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北海道文学館のたくらみ(21)

一つの決着

○審判が終る
 昨日、8月29日、労働審判委員会の第2回審理が開かれ、亀井志乃が申し立てた「地位確認等請求労働審判事件」の決着がついた。理事長の神谷忠孝はまたしても出なかった。
 結論の詳細を述べることは控えるが、財団法人北海道文学館に「非」がないなどということは全く、決して言えない結果だった。
 財団法人北海道文学館が「和解案」なるものを送ってきたことは、一昨々日の「北海道文学館のたくらみ(20)」で紹介したが、その時紹介した財団側の「和解」の条件は退けられ、または亀井志乃の主張に従って修正させられた。財団側が続けて送ってきた「意見書」の主張は通らなかった。
 財団側に立って言えば、自分がつけようとした条件を取り下げざるをえなかったわけである。

 亀井志乃の弁護士のTHさんが、クールで隙のない対応をして下さったおかげである。この場を借りて感謝を申し上げたい。

 このブログを通して、ことの成り行きを注目して下さった方々にもお礼を申し上げたい。時々書き込んで下さる助言に支えられたが、多くの人が読んで下さっている事実だけでも励みになった。亀井志乃も心強かったと思う。

○お寺の小僧さん登場
 労働審判に入った頃から、このブログにお寺の小僧さんのカットが入るようになった。不審に思われた方も多いと思うが、それにはこんな事情がある。

 亀井志乃の仕事に対する寺嶋弘道の執拗な干渉は、当初は濃厚にセクシャル・ハラスメントの面を持っていた。だが、亀井志乃はセクシャル・ハラスメントとしてアピールすることはしなかった。その理由は二つある。
 一つは、セクシャル・ハラスメントを訴えた女性が、かえって職場内では厭らしい好奇心の対象とされ、「おかしい」とか「嘘つき」とかいうスティグマ(汚名)を捺される。そしてついには、退職に追い込まれる/退職させられてしまう。――どんなふうにスティグマ(汚名)を捺されてしまうか。「北海道文学館のたくらみ(19)」で紹介した財団理事のYMの発言は、その好個な一例と言えるだろう――これをセカンド・ハラスメントと呼ぶが、亀井志乃にとって、そういう好奇心の目に曝されることほど耐え難いことはなかったからである。
 
 もう一つ理由は、寺嶋弘道が、上司と部下の関係を擬制しながら、繰り返し高圧的な態度で、亀井志乃の仕事ぶりを誹謗し、故意に貶めた。それはまさにパワー・ハラスメントと呼ぶしかない嫌がらせだったからである。

 亀井志乃は文学館の仕事それ自体は気に入っており、地位とか給料とかの打算なく打ち込んでいた。むしろ専門的な能力を買われて契約を結んだ嘱託職員としての誇りと意地を持っていた。だから、寺嶋のセクシャルとパワーの両面にわたるハラスメントには屈しなかった。
 だが、娘が受けている苦痛に、母親が鈍感でいられるはずがない。
 私の妻は心配のあまりよく眠れなくなり、血圧の高い日が続いた。だが、自分の身体の不調を娘に気づかせたら、娘は仕事に集中できなくなる。まして自分が倒れたりすれば、娘は戦い半ばで挫折せざるをえない。それを懸念して、妻は妻なりに気を張っていたが、身体の不調は次第に内攻していった。
 もし妻が倒れ、心労のストレスにその原因があるとの診断が出たならば、私は直ちに寺嶋弘道をはじめ、毛利正彦と神谷忠孝と平原一良を告訴するつもりだった。

 亀井志乃には何の過失もないにもかかわらず、不当に侮辱され、貶められたことを、今でも私たち家族は許していない。
 ただ、娘が労働審判に踏み切った頃から、妻にある種の転機が訪れたらしい。時々、お寺の小僧さんが喜戯している夢を見るようになった。そう言って、そのイメージを手帳に描いたりしている。
 その中から選んで、ブログに載せることにしたのである。

○瀬戸内寂聴さん登場
 ただし、前回のイメージは小僧さんでなく、瀬戸内寂聴さんにご登場を願った。
 徳島県立文学書道館が寂聴さんの文化勲章受賞を記念して、「瀬戸内寂聴展 生きることは愛すること」(9月11日~同30日)という展示を企画し、私に依頼状を送ってきた。その依頼状に同封されていたチラシの寂聴さんを、妻が模してみたのである。

 その依頼は、私が寂聴さんに書いた、『おだやかな部屋』(1971年)の礼状を展示に使わせてほしいということだった。私は喜んで承諾した。

 もちろん知っている人も多いと思うが、寂聴さんは、出家する以前は、瀬戸内晴美の名前で小説を発表していた。初期の作品に『花芯』(1958年)という中篇がある。「花芯」という熟語は『大漢和辞典』にもなく、ひょっとしたら瀬戸内晴美の造語だったかもしれないが、「子宮」を意味した。そのため瀬戸内晴美はかなり長い間「子宮作家」と呼ばれ、彼女を論じた評論(?)は、作品内容から彼女の男性歴を覗うような、低調なものが多かった。
 
 正直なところ、私は必ずしも瀬戸内晴美の愛読者ではなかったが、ある時、筑摩書房の編集者から電話があり、今度「瀬戸内晴美作品集」全8巻を出すことになったが、『蘭を焼く』を中心とする第7巻の解説を引き受けてくれないか、という打診があった。私は引き受け、もし私の論じ方に一定のリアリティがあるならば、「子宮作家」というスティグマを払拭するのに少しは役立つだろう。そんな気持をこめて、従来の瀬戸内晴美論とは異なる視点で解説を書いてみた。
 私の心積もりは瀬戸内さんに通じたらしい。大変に鄭重な礼状を頂戴した。
 それが縁となって、何冊か瀬戸内さんの文庫本の解説も書いた。もう35年以上も昔のことである。だが寂聴さんは、私の若書きの解説を忘れず、これを「徳」として、寂聴展の展示に選んでくれたのだろう。

○ちょっと自慢を
 その頃の文学全集は、瀬戸内晴美と曽野綾子とを一緒に編集することが多かった。ところが筑摩書房は、筑摩現代文学大系で、瀬戸内晴美と河野多恵子とを組み合わせる編集をし、再び私に解説を依頼してきた。
 ここで少し自慢させてもらうならば、この時の私の解説、「女に性別されて」(筑摩書房『瀬戸内晴美・河野多恵子集』1977年)は、それから20年ほど経って、急速に盛んになったジェンダー論の地平を拓いているだけでなく、現在でもよりすぐれた点を持っている、と思う。
 当時はフェミニズムという言葉さえ殆んど使われず、私も使っていない。自分で地平を拓いたおかげで、私はフェミニズム・イデオロギーにも、ジェンダー・イデオロギーにも汚染されることなかったのである。

○今後も
 今後も小僧さんには登場してもらうつもりでいる。もちろんこのブログのテーマはまだ終らない。

Dancedance

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北海道文学館のたくらみ(20)

「和解案」というまやかし

○OM弁護士から届いた「和解案」 
 私は8月22日、小樽文学館へ出て、甲子園大会の決勝戦(広陵高校対佐賀北高校)が見られなかったことを残念に思いながら帰宅し、夕食後、前回の「北海道文学館のたくらみ(19)」をブログに載せた。

 同じくこの日、亀井志乃の弁護士のTさんから、ファックスで、OM弁護士署名の「和解案」が送られてきた。妻はそれを亀井志乃の机の上に置いておいた。
 亀井志乃は17日(財団の理事会があった日)の早朝、釧路へ発ち、大学から頼まれた仕事を済ませて、この日の夜遅くに帰宅した。机の上のファックスを読んで、「こんな和解案を出してきた」と、呆れ顔で降りてきた。
 私も一読して、う~ん、確かにこれは警戒したほうがいいな、と思った。

 亀井志乃は翌日の23日、弁護士のTさんと電話で相談し、その「和解案」には応じない旨の返事を、相手方(財団法人北海道文学館)のOM弁護士に告げてもらうことにした。

○口封じと責任回避の企み
 私は、弁護士のTさんと亀井志乃の会話の内容は知らない。ただ、Tさんもこの「和解案」は受け入れられないと判断していたのだろう、亀井志乃との電話は10分足らずで済んだらしい。

 そんなわけで、以下に述べることはもちろん私の意見であるが、この「和解案」は6項目あり、ただし後述する理由により、1、2、6の三つの項目は省略する。残る3、4、5は次の如くであった。
《引用》

3.当事者双方は、本和解内容を第三者に口外してはならない。
4.当事者双方は、今後互いに、相手方を誹謗中傷する様な一切の行為は行なわないことを確約する。
5.申立人と相手方は、申立人と相手方間には、本和解書に定める外他に何らの債権債務のないことを相互に確認する。

 
 まず
「3.当事者双方は、本和解内容を第三者に口外ししてはならない。」についてであるが、亀井志乃は労働審判がクローズドで行なわれる(一般の裁判のようにオープンではない)ことを、十分に弁えている。労働審判委員会から、クローズドの空間の中で行なわれる事柄の1、2の点については、――「全て」についてではない――第三者に口外しないで欲しいと要望され、亀井志乃は承諾している。
 私もそれを承知しており、「和解案」の1、2、6を省略したのは、その内容がある程度、審判委員会が言う「1、2の点」と関連するからにほかならない。

 亀井志乃が守らなければならないのは、その「1、2の点」についてだけであり、今更こと改めて財団法人北海道文学館と、「3.当事者双方は、本和解内容を第三者に口外してはならない。」という約束を交わす必要はない。義務もない。
 それにしても、なぜ財団法人北海道文学館はそんな条件を持ち出したのであろうか。普通ならば「……口外しない」と書くところを、「……口外してはならない」と、高圧的な言い方をしている。財団には焦りに似た、強いモティーフがあるのだろう。一番の理由は亀井志乃の口を封ずることだと思うが、おそらくそれだけではない。財団法人北海道文学館はそのような約束を理由として、第三者からの質問を封じ、自らの説明責任を回避しようとしているのである。

○悪徳商法まがい
 次の
「4.当事者双方は、今後互いに、相手方を誹謗中傷する様な一切の行為は行なわないことを確約する。」という条件は、これはもう財団側の身勝手な注文としか言いようがない。
 
 財団法人北海道文学館の職員が亀井志乃を中傷し、誹謗するようなことを言っている事実は、亀井志乃も知っている。私も証拠を持っている。
 しかし亀井志乃は財団法人北海道文学館を誹謗中傷したことはない。この文言を書いたOM弁護士は、亀井志乃が財団法人北海道文学館を誹謗中傷した事実を知っているのか。知っていて書いているのか。それとも、誰かに吹き込まれて書いたのか。いずれにせよ、何らかの伝聞、目撃した事実があるのなら、その事実を具体的に挙げてみるがいい。
 その事実も挙げずに
、「当事者双方は、今後互いに、相手方を」云々と、あたかも亀井志乃の側にも「相手方を誹謗中傷する様な」行為があったかのように書く。これもまた亀井志乃に対する誹謗中傷ではないか。そういう誹謗中傷を行ないながら、財団の職員がやってきた誹謗中傷を帳消しにしようというつもりらしい。
 
 〈いやいや、私どもは亀井志乃さんが財団法人北海道文学館を誹謗中傷したと言ってるわけじゃありません。私どもは「今後」のことを言っているのです。「
今後互いに、相手方を誹謗中傷する様な一切の行為は行なわない」ルールを作っておきたい。そう願っているわけですよ〉。そんな世故に長けた、もっともらしい釈明が聞えてくるような気がする。しかし、もし仮に財団やOM弁護士がそう考えているのならば、まず財団自身が、職員に命じて、亀井志乃に関して行なってきた誹謗中傷を謝罪させる。そこから始めるべきであろう。
 一般的に言って、「今後」が課題になるのは、「今まで」に不都合なことがあったからにほかならない。「今まで」に不都合なことを犯してきたのは財団法人北海道文学館の職員であって、亀井志乃ではない。その点を誤魔化してはならない。
 
 亀井志乃は「和解案」における以上のようなトリックに気がついたようだが、もし同じような立場の人が、ついうっかりと甘言に誘われて奇麗ごとのお約束を結んだりすれば、たちまち相手方と「お互い様」の関係だったかの如くすり替えられてしまう。先の「和解案」は、そういう悪徳商法の誘い文句みたいなトリックを含んでいるのである。

○用語の混乱
 もう一つ警戒すべきは、この文章における「相手方」という言葉である。
 いま
「4.当事者双方は、今後互いに、相手方を誹謗中傷する様な一切の行為は行なわないことを確約する。」という文章だけを取り出してみるならば、この「相手方」は、亀井志乃と財団法人北海道文学館が互に相手を指している意味に取れなくもない。つまり、少しくどい説明をすれば、〈亀井志乃が「相手方」という場合は財団を指し、財団が「相手方」という場合は亀井志乃を指す〉という具合に、である。
 
 しかし労働審判の書式はそれとは異なり、いわば原告に当たる亀井志乃は「申立人」と呼ばれ、被告に当たる財団法人北海道文学館が「相手方」と呼ばれる。
 注意すべきは、この呼び方がそのまま固定され、だから亀井志乃の弁護士が亀井志乃を呼ぶ時には「申立人」と言い、財団法人北海道文学館の弁護士が財団を呼ぶ時には「相手方」と言うのである。
 この使い分けは、先に引用した
「5.申立人と相手方は、申立人と相手方間には、本和解書に定める外他に何らの債権債務のないことを相互に確認する。」を見れば分るだろう。これは財団法人北海道文学館のOM弁護士が書いたものだが、この文章における「相手方」は財団法人北海道文学館を指しているのである。

 そして、この「和解案」そのものはこの使い分けに従っているのだが、ただ、「4.当事者双方は、今後互いに、相手方を誹謗中傷する様な一切の行為は行なわないことを確約する。」という文章の「相手方」だけは、それとは別な使い方をしている。
 しかし、前後の使い方に合わせて、この
「相手方」の意味を「財団法人北海道文学館」に取ったとしたらどうなるか「財団法人北海道文学館を誹謗中傷する様な一切の行為は行なわないことを確約する。」となり、言わば一方的に亀井志乃だけが義務を負うことになってしまうのである。
 
○意味無限定な「和解」
 さて、その次の
、「5.申立人と相手方は、申立人と相手方間には、本和解書に定める外他に何らの債権債務のないことを相互に確認する。」はどう受け取るべきであろうか。
 じつはこれとよく似た文言が、前回(「北海道文学館のたくらみ(19)」)で紹介した、財団理事会の「議案書」に出てきた。
「② 本件に関し、このほかに何らの債権債務がないことを相互に確認する。」と。
 この文言について、前回、私は次のように書いた。
《引用》
 
この「本件」は、議案書のタイトルに言う「地位確認等労働審判事件」を指すのだろう。「このほかに何らの債権債務がないことを相互に確認する」は、清原館長の説明によれば、「これ以上は争わない」という意味だという。
 私は字義通りの意味に受け取って、何の異議も唱えなかった。もし第2回の審理の場で、財団側が「本件」の意味を拡大解釈したり、「これ以上争わない」に余計な付帯条件をつけたりすれば、亀井志乃は弁護士の意見を聞いた上で、自分の意思を表明することになるだろう

 もちろん今も意見は変わらないが、今度の「和解案」における「本和解書」なる文言がどうも気持に引っかかってくる。
 「議案書」における「本件」は、タイトルその他から意味の限定が可能なのだが、「本和解書」における「和解」は何に関する和解なのか、何の説明もないからである。
 そもそも自分のほうから「和解案」を出してきながら、どんなことについて、どんな理由で和解を申し込むのか、一言半句説明していない。そんな「和解案」がどこの世界にあるものか。
 
 8月17日の理事会における清原館長の説明によれば、幹部職員とOM弁護士は、労働審判委員会が「非がある」という言い方はしなかった事実をネタにして
相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」という作文をした(「北海道文学館のたくらみ(19)」)。
 ここで念を押しておくならば、〈いや、私どもは、「労働審判委員会は財団に非があるという言い方をしていなかった」事実を書いただけです。私どもが「財団には何らかの非があるわけではない」と言ったわけではありません〉などという言い逃れは止めてもらいたい。
 その上で言うが
「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」と書いておきながら、なぜこの期に及んで、自分のほうから「和解案」などというものを持ち出すのか。
 同じことの繰り返しになるが、もし財団が、〈私どもが「財団には何らかの非があるわけではない」と言ったわけではありません〉と言うつもりならば、まず財団側には「非」があるのかないのか、まずそれを明らかにし、その上で、なぜこの期に及んで、自分のほうから「和解案」などというものを持ち出すのかを説明すべきだろう。

○「裁定による解決」を
 亀井志乃は3月16日、館長(当時)の毛利正彦から「和解」の可能性を絶たれて以来、労働審判の裁定による解決を求めることにした。
 また亀井志乃は、「労働審判は、給料の未払いや解雇の問題を早期に解決すべく特化された裁判」と承知しており、だからパワー・ハラスメントの問題とは切り離して考えている。労働審判法の立法趣旨と、亀井志乃の申立内容により、近々下される労働審判委員会の裁定は、あくまでも雇止め(または解雇)の問題に限られるはずである。
 そのように考えている亀井志乃が
5.申立人と相手方は、申立人と相手方間には、本和解書に定める外他に何らの債権債務のないことを相互に確認する。」という曖昧な文言の和解条件を受け入れるはずがない。相手方(財団法人北海道文学館)が、「本和解」という言葉を故意に拡大解釈し、パワー・ハラスメントの問題も「和解」条件に含まれていたかのように言い触らすのを警戒したからである。
 
 亀井志乃の弁護士のTさんも、亀井志乃が労働審判を申し立てた主意に照らして、このような「和解案」の条件は受け入れがたいのではないか、と考えていたらしい。二人は電話で相談した結果、この条件も「和解案」を受け入れない理由の一つとした。

○北海道教育委員会推薦の弁護士
 8月17日の理事会における清原館長の説明によれば、財団の幹部は北海道教育委員会と協議して、OM弁護士を紹介してもらった。OM弁護士は昭和24年生まれのベテラン弁護士で、これまでも北海道教育委員会がかかわった裁判で力を尽してもらった、という。

 なるほど俺より一回り、12歳も若いわけだ。自分でも驚くほど智慧が廻って、仕事が面白くて仕方がない時期だろうな。羨ましいことだ。
 私はそんなふうに感心して聞いていたが、OM弁護士が道から厚い信頼を寄せられている弁護士らしいことは、前から承知していた。OM弁護士は北海道立市民活動促進センターの指定管理者選びの際、選定委員会の委員長を務めているからである。
 道立文学館の指定管理者選びの際には、北海道大学大学院文学研究科の教授・身﨑壽が委員長を勤めている(「北海道文学館のたくらみ(11)」)。OM弁護士は身﨑壽と同様な役割を果したわけである。

○北海道文学館の「専門性」
 平成18年の3月に、NHKテレビが指定管理者の問題を特集した。私は市立小樽文学館に関係し、指定管理者の問題には無関心でいられない。そこで、ビデオを取りながら見ていたのであるが、NHKはやや突っ込んだ形で、道立文学館の選定結果と北海道立市民活動促進センターの選定経過の問題を取り上げていた。

 身﨑壽が委員長を務める選定委員会は、指定管理者に立候補した二つの民間団体が、財団法人北海道文学館に較べて、より経費を削減した事業計画書を提出したにもかかわらず、財団法人北海道文学館を選定した。それはなぜか。
 NHKの取材の関心の一つは、そこにあったのだろう。平原一良学芸副館長(当時)がしきりに「専門性」を強調していた。文学資料の専門的な取扱いと展示は、財団法人北海道文学館のように一定のノウハウを蓄積したところでなければ出来ない。そういう趣旨である。
 NHKはそれと前後して、北海道文学館の館員が二人、資料を研究(?)している姿を映していたが、その一人が和紙に筆字で書かれた記録(厚い文書)を、まるで週刊誌から目的の記事を探す時のように、ぱらぱらと乱暴にめくっている。
 「平原もなあ、どうせヤラセの場面を撮って貰うなら、もっと別な仕事のところを選べばよかったのに、……これじゃあ、北海道文学館の学芸員は和綴本や写本を扱う基礎的な訓練さえ受けていないこと、ばればれじゃないか。……もっとも、平原自身、何が専門かとなれば……まあ、あちこちの「文学者」に顔が広い外交員というところかな」。私はそんな慨嘆をしながら、妻と見ていた。

○北海道立市民活動促進センター指定管理者の選定事情
 OM弁護士が委員長を務めた委員会の選定の問題については、OM弁護士自身がインターヴュに応じていた。当初、5人の選定委員が採点した結果、北海道NPOサポートセンターのほうが経費の提案額が低く、評価の総合点が高かったにもかかわらずわらず、OMの委員会はそれを逆転させて、財団法人北海道地域活動振興協会のほうを選んでしまったからである。
 
 北海道立市民活動促進センターがどういう活動を行なうところか、私はよく分からない。選考過程の問題点も含めて、詳しく知りたい方は、「北海道立市民活動促進センターの指定管理者候補者の選定結果に異議を唱える会」のホームページ(
http://www.inet-hokkaido.org/shiteikanri/index.html)や、長崎昭子さんの「長崎昭子のブログ」(http://akiko.inet-hokkaido.org/)を見ていただきたい。
 ともあれ、この逆転結果にはNHKも腑に落ちないものを感じたのであろう。OM弁護士はHNKのインターヴュに答えて〈NPOは多くの人の善意に支えられて活動をしている団体だが、財政基盤が確りとしているとは言えない。そういう不安定な要素を抱えているNPOに、道民のための施設の管理運営を任せるのかどうか。それを懸念する意見もあって、結局は財団法人北海道地域活動振興協会を選ぶことになった〉。そんな意味の説明をしていた。
 「う~ん、一理ある考えと言えないわけじゃないけれど、この人、NPOが指定管理者としての4年間の活動を通して、足腰が強くなるだろうという、前向きの発想が出来ない人らしいな」。私と妻はそんな感想を語り合いながら、NHKの特集を見ていた。
 
○必死な口封じ工作
 ははあ、そういうスジだったのか。清原館長の紹介を聞きながら、少しずつつながりが見えてきた。
 財団法人北海道地域活動振興協会が請け負っている北海道立市民活動促進センターの成果がどんなものか、私は知らない。
 しかし道立文学館に関して言えば、指定管理者制度を導入した1年目に、早くも駐在道職員がパワー・ハラスメントのアピールを受けるようなことを仕出かし、2年目には労働審判を起こされる。観覧者数の実績は伸びず、杜撰な支出を誤魔化すために粉飾決算をする。指定管理者に選ばれるために提出した事業計画は、1年目で早くも企画展を一つキャンセルし、2年目には主要な企画展や特別企画展を、別なものと差し替えてしまった。
 これでは、指定管理者に財団法人北海道文学館を選んだ北海道教育委員会の責任が問われるだけでなく、指定管理者制度そのものの見直しを迫られかねない。当然その責任は高橋知事に及ぶだろう。
 北海道教育委員会としては何としてでもそれを避けねばならず、そのためには、とにかく言葉の上だけでも亀井志乃と「和解」した形にして、亀井志乃の口を封じなければならない。そこで北海道教育委員会が白羽の矢を立てたのが、あの北海道立市民活動促進センターの指定管理者問題を見事にさばいた豪腕弁護士・OMさんだった、というわけである。

 それにしても、OMという弁護士は、「答弁書」と言い、「和解案」と言い、法律の問題を避け続けているように見えるが、これは弁護士として如何なものであろうか。 

○老婆心、いや、老爺心までに
 なお最後に、このブログを読んで下さっている人に一言。
 もし法律的なことで争うことになった場合、今回の初めに紹介したような条件をつけた「和解案」を出されたら、まず警戒したほうがいい。そういう「和解案」は一見したところ、相手側が折れたような言い方をしているが、意外なところに落とし穴が仕掛けられている。
 くれぐれも「和解」なんて言葉には引っかからないように。もし相手がそう言ってきたら、まず相手が言う「和解」の法律的な定義を聞き、次に「調停」「裁定」「仲裁」「解決」「合意」などに置き換えてみて、法律概念として一番納得できる言葉を選ぶことにしましょう。

第Ⅱ部 まやかし「和解」工作、再び
 私は以上のことを、8月の23日にほぼ書き終えたのであるが、24日の午後2時頃、Tさんを通して、OM弁護士署名の「和解(調停)についての意見書」(平成19年8月23日付け。以下「意見書」と略記)が、ファックスで、亀井志乃に届いた。
 その全体については、機会を改めて検討することにして、とりあえず相手方(財団法人北海道文学館)の下心がミエミエな点を、2、3紹介しておこう。

○事態の本筋がつかめていない?
 OM弁護士はこの「意見書」の中で、先の「和解案」に対するTさんの(亀井志乃と相談した)返事について
「相手方(財団法人北海道文学館)としては申立人修正案では和解(調停)は無理です。」と言ってきた。
 財団法人北海道文学館はまだ事態の本筋が飲み込めていないらしい。
 もともと亀井志乃が和解を求めたわけではない。また、「和解」のための交渉を行なうことに同意してきたわけでもない。相手方(財団法人北海道文学館)のほうが勝手に「和解案」なんてものを送りつけてきたのである。それに対して申立人側は、そんな「和解案」は受け入れられませんと返事した。
 ところが、OM弁護士の「意見書」によれば、そういう返事では
「和解(調停)は無理です」と言う。どういうつもりなんだろう。

○ついに持ち出した「亀井秀雄のブログ」
 さらに、OM弁護士は「意見書」の中で、申立人が「和解案」の
「3.当事者双方は、本和解内容を第三者に口外してはならない。」という条件を断わったことについて、私のブログを問題にしてきた。
《引用》

(二) しかし、申立人が申立人の父に労働審判の内容を話したことを基にして、申立人の父がそのブログで相手方の言動につき言及し批判しております。
 
 どうやら財団側は、私のブログを、亀井志乃が労働審判の「内容」を「第三者」に口外した証拠としたいらしい。しかし財団側が、その証拠として亀井秀雄のブログを問題にしたいのなら、少なくとも次の3点を証明しなければならないだろう。

①亀井秀雄のブログの中で「申立人が申立人の父に労働審判の内容を話したこと」と判断できる箇所はどことどこか。それを明示すること。

②亀井志乃は、労働審判委員会から、クローズドの空間の中で行なわれる事柄の1、2の点については、――「全て」についてではない――第三者に口外しないで欲しいと要望され、亀井志乃は承諾している。私は亀井志乃の父親であって、第三者ではないが、もちろん亀井志乃が労働審判委員会から要望された事柄は承知して書いている。では、財団法人北海道文学館またはOM弁護士は、「申立人が申立人の父に労働審判の内容を話したこと」と判断できる箇所の中で、その記述が労働審判委員会と亀井志乃との約束から逸脱したと見なす箇所はどことどこか。それを明示すること。

③現在労働審判の場で争われている問題に関して、亀井秀雄のブログを問題にする理由は何か。言葉を換えれば、亀井秀雄のブログを問題にしてもよいと考えた根拠は何か。
 
○巧妙な仕掛け
 OM弁護士はまた、こんなことも言ってきた。
《引用》

(三) 相手方(財団法人北海道文学館)は、申立人の父の行為を直接和解条項に盛り込むことを求めているものではありません。今般の和解により申立人と相手方間の問題が解決した以上前述した事情もあるので、今後は相互に相手を誹謗中傷する様な行為をしないと確約することを求めているものです。この様な条項は通常の和解においても精神条項として加えられている条項であり、これにより申立人に特段の不利益を与えるものではありません。

 何となく恩着せがましい言い方だが、本当に「相手方(財団法人北海道文学館)は、申立人の父の行為を直接和解条項に盛り込むことを求めているものではありません。」と思うなら、そもそも私のブログのことなど持ち出すべきではない。それがルールというものだろう。
 もともと問題の性質からして、私のブログが和解条項に盛り込まれるなんてことはあり得るはずがない。またそんなことはすべきでもない。その程度のことは、初めから自明なことではないか。
 
 ところがOM弁護士の「意見書」は、未練たらしく、まだ
「今般の和解により申立人と相手方間の問題が解決した以上前述した事情もあるので、今後は相互に相手を誹謗中傷する様な行為をしないと確約することを求めているものです。」などと言っている。
 
「今般の和解により申立人と相手方間の問題が解決した」 亀井志乃は「和解」のための交渉を行なうことに同意してきたわけでもないし、まだ問題は解決していない。一般的に言って、こういう時は過去形を使うべきではない。
 「前述した事情もあるので……」この「前述した事情」とは、先ほどの「(二) しかし、申立人が申立人の父に労働審判の内容を話したことを基にして、申立人の父がそのブログで相手方の言動につき言及し批判しております。」を指すのだろう。ということはつまり、結局OM弁護士または財団法人北海道文学館は、私のブログを、自分のほうから勝手に持ちかけた「和解」の取引条件に使っているということになるだろう。

 それだけではない。先ほどの文章を、その理屈に従って、「申立人が申立人の父に労働審判の内容を話したことを基にして、申立人の父がそのブログで相手方の言動につき言及し批判している事情もあるので、今後は相互に相手を誹謗中傷する様な行為をしないと確約することを求めているものです。」と整理してみよう。分るように、OM弁護士の「意見書」は、私のブログを財団法人北海道文学館に対する「誹謗中傷」に仕立てる、巧妙な組み立てになっている。つまりそういう仕掛けによって、私を誹謗中傷しているのである。
  
○「精神条項」という吊り
 
「今後は相互に相手を誹謗中傷する様な行為をしないと確約する」云々が、亀井志乃の口封じを意図した文言であることは、先に指摘しておいた。
 OM弁護士の「意見書」によれば、
この様な条項は通常の和解においても精神条項として加えられている条項」なのだそうである。続けてその文章は、これにより申立人に特段の不利益を与えるものではありません。」とことわっている。
 
 しかし私の判断によれば、これもまた一種の「言葉による吊り」であって、多くの人はこれまで「精神条項」などという言葉を聞いたことがないだろう。小学館の『日本 国語大辞典』にも、岩波書店の『広辞苑』にも出てこない。
 ただし、全く使わないわけではなく、たとえば新たに町内会を立ち上げた人たちが、「この町内に住む人には、原則として本町内会に入会してもらう」みたいな〈理念〉を、町内会規約に条文化したとしよう。これはあくまでも、その規約を作った人たちや、規約を承認して入会した人たちの〈「だったらいいな」の申し合わせ〉みたいなものであり、町内会に入会しない人には何の拘束力もない。また、入会していない/したがらない人に対して、何の強制力も持たない。じつは入会している人たちに対しても拘束力はなく、嫌になったら脱会してしまって一向に差支えない。
 少し法律家っぽい言い方をすれば、〈本来、規約で取り決めるには無理のある事項を、諸般の事情により敢えて規約の中に規定している場合があり、そのような強制力のない条文を「精神条項」と呼ぶ。それが規約の中に明記されているとしても、会員を拘束する力はない〉のである。
 
 なんだ、その程度のことなら、「和解書」なるものの中で「確約」しても、特に問題はないじゃないか、という人もいるかもしれない。
 だが、精神条項というのは上記のような曖昧な性質のものであり、そうであるならば、何もわざわざそんな「精神条項」を「確約」する必要はない。なぜなら、言葉は一人歩きしやすいからである。そういう危険が予想できる時は、「確約」などしないほうが賢明だろう。
 その危険を考えずに、「精神条項」なんてもっともらしい言葉に吊られて、ついうっかりと「確約」をしてしまえば、結局それは亀井志乃の口封じに利用され
「特段の不利益」を蒙りかねない。逆に財団法人北海道文学館は、その確約により「特段の利益」を手に入れることができるのである。
 
○踏み倒し工作
 OM弁護士は、「和解」の概念について、こんな説明をしていた。
《引用》

……、申立人が相手方の従業員であったことにかかわる全ての事項については解決済みであり、今後相手方及び相手方従業員との関係においても一切何らの権利主張をしないことを前提としております。このことは、前回の期日にも相手方は一部言及しております。

 いきなり「……」という省略記号が出てきたので、少し分りにくかったかもしれない。ただ、この箇所は、亀井志乃が、労働審判委員会から、第三者に口外しないで欲しいと要望された事柄と関係する。そのため省略させてもらった。
 引用の結び
「このことは、前回の期日にも相手方は一部言及しております。」という言葉も分りにくかったかもしれないが、じつは私にとっても、これは何のことを言っているのか、さっぱり見当がつかない。

 だが、それはそれとして、先に送られてきた「和解案」の、5.申立人と相手方は、申立人と相手方間には、本和解書に定める外他に何らの債権債務のないことを相互に確認する。」という条件に関連するらしいことは、一読して容易に見当がついたと思う。
 亀井志乃とTさんは、先の「和解案」における「本和解」の概念が曖昧な点を警戒して、「和解案」は受け入れがたい旨を返答したわけだが、財団法人北海道文学館はOM弁護士を通して、二人が警戒した本心を現わしてきたのである。
 
 しかし、近々下されるであろう労働審判委員会の裁定によって、
申立人が相手方の従業員であったことにかかわる全ての事項においては解決済み」となることは全くあり得ない。亀井志乃が労働審判で争っているのは、相手方(財団法人北海道文学)で働いていた時期に受けた嫌がらせや、不当な扱いや、不誠実な対応の、その一部分についてだからである。
 それ故、「
今後相手方及び相手方従業員との関係においても一切何らの権利主張をしない」などという「前提」も全く成り立たない。このことは「相手方従業員」の箇所に、パワー・ハラスメントをアピールされた職員の名前を置いてみれば直ちに明らかであろう。
 しかも、この
「相手方従業員」に該当するのはその職員だけでなく、彼の行為を黙認したり、庇ったりしてきた職員も該当する。神谷忠孝は理事長だから、従業員とは言えないが「相手方」の代表であり、亀井志乃が受けた嫌がらせや、不当な扱いや、不誠実な対応の全てに責任を負っている。

 以上の指摘で分るように、相手方(財団法人北海道文学館)は、自分のほうから言い出した「和解」の中に、パワー・ハラスメント問題その他を、一切合財含めておき、全て自分の側に都合の悪いことは帳消しにしてしまおうと謀ったのである。
 この借金は払うが、ついでにその他の借金証文も返してもらいたい。一部は払って、残りを踏み倒そうという、そんな虫のいい話であるが、相手方(財団法人北海道文学館)は本気でそんな取引が可能だと考えているらしい。驚くべき厚顔無恥と言うほかはない。
 
 亀井志乃は弁護士のTさんと相談し、OM弁護士に対して、「和解(調停)についての意見書」が如何にナンセンスであるかを指摘してやった。

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北海道文学館のたくらみ(19)

財団理事会の周章狼狽

○のへらほう
 8月17日(金)に、財団北海道文学館の臨時理事会が開かれることになり、その「議案書」が11日に届いた。
 議案は「労働審判(申立人;亀井志乃元当館嘱託員)の対応と平成19年度一般会計補正予算について」。ざっと目を通してみたが、曖昧なところが多い。労働審判の第一回審理(7月24日)の経過を紹介しているのだが、一体どんな場面で誰が言った言葉なのか、さっぱり要領を得ない、のっぺらぼうの記述だったからである。
 いや、むしろ「のへらほう」と発音するほうが適切なくらい、メリハリのない文章だった。

○労働審判における審理の手順
 労働審判は円卓方式で行なわれるが、初めから終わりまで、関係者全員が同じ空間にいるわけではない。
 まず初めに、労働審判委員会の3名と、申立人(亀井志乃と代理人の弁護士)と相手方(財団北海道文学館の代表3名と代理人の弁護士)が同席して、委員会から申立人と相手方に、それぞれ質問がある。その後、相手側に退席してもらって(控え室で待ってもらい)、委員会の考え方を申立人に説明し、申立人の意見や希望を聞く。次に、申立人に退席してもらい、相手側を審判の部屋に招じ入れて、同じように委員会の考え方を説明し、相手側の意見や希望を聞く。
 さらにもう一度、申立人と相手方とを個別に招じ入れて話し合い……、さて、終わりに、全員同席した場で、委員会としての「解決案」を提示した。

 第一回の審理はそのように行なわれたらしいのだが、財団北海道文学館が整理した「審理の概要」はその区別がついていない。以上のやり方を知らない人が読めば、初めから終わりまで、全員同席の「審理」の場で、労働審判官(員)の「勧告」があり、相手方(財団側)が対応したかのように読めてしまうのである。

○財団法人北海道文学館に「非」はない?!
 特に私が不審に思ったのは、「審理の概要」の半ばに「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」という文言が出てくる。しかもこの言葉に前後して、二度も「労働審判官(員)から……強い勧告があった」、「労働審判委員会の強い勧告があった」と強調していることである。
 
 勧告の内容は、ここでは伏せておくが、とにかく次のようなことが一体あり得るだろうか。
 〈労働審判委員会は「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」とことわりつつ、相手方(財団法人北海道文学館)に「強い勧告」を行なった〉。あるいは、〈相手方(財団法人北海道文学館)は「何の非もない」にもかかわらず、労働審判委員会から「強い勧告」を受けた〉。
 これでは、まるで労働審判委員会が、何の「非」もない財団法人北海道文学館に無理を強いている印象ではないか。
 これは何だかおかしい、どうも腑に落ちない。私はそう思った。

○「「非」はない」は、財団側の作文
 私はそういう疑問をもって、8月17日の臨時理事会に出席し、まず事実確認の質問をした。もちろん私は同席の理事に対して、念のために先のような審理の手順を説明し、内容をきちんと理解する上では、誰がどの段階で言った言葉かを確認することが大事だと思う、とことわっておいた。
 
 そこで先ず私が訊いたのは、冒頭に「和解」云々という言葉が出てくるが、この「和解」は労働審判委員会の言葉なのかどうか、ということだった。というのは、別な箇所では「解決……」という言葉が出てくるが、私の考えでは「和解」と「解決」とは必ずしも同義ではないからである。
 それに対して、清原館長は「いや、審判の人の言葉というより、私どもの受け取り方です」みたいな説明をしていた。ところが、清原館長の斜め向いに坐っていた川崎業務課長から「審判の人も「和解」と言っていました」と言い、そこで清原館長は俄に自信をもって、労働審判委員会の言葉であることを確言した。

 次に私は、「強い勧告」の「強い」とは、どういう勧告の内容やニュアンスを指しているのかを訊いてみた。だが、内容やニュアンスについての説明はなく、勧告が〈再度〉あったので、それを〈強く〉と表現した、ということだった。

 さて、その後で私は、「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」という文言に関する疑問に入ったわけだが、清原館長の返事によれば、実はこの言葉は、審理の場で、審判官(員)から出たわけではない。財団の3人(清原館長、平原副館長、川崎業務課長)とOM弁護士が、控え室で相談した時に出た言葉だった。
 当然のことながら私は、「では、労働審判委員会が「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」と言った事実はない。そういうことですね」と確認した。

○根拠なしの作文
 それでは、財団側のOM弁護士が「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」と言ったのだろうか。当然そういう疑問は避け難いところだろう。
 
 前回の「北海道文学館のたくらみ(18)」で私は、財団北海道文学館が犯した法律上の「非」を5点以上も指摘しておいた。弁護士のOM氏がそういう法律上の問題点に気がつかなかったはずがない。
 また、もし仮にOM弁護士が、私の挙げたような「非」を全部くつがえすことができ、財団北海道文学館には全く「非」がないと主張できる自信があったならば、「強い勧告」をはね返すことができたはずである。

 私はそういう疑問をもって、先の文言に関するOM弁護士の関与を訊いてみた。清原館長は、初めはOM弁護士主導のもとに財団の意見を纏めたような言い方をしていた。ところが、次第に曖昧になり、〈労働審判委員会は財団に非があるとか、申立人の側に非があるとか、そういう種類のことは一切言わなかった。だからそれを、自分たちなりに、「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」と意味づけたのだ〉という説明に変わっていった。
 ということはつまり、労働審判委員会からの言及はなかったわけで、それならば、そもそも先のような文言は書く必要がなく、書かれるべきでもない。削除すべきだろう。

○姑息な詭弁
 あることに言及しないことは、必ずしもそのことを肯定したとか、否定したとか、何らかの判断を下したことを意味しない。
 それなのに、敢えて自分に都合のいい解釈を下す。それがどんな詭弁を弄することになりやすいか。たとえばA国が、B国の市民を拉致したとしよう。B国はA国と外交交渉によって解決しようとしたが、A国が交渉に応じようとしないため、B国は、しかるべき権限をもつ国連の委員会に解決を委ねたところ、委員会は、どちらに「非」があるとは言わなかったが、明らかにA国にペナルティを課す解決案を示した。ところがA国は、「わが国に何らかの「非」を認めた上でのペナルティではなかった」などと主張する。
 こんな三百代言が通用するはずがない。

○根拠のない作文を削除してみれば……
 そんなわけで、財団北海道文学館の館長たちの作文から、「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」という文言は削除されるべきであり、そうしてみるならば、話の筋道はたちまち明瞭となる。
 
 財団が自分たちには「非」がないと明言しているにもかかわらず、財団に対するペナルティとしか考えられない解決策が、「強い勧告」とともに提示された。それはなぜか。
 財団は自分たちに「非」はないと言いながら、その勧告を受け入れることにした。それはなぜか。
 先の一文を削除すれば、このような疑問や矛盾はきれいに解消するのである。

○またしても発言妨害
 ところが、私の質問が以上の問題にかかわり始めるや、工藤正廣が「亀井さん、あんたの言ってること、今日の議題と何のかかわりがあるの?」とくちばしを挟み、すると、もう一人の理事が待ってましたとばかり、「ここは理事会だよ、あんたばかりしゃべる所じゃない」と、私の発言を妨げた。「北海道文学館のたくらみ(12)」で紹介した、あの「体の大きい、何だかむくんだ感じに太った理事」である。私はその後この理事の名前を知ったが、ここではYM理事と呼んでおこう。
 
 要するに又しても私の口封じが始まったのである。
 この日出席した理事は12人。女性が1人いたから、「12人のイカレる男」というわけにはいかなかったが、もっぱらYMが長広舌を振るい、工藤ほか3、4人が相の手を入れ、他の4、5人は例によって、死んだように無表情で黙り込んでいた。

○亀井秀雄は労働審判の当事者?!
 今回はYM理事の言葉を中心に、どんなふうに発言妨害が行なわれ、どんなふうに自分たちの正体をさらけ出してしまったかを紹介したいと思う。
 まず私に一番印象的だったのは、YMが、〈あんたは申立人の父親で、当事者だろう。だから、娘さんの側にばかり立って物を言っている。その当事者が理事会に出てくること自体、そもそも問題なんだ。あんた、言いたいことがあったら、労働審判で言えばいいんだよ〉と言い始めたことである。
 
 私は亀井志乃の父親であるが、当事者ではない。あくまでも理事の一人として発言しているのであって、財団のどこに問題があって「強い勧告」を受け入れることになったのか。そのことの検討なしに、「勧告」を受けるかどうか、決めることはできないだろう。そういう手順を踏んで決定するのが、理事の責任ではないか。しかしYMは、私のそういう反論に耳を貸そうとせず、自分たちの墓穴を掘るようなことを得々と言い募っていた。

 このYMという理事は、〈あんた、くどくどと質問しているが議案書にちゃんと書いてあるだろ。文学をやったのなら、そのくらいのことは読んで理解できるはずだ〉なんて挑発的な言い方をしていたが、夫子自身、まるで議案書を理解できなかったらしい。それを見れば、誰と誰が当事者なのか、一目瞭然だったはずである。
 
 労働審判手続きを申立てた当事者は亀井志乃であり、その相手方には理事長の神谷忠孝を指名した。彼が財団を代表する立場にある以上、これは当然の指名だろう。ところが神谷理事長は引っ込んでしまい、清原館長と平原副館長、川崎業務課長の3人が出てきた。
 神谷理事長が病気ならば仕方がない。だが、そうでないならば、他のことはさて措いても財団の代表としての責任を果さなければなるまい。しかし彼はそれをしなかった。これは責任意識と当事者能力の欠如を意味する。
 また、神谷理事長が健在であるにもかかわらず、清原館長以下の3人は彼を差し置いて出てきた。むしろ彼らの当事者資格こそ問われなければなるまい。
 
 しかしYMの頭はそういうふうには働かなかったらしい。審判に関する無知をさらけ出して、やみくもに私を申立人の側の当事者に仕立て上げ、私の発言を無効化してしまおうとしたのである。

 そう言えば、この日の神谷忠孝は、副理事長ともう一人の理事にぴったりと寄り添ってもらい、よく聞き取れない小声で何かぼそぼそ言っていた。
 副館長の平原一良は、今日はどういうわけか、顔も上げずに、じっと固まっている。

○YMのハラスメント発言
 さらにもう一つ、私は、YMのハラスメント問題に関する発言に強い印象を覚えた。
 YMによれば、最近セクシャル・ハラスメントに関する裁判が増えているが、〈実は、ハラスメントの被害を訴えた女のほうが嘘をついているケースがたくさんある〉という。
 これは彼の得意な演題なのだろう、くどくど延々と論じ立てていたが、その言うところによれば、そういう女はちょっとやそっとの和解案では満足せず、おかげで裁判は長引き、「言いがかりをつけられた」会社としては、――YMはそういう言葉を使った!――また新しく証拠を揃えなければならず、時間とお金がかかり、大変な迷惑を蒙っているのだそうである。
 
 実はこういう俗論を得々と喋り散らすこと自体がすでにセクシャル・ハラスメントであり、また、この種の俗論を放任しておくと、それがセカンド・ハラスメントの温床となって、事態を一層こじらせてしまう。
 もし裁判が長引くとしたら、それはYMのような〈文学者〉の卑しい俗論が、常識論や正論みたいにまかり通っているからにほかならない。
 
 もちろん私は、YMがああいう卑俗な喩えで何を言いたいのか、すぐに見当がついた。
 彼は理事の工藤正廣や、副館長の平原一良とはごく親密な間柄らしいが、セクシャル・ハラスメントを例に出すあたり、語るに落ちた下心と言うべきだろう。亀井志乃はこの労働審判を、雇止め(あるいは解雇)の問題に限定して申し立てたわけだが、彼らの頭を占めているのは結局、寺嶋弘道のパワー・ハラスメント問題だったのである。よほど後ろめたいところがあるらしい。
 
 そんなことを考えつつ、私は次のように言った。〈あなた、かなり「危ない」喩えを言っていたが、もし亀井志乃が嘘をついていると言いたいのなら、事務局には亀井志乃の「申立書」も、財団側の「答弁書」も揃っているはずだ。それを朗読してもらえば、どちらが嘘をつき、どちらに「非」があるか、直ぐに分るはずだ〉。
 すると、すかさず川崎業務課長が、「申立書」の内容は先ほど紹介しましたと発言した。「議案書」に紹介された、たった1行の「申立の趣旨」と、A4版7ページの「申立書」とを、故意にすり替えたのである。

○YM理事のすり替え
 こんなふうに私は発言を中断させられ、はぐらかされてしまったわけだが、むしろそのおかげでよく分かったことがある。それは、この労働審判が不調に終わり、本裁判へ移ることを、彼らが極端に恐れていることである。

 YMはまた、延々くどくどと次のようなことを言っていた。〈本裁判で長い時間をかけ、それで判決が出ても、双方が満足するとは限らない。そんな結果のために時間をかけ、金をかけるくらいならば、今の労働審判委員会の「和解」案で解決すればいい。委員会は財団に「非」があるとは言ってないし、申立人に「非」があるとも言っていない。どちらが悪いというわけではなく、ただ、双方に言い分があるならば、その言い分が全部通らない、お互いに不満は残るだろうけれど、このへんで「和解」したらどうかと勧めているのだから、申立人もそれで納得すべきだ〉云々。

 なるほどなあ、この人は見識ぶった演説を長々と述べ立てているけれど、実際は自分が意を迎えたい組織や人間にウケてもらうため、その組織や人間が喜びそうな言葉を使って、我田引水の、いや、財団や仲間の田圃に水を引くような理屈を作り出す。それがこの人の〈文学〉なのだろう。
 それにしても、「委員会は財団に「非」があるとは言ってないし、申立人に「非」があるとも言っていない」とは、清原館長の言葉をうまく流用したな。

○理事たちの焦り
 私は半ば感心しながら、次のようなことを言った。
〈あなたがイメージしている「和解」は、実は労働審判以前の段階のものじゃないか。たとえば労働局が世話する「あっせん」の場で、双方があっせん員の仲介によって話し合い、合意に達したとすれば、それは「和解」と呼ぶこともできる。
 いま、この問題にかぎり、亀井志乃の立場に立って言わせてもらうことにするが、亀井志乃は3月半ばまで「和解」の可能性を探って、3月15日に労働局から財団に口頭助言をしてもらった。ところが、当時の毛利館長は、労働局の「あっせん」による解決という助言を断わってしまった。それだけでなく、次の日の3月16日には、亀井志乃を呼んで、あなたには3月一杯で辞めてもらうと通告し、他の職員の前で公表した。その意味で、亀井志乃は「和解」の可能性を財団から断たれてしまったわけで、そのため労働審判という法的強制力を持つ解決を選ぶことになった。
 審判はあくまでも裁判所で弁護士を立てて主張し合う裁判の一種であり、何らかの解決案が示されると思うが、それは法的な判断によるものであって、「お話し合いによる結論」とは性質が違う。
 それに、たとえ審判が不調に終って本裁判へ移行したとしても、労働審判に提出した証拠物はそのまま使うことができる。証拠調べにそれほど時間がかかるわけでない)云々。

 それに対しては、川崎業務課長が「毛利前館長の亀井志乃さんに対する対応には不適切な点もあったかもしれないが、財団としては財団の規程に即してきちんとやっており、法律的な問題はなかった」と言い始めた。
 私が「その財団の規程そのものに法律上の問題があるのじゃないか」と言いかけると、今度は私の右横から、「前のことを掘り返したって、何の意味もない。財団は法律に違反するようなことはやっていない。弁護士もそう言ってるじゃないか。あんたから法律の話など聞いてもしかたがない」などと、総会屋の野次みたいな台詞が割り込んできた。どうやらそれは工藤の横に坐っている理事の言葉らしい。
 
 他方、清原館長は、現在、自分が辞令書を交付する時、どんなふうにきちんとやっているか、身振り手振りを交えて説明し始めた。清原現館長がどんなにきちんとやろうが、それで毛利前館長の杜撰なやり方が帳消しになるはずはない。だが、YM理事はわが意を得たとばかりに、清原館長の仕方噺に、激しくうなずいてみせている。これが2チャンネルならば、「禿同」と書くところだろう。

○言葉の粉飾決算
 議論はこんなふうに錯綜しながら進み、現象的には私は孤立無援、孤軍奮闘の状態だったが、私には余裕があり、特に後半は笑顔が絶えなかったのではないかと思う。
 そうか、彼らが一番恐れているのは本裁判にまでもつれることなんだろう。そこで、とにかく今日は、何としてでも原案通りに決定してしまおうと、やっきになっているわけだ。そんなふうに、彼らのホンネが読めてきたからである。

 「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」という文言は、多分OM弁護士の入れ知恵だったと思う。理事会向けの仕掛けとしては、確かに狙い通りうまく機能したと言えなくもない。あのYMと言い、この理事と言い、〈この文言こそ我らが生命線〉とばかりに、防衛にこれ努めているからである。
 だが、私が前回の「北海道文学館のたくらみ(18)」で整理したような法律問題に照らしてみるならば、こんな文言はいっぺんに吹っ飛んでしまう。
 それだけではない。もしこの一線を突破されるならば、財団は私からもっと色んな譲歩を強いられるのではないか。おそらく彼らはそんな妄想的危機感に駆られていたのであろう。その端的な現われが、あのYMの〈あんたは当事者なんだから、そもそも理事会に出てくるのがおかしい〉という言いがかりだったわけである。
 
 北海道文学館の幹部職員は、文字通り嘘で固めた粉飾決算書を理事会に諮ったことがある(「北海道文学館のたくらみ(15)」参照)。
 私はそれを指摘したが、他の理事たちは唯々諾々と承認してしまった。その理事たちが、今度は自ら進んで「言葉の粉飾決算」、「言葉の二重帳簿化」に協力し、恬として恥じる様子もない。
 
○本裁判への懸念
 だが、たとえこの場で私の口封じに成功したとしても、もし本裁判にまで行くならば、「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」なんて文言は、まるで意味を失ってしまう。
 
 労働審判は、給料の未払いや解雇の問題を早期に解決すべく特化された裁判であり、だからパワー・ハラスメントの問題とは切り離してある。仮に本裁判もその枠内で争うことになったとしても、財団が昨年行なった正職員の募集と採用の法律問題にまで溯ることは、これは間違いない。もしその部分に関する判決が、「法律違反により平成18年度に行なった職員募集は無効とする」なんてことになったら、それだけでも財団は収拾がつかない混乱に直面することになる。
 そうなったら大変だ、何としてもそれだけは避けたい。おそらくこの追い詰められた危機感が、逆に彼らを攻撃的な態度に駆り立てたのである。

○わが対応
 しかし折角の生命線ディフェンス網をコケにするようで申し訳ないが、私は財団が原案として提示した「対応案」に反対するつもりなどなかった。
 ただし、「対応案」は二つの項目から成るが、「対応案」の①で示された、労働審判委員会の具体的な解決案は、ここでは紹介を省略させてもらう。
 
 「対応案」にはもう一つ、「② 本件に関し、このほかに何らの債権債務がないことを相互に確認する。」という文言があった。
 この「本件」は、議案書のタイトルに言う「地位確認等労働審判事件」を指すのだろう。「このほかに何らの債権債務がないことを相互に確認する」は、清原館長の説明によれば、「これ以上は争わない」という意味だという。
 私は字義通りの意味に受け取って、何の異議も唱えなかった。もし第2回の審理の場で、財団側が「本件」の意味を拡大解釈したり、「これ以上争わない」に余計な付帯条件をつけたりすれば、亀井志乃は弁護士の意見を聞いた上で、自分の意思を表明することになるだろう。

○3点の提案
 以上のような次第で、私の見るところ、幹部職員や理事たちの関心は「対応案」の①にあり、早くこれを理事会で決定してしまいたいと焦っていた。その「対応案」を決定し、労働審判委員会の「強い勧告」に従うならば、本裁判にまで行かなくても済みそうだ。多分そう見込んでいたからである。
 
 ただしそれを決定すれば、これにて一件落着、理事会の責任は終ったということにはならないだろう。理事会として責任を負うべきことがほかにある。
 私が出席した理由はそれを指摘することにあり、妨害発言を撥ねのけながら、次の3点を要求した。
(イ) 「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」という文言を削除する。
(ロ) このような事態に至った原因を調べ、誰に責任があるかを明らかにする。
(ハ) ここで承認された「平成19年度 一般会計補正予算書」は、新たな支出項目を明記した形で、館報に載せる。

 私の考えによれば、この(ロ)と(ハ)は必ず理事会がやらなければならず、そして(ロ)を遂行するためには、(イ)が必須の条件となる。
 (ハ)の補正予算は、少なからぬ弁護士費などを支出するための措置であり、この1点に関してだけでも、(ロ)の責任解明を怠ってはならないだろう。

○大政翼賛会的な終幕
 私がこの3点を挙げたところ、工藤正廣がわざとウンザリした口調で、「それじゃ、また後戻りじゃないの」と言い、「亀井さん、あんた自己中心的なんだよ。また、何か書くんだろうけど、おかげで文学館の士気は下がるわ、……(もぞもぞ口調のため、よく聞き取れない)……亀井さん、財団を潰す気なんじゃないの」。

 責任意識もなければ、自浄努力もない。文学、文学とお題目さえ唱えていれば大抵のことは思いのままになる。そんなふうに思い上がって、うまく行かないことがあれば、全て他人の所為にしてしまう。
 そんな認知症的自己肥大の自称文学者どもが仕切っている文学館で、士気も実績も上がるはずがないだろう。

 「浅ましい世迷言みたいなことは言わないほうがいいよ」。私がそう言いかけると、彼の横に坐っていた理事――多分先ほど総会屋みたいなことを言っていたのと同一人物――が、さあ、俺がここの空気を読んで、皆さんの気持を代弁いたしましょう。そんな得意顔で、〈われわれは今日の議案書に賛成するかどうかで集まったわけだ。原因がどうの、責任がどうのといったことを議論するために集まったわけじゃない。だから、原案に賛成する、しない、その表決を取って終わりにしましょうや〉と、大政翼賛会時代の代議士だって口にしないような、無責任なことを臆面もなく言い出した。
 他の理事は呟くような小声で「賛成」。さすがに気が引けたのかもしれない。もそもそと机の会議資料を片づけはじめた。
 
 そこで工藤正廣はしてやったりとばかりに、「んで、亀井さんは反対というわけね」。私は笑って、「いいや、私は反対しに来たわけじゃない、多数決には従いますよ。でも、ここは財団と理事会の根幹にかかわることですからね、一人の理事から3点の意見があったことは議事録に留めておいて下さい」。そう言って、私はもう一度先ほどの3点を復唱した。

 私が補正予算の館報掲載に言及した時、「えッ?」と意表を衝かれた感じで、川崎業務課長と清原館長が顔を見合わせた。しかし、補正予算を組む時には理事会・評議員会に諮ると約束したのは、川崎業務課長自身である(「北海道文学館のたくらみ(15)」参照)。
 その補正予算案が理事会で承認された以上、これは当然館報で広く報告すべきであろう。

(追記)7月24日に開かれた第一回の労働審判は、先に書いたような手順で行なわれたが、ただ、労働審判委員会から申立人に解決案の提示があったのは、申立人側と審判委員会の2回目の話し合いの時だった。最後に全員が顔を揃えた時の話題は、次回の日程の調整だった。先の記述がやや正確さを欠いていたので、ここに訂正しておきたい。(8月23日午前8時30分)

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北海道文学館のたくらみ(18)

北海道文学館の脱コンプライアンス
 
○法律の問題
 亀井志乃は労働局や法務局に足を運び、解決方法を相談したりしながら、自分でも法律を調べ、そのうち二つの重要なことに気がついた。
 今回は少し長い記述になりそうだが、現在「有期労働契約」(雇用の期間を決めた契約)で働いている人たちにとっては役に立つ情報も多いと思う。無理強いをするようで、恐縮だが、最後までおつき合いを願いたい。

○年齢制限は「理由の明示」が必要
 高年齢者雇用安定法という法律がある。これが平成16年6月5日に改正され、平成16年12月1日から施行されたわけだが、亀井志乃はそれを見ているうちに、財団法人北海道文学館に違法行為があることに気がついた。その法律の第18条の2第1項が、次のことを命じているからである。
《引用》
 
事業主は、労働者の募集及び採用をする場合において、やむをえない理由により一定の年齢(65歳以下のものに限る。)を下回ることを条件とするときは、求職者に対し、厚生労働省令で定める方法により、当該理由を示さなければならない。
 
 つまり事業主が求人に際して年齢制限を設ける場合は、求職者に対してその理由を明示しなければならない。法律はそう命じているのであるが、昨年(平成18年)12月、財団法人北海道文学館は職員の募集で、「1971(昭和46)年4月1日以降に生れた者」という年齢制限を設け、しかし理由を明示していなかった。

○年齢指針
 それならば、年齢制限の理由さえ明示すれば、その理由の内容は特に問われないのか。つまり、年齢を制限する理由は、事業主の考え方に任されているのか。次にそういう疑問が起ってくるわけだが、「内容は問わない」というわけにはいかないのである。
 
 平成13年4月、雇用対策法が改正されて、募集や採用における年齢制限緩和の努力義務(第7条)が規定され、それに伴って、厚生労働大臣がその努力義務の「指針」を定めることになった。
 この指針を「年齢指針」と呼ぶが、厚生労働大臣は10の項目を挙げ、そのいずれかに該当する場合にのみ「年齢制限をすることが認められる」と定めたのである。(平成13年10月1日から実施)
 ただし、煩雑になるのを避けるため、その10項目全てを紹介することはしない。というのは、今年になって、その10項目が6項目に削減されることになったからである。そんなわけで、10項目のうち亀井志乃の問題に関連しそうな2項目だけを引用するが、それは次のようなものであった。
《引用》

1  長期勤続によるキャリア形成を図る観点から、新規学卒者等である特定の年齢層の労働者を対象として募集及び採用を行う場合
2  企業の事業活動の継承や技能、ノウハウ等の継承の観点から、労働者数が最も少ない年齢層の労働者を補充する必要がある状態等当該企業における労働者の年齢構成を維持・回復させるために特に必要があると認められる状態において、特定の年齢層の労働者を対象として募集及び採用を行う場合

 10項目時代の雇用対策法は、このような場合は年齢制限を設けてもよい、としていたわけだが、1は「新規学卒者である特定の年齢層」を採用する場合であって、財団法人北海道文学館が昨年行った公募には該当しない。財団が設けた「1971(昭和46)年4月1日以降に生れた者」(35歳以下)という年齢制限は「新規学卒者である特定の年齢層」を対象としたものではなかったからである。
 
 それでは、2の場合はどうであろうか。一つ注意しておけば、この時点で、平成19年度の財団職員のうち学芸関係の職員として考えられ得るのは、亀井志乃だけだったことである。
 それ故、亀井志乃との契約を更新し、更にその上で、「1971(昭和46)年4月1日以降に生れた者」を新規に採用する。そうであるならば
、「事業活動の継承や技能、ノウハウ等の継承の観点から、労働者数が最も少ない年齢層の労働者を補充する必要がある」と言えるだろう。だが、亀井志乃を解雇して、その代わりに「1971(昭和46)年4月1日以降に生れた者」を採用すれば、又しても年齢構成が偏ってしまう。それだけでなく、「事業活動の継承や技能、ノウハウ等の継承」が出来なくなってしまう。
 
 分かるように、財団法人北海道文学館は年齢指針に適合しないことを敢えて行い、おまけに「年齢制限を設けた理由の明示」という法律には従わなかったのである。(財団法人北海道文学館は、定年で退職する司書の後任を募集・採用する場合も、「理由」の明示なしに年齢制限も設けていた。)

○年齢制限撤廃の動き
 この雇用対策法はつい最近、つまり今年(平成19年)の6月1日、その改正案が参議院の本会議を通過した。改正の趣旨は求人の年齢制限を原則的に禁止し、禁止を義務化することにあり、10月1日から施行される。
 このような改正案が国会を通った背景には、人種差別や性差別の撤廃に次いで、年齢差別の撤廃を目指す世界的動向があると言えるだろう。時代は年齢差別撤廃の方向に動いているのである。
 
 ただし全面的に禁止するわけではない。やはり「やむを得ない理由」を認めているのだが、それは改正前の10項目から、次の6項目に削減された。これは今後、多くの人に重要な意味を持つことになりそうなので、念のために6項目を全て挙げておこう。
《引用》
 
(1) 年齢制限の上限が定年と同じ場合
 (2) 警備業務など、労働基準法が特定の年齢層の雇用を禁じている場合
 (3) 経験不問で、新卒者と同じ待遇で正社員として採用する場合
 (4) 高齢者の雇用を進めるため、60歳以上を採用する場合
 (5) 社内のいびつな年齢構成を是正する目的で採用する場合
 (6) 子役など、芸能・芸術分野で採用する場合

 もう一度言えば、事業主はこの6項目以外の理由で年齢制限を設けることはできない。また、この6項目に適合する理由で年齢制限を行う場合は、その理由を明示しなければならないのである。
 
○「不特定多数による相殺」という詭弁
 詭弁論理学という学問によれば、「不特定多数の事例による相殺法」という詭弁がある。例えば万引きを見つかった人間が、「だって、けっこう他の人間もやってるじゃないか」と逆ねじを食らわせて、自分の罪を帳消しにしようとする。そういう詭弁のことである。
 そんなわけで、もし「年齢制限は、けっこう他の会社もやってるじゃないか」などと不特定多数のケースを持ち出して、自分のやったことを正当化しようとすれば、もうそれだけでその事業主は自分が法律を破ったことを自白したようなものだ。そう判断して一向に差支えないだろう。

○事業主が契約時に明示すべきもの
 もう一つ亀井志乃が気づいたことは、〈平成15年10月23日付けの厚生労働大臣告示、「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」が出されて以来、雇止め解雇とが明確に区別されるようになったのではないか〉ということである。

 「雇止め」という言葉はまだ聞きなれない人も多いと思うが、この言葉は「有期雇用契約について、期間満了で更新しないとした場合」(大阪労務管理事務所 肥塚道明)を指す。
 ただし、ここが極めて大事なところであるが、現在の法によれば、〈契約の期間が満了するからといって、使用者はただそれだけの理由で、労働者に対して、契約の更新を停止(または拒否)することはできない〉のである。
 その点を定めたのが「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」であるが、その条文は大変に抽象的であるため、条文自体の紹介は「文学館のたくらみ・資料編(資料11)」に譲り、ここでは労働局の解説のほうを引用したい。(この「基準」の関するかぎり、以下も同じ)。
《引用》
 
雇止めに関する基準の内容
(ア) 本条(第1条)により明示しなければならないこととされる「更新の有無」及び「(契約を更新する場合、又はしない場合の)判断の基準」の内容は、有期労働契約を締結する労働者が、契約期間満了後の自らの雇用継続の可能性について一定程度予見することが可能となるものであることを要するものであること。
    例えば、「更新の有無」については、
   a 自動的に更新する
     b 更新する場合があり得る

    
c 契約の更新はしない
   等を明示することが考えられるものであること。
    また、「判断の基準」については、
   a 契約期間満了時の業務量により判断する
     b 労働者の勤務成績、態度により判断する
     c 労働者の能力により判断する
   d 会社の経営状況により判断する
     e 従事している業務の進捗状況により判断する
   等を明示することが考えられるものであること。
(イ) なお、これらの事項については、トラブルを未然に
防止する観点から、使用者から労働者に対して書面を交付することにより明示されることが望ましいものであること太字は亀井、以下同じ)
  
 少し文意を辿りにくいところもあるが、要するに〈使用者が労働者と契約を結ぶ場合は、契約期間の満了後さらに契約を結び直すつもりがあるか否かについて、あらかじめ労働者に対して「更新の有無」を明示しなければならない。そしてまた、契約を結び直さないことがあるとすれば、どういう基準に基づいてそうするのか、「判断の基準」を明示しておかなければならない。それは文書の形で明示されることが望ましい〉ということなのである。
 
 ところが、亀井志乃が平成16年に辞令書を受け取った時、また平成17年度と18年度の辞令書を受け取った時も、文学館側から「更新の有無」や「判断の基準」が明示されることはなかった。

○「契約期間の満了とは別の理由」が必要
 ただし、亀井志乃はもちろん辞令書を貰い、その辞令書には何月何日から何月何日までと、雇用期間が書いてある。だが先ほども言ったように、雇用期間の満了をもって契約の更新を行わない理由とすることはできない。その点について、「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」は次のように念を押している。
《引用》
 
ウ 第三条関係
  「(契約を)更新しないこととする理由」及び「(契約を)更新しなかった理由」は、契約期間の満了とは別の理由を明示することを要するものであること。
   例えば
(ア) 前回の契約更新時に、本契約を更新しないことが合意されていたため
(イ) 契約締結当初から、更新回数の上限を設けており、本契約は当該上限に係るものであるため
(ウ) 担当していた業務が終了・中止したため

(エ) 事業縮小のため
(オ) 業務を遂行する能力が十分ではないと認められたため
(カ) 職務命令に対する違反行為を行ったこと、無断欠勤をしたこと等勤務不良のため
等を明示することが考えられるものであること。

 これが、先ほどの「更新の有無」及び「判断の基準」と対応することは言うまでもないだろう。つまり、使用者(事業主)は労働者と契約を結ぶに当たって、「更新の有無」や「判断の基準」を明示しておく。そして「更新をしない」という方針を立てる場合は、再度、労働者に対して合理的な理由を明示しなければならないのである。

○財団の方針の矛盾と違法性
 昨年(平成)の12月6日、毛利正彦館長(当時)は亀井志乃を館長室に呼んで、来年度からは嘱託職員を任用しないという財団の方針を告げた(「文学館のたくらみ・資料編」資料3)。
 その時毛利正彦館長(当時)が挙げた理由は、
①財団の事情として、来年度以降は、嘱託員を任用することが難しくなった。
②嘱託職員の任用を継続しないかわりに、正職員を採用したい。正職員は財団が公募する。
の2点だった。
 だが、①の「財団の事情」が財政難を指すならば、――毛利館長(当時)はそういう意味の説明をした――それは②と矛盾する。なぜなら、正職員を採用した場合、その給料は明らかに亀井志乃の給料を上回るからである。
 その意味で、毛利館長(当時)の挙げた理由は何の合理性を持たず、これでは、「契約期間の満了とは別の理由」とはなり得ない。

 また、正職員採用の方針については、毛利館長(当時)は「財団では、これからの人材を育てたい。……せいぜい30才くらいまで。」と説明した。しかしこの年齢制限は、既に指摘しておいたように、雇用対策法の年齢指針に適合するものではなかった。

○「当該労働者の同意」の必要
 それでは、契約を結ぶ時点では予測できなかった事情が生じた場合はどうなのであろうか。「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」における次の指示は、多分その点を考慮したものであろう。
《引用》

(ウ) 本条(第1条)第三項については、使用者が労働契約締結時に行った「更新の有無」及び「判断の基準」に係る意思表示の内容を変更する場合に、当該労働契約を締結した労働者に対して、速やかにその変更した意思表示の内容を明示しなければならないものであること。この場合、「更新の有無」及び「判断の基準」が当該労働契約の一部となっている場合には、その変更には当該労働者の同意を要するものであること。

 これは初めに引用した条文説明の、「トラブルを未然に防止する観点から、使用者から労働者に対して書面を交付することにより明示されることが望ましいものであること。」に続く文章である。だから厳密に言えば、この説明文は、契約の時点で「更新の有無」や「判断の基準」を明示していることが前提となっている。その前提に基づいて「変更する場合」が論じられているのである。
 
 だが繰り返し言えば、財団法人北海道文学館は亀井志乃との契約時に、「更新の有無」や「判断の基準」を明示して来なかった。しかしだからと言って、〈前提がないのだから、年度途中で変更した意思表示の内容を明示する必要もなく、当該労働者の同意を得る必要もない〉とは主張できないだろう。
 そもそも前提を用意できなかったこと自体が、財団法人北海道文学館の手落ちなのである。そうである以上、財団法人北海道文学館が新に生れた意思を決定するには、亀井志乃の同意を必要としたはずである。
 上の解説文もまた、変更した意思表示の内容を当該労働者の明示し、当該労働者の同意を得るように指示している。当該労働者の同意が必要条件とされているのである。
 
 ところが毛利館長(当時)はそういう手順を踏むことなく、既に決定されたこととして、財団の方針を亀井志乃に圧しつけようとするだけであった。
 それに対して亀井志乃は、方針決定のプロセスを問い、方針を白紙に戻して、「改めて当事者の意向と実績評価に基づく人事構想を策定することを要求」した(「文学館のたくらみ・資料編」資料3及び資料5)。
 これは法的に見て、極めて正当な要求と言える。

○「取扱要領」は契約書ではない
 ところが、毛利正彦館長(当時)は平成18年12月27日、亀井志乃の要求と質問に対する回答の拒否を通告し、それと共に、辞令書のコピーと、「財団法人北海道文学館嘱託員任用にかかる取扱要領」と、「財団法人北海道文学館寄附行為(抜粋)」を渡した(「北海道文学館のたくらみ(6)」)。
 この時期に至って、なぜこれらの文書を渡すのかについては何の説明もなく、ただ「亀井さん、もっと勉強しなさい」と言うのみだった(「文学館のたくらみ・資料編」資料7)。

 ただ、その意図はどうあれ、これらは財団法人北海道文学館が亀井志乃に対して行ってきたことを合理化する材料とはなり得ない。既に指摘しておいたように、辞令書に雇用期間が記されていることは「契約期間の満了とは別の理由を明示すること」にならないからである。
 また、「財団法人北海道文学館寄附行為」について言えば、僅かに第16条までを抜粋したものにすぎず、理事とその組織を説明しているだけで、人事に関する決定と理事会及び理事長の関係については、何一つ言及していない。

 「財団法人北海道文学館嘱託員任用にかかる取扱要領」はそのタイトルが示すように、財団が嘱託員を採用する場合のマニュアルであって、嘱託員に対して何らかの拘束力を持つわけではない。財団がこのマニュアルに従って嘱託員と契約を結んだとき、はじめてその契約内容が嘱託員に対して拘束力を持つわけだが、財団は亀井志乃と契約書を交換した事実はなかった。
 また仮に契約書を作成したとしても、その「取扱要領」には「更新の有無」や「判断の基準」に関する規定がなく、そのため契約書も「更新の有無」や「判断の基準」を欠くことになれば、それはマニュアルとしても極めて不備なものでしかない。
 
○財団の「解雇」概念
 以上のように、財団法人北海道文学館は、厚生労働省が定める「雇止め」の基準に何一つ従うことなく、つまり「雇止め」の基準によって保護されている亀井志乃の権利を侵して、一方的に契約の更新を停止してしまった。
 
 その意味で、財団北海道文学館の亀井志乃に対する更新停止は、極めて違法性の高い行為と言うべきだが、なぜそのように強引な行為に出たのか。財団は、「財団法人北海道文学館職員就業規程」によってその行為を正当化できる、と考えたらしい。
 この「規程」の第2章の第4節「解雇」に、次のような条文があるからである。
《引用》
  
(解雇)
第13条 財団は、職員が次の各号のいずれかに該当するときは、解雇することができる。
(1)勤務成績が良くないとき。
(2)心身の故障のため、職務の遂行に支障があり、又はこれに堪えられないとき。
(3)前2号に掲げる場合のほか、その職に必要な適格性を欠くとき。
(4)業務量の減少、その他業務上やむを得ない事由が生じたとき。
  (解雇の予告)

 
第14条 財団は、職員を解雇しようとするときには、少なくとも30日前に予告する。30日前に予告しないときは30日分の平均賃金を支払う。ただし、天災事変その他やむを得ない事由のため事業の継続が不可能となった場合又は職員の責めに帰すべき事由に基づいて解雇する場合において、その事由について所轄労働基準監督所長の認定を受けたときは、この限りでない。

 昨年(平成18年)の12月6日、館長(当時)の毛利正彦が亀井志乃に契約更新の停止を通告した時、彼の頭にあったのはこの「解雇」規程と、「解雇の予告」だったと思われる。
 
 ただ、この点は強調しておかなければならないが、財団法人北海道文学館はこれまで、「財団法人北海道文学館職員就業規程」を亀井志乃に提示したことがなかった。
 ところが今年の6月、財団は亀井志乃の「労働審判手続申立書」を受け取り、「答弁書」(平成19年7月11日付け)を札幌地方裁判所に提出し、それと一緒に「証拠物」(証拠とする文書)を提出したわけだが、その中に「財団法人北海道文学館職員就業規程」が入っていた。亀井志乃は今年の7月13日、「答弁書」の写しと、「証拠物」の写しを受け取り、そこで初めて「就業規程」の存在を知ったのである。

○解雇権の濫用
 財団がなぜこの時期まで、「財団法人北海道文学館職員就業規程」を亀井志乃に提示しなかったのか。あるいは、なぜこの期に及んで、その「規程」を出してきたのか。
 その点は不明だが、ただ一つ明らかなのは、この「就業規程」は極めて不備なものでしかないことである。財団は平成18年度から指定管理者となるに当たって、規程の見直しをやっているにもかかわらず、それ以前に告示された「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」を全く盛り込んでいない。
 「就業規程」の不備はそれだけではない。平成16年1月1日から改正労働基準法が施行され、その第18条第2に解雇権濫用法理が明記された。ところが財団の「就業規程」は、この大事な改正理念を全く反映していないのである。

 解雇権濫用法理とは、「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。」ということであって、昭和50年の最高裁の判例として確立され、それが改正労働基準法に明記されることになったのである。
 では、解雇に関する「客観的に合理的な理由」とは何か。昭和51年、東京高等裁判所の判決で次のような四つの条件が挙げられ、それが現在も生きている。なお、次の引用の( )内の文章は、都道府県の労働局等で一般に行われている解説である。
《引用》

① 人員削減の必要性(人員整理を行わなければ企業が倒産してしまう場合や、高度の経営上の困難により人員削減が要請される場合。ただし、人員整理を決めた後で、多数の採用や大幅な賃上げ等を行っている場合は、一般的に必要がないと判断される。)

② 人員削減の手段として整理解雇を選択することの必要性(解雇は最終的な手段であり、解雇を避けるための手段を十分に尽す必要がある。具体的には、使用者が配置転換、出向、一時帰休、希望退職者の募集等の措置を実施せずに行う解雇は無効とされる。)

③ 解雇対象の選定の妥当性(選定基準が客観的、合理的であること。勤続年数・勤務成績、再就職の可能性、家計への影響等を選定基準とすることがあるが、これらが客観的かつ合理的な基準に該当するかは具体的事情に応じて、個別に判断する。)

④ 解雇手続の妥当性(使用者は労働者又は労働組合に対して、整理解雇の必要性及びその内容〈実施時期、方法、退職者に対する代償等〉について誠意をもって説明し、十分な協議を行う必要がある。)

 これらの4要件は、一般に「整理解雇の4要件」と呼ばれ、この要件を満たすことが整理解雇の正当性を判断する基準とされている。従来はこの4要件を1つ欠いただけでも、解雇権の濫用と判断され、無効とされた。最近は4要件を総合的に勘案する傾向になっているという。
 この新しい考え方と較べて分るように、財団の「就業規程」における4つの「解雇」要件は、財団幹部たちによる一方的な馘首を許容する文言になっている。新しい法の理念を反映しない、このような「就業規程」を金科玉条のように奉って、何の反省もなく職員の生活権を奪う。それが、亀井志乃に対して財団がやってきたことであった。

○財団の自縄自縛
 以上で明らかなように、財団法人北海道文学館が亀井志乃を辞めさせようとした時、手持ちの規程に基づいてそれを行う他はなかったわけだが、手持ちの規程は「財団法人北海道文学館職員就業規程」しかなかった。
 見方を変えれば、財団には雇止めの概念がなく――最も基本的な「就業規則」さえ用意していなかった、――解雇の規定しか持たなかった。ということはつまり、財団はこの規程によって亀井志乃を解雇し、この規程によって解雇の合理性や正当性を主張する他はなかったことになる。
 なぜなら、もし財団が自己の規程に基づかない辞めさせ方をしたとすれば、それは財団自身が恣意な決定を無反省に行う、無統制な組織でしかないことを告白するのと同じだからである。
 だがその反対に、財団が自己の規定に従って亀井志乃を解雇したことを認めるならば、まず第1に、その適用の妥当性が問われることになる。次に第2として、その適用は改正労働基準法の解雇権濫用法理によって、無効とされてしまう。
 
 財団法人北海道文学館はそういう自縄自縛の状態に陥っているのである。
 
○「期待権」について
 今年(平成19年)の3月、館長室に呼ばれた亀井志乃が、「自分には契約の継続を期待する〈期待権〉というものがある」という意味のことを言ったところ、毛利正彦館長(当時)は、「期待するのはあなたの自由だが、それは、この場合、正当な権利ではない」と答えた。亀井志乃が「権利は正当でしょう」と聞き返すと、「ああ、そうか。権利は正当ですよね」と言い直した(「北海道文学館のたくらみ(16)」)。
 このことも、財団が「雇止め」に関する認識を欠いていたことの証拠となるだろう。
 
 「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」の補足的な説明によれば、これまでの裁判で、雇止めが認められなかった例が少なくなかった。期待権(正確には「更新期待権」)という考え方は、雇止めを認めない理由を説明する過程で出てきた考え方である。
《引用》
(3)その他

ア 有期労働契約の雇止めに関する裁判例を見ると、契約の形式が有期労働契約であっても、
・反復更新の実態や契約締結時の経緯等により、実質的には期間の定めのない契約と異ならないものと認められた事案
・実質的に期間の定めのない契約とは認められないものの契約更新についての労働者の期待が合理的なものと認められた事案

・格別の意思表示や特段の支障がない限り当然更新されることを前提として契約が締結されていると認められ、実質上雇用継続の特約が存在すると言い得る事案
  があり、使用者は、こうした事案では解雇に関する法理の類推適用等により雇止めが認められなかった事案も少なくないことに留意しつつ、法令及び雇止めに関する基準に定められた各事項を遵守すべきものであること。

 これがいわゆる期待権にかかわる表現であって、要約すれば次のようなことになるだろう。つまり、〈当初の契約や、その後の複数年にわたる契約更新において「更新の有無」や「判断の基準」を明示されることもなく、「もう一年働いてもらいたい」と形式的な意思確認の手続きで、更新が繰り返されてきた。しかも主な契約内容である業務はまだ終っていない。そのような場合、労働者の中に、この契約更新はなおしばらく繰り返されるだろう期待が生れる。その期待が合理的なものであるならば、これを権利と認める〉。  

 特に重要なのは、「解雇に関する法理の類推適用等により雇止めが認められなかった事案も少なくない」という箇所だろう。ある労働者の更新期待に十分合理性が認められるにもかかわらず、使用者が雇止めにしてしまった場合には、解雇に関する労働基準法の第18条第2の解雇権濫用法理が「類推適用」されて、その雇止めは無効とされてしまうのである。
 
 ちなみに、その面談の際、亀井志乃が「解雇の理由についての証明書があるのか」と訊いたところ、毛利館長(当時)は「口頭で伝えればいいことだ」と言い、「解雇の理由についての証明書」を出す意志がないことを表明した(「北海道文学館のたくらみ(16)」)。
 毛利館長(当時)のこの返答も、次のような労働基準法第22条の定めを、頭から無視するものであった。
《引用》

第22条 労働者が、退職の場合において、使用期間、業務の種類、その事業における地位、賃金又は退職の事由(退職の事由が解雇の場合にあっては、その理由を含む。)について証明書を請求した場合においては、使用者は、遅滞なくこれを交付しなければならない。

2 労働者が、第20条第1項の解雇の予告がなされた日から退職の日までの間において、当該解雇の理由について証明書を請求した場合においては、使用者は、遅滞なくこれを交付しなければならない。以下略)
 
 毛利館長(当時)としては、亀井志乃に自己都合による退職願を出させ、財団の自己正当化の材料にしたかったのであろう。

○亀井志乃の期待権
 亀井志乃はおよそ次の事実に基づいて、自分の更新期待には合理性があり、労働省の分類による「期待保護(継続特約)タイプ」及び「実質無期契約タイプ」に該当すると考えている。

① 亀井志乃は平成16年、財団法人北海道文学館から、常設展のリニューアルを手伝って欲しいと依頼された。亀井志乃は北大文学部大学院の博士課程を修了して、文学博士の学位を取得し――専門は日本近代文学――、北大文学部の助手となったが、助手定員削減のため退官し、以後は北海道教育大学釧路校の非常勤講師を務めていた。平成13年にはボランティアで、道立文学館の資料整理と目録作成を行っている。その専門的知識とキャリアを、財団法人北海道文学館が必要としたのである。
 常設展は平成16年11月に「第1期工事」は終ったが、まだ「第2期工事」以降の仕事が残っている。しかも亀井志乃は平成17年度、18年度と契約を更新するに連れて、より多く文学館の基幹的業務を担当するようになった。

② 財団法人北海道文学館は平成17年、指定管理者の応募に当たり、平成18年度から平成21年度までの、4年間の事業計画を確定した。その事業計画には、亀井志乃の企画した企画展・特別企画展が3点含まれている。 
 財団が運営する北海道立文学館の展覧会は、原則として、その企画者が主担当となって実施しており、亀井志乃が企画した「人生を奏でる二組のデュオ」は平成18年度に、亀井志乃が主担当となって実施した。その他に、亀井志乃が企画した特別企画展「「作家以前」の作家たち」と、企画展「山と牧場と草花の詩 坂本直行」の2点が、平成20年度に予定されている。

③ 平成16年の契約、平成17年度と18年度の契約更新は、いずれの場合も事前に口頭で本人の意思を確認し、辞令書の交付の際、改めて館長が口頭で勤務を依頼するという形式によって、「反復更新」された。

④ 平原一良学芸副館長(当時)や、毛利正彦館長(当時)から、継続雇用を期待させる発言があった。

 ただし亀井志乃の「労働審判手続申立書」に、以上のことがそっくりそのまま記載されているわけではない。労働審判の「申立書」にはそれ独自の書式や文体があり、「申立書」全体の流れによって、より詳しく書いた箇所もあれば、簡略に書いた箇所もある。
 法律の関係については、審判官・審判員ともに専門的な知識の持ち主であり、今回のように詳述はしなかった。
 
 ただ、主張の骨子は変らない。①の前段に書いた契約の経緯に関して言えば、「財団は亀井秀雄から、亀井志乃を使って欲しいと強く頼まれ、やむを得ず雇ったのだ」という噂が、極めて意図的に流されている。しかし、契約に至る経緯を証明するために提出した証拠文書等によって、噂が事実無根にすぎないことが自ずから明らかとなり、より客観性の高い形で期待の合理性を主張することができた。

○だからこそ労働審判
 なお、最後に一つダメを押しておくならば、都道府県労働局の「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」の解説には、必ず次のことわりが書き込まれている。
《引用》

イ 雇止めに関する基準は、有期労働契約の契約期間の満了に伴う雇止めの法的効力に影響を及ぼすものではないこと。

 一見したところ、これは、「使用者が雇止めをやってしまえば、それは法的な効力を持ち、「雇止めに関する基準」では如何ともし難い」と読めなくもない。倉卒にそう読んで、労働審判や裁判を諦めてしまった人もいるかもしれない。
 だが、諦めるのはまだ早い。この一文は「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」の条文ではなくて、それに関する解説なのである。そしてその意味するところは、「「雇止めに関する基準」は、これに違反した行為を処罰する条文を持たない。その意味で法的な強制力を持っていない」ということなのである。

 数ヶ月前、村上ファンドの前代表・村上世彰氏が、しきりに、〈罰則がないのだから自分たちのやったことに違法性はないはずだ〉という意味の主張を繰り返していたが、結局裁判において有罪の判決を受けてしまった。これはニッポン放送株のインサイダー取引をめぐる問題であり、問題の性格は異なるが、罰則がないからと言って「基準」や「指針」を守らなくてもいいということにはならないのである。
 
 なぜ「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」が出来たか、といえば、それは労働基準法第14条が、厚生労働大臣に
「期間の定めのある労働契約の締結時及び当該労働契約の期間の満了時において労働者と使用者との間に紛争が生じることを未然に防止するため、使用者が講ずべき労働契約の期間満了に係る通知に関する事項その他必要な事項についての基準を定める」権限を与えたからにほかならない。
 その労働基準法の第18条には「解雇権濫用法理」が明記されている。そして、使用者が労働基準法第14条に基づく「「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」を無視し、労働者の権利を侵した場合は、多くの判例は、労働基準法の「解雇権濫用法理」を
「類推適用」しているのである。

 財団法人北海道文学館が亀井志乃との労働契約の更新を停止(あるいは拒否)した行為は、これを「解雇」と見る場合、それは労働基準法第18条の「解雇権濫用法理」により無効となる。
 また、同じ行為を「雇止め」と見る場合、財団法人北海道文学館は「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」を全く無視して、「雇止め」を強行した。この行為は「基準」に照らして何の合理性も認められない。「
解雇に関する法理の類推適用等により雇止めが認められない事案」であろう。
 しかもこの間、財団法人北海道文学館は高年齢者雇用安定法に違反し、雇用対策法に基づいて厚生労働大臣が定めた「年齢指針」に背き、毛利正彦館長(当時)は敢えて労働基準法第22条に違反する発言をしている。
 
 財団法人北海道文学館はこれだけ法律や、基準や指針に対する違反を重ねており、当然その一連の行為は裁判の対象となる。亀井志乃は労働審判の場でそれを問題にしようとし、札幌地方裁判所は亀井志乃の「申立書」を受理して、財団法人北海道文学館に「答弁書」を求め、双方の主張を聞いた上で審判を下すことにしたのである。
 
○補足を二つ
 私が引用した「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」の解説は、主に北海道労働局のものに拠っている。その中に、つい先ほど引用した
「イ 雇止めに関する基準は、」云々に続いて、以下のような興味深いQアンドAが載っていた。
《引用》

【罰則の適用】
問 法第14条には、使用者とも労働者とも規定していないから、罰則は双方共に適用されると解してよいか。
答 本法立法の趣旨に鑑み、本条の罰則は使用者に対してのみ適用がある。(昭22・12・15 基発502号、昭23・4・5 基発535号)

 これは労働基準法や、「基準」や「指針」に関する労働局職員の研究結果を、QアンドAにまとめたものと思われるが、分るように労働基準法には罰則があり、第14条にかかわる罰則は使用者のみに適用されるのである。「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」はこの第14条に基づいて作られたものだった。それは使用者が講ずべき労働契約の期間満了に係る通知に関する事項その他必要な事項についての基準」なのである。
 労働審判に消極的だった人にとって、これはかなり勇気づけられるQアンドAだろう。

 最近こんなことを聞いた。ある人が亀井志乃と似たような問題で裁判を起したところ、使用者側は、現在の従業員がその人について書いた人物評の「連名書」を持ち出した。人物評は裁判を起した人の悪口ばかりで、使用者側としては、その人を馘首したことを正当化する材料に使うつもりだったらしい。
 裁判を起した人は、「あの人たちはこんなふうに自分を見ていたのか」とショックを受けた、という。
 従業員の人物評は、使用者が書かせた「やらせ」だったのだろう。随分あくどいやり方だが、しかしこういうやり方は使用者に対する裁判官の心証を悪くするだけで、裁判を起した人に必ずしも不利になるわけではない。世の中にはこの使用人のように卑劣な人間もいる。その点を弁えて、心準備さえしていれば、ショックを受けることもなく、相手の卑劣さを平静に受け止める余裕も生れるだろう。
 
○最後に念のため
 なお、これまで取り上げてきた「有期労働契約」とは、次の2つの場合を指す。
《引用》

a 1年以下の契約期間の労働契約が更新又は反復更新され、当該労働契約を締結した使用者との雇用関係が初回の契約締結時から継続して通算1年を超える場合
b 1年を超える契約期間の労働契約を締結している場合

 この条件に満たない場合の問題は、法律の扱いが変わってくる。その場合は労働局で相談することをお勧めする。
 また、上の条件に適う人も、手持ちの記録や、自分の記憶を整理して、まず労働局で相談してみるほうがいいと思う。

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