北海道文学館のたくらみ(21)
一つの決着
○審判が終る
昨日、8月29日、労働審判委員会の第2回審理が開かれ、亀井志乃が申し立てた「地位確認等請求労働審判事件」の決着がついた。理事長の神谷忠孝はまたしても出なかった。
結論の詳細を述べることは控えるが、財団法人北海道文学館に「非」がないなどということは全く、決して言えない結果だった。
財団法人北海道文学館が「和解案」なるものを送ってきたことは、一昨々日の「北海道文学館のたくらみ(20)」で紹介したが、その時紹介した財団側の「和解」の条件は退けられ、または亀井志乃の主張に従って修正させられた。財団側が続けて送ってきた「意見書」の主張は通らなかった。
財団側に立って言えば、自分がつけようとした条件を取り下げざるをえなかったわけである。
亀井志乃の弁護士のTHさんが、クールで隙のない対応をして下さったおかげである。この場を借りて感謝を申し上げたい。
このブログを通して、ことの成り行きを注目して下さった方々にもお礼を申し上げたい。時々書き込んで下さる助言に支えられたが、多くの人が読んで下さっている事実だけでも励みになった。亀井志乃も心強かったと思う。
○お寺の小僧さん登場
労働審判に入った頃から、このブログにお寺の小僧さんのカットが入るようになった。不審に思われた方も多いと思うが、それにはこんな事情がある。
亀井志乃の仕事に対する寺嶋弘道の執拗な干渉は、当初は濃厚にセクシャル・ハラスメントの面を持っていた。だが、亀井志乃はセクシャル・ハラスメントとしてアピールすることはしなかった。その理由は二つある。
一つは、セクシャル・ハラスメントを訴えた女性が、かえって職場内では厭らしい好奇心の対象とされ、「おかしい」とか「嘘つき」とかいうスティグマ(汚名)を捺される。そしてついには、退職に追い込まれる/退職させられてしまう。――どんなふうにスティグマ(汚名)を捺されてしまうか。「北海道文学館のたくらみ(19)」で紹介した財団理事のYMの発言は、その好個な一例と言えるだろう――これをセカンド・ハラスメントと呼ぶが、亀井志乃にとって、そういう好奇心の目に曝されることほど耐え難いことはなかったからである。
もう一つ理由は、寺嶋弘道が、上司と部下の関係を擬制しながら、繰り返し高圧的な態度で、亀井志乃の仕事ぶりを誹謗し、故意に貶めた。それはまさにパワー・ハラスメントと呼ぶしかない嫌がらせだったからである。
亀井志乃は文学館の仕事それ自体は気に入っており、地位とか給料とかの打算なく打ち込んでいた。むしろ専門的な能力を買われて契約を結んだ嘱託職員としての誇りと意地を持っていた。だから、寺嶋のセクシャルとパワーの両面にわたるハラスメントには屈しなかった。
だが、娘が受けている苦痛に、母親が鈍感でいられるはずがない。
私の妻は心配のあまりよく眠れなくなり、血圧の高い日が続いた。だが、自分の身体の不調を娘に気づかせたら、娘は仕事に集中できなくなる。まして自分が倒れたりすれば、娘は戦い半ばで挫折せざるをえない。それを懸念して、妻は妻なりに気を張っていたが、身体の不調は次第に内攻していった。
もし妻が倒れ、心労のストレスにその原因があるとの診断が出たならば、私は直ちに寺嶋弘道をはじめ、毛利正彦と神谷忠孝と平原一良を告訴するつもりだった。
亀井志乃には何の過失もないにもかかわらず、不当に侮辱され、貶められたことを、今でも私たち家族は許していない。
ただ、娘が労働審判に踏み切った頃から、妻にある種の転機が訪れたらしい。時々、お寺の小僧さんが喜戯している夢を見るようになった。そう言って、そのイメージを手帳に描いたりしている。
その中から選んで、ブログに載せることにしたのである。
○瀬戸内寂聴さん登場
ただし、前回のイメージは小僧さんでなく、瀬戸内寂聴さんにご登場を願った。
徳島県立文学書道館が寂聴さんの文化勲章受賞を記念して、「瀬戸内寂聴展 生きることは愛すること」(9月11日~同30日)という展示を企画し、私に依頼状を送ってきた。その依頼状に同封されていたチラシの寂聴さんを、妻が模してみたのである。
その依頼は、私が寂聴さんに書いた、『おだやかな部屋』(1971年)の礼状を展示に使わせてほしいということだった。私は喜んで承諾した。
もちろん知っている人も多いと思うが、寂聴さんは、出家する以前は、瀬戸内晴美の名前で小説を発表していた。初期の作品に『花芯』(1958年)という中篇がある。「花芯」という熟語は『大漢和辞典』にもなく、ひょっとしたら瀬戸内晴美の造語だったかもしれないが、「子宮」を意味した。そのため瀬戸内晴美はかなり長い間「子宮作家」と呼ばれ、彼女を論じた評論(?)は、作品内容から彼女の男性歴を覗うような、低調なものが多かった。
正直なところ、私は必ずしも瀬戸内晴美の愛読者ではなかったが、ある時、筑摩書房の編集者から電話があり、今度「瀬戸内晴美作品集」全8巻を出すことになったが、『蘭を焼く』を中心とする第7巻の解説を引き受けてくれないか、という打診があった。私は引き受け、もし私の論じ方に一定のリアリティがあるならば、「子宮作家」というスティグマを払拭するのに少しは役立つだろう。そんな気持をこめて、従来の瀬戸内晴美論とは異なる視点で解説を書いてみた。
私の心積もりは瀬戸内さんに通じたらしい。大変に鄭重な礼状を頂戴した。
それが縁となって、何冊か瀬戸内さんの文庫本の解説も書いた。もう35年以上も昔のことである。だが寂聴さんは、私の若書きの解説を忘れず、これを「徳」として、寂聴展の展示に選んでくれたのだろう。
○ちょっと自慢を
その頃の文学全集は、瀬戸内晴美と曽野綾子とを一緒に編集することが多かった。ところが筑摩書房は、筑摩現代文学大系で、瀬戸内晴美と河野多恵子とを組み合わせる編集をし、再び私に解説を依頼してきた。
ここで少し自慢させてもらうならば、この時の私の解説、「女に性別されて」(筑摩書房『瀬戸内晴美・河野多恵子集』1977年)は、それから20年ほど経って、急速に盛んになったジェンダー論の地平を拓いているだけでなく、現在でもよりすぐれた点を持っている、と思う。
当時はフェミニズムという言葉さえ殆んど使われず、私も使っていない。自分で地平を拓いたおかげで、私はフェミニズム・イデオロギーにも、ジェンダー・イデオロギーにも汚染されることなかったのである。
○今後も
今後も小僧さんには登場してもらうつもりでいる。もちろんこのブログのテーマはまだ終らない。
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コメント
まずは一段落、当然の結果といえば当然の結果ですが、正直ほっとしました。一応おめでとうございます。
それにしても、恒例の家族三人(主役は亀井夫人?)による”甲子園2007年”を読めなかったのが残念でなりません。
投稿: 直感子 | 2007年8月30日 (木) 06時48分
結局亀井志乃は負けたということですね。
書き方が素直じゃないね。
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結論の詳細を述べることは控えるが、財団法人北海道文学館に「非」がないなどということは全く、決して言えない結果だった。
投稿: 鈍感子 | 2007年9月 8日 (土) 09時11分