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北海道文学館のたくらみ(22)

ブログの戦い/ブログのための戦い

○西村幸祐さんとの対談
 私は平成16年(2004年)の暮に、東京で西村幸祐さんと「「2ちゃんねる」の社会学」という対談をやり、それは12月24日に「スカパー!ch767日本文化チャンネル桜」というケーブルテレビで放映された。

 西村幸祐さんは政治問題や社会問題に関して、インターネット・メディアやケーブルテレビ、雑誌などで八面六臂の活躍をしている。先日、NHKテレビの「クローズアップ現代」で、カリスマ的な影響力を持つブログの書き手を取り上げていたが、西村さんもその一人だろう。私のように小樽の文学館の嘱託館長をやりながら、関心のおもむくまま、日常気になる問題を、ホームページに書いている人間とは、活躍の規模も影響力もまるで違う。普通の意味では接点がない。
 それにもかかわらず西村さんが私を東京に引っ張り出す気になったのは、ちょうどその頃私が自分のホームページで、「マスメディアの『テロリズム』」と題する、日本人のイラク人質事件や2ちゃんねる論を書いていた。それが西村さんの注目を惹いたらしい。
 
 もし私の発言に新鮮なところがあったとすれば、2ちゃんねるをネガティブな社会現象としてではなく、新たな言説空間の出現と、言語表現としての可能性を、時間論や空間論にまで視野を広げながら解明しようとしていたことだった。自分なりに、そんなふうに納得している。

○推薦図書になったホームページ
 同じくその頃、東京のある私立高等学校の図書館が、私のホームページを推薦図書、いや、推薦HPに挙げてくれた。もちろん私の書き方や内容をそのまま鵜呑みにするのではなく、批判的に読むように指導があったにちがいないが、〈なるほど、高等学校がパソコンを取り込む教育を行うとすれば、当然そういう読み/書きの指導も含まれてくるわけだ〉。私自身、目からウロコが落ちる想いだった。
 
 大手メディアの書き手やコメンテーターが、2ちゃんねるとか2ちゃんねらーとかいう言葉を、まるでスティグマ(差別的な汚名)にみたいに乱発しながら、自分の見識や良識を誇示してみせる。
 それが見せかけの世論でしかないことに気がついた先生の中から、2ちゃんねるやブログを読み書きする独自な方法の模索が始まったらしい。私は先生方の柔軟さに感銘を受け、推薦されたことに誇りを感じた。
 
 兵庫県の高等学校の先生をしている教え子の話によれば、彼の高校にも2ちゃんねるに打ち込んでいる生徒がいて、級友からやや差別的な蔑視のニュアンスで、「チャネラー」とか「ネラー」とか呼ばれているという。それが排他的な関係にならぬように、どう指導するか。そういう問題も起っていたらしいのである。

 そのことにかこつけて言えば、たぶん文部科学省はこれから5年以内に、電子メディアの書き方や読み方、あるいはコミュニケーションのあり方に関するカリキュラムを必要とすることになるだろう。

○『撃論ムック ネットvsマスコミ!/大戦争の真実』に登場
 ただ、対談のことは最近ずっと忘れていたのだが、今年の3月、西村さんからメールがあった。あの時の対談を、「撃論ムック」シリーズの「ネット対マスコミ大戦争の真実」に載せたいと思うが、どうでしょうか、という問い合わせだった。私はちょっと驚いた。
 私は政治問題については、〈自分の胆さえ決まっていればよい〉と考えている人間なので、西村さんには申し訳なかったが、政治問題や社会状況に及びそうな話題には乗らなかった。もっぱら2チャンネルの面白さだけしか語らなかった。西村さんには不満だったかもしれない。そう考えていたので、あの対談が活字になることなど予想もしていなかったのである。

 私は、もしお役に立つのならば、喜んで承知します、と返事をした。すると、ほとんど間をおかずに、〈締切りの時間が迫っているので、加筆や削除は最低限に止めて下さい〉ということわりと共に、対談を活字におこした原稿が届いた。さすがに手練(てだれ)のジャーナリストだけあって、要領よくまとめている。私はほぼそのまま承諾した。

 「「2ちゃんねる」の社会学」というタイトルで、それは、西村幸祐編集『撃論ムック ネットvsマスコミ!/大戦争の真実』(株式会社オークラ出版、2007年5月)に載っている。

○「歴史の事実委員会」からの誘いを断わる
 そのムックが出版された、ちょうどその頃、もう一度西村幸祐さんからメールがあった。
 それによれば、今年の4月末にNYタイムスや、ワシントンポストに〈THE TRUTH ABOUT “COMFORT WOMAN”〉という広告が出た、という。旧日本軍のいわゆる従軍慰安婦制度を非難する広告だったのだろう。
 それに対して西村幸祐さんや、桜井よしこさんが「歴史の事実委員会」を作って、反論広告をNYタイムス等に出したいと思うが、賛同者の一人になってくれないか。そういう依頼のメールだった。
 「広告原稿」の原案も添付してあった。

 私は反対ではない。2度アメリカで生活した経験からして、〈THE TRUTH ABOUT “COMFORT WOMAN”〉という広告が、どんな政治的背景に基づいているか、おおよそ見当がつく。
 
 2002年、アメリカのUCLAの客員教授だった時、私は、日本が言う大東亜戦争の時期、つまりアメリカが言う太平洋戦争の時期に、アメリカ政府が行なった日系人の強制隔離に関する本を何冊かまとめて手に入れてきた。私の関心には、John Okada の“NO-NO BOY”(1957)も視野に入っている。
 数年前、北朝鮮の国連代表が極めて意図的に日本をジャップ呼ばわりした時は、ホームページに「ヒストロジィ 3」を載せようと、アメリカの排日運動の歴史や、〈太平洋戦争〉時代のジャップ狩りについて書き始めた。ただ、私の悪い癖で、前田河広一郎の在米時代の小説や、谷譲治の『テキサス無宿』(めりけん・じゃっぷ物)にまで、話題を拡げてしまい、結局まとまりがつかなかった。
 
 そんなわけで、私は趣旨自体に反対だったわけではないが、次のような理由で、賛同者となることはことわった
。「ただ、私はこれまで、自分の名前は自分の言葉に署名する、という方針を立て、声明文などに名前を連ねることはしない生き方をしてきました。まことに申し訳なく存じますが、今回もこの方針を通させて下さい」。
 他人の目に、あるいは思い上がりと映るかもしれないが、私は原則として、他人の書いた文章に自分の名前を連ねることはしない。その代わり、自分の書いた文章にはきちんと署名をし、書いたことの責任を負う。そういう形で私は自分が書いたものと、名前を大事にしてきた。その方針はこれからも通していこうと考えたのである。

○「歴史の事実委員会」への危惧
 私が知り合ったアメリカ市民は、ジャパン・フィリア(Japan-philia/日本好き)とでも呼ぶべき人たちが多かった。しかし中には、頑固なジャパン・フォビア(Japan-phobia/日本嫌い)の人がいた。 
 特徴的なのは、アメリカの大学の教授職に就いた日本人や、日系アメリカ人の中に、意外にジャパン・フォビアのタイプが多い。そういう人たちが作る戦前・戦中の日本像は極めて一面的であり、しかし、案外それがアジア系アメリカ人にウケているらしいのだが、私の経験によれば、この種の日本人、及び日系アメリカ人は容易に占領下の日本の状況に目を向けようとはしないのである。
 
そんなわけで、私は続けて、次のように書いた。
《引用》

なお、賛同者になることを遠慮させていただきながら、要らざることを申し上げるようですが、「慰安婦問題意見広告」の案文の、FACT-2の箇所。最後の「犯人を逮捕すれば、……だろうとしている。」の1文は、咄嗟に読んだだけでは、当時の新聞記事の一部なのか、それとも新聞記事に対する西村さんたちのコメントなのか、分りにくいのではないでしょうか。

またFACT-5の2行目、「佐官級の収入を得ていた例も数多くあり」は、表現を替えるか、削除したほうがいいように思います。以前にもこのような表現を読んで、少し違和感を覚えた記憶があります。当時は世界的に公娼制度があり、戦後の日本の占領下でも、GHQに要請(と言っても、それこそ反対できない強制力を持っていたと思います)による公娼制度が行われた事実に目を向けさせるほうが、アメリカ市民に対しては有効なのではないか、と思います。

 私は、西村さんがこの返事をどう受け取ったか、知らない。また、私の意見が西村さんたちの「広告」に反映されたか否かについても、何も知らない。ただそれから1ヶ月ほど経って、NHKテレビが、アメリカのある議会で日本非難の決議が通過したことを報じた。日本人のグループによる新聞広告がかえってアメリカ市民の反感を煽ったのではないか、という意味の観測を語っていた。
 私は観測の真偽を判断する材料を持たないが、ああ、西村さんたちの「広告」のことだなと思いながら、そのニュースを聞いた。それと共に、NHKテレビの捉え方はかなり一面的だったのではないかと思った。

○「言論の場」を回避しつづける相手
 私はそんなことを経験しながら、このブログを書き続けてきたわけだが、別にマスコミと大戦争をしてきたわけではない。しかし、確かに私は財団法人北海道文学館と戦ってきたし、ある意味では北海道教育委員会とも戦ってきた。
 ただ、この戦いの奇妙なところは、あくまでも私は言論のレベルで、自分の名前を明らかにしながら戦っているにもかかわらず、相手側は決して言論の場には登場しようとせず、極めて陰険な手段で私のブログを抹殺し、消去しようと謀っていたことである。

 しかし見方を変えれば、そういう連中が相手であればこそ、ブログの書き方や、ブログの可能性について発見するところも多かった。そう言えるだろう。

○『ウィキぺディア(Wikipedia)』の中の亀井秀雄
 これはやや性質が異なるが、インターネットのフリー百科事典『ウィキぺディア(Wikipedia)』に、私に関する、匿名筆者の記事が載っている。
《引用》

亀井 秀雄(かめい ひでお、1937年2月18日―)は、国文学者、北海道大学名誉教授、小樽文学館館長。

群馬県生まれ。1959年、北大文学部卒、高校教師を経て、1965年、岩見沢駒沢短期大学専任講師、1968年、北大文学部助教授、1984年教授、2000年、定年退官、名誉教授、市立文学館館長。1987年、ミュンヘン大学客員教授、1995年、コーネル大学客員教授、2002年、UCLA客員教授。2000年、「「小説」論 『小説神髄』と近代」で北大文学博士。

昭和文学、特に伊藤整を中心に、文芸雑誌『群像』にもしばしば寄稿、連載し、1978年、柄谷行人の『日本近代文学の起源』が『季刊藝術』に連載されていた時点で、『群像』の連載「感性の変革」で厳しく批判したが、柄谷はこれを黙殺し、その後柄谷著はバイブルのごとく扱われ、亀井著は品切れのままである。小森陽一は亀井の教え子だったが、柄谷と共同作業を始めた時、亀井との縁は切れたといえよう。

近年は明治文学、またプロレタリア文学について研究している。

 私自身も『ウィキぺディア(Wikipedia)』を手がかりに、いろんな情報を探り出すことが多く、ありがたく利用させてもらっている。この百科事典の特徴は、それぞれの項目に知識を持つ人が自由に書き込みをして、記述内容の精度を高め、情報量を増やしてゆく。そういう面白い方法を採っているわけだが、その点から見れば、「亀井秀雄」の項目はまだ〈若い〉と言えるだろう。
 なぜなら、前半の正確さに較べて、後半の書き手はまるで別人だったのではないかと疑いたくなるほど、事実の押さえ方が荒っぽく、不正確だからである。

 それに、後半のこの書き方は、いかにも文壇ゴシップふう、あるいは学会ゴシップふうで、ちょっと場違いな感じがしないでもない。確かに『ウィキぺディア(Wikipedia)』はフリー百科事典ではあるが、わざわざその中に、事情通の裏話みたいな風評を持ち込む。その人間が、どんなタイプか、おおよそ見当がつく。気の毒なのは柄谷行人で、ひたすら「黙殺」を続けるしかなかった屈辱の古傷に触れられてしまった。それ以上に気の毒なのが小森陽一。これではまるで〈旧師を裏切った無節操な男〉に見えてしまうじゃないか。

 ただし、私自身が先の記述を書き直そうとは思わない。好意を抱いてくれる人、あるいは悪意ある人たちが、それぞれの知識、情報を書き込んで、私自身に関する「像」を構成してゆく。私なりの判断によれば、『ウィキぺディア(Wikipedia)』が匿名である意味は、そういう点にある。その意味で〈客観的〉に描かれた自分の「像」に出会うチャンスは滅多にない。これは大事にしよう。

○ブログに賭ける
 ともあれ、匿名の人たちによって自分の「像」がこのように描かれ、または財団北海道文学館から、悪質な誹謗中傷ブログであるかのような噂を流される。
 ついでに言えば、私のホームページは高等学校の推薦HPに挙げられたわけだが、同じ頃、2ちゃんねるに「亀井秀雄 駄目すぎ」という書き込み板が立って、嘲笑、悪口の対象にされた。そう書いてきて、いまふっと思い出したのだが、土屋忍という研究者があるシンポジウムで、とんでもない事実誤認に基づいて、私の言行をあげつらい、ウケていたことがある(『亀井秀雄の発言』の「文学館の見え方」参照)。その手口が、先ほどの『ウィキぺディア(Wikipedia)』に似ていなくもない。
 
 ともあれ、そんなふうに、好意・皮肉の両方からの視線に曝されながら、私は電子メディアにおける発言のリアリティは何かを手探りしてきた。発言自体のリアリティに変わりがあるはずがない。一応そうは言えるのだが、私自身の経験によれば、文芸雑誌や研究誌や新聞など、社会的に認知されたペーパーメディアには一定の言説規則があり、その規則に従うことよって保証されるリアリティというものがある。
 ところがブログの場合は、自分の名前一つを拠り所に、文芸雑誌や研究誌の読者とは比較にならないほど幅広く、多種多様な価値観の持ち主に向けて書く。そして、手探りで書きながら自分なりの言説規則を作り、規則を作りながらリアリティを高めて行くしかない。しかも、その人たちに対するリアリティを失えば、たちまち関心の外に置かれてしまう。 
 この違いは微妙だが、しかし決定的なものがある。
 
 私は私なりの工夫によって、一定数の人たちにコンスタントに読んでもらえるところまで漕ぎつけた。あえて言わせてもらえば、それだけのリアリティがあり、一定の質を保つことができたからだと思っている。それに裏づけられた自信がないならば、私はブログ一つで財団法人北海道文学館や北海道教育委員会と渡り合うことなど考えなかったであろう。

○なぜ労働審判の場でブログが?
 さて、そこで、私のブログを抹消する企みについて言えば、労働審判の第2回目の直前、財団法人北海道文学館は、北海道教育委員会ご推薦のOM弁護士の名前で、「和解案」を、亀井志乃の弁護士Tさんに送りつけてきた。Tさんと亀井志乃が相談して、その「和解案」を撥ねつけた。すると、OM弁護士は折り返し「意見書」を送りつけてきた。
 このことは「北海道文学館のたくらみ(20)」で紹介したが、必要なところをもう一度引用させてもらう。
《引用》
(二) しかし、申立人が申立人の父に労働審判の内容を話したことを基にして、申立人の父がそのブログで相手方の言動につき言及し批判しております。
 

(三) 相手方(財団法人北海道文学館)は、申立人の父の行為を直接和解条項に盛り込むことを求めているものではありません。今般の和解により申立人と相手方間の問題が解決した以上前述した事情もあるので、今後は相互に相手を誹謗中傷する様な行為をしないと確約することを求めているものです。この様な条項は通常の和解においても精神条項として加えられている条項であり、これにより申立人に特段の不利益を与えるものではありません。

 OM弁護士は、亀井志乃が和解には応じない姿勢を崩さず、もちろん「和解」が成立したわけではないにもかかわらず、ぬけぬけと「今般の和解により申立人と相手方間の問題が解決した以上」と過去形で表現し、既成事実化した言い方をしていた。だが、上のような言い分がどんなに筋違いで、まやかしに満ちているか。その点についても、既に「北海道文学館のたくらみ(20)」で詳細に分析しておいた。
 
 ただ、このブログをずっと読んで下さった人は、なぜ財団側がここで急に、労働審判の範囲には入らない、筋違いな亀井秀雄のブログ問題を持ち出したのか、不審に思った人も多かっただろう。
 それと共に、先のOM弁護士の言い方から次のように直感した人も多かったと思う。〈財団側は労働審判に先立って、亀井秀雄のブログの削除を要求したか、あるいは労働審判の場で、亀井秀雄のブログの削除を「和解」の取り引き材料にしようとしたのではないか〉。
 
○財団とOM弁護士の作戦は失敗
 私もそう直感した一人だが、なぜそう直感したかと言えば、後述するような理由で、我が家では、こんな予想を語り合っていたからである。〈財団側は労働審判の場で亀井秀雄のブログを削除させようとするか、もしそこまで要求しないまでも、何らかの形で取り引き材料に使おうとするのではないか〉と。
 その時亀井志乃は、〈もしそんな要求が出てきたら、私は自分の言論の自由を制限する取り引きには応じない。まして、自分以外の人の精神の自由や言論の自由を、自分のための取り引き材料に使うことなど絶対にしない〉と言っていた。
 
 おそらく亀井志乃はそういう心構えで、労働審判の場に臨んだのであろう。財団側は多分その態度を見て
、「相手方(財団法人北海道文学館)は、申立人の父の行為を直接和解条項に盛り込むことを求めているものではありません。」と、一見物分りよさそうな口吻で、折れてみせたわけだが、糞切れが悪い人間というのは最後まで悪あがきを止めない「精神条項」などというまやかし言葉をちらつかせながら、今後は相互に相手を誹謗中傷する様な行為をしないと確約する」という形で亀井志乃の口を封じようとした。亀井志乃の口を封じてしまえば、亀井秀雄は手も足も出せない。多分そう踏んだのである。
 だが、財団側がそこまで有利にことを運ぶためには、少なくとも
「申立人(亀井志乃)が申立人の父に労働審判の内容を話したことを基にして、申立人の父(亀井秀雄)がそのブログで相手方の言動につき言及し批判しております」という事実を証明できなければならない。しかし、その証明はできなかった。
 そうであるならば、財団とOM弁護士は先のような言い方で、亀井志乃と亀井秀雄に言いがかりをつけ、誹謗中傷したことになる。
 結局財団とOM弁護士はそういう醜い正体を晒しただけで、「精神条項」なんてものを盛り込むことに失敗したばかりか、それ以外にも何一つポイントを稼ぐことができなかった。そのためやむを得ず、労働審判委員会の「調停」に服さざるをえなかったのである。

○OM弁護士を弁護すれば
 いやいや、そうではない。労働審判委員会によって最終的な「審判」が下されることを回避するため、自分たちがつけていた「和解」の条件を一切取り下げて、何とか「調停」による解決の形に取り繕った。それがOM弁護士の腕の見せどころだった。
 強いてOM弁護士を弁護すれば、とりあえずそう評価することは可能だろう。

○毛利正彦の削除要求
 それにしても、ああいう恥知らずな被害者ポーズを平気で演ずることができるというのは、これもまた一種独特なお役人の渡世術なのかもしれない。一面で私はほとほと感心している。
 最初に毛利正彦が私にブログを削除してくれと言いだしたのは、平成18年の3月3日のことで、亀井志乃が寺嶋弘道のパワー・ハラスメントをアピールする7ヶ月以上も前のことであった。私が「北海道文学館のたくらみ」を書き始める9ヶ月以上も前のことだったのである。
 もちろん私は、寺嶋弘道という道職員の学芸員が、4月から、道立近代美術館から文学館へ移ってくることなど全く知らなかった。

 当時、毛利正彦は北海道文学館の館長だった。私は前年、つまり平成17年の11月から、この年の2月にかけて、「文学館の見え方」という記事を、このブログに書いていた(現在は、私のホームページ『亀井秀雄の発言』に再掲載してある)。
 毛利正彦は3月3日、理事会・評議員会が終った後、ちょっと相談したいことがあるからと、私を館長室に案内し、〈亀井さんの「文学館の見え方」には当文学館に大変都合の悪いことが書いてある。だから削除してほしい〉と言い出した。
 「文学館の見え方」は私の文学論であり、文学研究を中心とした学問論でもあり、その中で確かに私は財団法人北海道文学館/北海道立文学館が発行した『北海道文学館の歩み』や、『ガイド 北海道の文学』の内容を批判した。しかし、批判する以上、私は全てその根拠を挙げておいたはずで、もし毛利正彦やその他の文学館職員に反論があるならば、それを公表すればいい。それをしないで、ブログを削除してくれというのは、筋違いではないか。
 私はそうことわったのだが、毛利正彦は1時間以上も、同じ要求を繰り返した。

○お役人根性
 彼は私の言うところを納得したくなかったのだろう、年度末に、今度は亀井志乃をつかまえて、私のブログの削除を求めた。亀井志乃は「父のブログはあくまでも父のブログですから」と断わり、その時の毛利正彦は「それはもちろん分っている」と引き下がったらしい。だが、そもそも一方的に自分たちの都合だけで私のブログの削除を要求することが、どんなに常識を欠いた行為か。それだけでなく、次には亀井志乃に向かって私のブログの削除を求める。それがどんなに常軌を逸したことか。多分その点に彼は全く自覚がなかったのであろう。

 私がホームページに歴史教科書問題や、歴史認識の問題を書いていた頃、北海学園大学の歴史学の教授や大学院生が刷り出して、研究会の資料に使ったという。後に北海学園大学の院生からそれを聞いて、「私を呼んでもらいたかったな」と残念に思った。
 実は、この連載の第16回、「新たな土俵で」を書き始めた時、司法関係や法学部などの研究会で労働審判に関する討論材料に使ってもらいたい。そんな高望みをもって書き始めた。実際にそれだけのものになったかどうか、あまり自信がないのだが、毛利正彦がこだわった「文学館の見え方」に関して言えば、討論材料に値するだけの質量を備えていたと自負している。毛利や神谷忠彦や平原一良は、迷惑がったり、被害者ぶったりしないで、積極的に受けて立ち、討論会でも研究会でも開けばよかったのである。
 
 ところが彼らには、そういう柔軟な発想がまるでなかった。恐ろしいほどの精神の硬直で、それがお役人根性というものなのかもしれない。

○被害者を装った逆ねじ
 毛利正彦は、他人が事実に基づいて批判したことについて、自分たちに都合の悪い批判、指摘は、全て自分たちに向けられた誹謗中傷にすり替えてしまう。
 彼はそういう特技の持ち主であるが、それは、おそらくメンタルの問題ではなく、むしろ自己保身的な役人的渡世術の問題と見るべきだろう。彼は決して反証を挙げて反論することはしない。その代わりに、誹謗中傷の被害者のポーズを装いながら、相手を非難しつづけるのである。
 彼が今年の1月17日、亀井志乃に手渡した次の文書は、その手口の最たるものであった。
《引用》

財団と館の意思として申上げます。
 平成19年度におけるあなたの再任用にかかわっての要求・質問等には、昨年12月27日に回答いたしました。これ以上、あなたの要求・質問にお答えするつもりはありません。
 こうした要求・質問を私どもに対し行い、一方ではインターネット上の父親のブログで、父娘関係をあえて伏せたまま、根拠のない誹謗・中傷をくりかえし、財団法人北海道文学館及び北海道立文学館並びに関係する個人の名誉と人権を不当に傷つけるあなたの行動は極めて不誠実であり、強く抗議します。

 要するに彼は、亀井志乃を私のブログの書き手に仕立て、あたかも亀井志乃が私のブログを利用して根拠のない誹謗・中傷をくりかえしてきたかのごとくに事態をねじ曲げる。そういう策略を用いて、亀井志乃に逆ねじを食らわそうとしたわけである。
 だが、如何にそれが出鱈目な言いがかりに過ぎないか。亀井志乃自身が「神谷理事長の回答を要求する」(資料編・資料7)で完膚なきまでに解剖、批判している。既に目を通して下さった人も多いと思うが、そうでない方は是非お読みいただきたい。

 ただ、今更のように驚くほかはないのだが、OM弁護士署名の「答弁書」の肝心な部分も、ほとんど全て、同じような事態のねじ曲げと、逆ねじ、揚げ足取りに終始していた。そんなわけで、OM弁護士もまた毛利と似たようなやり方で私のブログをあげつらい、ブログを削除させようとしたのだろうが、その手口が通じないと見るや、先ほど紹介した「意見書」のように、財団を私のブログの被害者に仕立て、それによって私のブログを牽制し、あわよくば掣肘を加えようとしたのである。

○恐るべき抑圧体質
 こうしてみると、批判された事柄には決して目を向けようとせず、被害者ポーズから一転して逆ねじを食らわせる。これは、元北海道教育委員会の幹部職員だった毛利正彦から、北海道教育委員会ご推薦のOM弁護士の作文に至るまで、共通に見られる傾向であり、いわば北海道教育委員会的体質なのであろう。
 しかも、まことに恐るべきことだが、毛利正彦やOM弁護士の発言や文章には、個人の思想や、言論の自由を尊重する意識がかけらも見られなかった。

 だが、恐るべきことはそれだけに尽きるものではない。北海道教育委員会が指定管理者に選んだ財団法人北海道文学館の理事や評議員は、知る権利に基づく情報公開法を平然と無視し、自分たちに都合の悪い発言は妨害する。権利侵害や、言論の抑圧を公然と行なっているのである。

 それでいて、相変わらずの被害者意識。工藤正廣に至っては、「亀井さん、財団を潰す気なんじゃないの」。恥ずかしげもなく、下司の勘ぐりを口にしている。「よし、亀井のブログを初めから全部刷り出して、徹底検証の会議をやろうじゃないか」。そういう発想は出て来ないらしい。
 
○浮上してきた事実
 以上のような次第で、亀井志乃が労働審判を申し立てた雇止め(または解雇)の問題だけはとりあえず決着がついた。つまり「本件(労働審判事件)」に関しては、「調停」が成立したわけだが、かえってその結果、私個人にかかわる問題として、ずっと以前から財団法人北海道文学館が私のブログの削除を狙っていた事実が浮かんできた。

 どうやらこの企みはまだ続きそうな気がする。

○亀井のブログには真っ向勝負を
 しかし財団は決定的な勘違いをしている。新聞、雑誌、テレビなど、既成の大手メディアにはさまざまな利害や思惑がからんでおり、それをうまく利用すれば、特定の書き手の原稿をボツにしたり、発言のチャンスを奪ったりして、その人間を排除することは必ずしも不可能ではない。メディア自体の言説の方向を変えさせることさえも可能だ。
 ただ、そうするためにはかなり強い権力や、金を動かさなければならないが、それに較べれば、組織的なバックを持たない人間のブログを抹消するなぞ、赤子の首をひねるようなものだ。また、そのようにして黙らせたからと言って、社会的な非難を受けることもないだろう。彼らの中には、そんな甘い高括りがあるのではないか。

 そういう高括りの根底には、大手メディア=公共的(客観的)/ブログ=個人的(恣意的)という安直な二項対立が潜んでいると思われる。つまりそれだけ大手メデイィアにすり寄った発想に囚われているわけだが、しかし私自身は、大手メディア=公共的(客観的)/ブログ=個人的(恣意的)という図式を突き崩す、つまり、ある時期よく使われた言葉を借りて言えば、脱構築する方向で書いてきた。
 そういう、既成メディアや組織とは貸し借りなし、いわば身体を張ってブログを一本立ちさせている書き手に、大手メディアを操るような手口や、大手メディアに叩かせるやり方が、通用するはずがない。言説による真っ向勝負を挑んでブログ内容を検討し、批判して、その書き手に書き方の変更を促すしか方法はないのである。
 
 私はそういう反応を期待しているが、それにしても、なぜ財団の幹部職員や理事長たちはそれほど私のブログを警戒しなければならなかったのだろうか。
 改めてそこから問題を洗い出そうと思う。

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