北海道文学館のたくらみ(19)
財団理事会の周章狼狽
○のへらほう
8月17日(金)に、財団北海道文学館の臨時理事会が開かれることになり、その「議案書」が11日に届いた。
議案は「労働審判(申立人;亀井志乃元当館嘱託員)の対応と平成19年度一般会計補正予算について」。ざっと目を通してみたが、曖昧なところが多い。労働審判の第一回審理(7月24日)の経過を紹介しているのだが、一体どんな場面で誰が言った言葉なのか、さっぱり要領を得ない、のっぺらぼうの記述だったからである。
いや、むしろ「のへらほう」と発音するほうが適切なくらい、メリハリのない文章だった。
○労働審判における審理の手順
労働審判は円卓方式で行なわれるが、初めから終わりまで、関係者全員が同じ空間にいるわけではない。
まず初めに、労働審判委員会の3名と、申立人(亀井志乃と代理人の弁護士)と相手方(財団北海道文学館の代表3名と代理人の弁護士)が同席して、委員会から申立人と相手方に、それぞれ質問がある。その後、相手側に退席してもらって(控え室で待ってもらい)、委員会の考え方を申立人に説明し、申立人の意見や希望を聞く。次に、申立人に退席してもらい、相手側を審判の部屋に招じ入れて、同じように委員会の考え方を説明し、相手側の意見や希望を聞く。
さらにもう一度、申立人と相手方とを個別に招じ入れて話し合い……、さて、終わりに、全員同席した場で、委員会としての「解決案」を提示した。
第一回の審理はそのように行なわれたらしいのだが、財団北海道文学館が整理した「審理の概要」はその区別がついていない。以上のやり方を知らない人が読めば、初めから終わりまで、全員同席の「審理」の場で、労働審判官(員)の「勧告」があり、相手方(財団側)が対応したかのように読めてしまうのである。
○財団法人北海道文学館に「非」はない?!
特に私が不審に思ったのは、「審理の概要」の半ばに「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」という文言が出てくる。しかもこの言葉に前後して、二度も「労働審判官(員)から……強い勧告があった」、「労働審判委員会の強い勧告があった」と強調していることである。
勧告の内容は、ここでは伏せておくが、とにかく次のようなことが一体あり得るだろうか。
〈労働審判委員会は「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」とことわりつつ、相手方(財団法人北海道文学館)に「強い勧告」を行なった〉。あるいは、〈相手方(財団法人北海道文学館)は「何の非もない」にもかかわらず、労働審判委員会から「強い勧告」を受けた〉。
これでは、まるで労働審判委員会が、何の「非」もない財団法人北海道文学館に無理を強いている印象ではないか。
これは何だかおかしい、どうも腑に落ちない。私はそう思った。
○「「非」はない」は、財団側の作文
私はそういう疑問をもって、8月17日の臨時理事会に出席し、まず事実確認の質問をした。もちろん私は同席の理事に対して、念のために先のような審理の手順を説明し、内容をきちんと理解する上では、誰がどの段階で言った言葉かを確認することが大事だと思う、とことわっておいた。
そこで先ず私が訊いたのは、冒頭に「和解」云々という言葉が出てくるが、この「和解」は労働審判委員会の言葉なのかどうか、ということだった。というのは、別な箇所では「解決……」という言葉が出てくるが、私の考えでは「和解」と「解決」とは必ずしも同義ではないからである。
それに対して、清原館長は「いや、審判の人の言葉というより、私どもの受け取り方です」みたいな説明をしていた。ところが、清原館長の斜め向いに坐っていた川崎業務課長から「審判の人も「和解」と言っていました」と言い、そこで清原館長は俄に自信をもって、労働審判委員会の言葉であることを確言した。
次に私は、「強い勧告」の「強い」とは、どういう勧告の内容やニュアンスを指しているのかを訊いてみた。だが、内容やニュアンスについての説明はなく、勧告が〈再度〉あったので、それを〈強く〉と表現した、ということだった。
さて、その後で私は、「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」という文言に関する疑問に入ったわけだが、清原館長の返事によれば、実はこの言葉は、審理の場で、審判官(員)から出たわけではない。財団の3人(清原館長、平原副館長、川崎業務課長)とOM弁護士が、控え室で相談した時に出た言葉だった。
当然のことながら私は、「では、労働審判委員会が「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」と言った事実はない。そういうことですね」と確認した。
○根拠なしの作文
それでは、財団側のOM弁護士が「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」と言ったのだろうか。当然そういう疑問は避け難いところだろう。
前回の「北海道文学館のたくらみ(18)」で私は、財団北海道文学館が犯した法律上の「非」を5点以上も指摘しておいた。弁護士のOM氏がそういう法律上の問題点に気がつかなかったはずがない。
また、もし仮にOM弁護士が、私の挙げたような「非」を全部くつがえすことができ、財団北海道文学館には全く「非」がないと主張できる自信があったならば、「強い勧告」をはね返すことができたはずである。
私はそういう疑問をもって、先の文言に関するOM弁護士の関与を訊いてみた。清原館長は、初めはOM弁護士主導のもとに財団の意見を纏めたような言い方をしていた。ところが、次第に曖昧になり、〈労働審判委員会は財団に非があるとか、申立人の側に非があるとか、そういう種類のことは一切言わなかった。だからそれを、自分たちなりに、「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」と意味づけたのだ〉という説明に変わっていった。
ということはつまり、労働審判委員会からの言及はなかったわけで、それならば、そもそも先のような文言は書く必要がなく、書かれるべきでもない。削除すべきだろう。
○姑息な詭弁
あることに言及しないことは、必ずしもそのことを肯定したとか、否定したとか、何らかの判断を下したことを意味しない。
それなのに、敢えて自分に都合のいい解釈を下す。それがどんな詭弁を弄することになりやすいか。たとえばA国が、B国の市民を拉致したとしよう。B国はA国と外交交渉によって解決しようとしたが、A国が交渉に応じようとしないため、B国は、しかるべき権限をもつ国連の委員会に解決を委ねたところ、委員会は、どちらに「非」があるとは言わなかったが、明らかにA国にペナルティを課す解決案を示した。ところがA国は、「わが国に何らかの「非」を認めた上でのペナルティではなかった」などと主張する。
こんな三百代言が通用するはずがない。
○根拠のない作文を削除してみれば……
そんなわけで、財団北海道文学館の館長たちの作文から、「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」という文言は削除されるべきであり、そうしてみるならば、話の筋道はたちまち明瞭となる。
財団が自分たちには「非」がないと明言しているにもかかわらず、財団に対するペナルティとしか考えられない解決策が、「強い勧告」とともに提示された。それはなぜか。
財団は自分たちに「非」はないと言いながら、その勧告を受け入れることにした。それはなぜか。
先の一文を削除すれば、このような疑問や矛盾はきれいに解消するのである。
○またしても発言妨害
ところが、私の質問が以上の問題にかかわり始めるや、工藤正廣が「亀井さん、あんたの言ってること、今日の議題と何のかかわりがあるの?」とくちばしを挟み、すると、もう一人の理事が待ってましたとばかり、「ここは理事会だよ、あんたばかりしゃべる所じゃない」と、私の発言を妨げた。「北海道文学館のたくらみ(12)」で紹介した、あの「体の大きい、何だかむくんだ感じに太った理事」である。私はその後この理事の名前を知ったが、ここではYM理事と呼んでおこう。
要するに又しても私の口封じが始まったのである。
この日出席した理事は12人。女性が1人いたから、「12人のイカレる男」というわけにはいかなかったが、もっぱらYMが長広舌を振るい、工藤ほか3、4人が相の手を入れ、他の4、5人は例によって、死んだように無表情で黙り込んでいた。
○亀井秀雄は労働審判の当事者?!
今回はYM理事の言葉を中心に、どんなふうに発言妨害が行なわれ、どんなふうに自分たちの正体をさらけ出してしまったかを紹介したいと思う。
まず私に一番印象的だったのは、YMが、〈あんたは申立人の父親で、当事者だろう。だから、娘さんの側にばかり立って物を言っている。その当事者が理事会に出てくること自体、そもそも問題なんだ。あんた、言いたいことがあったら、労働審判で言えばいいんだよ〉と言い始めたことである。
私は亀井志乃の父親であるが、当事者ではない。あくまでも理事の一人として発言しているのであって、財団のどこに問題があって「強い勧告」を受け入れることになったのか。そのことの検討なしに、「勧告」を受けるかどうか、決めることはできないだろう。そういう手順を踏んで決定するのが、理事の責任ではないか。しかしYMは、私のそういう反論に耳を貸そうとせず、自分たちの墓穴を掘るようなことを得々と言い募っていた。
このYMという理事は、〈あんた、くどくどと質問しているが議案書にちゃんと書いてあるだろ。文学をやったのなら、そのくらいのことは読んで理解できるはずだ〉なんて挑発的な言い方をしていたが、夫子自身、まるで議案書を理解できなかったらしい。それを見れば、誰と誰が当事者なのか、一目瞭然だったはずである。
労働審判手続きを申立てた当事者は亀井志乃であり、その相手方には理事長の神谷忠孝を指名した。彼が財団を代表する立場にある以上、これは当然の指名だろう。ところが神谷理事長は引っ込んでしまい、清原館長と平原副館長、川崎業務課長の3人が出てきた。
神谷理事長が病気ならば仕方がない。だが、そうでないならば、他のことはさて措いても財団の代表としての責任を果さなければなるまい。しかし彼はそれをしなかった。これは責任意識と当事者能力の欠如を意味する。
また、神谷理事長が健在であるにもかかわらず、清原館長以下の3人は彼を差し置いて出てきた。むしろ彼らの当事者資格こそ問われなければなるまい。
しかしYMの頭はそういうふうには働かなかったらしい。審判に関する無知をさらけ出して、やみくもに私を申立人の側の当事者に仕立て上げ、私の発言を無効化してしまおうとしたのである。
そう言えば、この日の神谷忠孝は、副理事長ともう一人の理事にぴったりと寄り添ってもらい、よく聞き取れない小声で何かぼそぼそ言っていた。
副館長の平原一良は、今日はどういうわけか、顔も上げずに、じっと固まっている。
○YMのハラスメント発言
さらにもう一つ、私は、YMのハラスメント問題に関する発言に強い印象を覚えた。
YMによれば、最近セクシャル・ハラスメントに関する裁判が増えているが、〈実は、ハラスメントの被害を訴えた女のほうが嘘をついているケースがたくさんある〉という。
これは彼の得意な演題なのだろう、くどくど延々と論じ立てていたが、その言うところによれば、そういう女はちょっとやそっとの和解案では満足せず、おかげで裁判は長引き、「言いがかりをつけられた」会社としては、――YMはそういう言葉を使った!――また新しく証拠を揃えなければならず、時間とお金がかかり、大変な迷惑を蒙っているのだそうである。
実はこういう俗論を得々と喋り散らすこと自体がすでにセクシャル・ハラスメントであり、また、この種の俗論を放任しておくと、それがセカンド・ハラスメントの温床となって、事態を一層こじらせてしまう。
もし裁判が長引くとしたら、それはYMのような〈文学者〉の卑しい俗論が、常識論や正論みたいにまかり通っているからにほかならない。
もちろん私は、YMがああいう卑俗な喩えで何を言いたいのか、すぐに見当がついた。
彼は理事の工藤正廣や、副館長の平原一良とはごく親密な間柄らしいが、セクシャル・ハラスメントを例に出すあたり、語るに落ちた下心と言うべきだろう。亀井志乃はこの労働審判を、雇止め(あるいは解雇)の問題に限定して申し立てたわけだが、彼らの頭を占めているのは結局、寺嶋弘道のパワー・ハラスメント問題だったのである。よほど後ろめたいところがあるらしい。
そんなことを考えつつ、私は次のように言った。〈あなた、かなり「危ない」喩えを言っていたが、もし亀井志乃が嘘をついていると言いたいのなら、事務局には亀井志乃の「申立書」も、財団側の「答弁書」も揃っているはずだ。それを朗読してもらえば、どちらが嘘をつき、どちらに「非」があるか、直ぐに分るはずだ〉。
すると、すかさず川崎業務課長が、「申立書」の内容は先ほど紹介しましたと発言した。「議案書」に紹介された、たった1行の「申立の趣旨」と、A4版7ページの「申立書」とを、故意にすり替えたのである。
○YM理事のすり替え
こんなふうに私は発言を中断させられ、はぐらかされてしまったわけだが、むしろそのおかげでよく分かったことがある。それは、この労働審判が不調に終わり、本裁判へ移ることを、彼らが極端に恐れていることである。
YMはまた、延々くどくどと次のようなことを言っていた。〈本裁判で長い時間をかけ、それで判決が出ても、双方が満足するとは限らない。そんな結果のために時間をかけ、金をかけるくらいならば、今の労働審判委員会の「和解」案で解決すればいい。委員会は財団に「非」があるとは言ってないし、申立人に「非」があるとも言っていない。どちらが悪いというわけではなく、ただ、双方に言い分があるならば、その言い分が全部通らない、お互いに不満は残るだろうけれど、このへんで「和解」したらどうかと勧めているのだから、申立人もそれで納得すべきだ〉云々。
なるほどなあ、この人は見識ぶった演説を長々と述べ立てているけれど、実際は自分が意を迎えたい組織や人間にウケてもらうため、その組織や人間が喜びそうな言葉を使って、我田引水の、いや、財団や仲間の田圃に水を引くような理屈を作り出す。それがこの人の〈文学〉なのだろう。
それにしても、「委員会は財団に「非」があるとは言ってないし、申立人に「非」があるとも言っていない」とは、清原館長の言葉をうまく流用したな。
○理事たちの焦り
私は半ば感心しながら、次のようなことを言った。
〈あなたがイメージしている「和解」は、実は労働審判以前の段階のものじゃないか。たとえば労働局が世話する「あっせん」の場で、双方があっせん員の仲介によって話し合い、合意に達したとすれば、それは「和解」と呼ぶこともできる。
いま、この問題にかぎり、亀井志乃の立場に立って言わせてもらうことにするが、亀井志乃は3月半ばまで「和解」の可能性を探って、3月15日に労働局から財団に口頭助言をしてもらった。ところが、当時の毛利館長は、労働局の「あっせん」による解決という助言を断わってしまった。それだけでなく、次の日の3月16日には、亀井志乃を呼んで、あなたには3月一杯で辞めてもらうと通告し、他の職員の前で公表した。その意味で、亀井志乃は「和解」の可能性を財団から断たれてしまったわけで、そのため労働審判という法的強制力を持つ解決を選ぶことになった。
審判はあくまでも裁判所で弁護士を立てて主張し合う裁判の一種であり、何らかの解決案が示されると思うが、それは法的な判断によるものであって、「お話し合いによる結論」とは性質が違う。
それに、たとえ審判が不調に終って本裁判へ移行したとしても、労働審判に提出した証拠物はそのまま使うことができる。証拠調べにそれほど時間がかかるわけでない)云々。
それに対しては、川崎業務課長が「毛利前館長の亀井志乃さんに対する対応には不適切な点もあったかもしれないが、財団としては財団の規程に即してきちんとやっており、法律的な問題はなかった」と言い始めた。
私が「その財団の規程そのものに法律上の問題があるのじゃないか」と言いかけると、今度は私の右横から、「前のことを掘り返したって、何の意味もない。財団は法律に違反するようなことはやっていない。弁護士もそう言ってるじゃないか。あんたから法律の話など聞いてもしかたがない」などと、総会屋の野次みたいな台詞が割り込んできた。どうやらそれは工藤の横に坐っている理事の言葉らしい。
他方、清原館長は、現在、自分が辞令書を交付する時、どんなふうにきちんとやっているか、身振り手振りを交えて説明し始めた。清原現館長がどんなにきちんとやろうが、それで毛利前館長の杜撰なやり方が帳消しになるはずはない。だが、YM理事はわが意を得たとばかりに、清原館長の仕方噺に、激しくうなずいてみせている。これが2チャンネルならば、「禿同」と書くところだろう。
○言葉の粉飾決算
議論はこんなふうに錯綜しながら進み、現象的には私は孤立無援、孤軍奮闘の状態だったが、私には余裕があり、特に後半は笑顔が絶えなかったのではないかと思う。
そうか、彼らが一番恐れているのは本裁判にまでもつれることなんだろう。そこで、とにかく今日は、何としてでも原案通りに決定してしまおうと、やっきになっているわけだ。そんなふうに、彼らのホンネが読めてきたからである。
「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」という文言は、多分OM弁護士の入れ知恵だったと思う。理事会向けの仕掛けとしては、確かに狙い通りうまく機能したと言えなくもない。あのYMと言い、この理事と言い、〈この文言こそ我らが生命線〉とばかりに、防衛にこれ努めているからである。
だが、私が前回の「北海道文学館のたくらみ(18)」で整理したような法律問題に照らしてみるならば、こんな文言はいっぺんに吹っ飛んでしまう。
それだけではない。もしこの一線を突破されるならば、財団は私からもっと色んな譲歩を強いられるのではないか。おそらく彼らはそんな妄想的危機感に駆られていたのであろう。その端的な現われが、あのYMの〈あんたは当事者なんだから、そもそも理事会に出てくるのがおかしい〉という言いがかりだったわけである。
北海道文学館の幹部職員は、文字通り嘘で固めた粉飾決算書を理事会に諮ったことがある(「北海道文学館のたくらみ(15)」参照)。
私はそれを指摘したが、他の理事たちは唯々諾々と承認してしまった。その理事たちが、今度は自ら進んで「言葉の粉飾決算」、「言葉の二重帳簿化」に協力し、恬として恥じる様子もない。
○本裁判への懸念
だが、たとえこの場で私の口封じに成功したとしても、もし本裁判にまで行くならば、「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」なんて文言は、まるで意味を失ってしまう。
労働審判は、給料の未払いや解雇の問題を早期に解決すべく特化された裁判であり、だからパワー・ハラスメントの問題とは切り離してある。仮に本裁判もその枠内で争うことになったとしても、財団が昨年行なった正職員の募集と採用の法律問題にまで溯ることは、これは間違いない。もしその部分に関する判決が、「法律違反により平成18年度に行なった職員募集は無効とする」なんてことになったら、それだけでも財団は収拾がつかない混乱に直面することになる。
そうなったら大変だ、何としてもそれだけは避けたい。おそらくこの追い詰められた危機感が、逆に彼らを攻撃的な態度に駆り立てたのである。
○わが対応
しかし折角の生命線ディフェンス網をコケにするようで申し訳ないが、私は財団が原案として提示した「対応案」に反対するつもりなどなかった。
ただし、「対応案」は二つの項目から成るが、「対応案」の①で示された、労働審判委員会の具体的な解決案は、ここでは紹介を省略させてもらう。
「対応案」にはもう一つ、「② 本件に関し、このほかに何らの債権債務がないことを相互に確認する。」という文言があった。
この「本件」は、議案書のタイトルに言う「地位確認等労働審判事件」を指すのだろう。「このほかに何らの債権債務がないことを相互に確認する」は、清原館長の説明によれば、「これ以上は争わない」という意味だという。
私は字義通りの意味に受け取って、何の異議も唱えなかった。もし第2回の審理の場で、財団側が「本件」の意味を拡大解釈したり、「これ以上争わない」に余計な付帯条件をつけたりすれば、亀井志乃は弁護士の意見を聞いた上で、自分の意思を表明することになるだろう。
○3点の提案
以上のような次第で、私の見るところ、幹部職員や理事たちの関心は「対応案」の①にあり、早くこれを理事会で決定してしまいたいと焦っていた。その「対応案」を決定し、労働審判委員会の「強い勧告」に従うならば、本裁判にまで行かなくても済みそうだ。多分そう見込んでいたからである。
ただしそれを決定すれば、これにて一件落着、理事会の責任は終ったということにはならないだろう。理事会として責任を負うべきことがほかにある。
私が出席した理由はそれを指摘することにあり、妨害発言を撥ねのけながら、次の3点を要求した。
(イ) 「相手方(財団法人北海道文学館)に何らかの非を認めた上での和解の勧告ではないこと」という文言を削除する。
(ロ) このような事態に至った原因を調べ、誰に責任があるかを明らかにする。
(ハ) ここで承認された「平成19年度 一般会計補正予算書」は、新たな支出項目を明記した形で、館報に載せる。
私の考えによれば、この(ロ)と(ハ)は必ず理事会がやらなければならず、そして(ロ)を遂行するためには、(イ)が必須の条件となる。
(ハ)の補正予算は、少なからぬ弁護士費などを支出するための措置であり、この1点に関してだけでも、(ロ)の責任解明を怠ってはならないだろう。
○大政翼賛会的な終幕
私がこの3点を挙げたところ、工藤正廣がわざとウンザリした口調で、「それじゃ、また後戻りじゃないの」と言い、「亀井さん、あんた自己中心的なんだよ。また、何か書くんだろうけど、おかげで文学館の士気は下がるわ、……(もぞもぞ口調のため、よく聞き取れない)……亀井さん、財団を潰す気なんじゃないの」。
責任意識もなければ、自浄努力もない。文学、文学とお題目さえ唱えていれば大抵のことは思いのままになる。そんなふうに思い上がって、うまく行かないことがあれば、全て他人の所為にしてしまう。
そんな認知症的自己肥大の自称文学者どもが仕切っている文学館で、士気も実績も上がるはずがないだろう。
「浅ましい世迷言みたいなことは言わないほうがいいよ」。私がそう言いかけると、彼の横に坐っていた理事――多分先ほど総会屋みたいなことを言っていたのと同一人物――が、さあ、俺がここの空気を読んで、皆さんの気持を代弁いたしましょう。そんな得意顔で、〈われわれは今日の議案書に賛成するかどうかで集まったわけだ。原因がどうの、責任がどうのといったことを議論するために集まったわけじゃない。だから、原案に賛成する、しない、その表決を取って終わりにしましょうや〉と、大政翼賛会時代の代議士だって口にしないような、無責任なことを臆面もなく言い出した。
他の理事は呟くような小声で「賛成」。さすがに気が引けたのかもしれない。もそもそと机の会議資料を片づけはじめた。
そこで工藤正廣はしてやったりとばかりに、「んで、亀井さんは反対というわけね」。私は笑って、「いいや、私は反対しに来たわけじゃない、多数決には従いますよ。でも、ここは財団と理事会の根幹にかかわることですからね、一人の理事から3点の意見があったことは議事録に留めておいて下さい」。そう言って、私はもう一度先ほどの3点を復唱した。
私が補正予算の館報掲載に言及した時、「えッ?」と意表を衝かれた感じで、川崎業務課長と清原館長が顔を見合わせた。しかし、補正予算を組む時には理事会・評議員会に諮ると約束したのは、川崎業務課長自身である(「北海道文学館のたくらみ(15)」参照)。
その補正予算案が理事会で承認された以上、これは当然館報で広く報告すべきであろう。
(追記)7月24日に開かれた第一回の労働審判は、先に書いたような手順で行なわれたが、ただ、労働審判委員会から申立人に解決案の提示があったのは、申立人側と審判委員会の2回目の話し合いの時だった。最後に全員が顔を揃えた時の話題は、次回の日程の調整だった。先の記述がやや正確さを欠いていたので、ここに訂正しておきたい。(8月23日午前8時30分)
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コメント
財団の対応は私の想定範囲内でしたーーーとにかく表面上、なんとかして責任から逃れたいとの一心。
やや早過ぎるお願いかもしれませんが、来年度小樽文学館での先生の講座において、今回の事例を文学理論の駆使というアングルから分析していただけませんでしょうか?
投稿: 直感子 | 2007年8月22日 (水) 21時40分
今、労働審判を申し立てている者です。
通りすがりで失礼します。
>労働審判は、給料の未払いや解雇の問題を早期に解決すべく特化された裁判であり、だからパワー・ハラスメントの問題とは切り離してある。
文脈の関係もあるでしょうが、私はパワハラを主とする事案で労働審判を申し立てておりますので、上記の「特化」という部分は誤解が生ずるおそれがあるかと存じます。
かなり「間口」の広い運用になってきているようです。
またこれは瑣末なことですが、労働審判は厳密には裁判ではなく、「非訟」に分類されております。
僭越ながら。失礼いたしました。
投稿: 東京の申立人 | 2008年2月13日 (水) 00時08分