北海道文学館のたくらみ(23)
「できる」と“may”
○疑問の始まり
日本の法律の条文には、時々「……することができる」という表現が出てくる。
一例を挙げれば、「労働基準法」の第14条の第2項と第3項は、次のようになっている。
《引用》
2 厚生労働大臣は、期間の定めのある労働契約の締結時及び当該労働契約の期間の満了時において労働者と使用者との間に紛争が生ずることを未然に防止するため、使用者が講ずべき労働契約の期間の満了に係る通知に関する事項その他必要な事項についての基準を定めることができる。
3 行政官庁は、前項の基準に関し、期間の定めのある労働契約を締結する使用者に対し、必要な助言及び指導を行うことができる。
この「できる」はどういうことを意味するのか。この言葉の解釈について、最近私が経験したことを書いておきたい。
その理由は、亀井志乃のような状況に立たされ、法律や大臣告示の解釈を迫られた人たちに、その読みどころを一つ注意しておきたいためである。
それと共に、法律関係者にも、自分たちが用いる言葉により注意深くなってもらいたいためでもある。
○労働基準監督署へ出かけるまで
すでに何回かふれたように、亀井志乃は今年の1月から3月にかけて、自分が担当する企画展に忙殺されていたが、何とか時間のやり繰りをして、労働局と法務局へ出かけた。北海道文学館における自分の状況を説明し、どのような対応があり得るのか、相談に乗ってもらうためである。
法務局に出かけたのは、亀井志乃がパワー・ハラスメントと考える人権侵害について、実態を調査してもらうためであるが、ただしこの時点では、おおよその状況を知ってもらうに止めておいた。そして4月に入ってから、改めてハラスメントの調査を申請に出かけた。法務局人権擁護部による調査は、現在も続いている。
他方、労働局へ赴いたのは、不当な雇止め通告に対する対応を相談するためであり、そして3月15日、労働局から当時の文学館長の毛利正彦に口頭助言をしてもらった。ところが、毛利正彦は労働局の「あっせん」による解決という助言を断わっただけでなく、次の日の3月16日には、亀井志乃を呼んで、3月一杯で辞めてもらうと通告し、他の職員の前で公表してしまった。このことについては、既に何回か説明してある。
つまり、亀井志乃は毛利正彦のこの態度を見て労働審判を決意し、それと共に、ハラスメント問題の調査を法務局に申請する意志を固めたわけだが、じつはもう一つ、以上のような問題を扱う役所として労働基準監督署がある。では、労働基準監督署はどう判断するだろうか。念のため、それを確かめておこう。そう考えて、亀井志乃が毛利の解雇通告を受けてから4日後の、3月19日、私が札幌中央労働基準監督署へ出かけてみたのである。
ところがこの役所は、対応が大変に素っ気なかった。
○大臣告示は法律ではない
亀井志乃によれば、労働局の担当者も、法務局の担当者も、彼女の事情説明によく耳を傾けて、丁寧に聞き取ってくれたという。
彼女はどういう理由でか、札幌中央労働基準監督署にまで出向くのを億劫がっていた。一種の勘が働いたのかもしれない。代わりに私がでかけ、Iという第一方面主任監督官に、亀井志乃が事情説明のために用意した文書を渡した。そして、I第一方面主任監督官が一通り目を通した頃を見計らい、〈財団法人北海道文学館が亀井志乃に対して行なったことや、その後の対応は、労働基準法第14条に基づいて厚生労働大臣が定めた「基準」に反する。その意味で法律違反ということになると思いますが、如何ですか〉と訊いてみた。
この時私が指した「基準」とは、「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」であり、どういう内容のものであるか、「北海道文学館のたくらみ(18)」で詳しく説明しておいた。
ところが、I第一方面主任監督官の返事は、〈いや、この「基準」そのものは大臣告示ですからね、法律じゃありません。ですから、大臣告示に従わないからと言って、法律違反と断定してしまうのは、ちょっとどうも……〉ということだった。
○「してもいいし、しなくてもいい」
大臣告示が法律ではないことは、私にも分っている。〈しかし、この「基準」は、国会で承認された労働基準法の第14条の指示を受けて厚生労働大臣が作ったものでしょう。つまり、国民の意志を反映する形で、国会が「基準」を作る権限を、他の省庁の長ではなく、厚生労働省の長に与えたわけですよね。そこで、厚生労働省の長は、国が与えた権限に基づいて「基準」を定め、各事業主に対して「基準」を守るように指示した。とするならば、この「基準」は日本の法体系の一部を構成し、これに反することは労働基準法の趣旨に反し、法を犯すことになりませんか〉。
私がそう訊いたところ、I第一方面主任監督官の返事はこうであった。〈厚生労働大臣の「基準」が出来るまでの流れはそう言えるかもしれません。しかし、労働基準法がいう「使用者が講ずべき労働契約の期間の満了に係る通知に関する事項その他必要な事項についての基準を定めることができる。」の「できる」は、指示とか指令とかいう強い意味はありません〉。
〈そうなんですか? この「できる」が命令でないことは分かります。でも、労働基準法という法律によって権限を与えられたことは、同時に、その権限を行使するようにという促しを受けていることを意味しませんか?〉
私がそう反問すると、I第一方面主任監督官は〈促しを受けていると言えるかどうか、そこは微妙ですよね。この「できる」に関する私どもの解釈は、「してもいいし、しなくてもいい」ということなんですから〉
〈まさか! じゃああれですか、厚生労働大臣は「できる」という権限を与えられたにもかかわらず、その気がなければ「しなくてもいい」ということですか。もしそんな考えで、いつまでも「基準」作りに着手しなかったら、権限の不行使という責任を問われることになりますよね。この権限は厚生労働大臣にしか与えられていない。その厚生労働大臣が定めた「基準」であればこそ、一定の制度的な効力を持ち得る、そういう重要な権限なんですから……〉
〈でも、厚生労働大臣は実際に「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」を作った。それでいいんじゃないですか〉。
○「基準」には罰則がありませんからね
何だか話のかみ合わない人にぶつかってしまったな。
どうやら札幌中央労働基準監督署とは相性が悪いらしい。まずドアを開けると、正面に受付の若い女性が二人いて、用件を告げると、〈では、あちらでお話の概要をうかがいましてから……〉と、右手のコーナーを紹介した。そこに60歳を超えたか超えないか、そんな年配の男性がいて、〈どんな内容のご用件ですか〉と訊く。用件を聞いてから、関連する係官の窓口へ案内する。そういうシステムなのだろう。そこまでは良かったのだが、この男性、私が相談の概要を言い始めると、いきなり私の言葉を遮って、何か騒がしくものを言う。しかし、何を言っているのか、さっぱり要領を得ない。〈いや、そうではなくて、実はこれこれで……〉と、改めて切り出そうとすると、また言葉を遮る。そんなことが3回、4回と続き、私がついたまりかねて、〈あなた、相手の言葉が終るまで待ってもらえませんか〉。すると、その男性は急に話を打ち切って、〈あ、それでは第一方面のほうですね、……Iさあん〉と、中年の男性に声をかけ、第一方面という表示がある場所の椅子を指差した。
その「Iさあん」が、I第一方面主任監督官だったわけである。
こうして、先ほどのようなコンニャク問答が始まったわけだが、このI第一方面主任監督官、さっぱり気乗りがしない調子で、〈亀井志乃さんですか、この方、期待権とは言っても、雇用の更新はわずか2回ですからね、……裁判官がどう判断するか。裁判官次第ですから、何とも言えませんが……強い主張として受けてってくれるかどうか。さあ、どうかな〉。初めから、亀井志乃が裁判に持ち込むだろうことを前提として、こちらの気持を消極的にさせるような言い方をしている。
しかし私は裁判の相談に来たわけじゃない。〈厚生労働大臣が定めた「基準」が法律そのものではないとしても、亀井志乃が整理した経緯をざっとご覧になっただけで、財団は幾つかの点で「基準」に従っていない。背いている。その点はお分かりだと思います。で、そういう「基準」違反が明らかな場合、労働基準監督署としてはどう対応なさるわけですか。例えば厳重注意をするとか、改めるように警告を発するとか……〉。
〈たしかに財団にも問題がないわけではないと思います、……ただ、この「基準」には罰則がありませんからね。罰則のついていない違反の場合、積極的な介入は出来ないんですよ。こちらで出来ることは……そうですねえ、精々「それは望ましくないですよ」って注意を促す程度のことくらいかなあ〉。
○労働基準監督署は何をやる役所なんですか
〈そんなもんなんですか。労働基準法第14条の第3項は、「行政官庁は、前項の基準に関し、期間の定めのある労働契約を締結する使用者に対し、必要な助言及び指導を行うことができる。」となってますよね。これは、厚生労働大臣が「基準」を定めた場合、関係の行政官庁にどんな任務が課されることになるか。行政官庁にどんな責任が生ずるか、それを定めた条文でしょう〉。
〈ええ、まあそうです〉。
〈だったら、財団の手落ちがあったことが明らかな場合、強い警告を発するとか、改善を求めるとか、積極的にそういう働きかけを行なうべきでしょう。労働基準監督署はまさにそれを行なうための行政官庁だと思うんですが〉。
〈……、……〉。
〈それとも、なんですか、この「必要な助言及び指導を行うことができる。」の「できる」も、「してもいいし、しなくてもいい」という意味なんですか〉。
〈そうなんです。私どもの立場で条文をきちんと解釈し、整理すれば、そうなります。それに、警告を発するとか、改善を求めるとかという干渉は、果して「必要な助言及び指導」の範囲のものか、そういう問題もありますしね〉。
ははあ、このI第一方面主任監督官という人は、一つ々々の条文について、徹底的に字義通りだけの解釈に固執し、そこからはみ出しそうなことは決してやらないタイプらしい。ひょっとしたら、これが労働基準監督署の体質かもしれない。そんなことを考えながら、私はつい皮肉な訊き方をしてしまった。
〈だったら、労働基準監督署って、一体何をやる役所なんですか〉。
〈何をやるのかって言われても……それはもちろん亀井志乃さんという人から要請があれば、財団北海道文学館に当ってみますよ、この人が言うとおりのことがあったのかどうかって。……もし財団に問題点があれば、それは指摘します。ただ、先ほども言ったように「基準」には罰則がありませんからね、問題を指摘するって言っても限界があります。ご本人にも結果は伝えますが、ただこれにも限界があって、調査内容の具体的な詳細は申上げられないことが多い。せいぜい「調査の結果、こう考えられます」っていう程度でしょうね。それに、もし裁判を起こしたとしても、私どもが証人になることはできません。まあ、裁判官から問合せがあれば、ご本人に伝えた程度のことを、簡略に文書で答えるくらいのことでしょうか〉。
また裁判か。この人の言うとおりならば、財団のほうがえらく有利だってことになりそうだな。
そう思った瞬間、頭にひらめいたことがある。〈お話をうかがって、娘の立場のどんなところが弱いか、かなりはっきりしました。お時間を割いていただき、どうもありがとうございました〉。そう言って私は引き上げてきた。
○財団側が圧倒的に有利?
一見したところ、財団のほうに有利なカードが揃っている。しかしむしろそのおかげで、娘の勝ちが見えてきた。私にひらめいたのは、そういうことだったのである。
仮にいま財団の毛利正彦館長や川崎信雄業務課長の側に立って、彼らが札幌中央労働基準監督署か、あるいは北海道教育委員会推薦の弁護士に相談したと仮定してみよう。
労働基準法の第20条に、「使用者は、労働者を解雇しようとする場合においては、少なくとも30日前にその予告をしなければならない。」とある。「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」もこれを受けて、「使用者は、有期労働契約を更新しないことをしようとする場合には、少なくとも当該契約の期間の満了する30日前までに、その予告をしなければならない。」(第2条)と指示している。
ところが何と! 毛利正彦は亀井志乃に対して、3ヶ月以上も前に雇止めを通告しているのだ。この点に関して財団側に手落ちはないはずである。
しかも、労働局の「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」に関する解説は、但し書きの形で、次のように結ばれている。
《引用》
イ 雇止めに関する基準は、有期労働契約の契約期間の満了に伴う雇止めの法的効力に影響を及ぼすものではないこと。
この解釈は労働基準監督署にも共通するだろう。この点から、財団がやったことを振り返ってみれば、財団が年度初めに亀井志乃に手渡した辞令書には「契約期間の満了」の期日が明記してある。財団はその契約に従って亀井志乃を雇止めするだけであり、亀井志乃はそれに異議を申し立てる根拠を持たない。
この間、財団には、「基準」の指示に従わない手落ちが何点かあったかもしれないが、しかし結局は「契約期間の満了に伴う雇止め」である事実のほうが優先する。つまりこの「基準」は、財団のやったことに「法的効力に影響を及ぼすものではない」。つまり違法行為として処罰することはできない。〈そんなわけで、まあ罰則がないわけですから、財団側が有利であることはまず間違いないでしょう〉。そんなふうに、毛利や川崎は、監督署の役人なり、道教委推薦の弁護士なりから保証され、これも安心材料と、ほくほく喜んで帰ってゆく。そんな場面が目に浮かんできた。
おまけに、亀井志乃の雇用の更新はたった2回でしかない。亀井志乃は期待権を主張するかもしれないが、裁判官の判断に強い影響を及ぼすことはないのではないか。そういう見方を聞いて、毛利と川崎はますます心強く思ったことだろう。
もちろん以上は私の直感にすぎないが、かなり的を射ていたと思う。
亀井志乃によれば、毛利正彦館長は、雇止めを通告した頃から、嵩にかかって声を荒げたり、逆に小馬鹿にしたような物言いをしたりする態度が顕著になったという。平成18年12月27日、彼は亀井志乃に辞令書のコピーと、「財団法人北海道文学館嘱託員任用にかかる取扱要領」を渡し、小馬鹿にしたような口調で「亀井さん、もっと勉強しなさい」と言った。
また今年の3月16日、亀井志乃が期待権に言及したところ、「期待するのはあなたの自由だが、それは、この場合、正当な権利ではない」と言い放った。亀井志乃が「権利は正当でしょう」と聞き返すと、にやにやしながら「ああ、そうか。権利は正当ですよね」と言い直した(「北海道文学館のたくらみ(16)」)。恐らく自分たちが有利であることに絶対的な自信を持ち、ついつい態度がLになってしまったのである。
○逆転の視点
しかし、毛利たちはこの自信が落とし穴であることに気づいていない。私にひらめいたのはこの点だった。
堀江貴文のライブドアが時間外取引きという抜け道を利用して、フジテレビの株を大量に買い占めたが、そのこと自体を違法とする法律がなかった。そのため、裁判官はフジテレビの訴えを退けた。堀江貴文のほうが勝ったように見える。
同じ頃、村上ファンドの村上世彰が、テレビ記者に対して、罰則がないとか、自分たちのやったことには違法性はないとかと、しきりに強調していた。
しかし結局、別な面から彼らはその有罪性を立証されてしまった。毛利たちは「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」には罰則がないことに安心して、亀井志乃をコケ扱いにするつもりらしい。だが、「基準」に関する解説をよく読むならば、「基準」違反に対しては解雇権濫用法理が類推適応される可能性を示唆している。「基準」に照らして、毛利たちがやったことをきちんと整理し、解雇権濫用に相当することを立証するならば、亀井志乃のほうに勝ち目が出てくるのである。
亀井志乃が労働審判で決着をつけることを決意した、ちょうどその頃、エキスポ・ランドでジェットコースターの事故が起り、社長がテレビ記者に対して、〈罰則がなかったものだから、つい手を抜いてしまった〉という意味の言い訳をしていた。
〈ほらね、罰則がないなんてことを安心して、告示を甘く見たり、多寡を括ったりしていると、こういう取り返しのつかないことを起こしてしまう。財団の幹部連中も首を洗って待っているべきだな〉。私たちはテレビを見ながら、そんな感想を語り合った。
○ブログの戦略(ストラテジィ)
こうして私たちは法律関係の調査に取りかかり、それを整理したのが「北海道文学館の脱コンプライアンス」(「北海道文学館のたくらみ(18)」)である。
8月6日、この文章をブログに載せた時、「通りすがり」を名乗る人が、「係争中なのに、相手に知識をつけるなんて! どこまで人がいいんだろう!」とコメントしてくれた。事の成り行きを、ずっと心配して見守ってくれており、私の無用心にあきれ、つい苦言を呈したくなったのだろう。一理も二理もある苦言であり、私には嬉しく、ありがたかった。
ただ、私がこの8月6日を選んだのは、財団の幹部連中が第1回の労働審判(7月27日)の内容を検討し、第2回目の労働審判(8月29日予定)の方針を立てるため、そろそろ理事会を開かねばならない時期に差しかかっていたからである。
議案書が届いたのは8月11日だったが、事と次第によっては理事会の席上、法律問題を根本から洗い出す必要が出てくるかもしれない。私はそう考えて、問題点を「北海道文学館の脱コンプライアンス」の形で整理しておく。それと併せて、あらかじめブログを通して、その問題点を財団の幹部連中に知らせておくことにしたのである。
常識的に考えれば、議案書が届いてから、それに対する意見の形で、法律上の問題点を指摘した文書を財団に送り、そのコピーを理事に配布してもらう。そういうやり方のほうが妥当かもしれない。だが、財団事務局のこれまでのやり方から判断して、私の意見書が握りつぶされる公算が大きい。財団の幹部連中が私のブログを読んでいることは明らかであり、それならば彼らが握りつぶすことができないようブログで問題点を公開してしまい、同時に彼らにプレッシャーをかけておこう。公開の時期は、彼らが議案書を作成する直前とする。
それが私の目論見だった。
労働審判の第1回目の審理に先立って、亀井志乃の「労働審判手続申立書」と、それに対する財団の「答弁書」と、亀井志乃がそれに反論した「主張書面」の応酬があった。その経緯は「北海道文学館のたくらみ(16)」及び「同(17)」に書いておいたが、財団側のOM弁護士が出してきた「答弁書」は、法律問題に関しては全くナイーヴな状態だった。財団の幹部連中は「基準」と亀井志乃を甘く見て、多寡を括っているのではないか。私のそういう直感は当っていたのである。
財団の幹部連中は、そしてOM弁護士も、私が「北海道文学館の脱コンプライアンス」で指摘した法律問題に対応する用意はできていない。敢えて言えば、対応する能力もない。私は「答弁書」を見てそう判断していたわけだが、事実、8月22日にOM弁護士の名前で送ってきた「和解案」でそれが一そう明らかになった。
そこで私は、「「和解案」というまやかし」(「北海道文学館のたくらみ(20)」)を書き、8月27日の夜、ブログに載せた。8月29日に労働審判の第2回目の審理が行なわれる。その直前に、彼らに対して、彼らの「和解案」が如何にまやかしに充ちたものであるかを思い知らせておく。それが8月27日を選んだ理由だった。
○法学者の「できる」解釈
およそ以上が、私の直感に基づく判断と行動の概要であるが、ただし直感だけに頼ったわけではない。
私は札幌中央労働基準監督署から帰って、I第一方面主任監督官の言葉を整理した後、念のため電話で、I第一方面主任監督官の考えを確かめてみた。I第一方面主任監督官の返事はやはり、「できる」の意味は「してもいいし、しなくてもいい」ということだった。
そのことを確認してから、私は北大の大学院法学研究科のH教授に問い合わせてみた。Hさんは忙しい中、親切に次のような意味の返事を下さった。
《要旨》
たしかに「できる」は法律の基本用語であるが、法学部の授業で習った記憶もないし、自分の授業でもその説明に時間を費やすこともなかった。おそらく法令用語は立法作業に関するものであるため、大学の授業ではあまり重点を置いていないからだろう。ただ、法学プロパーの立場から言えば、I第一方面主任監督官の見解のほうが妥当だと思う。「「できる」は、英語ではたぶん、mayを当てる語でしょうから、裁量の余地・幅を与えている。してもよいし、しなくてもよい……と」。
また、大臣告示における「できる」についても、先生(亀井)のように「積極的に助言または指導するように、という「指示」を含んでいる」と解釈する立場もあるかもしれないが、「場合によってはそうすべきでない事例や事情もあるだろうから、should=べき=指示とまではいいきれない、とすることも可能ではなかろうかと思います。」
○裁量という概念
専門家の立場からすると、どうやら私の解釈は妥当ではないらしい。しかし私は、そのため労働審判に消極的になったわけではない。むしろ「ああそうか!」と一つ大事なヒントを得た。
法律用語としての「裁量」の解釈もまた微妙で、やっかいな問題を含んでいるらしく、私の関心はまだそこにまで及んでいない。ただ、「裁量権の濫用」という言葉があることは知っていた。つまり関係省庁の担当官が、「必要な助言及び指導を行うことができる」権限を拡大解釈して、必要以上に過剰干渉したり、権限を越えた処罰を課したりすれば、それは裁量の範囲を逸脱し、裁量権を濫用したことになる。
それ故、そういう過誤を犯さないように、「必要な助言及び指導を行うことができる」権限の行使には慎重でなければならない。その辺の判断は、担当官に任されている。
Hさんが言う「場合によってはそうすべきでない事例や事情もあるだろうから、should=べき=指示とまではいいきれない」とは、この意味なのであろう。
このように考えてみれば、I第一方面主任監督官が「してもいいし、しなくてもいい」と解釈した理由も分らないでもない。しかし「しなくてもいい」は見過ごしにしてもいいとか、放って置いてもいいとかを意味しないはずである。
私がI第一方面主任監督官から受けた印象は、率直に言って、罰則がないことを理由として、腰を挙げるのを面倒がっていた。裁量の幅の中には「しなくてもいい」も含まれているかもしれないが、これを口実に問題を放置したり、黙認したりすれば、これもまた「裁量権の濫用」ではないか。
○“may”の意味
念のために、最初に引用した「労働基準法」第14条の第2項と第3項の英語訳を引用してみよう。
《引用》
2 The Minister of Health, Labor and Welfare may, in order to preemptively prevent disputes arising between workers and employers at the time of conclusion and the time of expiry of labour contracts which are of prescribed duration, prescribe standards in relation to the notice employers should give in connection with matters relating to the expiry of the terms of the labour contracts and other necessary matters.
3 The Government may, in relation to the standards in the preceding item, give necessary advice and guidance to employers concluding labour contracts which are of prescribed duration.
法律の文章は構文の入り組んだものが多く、悪文の代表みたいに言われてきたが、英語に直してもその弊は一向に改まらないらしい。しかし、たしかにHさんが言うように、「できる」の箇所はmayに置き換えられている。
では、このmayはどんな意味で使われていると考えるべきか。大塚高信・小西友七共編の『英語慣用法辞典』(三省堂、1984年5月、第4版)は、canと比較しながら、その用法を次のように解説している。
《引用》
(1)堅い表現ではcanは「できる」という能力(ability)を、mayは「……してもよい」という許可(permission)を表わすのに用いられるが、口語ではしばしば後者の意味にもcanが用いられる。You can do so./ Can I come in? (中略)
(2)「許可」を表わすcan、mayの用法の差をスピーチ・レベルからのみとらえるだけでは不十分である。両者の内包(connotation)の相違に注意しなければならない。たとえばYou can smoke in this roomでは「たばこをこのへやですってよい」という非人称的な意味を表わし、その「許可」(permission)は、話し手から出されたか、あるいはほかの権威(authority)から出されたものかには言及しないが、You may smoke in this roomでは、許可を与えたのは話し手であることが暗示されている。それゆえ、Can I ……?/May I……?の疑問形においても後者には「許可」を与えるもの“you”が存在していることになる。
Can I smoke in this room? (=Am I permitted to smoke……?)
May I smoke in this room? (=Am I permitted by you in this room?)
(後略)
斎藤祐蔵の『英語 類義語辞典』(大修館書店、1986年7月、第7版)もmayとcanの違いを(1)のような形で説明していたが、私が注目したいのは言うまでもなく、(2)のほうである。
この説明に従うならば、「労働基準法」第14条第2項の英語訳、“The Minister of Health, Labor and Welfare may〔…… 〕prescribe standards…….”において、“may”(できる)の許可(permission)を与えたのは国会(に反映された国民の意志)という権威(authority)ということになるだろう。
また、第14条第3項の英訳、“The Government may〔……〕 give necessary advice and guidance to employers…….”における“may” の許可(permission)についても、同様に考えることができる。
○法律における“may”
先に引用した英文は、政府の責任においてなされた「労働基準法」の英語訳であるが、以上の如く、その“may”を一般的な用法でとらえた場合でさえ、国会という権威の許可に裏づけられた「できる」「してもよい」の意味だったことが分る。
しかも、小西友七ほか編集の『ランダムハウス英和大辞典』(小学館、1998年1月、第2版)によれば、この“may”は、「2〔許可・許容〕……してもよい、……してさしつかえない、:《軽い命令》……しなさい。(中略)You may go, John. ジョン、行きなさい(話者の一種の命令を表している)」という意味で使われるだけではない。「6〔法律〕《法令・証文・契約書・規則などで用い》……しなければならない。」というように、法律では“must”や“be obliged to”の意味に用いられているのである。
ついでにもう一つ、高橋源次ほか編集の『英和中辞典』(旺文社、1988年、重版)を開いてみると、「4《許可》……してもよい;〔法令・証文などで〕……すべし(shall, must)¶You may go now.もう行ってもよろしい(※時には命令に近い意味になる)」と出てくる。
このように、英語訳のほうから捉え返してみるならば、「労働基準法」における「できる」は、限りなく「しなければならない」「すべし」という義務表現に近いのである。
裁量権の濫用に陥らない配慮は必要だが、「しなくてもよい」とばかりに、のほほん茶を飲みながら時間潰しをしているわけにはいかないのである。
○言語行為論とは
私はこんなふうに、亀井志乃が労働審判に踏み切った時、どんな争いになるかを想定しながら、理論的な準備を進めてきた。
今度の労働審判は、争点が「できる」の問題まで拡がることはないだろう。しかし、もし本裁判にまで展開すれば、そこまで拡がる可能性がないわけでもない。その場合、相手側の弁護士や裁判官の「できる」解釈は、札幌中央労働基準監督署のお役人に近いこともあり得る。それに対する対抗論理は用意しておかなければならない。そう考えたのである。
そして、その対抗論理を構築するために、私は改めて言語行為論の読み直しを始めた。
J.L.オースティンの『言語と行為』(坂本百大訳。大修館書店、1978/John Langshaw Austin: How to Do Things with Words, Oxford University Press 1962)によって着手され、J. R.サールの『言語行為論』(坂本百大・土屋俊共訳。勁草書房、1986/John R. Searle: Speech Acts, an Essay in the Philosophy of Language, Cambridge University Press 1969)によって発展された、日常言語の研究は、人文科学の様々な領域に強い影響を与えてきた。
法哲学者にも注目され、小畑清剛が『言語行為としての判決――法的自己組織性理論―』(昭和堂、1991)という成果を挙げている。
その学問の現代的な意義については、何時か別な機会を見つけ、私の分る範囲で紹介し検討したいと考えているが、いま簡単にそのポイントを一つだけ挙げるならば、発話内行為(illocutionary act)という概念がある。言語行為論の中心的課題はこの発話内行為の解明にあると言っても過言ではないだろう。
例えば、教師である私が、教室で、〈そこのふたり、何を話してるの?〉と言ったとしよう。この発話は、字義通りに解釈すれば、私は学生に、おしゃべりの内容を訊いたことになる。
しかし実際の意図は、〈そこのふたり、授業中におしゃべりをして、他の学生に迷惑をかけてはいけないよ〉と注意(軽い叱責)を与えることにあり、そこでふたりの学生は〈すみません〉と言って、おしゃべりを止めた。
現象的に見れば、ふたりの学生は私の質問(「何を話してる?」)には答えず、黙ってしまったわけで、極めて不完全な対話でしかなかったことになる。しかし、教室内のルールを守る観点からみれば、十分に有効なコミュニケーションが成り立ったことになるはずである。
次に、今私が、誰かに向って、「明日、午後2時にお訊ねします」と言った場面を考えてみよう。日常的によく発せられるこの言葉を、発話行為(locutionary act)それ自体として受け取るならば、私が相手に明日の予定を告げる行為を行なったことになる。
ただ、この言葉の意味はそれだけにとどまらない。その発話の中には、明日の午後2時に訪ねると約束する、という意味が含まれている。私は相手に自分の予定を告げると共に、相手との約束を行なっているわけである。
それをもう少し抽象化して言えば、私は相手に、自分の予定を告げるという発話行為を遂行し、それと同時に、相手と「約束する」という行為も遂行していたことになる。発話行為に伴って遂行される、この、もう一つの行為(約束)を、サールは発話内行為(illocutionary act)と呼んだのである。
ちなみに、ある発話の聞き手(受け手)が、発話行為や発話内行為に反応した行為を、発話媒介行為(perlocutionary act)と呼ぶ。授業中に、先生から「何を話しているの?」と声をかけられた学生が、「ええ、お昼にピザを食べるか、カレーライスにするか、ちょっと言い合っていたんです」と答えたとすれば、教師の発話内行為の意図を汲み取りそこねた、不適切な発話媒介行為と見なされるだろう。「すみません」とだけ答えて、講義に集中するほうが、むしろ適切な発話媒介行為と評価されるはずである。
○言語行為論の法律解釈
この理論を法律に当てはめるには、幾つかの理論的な手続きが必要だが、敢えてその手続きを飛ばし、最初に引用した「労働基準法」を読んでみればどうなるか。
発話行為それ自体として見るならば、国会(に反映された国民の意志)という主体が、厚生労働大臣に対して、〈厚生労働大臣は「基準」を作ることができる〉という可能性(possibility)を告げたことになる。
だが、この発話行為は、それだけに止まらない。この発話と共に/発話に伴って、〈厚生労働大臣に「基準」を作る権限を与え、その権限を行使することを期待する〉という、権限行使の要請という発話内行為をも行なっていたと見るべきだろう。
従来の「文」研究は、主に発話行為の面で行なわれてきた。札幌中央労働基準監督署のI第一方面主任監督官みたいに、「してもいいし、しなくてもいい」と、条文を字義通りにだけ解釈する、そんな意味論が行なわれてきたのである。
だが、オースティンに始まる言語行為論の重要さが認識されるにつれて、日常言語の研究だけでなく、テクスト研究も、発話内行為の分析に関心が集中し、飛躍的な成果を挙げてきた。
私はそういう動向を踏まえて、私なりの「できる」解釈を試みたわけだが、それが法律関係者にどこまで通用するか、意見を聞いてみたい。
I第一方面主任監督官や、OM弁護士、そして財団法人北海道文学館の幹部職員や理事、評議員たち、とりわけ神谷忠孝や平原一良や工藤正廣とはじっくり論じ合ってみたい。
○ケジメを失った北海道文学館
労働審判の結果については、9月13日、財団法人北海道文学館から「地位確認等労働審判事件の和解について」という報告が送られてきた。正確には「和解」ではなくて、「調停による解決」と言うべきであるが、その問題は別に取り上げるとして、まず驚き、あきれたことは、この報告の主体が「財団法人北海道文学館理事長」という肩書きでしかなかったことである。この肩書きを持つ神谷忠孝の名前はどこにも書かれていない。とうてい報告書としては体裁をなさない、おかしな報告だった。
労働審判では、申立人側は亀井志乃一人だったが、相手側の財団からは清原館長と平原副館長と川崎業務課長の3人が出てきた。ところが、これは審判が終った後で分ったことなのだが、財団は裁判所に、財団の代表として神谷忠孝と川崎信雄の名前を届けていたのである。
じゃあ、なんで清原と平原は金魚の何とかみたいにくっついてきたのか。そういう疑問もあるのだが、代表として名前を届けていた神谷忠孝はどこかに雲隠れしてしまう。当事者資格の面では一番レベルが低い業務課長の川崎信雄が前面にしゃしゃり出て来る。そして、裁判所に「代表」として届けていなかった館長の清原と副館長の平原が、金魚の何とかみたいに川崎のお供をしてくる。
今や財団法人北海道文学館は、組織上のケジメをつけることさえもできていない。そう言わざるをえないだろう。
8月17日、財団は、労働審判にかかわる経費を新たに計上するため、臨時理事会を開き、補正予算を組んだ(「北海道文学館のたくらみ(19)」)。
その場で私は、この日決定されたことは館報に載せるように要求しておいた。つい3ヶ月ほど前、財団の事務局はとんでもない出鱈目な粉飾決算の報告をし、私に指摘されたが、ひたすら沈黙するだけ、ただその時、川崎業務課長が〈補正予算を組む必要が生じた場合は理事会に諮る〉という意味の約束をした(「北海道文学館のたくらみ(15)」)。
その結果、8月17日に臨時理事会が開かれたわけだが、臨時理事会を開かねばならない緊急事態が起った以上、当然その報告は館報に載せなければならない。
しかし、最近届いた「北海道文学館報」第70号(9月20日発行)では、一言半句そのことにはふれていなかった。会議報告や予算決算の報告は、「別刷」の形で館報に添える慣例になっている。予算に関して重要な変更があった以上、「別刷」を1枚挿入する形であっても、報告をすべきであっただろう。
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コメント
コメントを書かせていただいた《(22)ブログの戦い/ブログのための戦い》に続き、こちらも興味深く読ませていただきました。感想などを書き始めたら長くなってきたので、自分のブログの記事とさせていただきました。その目次と記事は、以下の通りです。
1. ブログの戦略と法律読解について
2. 『言語行為論』について
3. 懐かしい亀井家の雰囲気とそこから生まれたもの
《この世の眺め ─亀井秀雄のアングル─ /北海道文学館のたくらみ(23):「できる」と“may”》の感想
http://d.hatena.ne.jp/SeaMount/20071102/1194036753
投稿: SeaMount | 2007年11月 3日 (土) 06時27分
こういったくだらないブログばかりだ。まったくウンザリする。バカじゃないのか…
投稿: | 2007年11月 5日 (月) 05時01分