巨塊」と呼ぶほかはない人物だったことになりそうだが、しかしそれはそれとして、では、
日本人一般の今日の倫理的想像力の母胎」とは、一体どのようなものなのだろうか。彼はそれを見出すため、まず「記憶」のメカニズムを次のように解き明かしている。
《引用》
 
まず、人間が、その記憶をつねに新しく蘇生させつづけているのでなければ、いかにおぞましく恐ろしい記憶にしても、その具体的な実質の重さはしだいに軽減してゆく、ということに注意をむけるべきであろう。その人間が可能なかぎり早く完全に、厭うべき記憶を、肌ざわりのいいものに改変したいとねがっている場合にはことさらである。かれは他人に嘘をついて瞞着するのみならず、自分自身にも嘘をつく。そのような恥を知らぬ嘘、自己欺瞞が、いかに数多くの、いわゆる「沖縄戦記」のたぐいをみたしていることか。
 
たとえば米軍の包囲中で、軍隊も、またかれらに見棄てられた沖縄の民衆も、救助されがたく孤立している。そのような状況下で、武装した兵隊が見知らぬ沖縄婦人を、無言で犯したあと、二十数年たってこの兵隊は自分の強姦を、感傷的で通俗的な形容詞を濫用しつつ、限界状況でのつかのまの愛などとみずから表現しているのである。かれはその二重にも三重にも卑劣な強姦、自分たちが見棄てたのみならず、敵にむけるはずであった武器をさかさまに持ちかえておこなった強姦を、はじめはかれ自身にごまかし、つづいて瞞着しやすい他人から、もっと疑り深い他人へと、にせの言葉によって歪曲しつつ語りかけることをくりかえしたのであったろう。そしてある日、かれはほかならぬ強姦が、自分をふくめていかなる者の眼にも、美しいつかのまの愛に置きかえられえたことを発見する。かれは、沖縄の現場から、被害者たる沖縄の婦人の声によって、いや、あれは強姦そのものだったのだと、つきつけられる糾弾の指を、その鈍い想像力において把握しない。
 慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。
P,209~210)

 確かに私たちの記憶(memory)は、常に決まった形で私たちの意識(の奥底)に固着しているわけではない。それを記憶する(memorize)状況とモティーフよって方向づけられ、また、想起しようとする(recall/remind)モティーフや文脈によって様々な情調に染められ、あるいは変形される。その中で自分を偽ろうとするモティーフが働くことは、もちろんありうるだろう。
 
 それはそれで私には納得できる。だが、大江がその次に挙げた、元兵隊の行為に関するどぎついエピソードは、いや、大江がそのエピソードを紹介する仕方には、つい眉に唾をつけずにはいられなかった。結論が大仰な割りに、論証があまりにもヤワだったからである。
 大江健三郎の言うところに従えば、彼は
「数多くの、いわゆる「沖縄戦記」のたぐい」から、このエピソードを選んできたわけだが、それならば何というタイトルの「沖縄戦記」であるのか、それを明示すべきであっただろう。また、このエピソードを含む回想記の書き手が、自ら本名を明かしていたのであるならば、大江はその名前を、少なくともその人物のイニシアルと軍隊時代の階級くらいは明示すべきであった。その人物の文章が、まさに「二十数年たってこの兵隊は自分の強姦を、感傷的で通俗的な形容詞を濫用しつつ、限界状況でのつかのまの愛などとみずから表現している」と非難されるべき、作為と欺瞞に満ちたものであるならば、その箇所を引用して、非難の正当性を明らかにすべきだっただろう。
 
「日本人一般の今日の倫理的想像力の母胎」という、『沖縄ノート』の根幹にかかわる、極めて重要な問題に迫る上で、彼は敢えてそのエピソードを唯一の事例として、つまり最も本質的な代表例として挙げた。そうである以上、このエピソードの信憑性を裏づけるべき情報を、読者に提供すべきだからである。
 またそうすることが、もしその書き手が自ら名乗りを上げて反論をしたいと考えた場合、その人に反論の道を開いておく、大切なルールだからである。

 しかし彼はそうしなかった。彼はこのエピソードを書き写すに当って、一定の方向づけと、単純化と、誇張を行なっているかもしれない。彼としては、「そうではない、あれはすべて真実なのだ」と反論したいところだろうが、しかしそう言い切る根拠を、かれは書き込んでおかなかった。

○均質的な日本(人)論
 彼は『沖縄ノート』を書くに際して、
もし、ひとりの作家に、沖縄をめぐってなにごとかを書くことを許される、特別の理由があるとすれば、それはかれが単純化を禁忌とすることを、その本質的な属性とするタイプの職業人である、ということにしかないであろう。」(P,62)という自戒と自負を語っていた。私自身は、自分が一人の作家であるか否か、そんなことに関係なく「沖縄をめぐってなにごとかを書くことは許されている」と考えている人間であり、「特別な理由」が必要だとは考えていない。沖縄の人たちが、特別な理由なしには我々の事を書くことを許さないなどと言い出す、そんな偏狭で傲慢な人たちだとも考えていない。
 その意味でも私は、沖縄について書くことが何か特別な行為であるかのように匂わせる、前半の言い方には違和感があるのだが、後半について言えば、その言やよし! ただ、もし本当にそれを実践したいならば、日本と日本人についても、先のような平板単純な均一化は、これを禁忌とすべきだった。「多様性にむかって」(第3章)という方針は、沖縄に関してだけでなく、日本と日本人に関しても心がけるべきだっただろう。
 
○傲慢な心理憶測
 そんなわけで、私は、大江が挙げたエピソードがどの程度事実を反映しているか、判断できない。また、今ここで判断を急ごうとは思わない。ただ、一つ確実に判断できることは、大江が先のエピソードを、
他人に嘘をついて瞞着するのみならず、自分自身にも嘘をつく。そのような恥を知らぬ嘘、自己欺瞞」の代表例として取り上げ、そこに「日本人一般の今日の倫理的想像力の母胎」を見出したことである。
  
 こうしてみると、
日本人一般の今日の倫理的想像力の母胎」とは言うものの、大江は「日本人一般の今日の想像力」に倫理性を認めていない。その意味では、より正確に言えば、彼は先のエピソードから、むしろ「日本人一般の今日の没倫理的想像力の母胎」を引き出したと見るべきだろう。彼はそれを一般化して、元守備隊長もその「母胎」を共有する人間の一人に数え、先のエピソードの元兵隊と同質の人間として類型化した。
 この一見実証的な話の運び方は、実は憶測的な擬事実を羅列して現実に見せかける、プロパガンダのレトリックなのだが、彼はそういう言語操作を通して、元守備隊長も
「自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう」と推断を下した。表現は「たえずくりかえしてきたことであろう」と推量の形を取っているが、前後の文脈から判断して、これは断定に等しい。
 
 もう一度、先ほど引用した文章の終わりのところから、更に続けて引用してみよう。少し丁寧に読めば、ここには下司の勘ぐり的な憶測しか語られていないことが分るだろう。
《引用》
 
慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。いや、それはそのようではなかったと、一九四五年の事実に立って反論する声は、実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での、市民的日常生活においてかれに届かない。一九四五年の感情、倫理感に立とうとする声は、沈黙にむかってしだいに傾斜するのみである。誰もかれもが、一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで、かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう。
 
本土においてすでに、おりはきたのだ。かれは沖縄において、いつ、そのおりがくるかと虎視眈々、狙いをつけている。かれは沖縄に、それも渡嘉敷島に乗りこんで、一九四五年の事実を、かれの記憶の意図的改変そのままに逆転することを夢想する。その難関を突破してはじめて、かれの永年の企ては完結するのである。かれにむかって、いやあれはおまえの主張するような生やさしいものではなかった。それは具体的に追いつめられた親が生木を折りとって自分の幼児を殴り殺すことであったのだ。おまえたち本土からの武装した守備隊は血を流すかわりに容易に投降し、そして戦争責任の追及の手が二十七度線からさかのぼって届いてはゆかぬ場所へと帰って行き、善良な市民となったのだ、という声は、すでに沖縄でもおこり得ないのではないかと彼が夢想する。しかもそこまで幻想が進むとき、かれは二十五年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう。このようなエゴサントリックな希求につらぬかれた幻想にはとめどがない。おりがきたら、かれはそのような時を待ちうけ、そしていまこそ、そのおりがきたとみなしたのだ(P,210~211。引用文中ゴチック体は、原文では傍点を附して強調)

 もう既に明らかなように「おりがきたら」という元守備隊長の言葉は、大江の解釈によれば「自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえして」「過去の事実の改変に力をつくし」そしてついに「二十五年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないか」と期待できる、そういう「機会が訪れたら」という意味だったのである。
 
 先の兵隊のエピソードは真偽定かではない。そういう曖昧さが伴うのだが、少なくとも大江は責任をもってその典拠を示すことができるだろう。だが、この心理的経緯の憶測には何ら根拠がない。それは大江自身が勝手に想定する、
日本人一般の今日の(没)倫理的想像力の母胎」から割り出した、一方的な憶測でしかない。その憶測の中で彼は、この元守備隊長が「自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえして」「過去の事実の改変に力をつくし」てきただろうと、根拠ない「事実」を描き出し、それを「ペテン」と呼んでいる。また、まるで既定の事実であるかのように、元守備隊長を「屠殺者」と呼んでいるが、結局その根拠は示されていなかった。
 
○モラル・ハラスメント
 しかも彼はその憶測の過程で、ただの一度も、元守備隊長について、この人もまた内心では
「きみは沖縄へなんのために来るのか、という沖縄からの拒絶の声」と葛藤していたかもしれないと、そう想像してみることはしなかった。彼は自嘲的、自虐的、自罰的に自分を描きながら、実はそういう形で保険を掛け、さて一転して、一方的に元守備隊長や元兵隊を断罪し、日本人一般の倫理観の低下を責め立てて、相手を救いがたいほど自罰的な気分に追いやる。現代風に言えば、これは一見それとは気がつかないほど巧妙な操作を経て行なわれた、モラル・ハラスメントの手口なのである。

 「愛・蔵太の少し調べて書く日記」に紹介された「MSN産経ニュース」によれば、2007年11月7日の法廷において、赤松元守備隊長の弟の秀一さんは、原告側代理人から『沖縄ノート』の先ほどのような箇所の印象を聞かれて「大江さんは直接取材したこともなく、渡嘉敷島に行ったこともない。それなのに兄の心の中に入り込んだ記述をしていた。人の心に立ち入って、まるではらわたを火の棒でかき回すかのようだと憤りを感じた」と答えている。
 当然の怒りと言うべきだろう。

○あぶない日本人論
 以上のように、『沖縄ノート』の中で裁判に問われている表現の大半は、大江健三郎の「一般的な日本人」観、または「日本人一般」の観念と密接な関係を持っている。私自身はそのような「一般的な日本人」や「日本人一般」論には何のリアリティもなく、もちろん安易に振り回すべきではないと考えているが、大江健三郎はこの空疎な「一般的な日本人」や「日本人一般」を実体化してみせるために、渡嘉敷島と座間味島の元守備隊長を選び、極めて人格誹謗的なスティグマ(stigma/汚名)を刻印したのである。
 裁判の経過を見ると、原告側はスティグマ(stigma/汚名)を問題にし、それに対して被告側は
「「核つき返還」などが議論されていた1970年(昭和45年)の時点において、沖縄の民衆の重く鋭い怒りの鉾先が自分たち日本人に向けられていることを述べ、そのような日本人であることを恥じ、そのような日本人でないところの日本人へと自分を変えることはできないかと自問し、日本人とは何かを見つめ、戦後民主主義を問いなおしたものある(ママ)。そして、原告が問題としている本件各記述も、沖縄戦における集団自決の問題を本土日本人の問題としてとらえ返したものである(「被告準備書面(1)要旨」2005年12月27日)と、もっぱらテーマ論で対応しようとしている。
 だが、私の見るところ、その日本人論がかなり怪しいのである。

○欠けている視点
 ここまで書いて、さて私は、ある種の驚きをもって『沖縄ノート』の全体を思い出した。大江健三郎は『沖縄ノート』全編を通して、一度も軍隊組織や軍の命令系統や、慶良間列島に配置された「戦隊」の性格・任務や局地戦の戦闘経過に関心を示していない。
 また、渡嘉敷島の人たちと戦隊との関係について言えば、戦隊の若者たちは、島の人たちの目に、死すべき運命を負った現神(いきがみ)と映っていた時期があり、その関係がいつ崩壊したのか。私はそういう視点からのアプローチも不可欠だと思っているが、大江健三郎にはそういう視点もなかったようである。
 もっとも、後者の視点については、曽野綾子も持たなかったようだが。

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コメント

結局、結果はどうなったのですか?北海道民が気になっております?そうです。亀井さんの件ですよ。判っていますか?

投稿: tera | 2008年1月19日 (土) 10時54分

「 誤解がないように断わっておけば、私は決して、あのような状況を生きてきた人物を「ひとりの一般的な壮年の日本人」とするのは不適切だ、と考えているわけではない。そうではなくて、どのような体験を経てきた人物であれ、その人の個的な位相を「必要」ないと切り捨てて、関心の外に置き、いきなり「一般的な壮年の日本人」の一人として一般化してしまう。その強引な論理の運び方に、大江自身が躊躇いや反省を感じていないことに、私は驚いたのである。」

特定の人間について、個別に論ずるためには個的な位相を分析することは一般論としては、必要であろう。しかし、普遍的・本質的なものは、個別的なものにも例外的なものにも宿るというのも真理。 周知のように前近代では、人間に個性があるにしても、身分で類型化され、近代のように契約関係が人間関係の主要な基礎になることはない。 さらに朝鮮金王朝・オウム真理教・大日本帝国に所属する一般カルトは個性を失わされがちとなる。オウム幹部に個性はあったが、インドで共同幻覚体験を催すためのソーマ酒と呼ばれたベニテングダケの代替物として創作された酸欠幻覚ヨーガでこの世の悩みを解消しようとした一般信者の多くに個性は感じられなかった。  

確かに沖縄ノートで特定できる赤松は、上司の大町大佐の1945/3/22の那覇出航を、3/20大本営が米軍の台湾陽動爆撃終了に伴う米軍の沖縄攻撃察知を踏まえた出撃準備であったことを消し去り、大町大佐の泛水中止命令などとほうもない嘘で大町大佐を賤しめた上、留利加波基地を放棄したことに伴い、朝鮮人軍夫その他の泛水要員が本部陣地構築に回ったため、大町大佐の泛水命令を実行できたのは阿波連青年団等の援助があった第一中隊のみであったことをも消し去り部下の第一中隊長をも貶めるような、途方もなく卑怯なキャラクターには違いない。

しかし、同じ沖縄離島の鹿山も同じような性格で、他にも百人斬りのネッソス向井・野田もいる。

カルト首脳部にとっては、意志薄弱でただ従属的に付き従う者だけでは困る。そこで中堅などとおだて、主体的に錬成を指導する(中堅)幹部が求められる。  
ここでどうしても日本の神道が、アニミズムとシャーマニズムを様式化したことに触れる必要がある。 構造主義創始者レヴィ・ストロースが語るように呪術は本来細分化する傾向がある。呪術は擬似技術だから技術が細分化するのと同じ理由で細分化する。 また、呪術には技術的意味以外に個人との対応関係が生じやすい。 げんかつぎと願掛けに少年趣味・少女趣味、あるいは伝統的な呪術を選択するかは個の趣味・選択という側面がある。 かの神戸の殺人鬼、酒鬼薔薇は殺人を「バモイドオキ」神に対する儀礼と位置づけた。

しかし、祭祀は呪術を統合する。 神道シャーマニズムの進化は神遊び-神楽-であろうが、憑依シャーマンによる儀礼的要素すら影を潜め、祭祀のオプション・余興として芸能化の道を辿ることになる。 神道は個別呪術の個性を消去する。これが様式化の正体である。 だから、神道では個別呪術は後背化し、祭祀がそびえ立つ。

技術論によれば、個別技術は「法則の意識的適用」であり、機械は法則を物化し個別技術群を物に統合したことになる。 同様に呪術は個別似非技術だが、それらを機械のように物としてではなく、祭祀場として実体化すれば汎用的似非技術たる祭祀に似非技術が集中することになる。 そこでは、呪術の個性はなく、祭祀の基底にある共同主観にも個性はなくなる。 祭祀参加者に差が出るとすれば、思いの深さによるカリスマ量、それ以上に祭祀を利用したプレゼンテーション能力である。

祭祀的思考では、自然や神が集団の思いに人格的に感応すると考える。だからイヨマンテ(熊送り)のようにそれら(自然や神)に贈り物(時には生贄といった賄賂)を送り返すか、あらかじめ提供する。そうしない場合には思いを寄せて祈る。 そのことで充分有効性が担保されたと考える。

留利加波放棄に伴う勤務隊壕堀容認、その結果として泛水命令受領後の要員集結遅れを戦史に記録させたくなく、自衛隊に居た元部下の皆本・富野の協力により泛水命令の事実改竄に成功する。 出撃失敗から生じた自らの靖国思想への歪んだ、心理的ひけめを干潮時間の改竄、知念先頭を富野先頭に事実改竄などあらゆる手段で補償させた後、それだけでは足らず、安里巡査との共謀で住民の米軍による捕虜化阻止を図り、当時40代の伝令、松川の兄さん(小嶺姓の可能性)による軍命伝達の消去を図る。 

 村により、迫撃砲による死なども集団死としたこと、阿波連の住民の道行きで集団が二つに分かれたこと、そのために血縁の薄い者がかえって援護金をもらうことになったことを最大限に利用し村民を沈黙させることに成功。  赤松は靖国思想では小の虫である村民は死んで当然だ、しかし第三戦隊不出劇の不始末は自分たちだけでなく、軍全体の名誉を汚すことだから消し去らねばならないと考える。 その執念は夜叉の憑依のようでもある。

憑依シャーマンは個性的であるようにみえるが、商業シャーマンと異なり、共同体のシャーマンはある共同主観が現実の前に危機に立つ時、共同主観の回復により祭祀の崩壊を防ごうとするものである。  赤松はそのような非個性的な存在ともいえる。 ただそのごまかし能力には感嘆せざるを得ない。 

赤松に輪をかけて嘘を乱発し、振り付け、プレゼンテーションを付加したのは曽野綾子である。 二人を憑依させた共同主観は靖国思想である。

投稿: 和田 | 2011年7月 6日 (水) 17時42分

「軍隊とは、このように愚劣で非常な行動が行われ、しかもそれを隠匿する組織であることを覚えておく必要がある」ことを、かれは言おうとしていたのである。

(『個我の集合性』55ページから引用)

投稿: 佐竹 | 2013年5月 5日 (日) 18時14分

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