« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »

北海道文学館のたくらみ(12)

北海道文学館と情報公開
○万人に与えられた権利
 まず情報公開法について基本的なことを確認しておきたい。

 日本の情報公開法(「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」平成11年5月14日法律第42号)の大きな特徴は、「何人も、この法律の定めるところにより、行政機関の長……に対し、当該行政機関の保有する行政文書の開示を請求することができる」(第3条、「開示請求権」)と、全世界の人に、日本の行政文書の開示を請求する権利を与えたことである。
 
 その理念は行政の公開性と透明性を高めることにあるわけだが、私の経験的理解に即して言えば、情報公開法が出来る以前にも、多くの市町村が独自に情報公開条例を作っていた。
 ただ、行政文書(公文書)の開示請求権の範囲については、その市町村の住民に限るところがあり、しかしそれでは、別な土地からその市の職場や学校に通う人間の権利はどうなるのか。そんな議論が起って、そもそも請求権の範囲を限ることはできないし、限ること自体が差別ではないか、ということになった。
 日本の場合で言えば、この国には日本国籍の人だけでなく、在日の人もいれば、外国から働きに来ている人もいる。留学生もいる。旅行者もいる。逆に日本国籍で、外国に住んでいる人もいる。そういう人たちに差別なく権利を与えるとすれば、結局この地球の全ての人に権利を与えることこそが望ましいだろう。そういう議論を踏まえて、「
何人も……行政文書の開示を請求することができる。」となったわけである。
 もちろん地球のどこからでもインターネットやファックスを使って請求することができる。
 
 これは日本が全世界に先駆けて行ったことかどうか、その点は分らないが、日本の法律としては極めて画期的なものだったことだけは確かだろう。

○使用目的を問うことは権利の侵害
 この情報公開法のもう一つの特徴は、開示請求の権利を制限する条文がないことである。それはそうだろう。もし行政が開示請求者に「開示を求める目的は何ですか」と質問し、「ああ、そういう目的では開示できません」などとやったら、結局行政のほうが勝手に開示の基準を作って、権利を制限することになる。これでは情報公開法の趣旨、目的、精神は失われてしまう。その意味で、開示請求の目的を問うこと自体が権利の侵害なのである。
 私は、身﨑壽に教えられるまでもなく、既に北海道教育委員会が保有する公文書(行政文書)の開示の手続きを取っていた。応対してくれた職員は感じがよく、もちろん使用目的を問うなんてことはなかった。

 ただし、私が請求した文書全体が開示されたわけでない。「開示しない部分の概要及びその理由」ということわりがあり、今その「理由」だけを紹介すれば、「(前略)については、開示することにより、犯罪を誘発し、又はほう助するおそれのある情報と認められるため。(「北海道情報公開条例第10条第1項第3号」公共の安全等に関する情報に該当)とある。
 一見これは権利の制限のようだが、そうではない。公文書を保有管理する行政が負うべき安全配慮義務の表現と見るべきであって、個人情報のある部分を非開示とする場合が多いことはよく知られている。それも、その個人に関する安全配慮の処置なのである。

○公文書(行政文書)の範囲
 しかもこの公文書の範囲は極めて広い。情報公開法の「定義」は、「
この法律において「行政文書」とは、行政機関の職員が職務上作成し、又は取得した文書、図画及び電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られた記録をいう。以下同じ。)であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているものをいう」となっていて、一読しただけでは何のことか分りにくい。
 どうしてこんなに回りくどい定義が必要になったのか。
 
 かつて「公文書」の開示と言えば、もっぱら決済や供覧を経た文書だけに限られていたらしい。ということはつまり、「公文書」ならざる文書や記録がやたらと多かったわけで、例えばその中にHIVの治療薬のデータがあったとする。それを「公文書」とせず、開示の対象としなかったために、悲劇的な薬害の蔓延を防ぐことができなかった。そういう反省に立って、先のような包括的な定義がなされることになったのである。
 
 その意図が行政の公開性を高めることにあったことは、言うまでもない。別な言い方をすれば、行政が勝手に内部基準を作って、公文書と非公文書とに腑分けをし、「これは非公文書の内部資料でございますから、開示することはできません」などと隠蔽を企むことが起らないようにするためなのである。
 
 後でもう一度ふれるが、毛利正彦は先日(3月23日)の理事会、評議員会で、「私共には情報管理の責任がございまして」などと言っていた。とんでもない話だ。彼は一時代前のお役人根性でそんなことを言っていたのだろうが、行政に情報管理を任せたら、たちまち勝手な内部基準による情報操作が始まる。私は「情報管理ではない、必要なのは公文書の管理なのだ」と言った。必要なのは上のような定義の公文書をしっかりと作成し、いつでも開示請求に応えられるように管理しておくことなのである。
 
○北海道文学館の変則的な議題
 ところで私は先日来、北海道文学館に資料と記録の開示を求めてきた。「文学館のたくらみ・資料編」(
http://fight-de-sports.txt-nifty.com/wagaya/)の資料9「北海道文学館の隠蔽体質」で紹介した、【資料C】の資料と記録である。
 資料9を通して読んでもらえれば、私の要求が決して無理難題ではないことは分ってもらえると思う。

 その要求は必ずしも3月23日の理事会、評議員会を前提にしたものではなかったが、理事会、評議員会の議題を知って、特に見ておきたい資料と記録が出てきた。それは、23日の議題が、「(1)議案第1号、平成19年度事業計画(案)について/(2)議案第2号 平成19年度収支予算(案)について」だったからである。
 分るように、この議題には、平成18年度の決算や事業報告がない。常識的には今年度の決算と事業の報告があり、審議決定を踏まえて、平成19年度の事業案と予算案の検討に入るはずなのだが、踏まえるべき前提が落ちているのである。

○約束に反する事業計画
 ただし私は、このやり方がおかしいから議題には反対だ、と言おうとしていたわけではない。変則的であることはやむを得ないが、そうであるだけに事前に知っておきたいことがあった。
 その一つは、平成19年度の事業(案)で、特別企画展が「太宰治の青春~津島修治であったころ~」と「目で識る川柳250年」、企画展が「父・船山馨のDNA 船山滋生の彫刻と挿画」と「遊んで学んだ、あの時代 新発見! 100年前の児童雑誌」と「探求者の魂―山田昭夫の書斎から」となっていることである。
 その一つ一つについての意見もあるが、まずこれを見て驚いたのは、「なんだよ! これは。これでは北海道教育委員会に対する約束違反じゃないか? 結局それは道民を欺くことではないか!」ということであった。
 
 私の記憶によれば、財団北海道文学館が指定管理者の選定に応募して出した4年間の事業計画のうちで、平成19年度の展示事業の目玉は八木義徳であり、もう一つは寒川光太郎の作品など、樺太(サハリン)関連の文学だった。そういう企画であればこそ、身﨑壽を委員長とする選定委員会も、「
北方文学に影響を与えたサハリン関連文学に関する展示(平成19年度)を始めとする指定期間における展示計画などの提案内容が優れており、指定管理者の候補者として選定することにした。と評価したのだろう。ところが、その肝心な企画がぽっかりと抜けている。
 また私の記憶によれば、平成18年度の当初、19年度に太宰展も川柳展も山田展も話題になかった。身﨑の委員会の「
指定期間における展示計画などの提案内容が優れており」という言い方から判断するに、財団法人北海道文学だけでなく、NTTグループもサントリー・グループも、それぞれ4年間の構想を提出し、その優劣によって選ばれたはずである。
 ところが北海道文学館は早くも1年目で栗田コレクション展をキャンセルして、「ロシア人のみた日本 シナリオ作家イーゴリのまなざし」なんて企画を割り込ませる。2年目には、それによって財団法人北海道文学館が選定されたと言っても過言ではない展示を吹っ飛ばしてしまう。フレキシビリティも必要だが、これではちと気まぐれが過ぎはしないか。
 身﨑壽もその点をうすうす感じ取って、「
守秘義務がございますところから、審議内容にかかわる御照会の事項につきましては、小生からお答えはいたしかねます」などと、慇懃無礼に責任逃れを図ったのかもしれない。
 
 もう一度言うが、これは北海道教育委員会に対する約束違反であり、一年に1億4千万円以上も税金を使われている道民に対する背信行為だと思う。選定委員会の委員だった福田誠行・生涯学習部長生涯学習推進局長や、古俣芳晴・生涯学習部文化部長も同じ意見だろう。

○無計画な浪費の疑い
 もう一つ私が知りたかったのは、平成19年度の主要な事業にどれだけの経費をかけ、どれだけの実績を挙げたかの報告である。「資料編」(
http://fight-de-sports.txt-nifty.com/wagaya/)の資料9に紹介した【資料C】の質問を読んでもらえば分るように、ああいう質問をした人間としてこれは当然の要求だろう。
 
 23日の会議資料として送られてきた「平成19年度 収支予算書(案)」を見ると、「予算額」と「前年度予算額」とが併記されている。その数字を見る限り、一見何の問題もないように見える。だが、今年度の予算額が妥当か否かを判断するには、「前年度予算額」ではなくて、「前年度決算」がなければならない。

 例えば平成18年度の石川啄木展の当初予算は371万2千円だった。ところが、展示資料の95%が日本近代文学館からの借り物で、借用料を払わなければならない。平原一良によれば、借りてくる資料を全部合わせると時価(?)で3億円を超える、お宝ばかりだと言う。その借用料は評価額の100分の1程度と聞いたことがあるが、そうしてみると資料を借りるだけで300万円前後となってしまう。
 その他、借用に立ち会う職員の出張旅費や、高い保険金をかけて専門車で運んでもらう運送費がかかったはずであり、講師の中村稔の旅費と講演料がある。実際の展示パネルを見ると、やたらに「中村稔」の署名が入っており、これにも著作権料も払ったのだろう。
 その上さらに北海道新聞に広告料を払い、看板を作り、ポスターとビラを刷り、図録を作り、少なく見積もってもおそらく総額550万円は下らない。それだけ頑張って、観覧者は2,800名前後と聞いていた。(3月23日の報告では2,756人)。

 そういう実績をどう評価するか。せめてその程度の資料は欲しいと思ったのだが、「資料編」(http://fight-de-sports.txt-nifty.com/wagaya/)の資料9の【資料A】のように、平原一良と毛利正彦は、「予め使用目的をうかがいまして」などと逃げを打っている。これは情報公開法の趣旨と目的に反する、権利の侵害に当たる。彼らはそのことを全く自覚していないのである。

○発言妨害
 さてところで、私は3月23日、これという資料を手に入れることができずに理事会、評議員会に出かけた。私は原案に一々異議を唱えるつもりはない。
 だいいちこの会議で原案をひっくり返すなんてことはできない。というのは、事務局は予め理事や評議員に原案と、表決書や委任状を送っておく。会議に出席できない人は表決書の(賛成・反対)のいずれかに○印を付けて返送するわけだが、大抵の場合「賛成」に○がつく。それを出席、意思表明と認めるわけだから、23日の場合、理事の出席は13、欠席は8。評議員の出席は18、欠席は34なのだが、会議は成立し、欠席者の表決書で既に原案は可決されてしまう。そういうカラクリによって運営されているのである。

 ただし、言うべきことは言っておかなければならない。そこで私は発言を求め、「情報公開法の点から見て、予め使用目的を問うのは権利の侵害になるのではないか」という意味のことを言い始めたところ、身体の大きい、何だかむくんだ感じに太った理事が、いきなり「そんな法律論なんか聞きたくない、やりたかったら会議が終ってからやってくれ」と大きな声で、私の発言を中断した。「これは平成18年度の決算を飛び越えた審議なのだから、暫定的にでも平成18年度の事業結果を知りたいと思うのは当然ではではないか」という私の意見に対しては、「平成18年度の決算と事業報告は5月にやることになっている。国会でも同じようなことをやる。あんたはそんなことも知らないのか」と、嵩にかかって言い募った。
 
 私はその大柄な理事の名前は知らないのだが、彼の脇に座っていた工藤正廣も「どんなことに使われるか分らない心配がある時、使用目的を確かめるのは当たり前ではないか」みたいなことを言いはじめた。〈すげえ傲慢な監視意識だな。それでいいのか、工藤さん、昔の情報局のお役人みたいなことを言って。……それとも、亀井志乃が展示準備に入る直前、いきなり「ロシア人のみた日本」なんて展示の企画を持ち込んだ引け目を誤魔化すためかしら〉。そんな感想を抱きつつ、私は文学館の根幹にかかわる本質的な問題だと考え、さらに説明をしようとしたのだが、「議事進行!」と叫ぶ声があり、議長も神谷忠孝も私の発言を中断させようとする。
 要するに、亀井にはものを言わせるな、言い始めたら遮ってしまえ、そんな人間が数人いて、私を押さえ込もうとしたのである。

 私は普段は至極おだやかな人間なのだが、殴りかかってきたら殴り返せ、嵩にかかって言いがかりをつけてきたら遠慮なく怒鳴り返せ、という流儀で生きてきた。もちろん私は怒鳴り返し、すると得たり賢しと私の揚げ足取りをする人間が出てきて、工藤正廣もさっそく尻馬に乗り、顔を赤くして憤慨してみせる。その途端私は、そう言えば昔、タイムボカンシリーズとかいうアニメに、セコビッチとドワルスキーいう凸凹コンビが出ていたっけ、と思い出し、つい笑い顔をしながら「失言でした、申し訳ありません」とお詫びした。
 にこにこしながら詫びているので、かえって気味が悪かったかもしれない。申し訳ないことをしてしまった。

○惨澹たる池澤夏樹展
 しかし、さすがにそういうやり取りを聞き苦しく感じたのか、ある人から「現在分る範囲で平成18年度の実績を紹介したらどうか」という発言があり、取りあえず業務課長が入館者の数だけを紹介した。池澤夏樹展の入館者は1,967人。えっ! 私は絶句した。
 池澤展の当初予算は361万2千円だった。
 現役バリバリの文学者という触れ込みで、彼をフランスから呼んで、札幌で講演会を2回、朗読の集いを3回、帯広でもトークの夕べと、朗読の集いをやる。その航空券代や道内での移動と宿泊の費用、同伴する職員の出張旅費、そして7回に及ぶ講演や朗読の集いの講演料。文学館内の池澤展は、実際は池澤夏樹が旅の先々で撮った写真展だったが、それ相応の著作権料も払っただろう。
 その上、宣伝広告が後世の語り草になるほどド派手だった。当然新聞広告を出し、チラシだけでも10万枚作ったという。それやこれやで、経費が当初予算内で納まったとはとうてい考えられない。
 とにかくそれだけ力を入れ、10月14日から11月26日までのロングランの入館者か僅かに1,967人だって。野球で言えば、コールド負けの惨敗じゃないか。

 実際に訪れた人はよく分ると思うが、道立文学館は季節々々の景観が美しい中島公園の一角にあり、春から秋の終わりまで遊歩道の散策を楽しむ人が絶えない。
 ところが冬には条件が一変して、ほとんど人通りがなくなってしまう。文学館の前の散策路はカントリースキーの練習コースとなり、除雪車が入らない。そのため、ひどく歩きにくい。特に亀井志乃が担当した企画展の、2月半ばから3月半ばまでの頃は、日中でも氷点下の日が多く、雪も降り、よほど強い動機でもないかぎり、地下鉄駅から文学館まで何百メートルの距離を歩く気になれないだろう。文学館は新聞に有料広告を出したり、テレビ局に取材してもらったりすることもしなかった。
 そんなわけで、例年の実績から見ても、この時期の企画展は1日平均20人以上の観覧者がいれば、まずは成功と評価できるところであるが、――ちなみに亀井志乃が担当した企画展は30日(閉館日込み)で607人――啄木展や池澤展は季節の条件、金のかけ方から見て、1日平均少なくとも80人は観覧者がいなければならない。う~ん、それなのに1,967人、一日平均45人程度とはねえ……。
 
 私は助け舟を出すつもりで、こんなことを言った。池澤展の場合、道立近代美術館で講演したり、帯広でも催しがあったり、そこに集まった人たちの数も観覧者に数えてもいいのではないか。それも実績なのだから……。
 ところが、業務課長も毛利正彦も平原一良も死んだような無表情で、じっと黙っている。それじゃあ、なにか? 実際はそういう人の数まで入れて1,967人か……なるほどそれで、未だに収支決算の実績報告が出来ないわけだ。「予め使用目的をうかがってから」なんて、要するに不手際隠しの口実じゃないか。

○理事会、評議員会の実態
 私が驚いたのは、そういう数字を聞いても、私以外の誰も意見を言わず、並び大名みたいに黙っていたことである。この人たち、亀井には食ってかかり、文学だ、文学者の会議だなどと大口叩きながら、権利の侵害の問題意識もない。毛利や平原の言いなりになっている、ただの骨抜き中年と、腰抜け老人ばかりじゃないか。
 私に向かって、「あんたも理事なんだから、理事らしく責任を持て」みたいに高飛車な言い方をした男も、「理事会こそが決定機関で、理事であればこそ検討材料を求めるのが当然ではないか」という意味の私の発言以来、何も言わない。まさか〈亀井に向かって、一吠えナンボ〉で雇われてきたわけではあるまい。江戸時代には田舎老人多田爺(いなかろうじん・ただのじじい)という骨っぽい人もいたんだがなぁ。
 
 要するに毛利正彦も平原一良も運営能力は落第、神谷忠彦他の理事たちは自分たちが決定主体である自覚がない。
 工藤正廣も平原一良も、毛利正彦と一緒に「使用目的」なんて言いたいのなら、もう文学者づらは止めたほうがいい。権利の侵害を平気で容認したり、発言封じにいっちょ噛みしたり、それがどんなにおぞましくも滑稽なプチ・ファシストぶりか、それに気がつかなくなったら、もう終ってるよ。
 
 こういう実態は市民の皆さんも、北海道教育委員会の職員もよく知ってもらいたい。北海道新聞の記者もその辺から洗い出したらどうだろう。

○毛利正彦の無理解
 そんな次第で、私は多勢に一人、発言を遮られたり、材料を持たない私が不用意なことを見越して「では、平成19年度案のどことどこに疑問をお持ちですか」みたいな質問をしかけられたり、しかし結局言いたいことは言わせてもらった。
 会議の終わり近く、私は初めに述べたような情報公開の考え方も念入りに確認したわけだが、毛利正彦という人はよほど飲み込みが悪いのか、それとも往生際が悪いのか、まだ「開示した情報の適正使用のこともありますし、私どもには情報管理の責任がございまして」なんてやっている。
 北海道教育委員会の誰か、この人に教えてやってくれませんか。
 
 北海道公開情報条例の前文には、「
新しい情報の公開制度は、だれもが知りたいときに自由に知り得るよう知る権利を明らかにするとともに、道政の諸活動について説明する責任を全うすることにより、その公開性を高め、及び道民参加を促進するものでなければならない。」とその理念が謳われている。
 その理念に基づいて、第1条(目的)は、「
この条例は、公文書の開示を請求する権利を明らかにするとともに、公文書の開示及び情報提供の推進に関し必要な事項を定めることにより、開かれた道政を一層推進し、もって地方自治の本旨に即した道政の発展に寄与することを目的とする。となっている。
 そして第5条(情報の適正使用)は、「この
条例の定めるところにより公文書の開示又は情報の提供を受けたものは、これによって得た情報をこの条例の目的に即して適正に使用しなければならない」となっている。

 分るかな、毛利さん。情報を得た市民がそれに基づいて行政のあり方に疑問を抱いたならば、それを率直に表明して、時には批判し、時には多くの人に知らせて、行政の質を高めるよう働きかける。これは条例の理念と目的に照らして、最も適正な使用なのですよ。
 あなたが他人の使用目的を詮索するなど、越権行為もなははだしい。もう一度言うが、「だれもが知りたいときに自由に知り得るよう知る権利」に嘴を挟む、権利の侵害なのです。
 あなたがなすべきなのは、第4条(公文書の管理等)の「
実施機関は、この条例に定める情報公開制度の的確な運用を図るよう、公文書の分類、保存、廃棄等公文書の管理を適切に行うとともに、公文書の検索に必要な資料を作成するものとする。ということなのです。あなたが早急にやるべきなのは、啄木展や池澤展の会計と実績を記録して、開示の請求に応じられるよう適切に管理しておくことなのです。
 キャンセルした栗田展のキャンセル理由や責任の所在を明らかにした始末書も、もちろん作成しておかなければなりません。
 
○情報公開法についての補足
 なお、ついでに言っておけば、私が情報公開の委員をしていたころ、情報公開と守秘義務との関係が問題になったが、情報公開法(または情報公開条例)に従って行う開示は、守秘義務違反にはならない。これが法律学者の見解だった。現在でも変わらないと思う。

 そんなわけで、情報公開法は守秘義務との関係に言及していない。ただ、「情報公開法」の第5条の2項、3項、4項、5項、6項を丁寧に読めば、前回に指摘した実質秘や形式秘と内容的に重なっていることに気がつくと思う。

 また、公務員の個人情報についても、こんな議論があった。〈それぞれの機関の意思決定にかかわる地位にある職員の個人情報は、一定の範囲で開示すべきではないか〉と。ただ、それを形式的に管理職と一般職員に別けることはむずかしい。例えば国立大学の教授と助教授は、教授会という意思決定機関に参加し、また、それぞれ学生に単位を与える権限を持っている。それに対して、助手は教授会の構成員ではないし、単位認定権も持っていない(最近は制度変更があったようだが)。助教授以上が全て管理職とは言えないが、以上の意味では助手とは区別され、職や地位を開示しなければならないだろう。
 前回も今回も言及した「北海道立文学館の指定管理者の候補者の選定について」においても、身﨑壽以下の委員については職や地位が明示されていた。だが、会議の書記などを務めた職員、事務員の名前や職、地位は出てこない。当然そこにも、一定の基準が働いていたはずである。
 ともかくそんな議論があり、「情報公開法」第5条1項のイ「
法令の規定により又は慣行として公にされ、又は公にされることが予定されている情報」は開示情報とする、という箇所に、それが反映された。また、同条同項のハによれば、〈当該個人が公務員や独立行政法人の役員及び職員である場合、地方公務員や地方独立行政法人の役員や職員である場合において、当該情報がその職務の遂行に係る情報であるときは、当該情報のうち、当該公務員の職及び当該職務遂行の内容に係る部分〉は開示情報とする(この箇所の表現は亀井が簡略化した)。そういう箇所にも反映されたわけである。
 
 もしお役人がやたら守秘義務や、個人情報の保護を言い立てたならば、この辺を頭に置いて対応するのがいいだろう。

○亀井志乃の戦いの現段階
 さて、23日の会議の終了間際、毛利正彦がA4版1ページ半ほどの、亀井志乃の取り扱いに関する経緯書を配布し、読み上げる自信がなかったのか、ぐずぐずと歯切れ悪く説明した。
 それに対して、私は次のように釘をさして置いた。
①札幌中央労働基準監督署は、毛利正彦が亀井志乃の雇用の更新拒否をした一連の行為について、厚生労働大臣が定めた「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」に従っていない、つまり大臣告示に違反している、と判断している。
②北海道労働局も同じ判断に立ち、毛利正彦に口頭助言を行った。労働局の「この事例は館側が考えているほど安易なものではない。有期ではなく、無期の雇用だったと考えられる可能性が大である。それ故、亀井志乃とは改めて話し合ったらどうか」という助言に対して、毛利正彦は「あの事例は要するに任期満了なのだから、亀井志乃と話し合う意志はない」と助言を拒否した。また、「直接に話し合うのがむずかしいのであれば、「あっせん」という場を設けることもできる。利用する気はないか」という助言に関しても、その意志はないと即座に拒否した。
  寺嶋弘道の亀井志乃に対するパワー・ハラスメントについては、「亀井さんが言うようなことはあっただろうが、我々はパワー・ハラスメントと考えていない」と否定した。
③法務局の人権擁護関係の職員は、寺嶋弘道の亀井志乃に対するパワー・ハラスメントが、北海道教育委員会の職員である公務員の、一民間人の嘱託職員に対する人権侵害の行為であることに関心を持っている。それは日本国憲法第17条にかかわる問題となりうる。
 毛利正彦を代表とする幹部職員が、亀井志乃の再三にわたる寺嶋弘道のパワー・ハラスメントの訴えや、事実の調査の要求を無視し、問題の解決を放棄してきたことは、寺嶋弘道のパワー・ハラスメントの隠蔽であり、寺嶋行動のパワー・ハラスメントの擁護と幇助という共犯的な行為となる。それ自体もまたパワー・ハラスメントと言い得る。その点にも法務省は関心を持っている。

 私のこの発言に対しては、毛利正彦も神谷忠孝も、それ以外の幹部職員も、何も言わなかった。出席していた理事も評議員も、亀井志乃の問題には何も発言しなかった。

 理事や評議員は一体何をするために雁首を揃えているのだろう。(2007年3月25日午後11時半)
 
 

  

| | コメント (3) | トラックバック (0)

北海道文学館のたくらみ(11)

北海道文学館と守秘義務

○身﨑壽教授の返事
 このブログを読んで下さる人から、先日、手紙で、情報公開と公務員の守秘義務との関係はどうなのか、と訊かれた。
 我が家は新聞を取っていないので、正確なことは言えないが、知人の話では、まだ北海道新聞に記事は出ていないらしい。出るまでの時間を利用して、質問の問題を考えてみたい。私自身、最近、北海道文学館に関することで、北大の大学院文学研究科の身﨑壽教授から、次のような文言を含む手紙を受け取ったからである。
《引用》
 (前略)
さて、過日お申し越しの件、当該選定委員会は任務を終えてすでに解散はしておりますが、同委員会設置要綱に定められております守秘義務がございますところから、審議内容にかかわる御照会の事項につきましては、小生からお答えはいたしかねます。
 あしからず御諒解いただきたく存じます。

 なお、先生から御照会がありましたことは、担当事務局であります道教育庁文化・スポーツ課に連絡しておきましたので、御不審に点につきましては、同課にお問い合わせいただければと存じます。(後略)

 あんまり型どおりの切り口上なので、思わず、あははは…と笑い出したが、ふっと笑いが消えた。ふ~ん、身﨑壽さんもすっかりお役人風な物言いが身についたな。それにしても何をそんなに警戒しているのだろう?

○「北方文学」は秘密?
 北海道教育委員会のホーム・ページに、「北海道立文学館の指定管理者の候補者の選定について」という報告が載っている。
 それによれば、2005年度に、北海道立文学館の指定管理者の選定に、3つの団体がエントリーした。財団法人北海道文学館とA団体とB団体である。
 財団法人北海道文学館以外の団体の名前は伏せてあるが、北海道新聞の2006年1月6日(夕刊)の記事に寄れば、サントリーパブリシティサービス連合体と、NTTグループのテルウェル東日本北海道支社連合体だったらしい。ただし、そのいずれがA団体であり、いずれがB団体であるかは分らない。北海道教育委員会は、選定されなかった団体の名前は伏せる、という配慮をしたのだろう。
 別な言い方をすれば、おそらく北海道教育委員会は「守秘義務」を守るために2団体の名前を伏せたわけではなかった。もし守秘義務を守るために名前を伏せたのならば、北海道新聞に名前が出ること自体、誰かが守秘義務を破ったことになるからである。

 この報告にはいろいろ分らない点があるのだが、特に私が不思議に思ったのは、次のような「選定理由」の書き方や概念だった。
《引用》

【特に評価された被選定者(財団法人北海道文学館)の提案内容】
・児童、生徒の利用増大が見込める夏休み、冬休み、修学旅行時期及び一般利用者も来館しやすい週休日、祝日における教育普及事業の配置
・展示計画が、北海道にゆかりの深い文学者や文芸作品を中心として、時代を超えた多様な視点からの問題提起的で魅力的な文学の紹介や北方文学に影響を与えたサハリン関連文学の紹介など多彩な内容となっていること。
・教育普及事業については、生涯学習の観点から道民の全年齢層をカバーするウィークエンドカレッジ等の事業展開や展覧会に付帯した文芸講演会、文芸セミナーの実施

 当然のことながら、これは5人の選定委員の一致した意見だったのだろう。もし意見が別れたならば、別な団体を推す少数意見が併記されたかもしれないからである。
 ちなみに選定委員は、北海道大学大学院文学研究科教授の身﨑壽、北海道教育庁生涯学習推進局長の福田誠行、有島記念館館長の飯田勝幸、(社)中小企業診断協会北海道支部副支部長の金子邦夫、北海道教育庁生涯学習部文化課長の古俣芳晴の5人だった。

 これらの評価のうち、二つ目の点については、「学識経験者委員の主な意見(又は総評)」でも、次のように繰り返し強調されている。学識経験者委員とは身﨑壽と福田誠行と金子邦夫の3人を指す。
《引用》
 
財団法人北海道文学館は、利用促進を図るための児童・生徒や一般利用者が来館しやすい事業の工夫や北海道にゆかりのふかい文学者や文芸作品を中心とした、時代を超えた多様な視点からの問題提起的で魅力的な文学に関する展示(平成18年度)、北方文学に影響を与えたサハリン関連文学に関する展示(平成19年度)を始めとする指定期間における展示計画などの提案内容が優れており、指定管理者の候補者として選定することにした。
 
 「北方文学」という言葉は、私にはあまりなじみがない言葉だが、ただしこれが初耳だったわけではない。私はたまたま「北海道通信」の平成17年10月4日号を見る機会があったのだが、9月20日に開かれた「三定道議会代表質問」の質問と答弁の概要が紹介されている。その中で、相馬秋夫教育長が、真下紀子議員の質問に答えて、「
道立文学館は、北海道の風土や生活に根ざした北方文学の振興を図ることを目的に、本道にゆかりのある作家や作品に関する資料の収集、保存、展示等の事業を実施する施設として、七年に設置された。後略)」と答えていた。
 なぜ相馬秋夫教育長は「北海道文学」を避けて、「北方文学」を選んだのか。そんな疑問を感じたのだが、まさか「北方文学」が選定理由の重要なキーワードになるとは思わなかった。そこで委員長の身﨑壽に次のような問い合わせの手紙を出したわけである。
《引用》

①「北海道にゆかりの深い文学者や文芸作品を中心とした、時代を超えた多様な視点からの問題提起的で魅力的な文学に関する展示(平成18年度)」とありますが、
イ、 これは平成18年度のどのような展示計画を指したものでしょうか。
ロ、 その展示計画のどのような点を「時代を超えた多様な視点」「問題提起的」と評価したのでしょうか。

②「北方文学に影響を与えたサハリン関連文学に関する展示(平成19年度)」とありますが、
 イ、これは平成19年度のどのような展示計画を指したものでしょうか。
 ロ、「北方文学」とは、どのような文学を指す言葉なのでしょうか。
 ハ、「サハリン関連文学」とは、どのような文学を指すのでしょうか。

 身﨑壽はそれに対して、守秘義務を理由に、先ほどのような断りをしてきたのである。

○「守秘義務」の範囲
 たしかに「北海道立文学館指定管理者候補者選定委員会設置要綱」(平成17年9月5日 教育長決定)の第7条2項は「
委員は、職務上知り得た秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後も同様とする。となっている。
 身﨑壽はこの条文を理由に、説明を断ってきた。しかし、もし職務上知り得たこと全てが「秘密」であり、口にできないものであるならば、委員会で知り合った人の名前さえも口外することができないはずだ。その反対に、収賄に気がついたり、殺人事件を目撃したりしても、一切黙秘していなければならないことになる。「守秘義務」がそんなことまで要求しているはずがなく、これは小学生でも分る理屈だろう。
 ところが身﨑壽は、直ぐに手の内を読まれてしまうような、お役人風のコケおどしを使って私との対話を避けようとしている。
 彼が言う守秘義務の「秘密」とは何だろうか。

 私は情報公開の基本方針を検討する委員会の委員をしたことがあり、「情報公開」の考え方にはある程度通じている。だが、「守秘義務」のほうはあまり明るくない。
 ただ、委員当時に配布された資料、「情報公開法要綱案」(行政改革委員会行政情報公開部会、平成8年4月24日)の「情報公開法案の考え方」で、不開示情報と守秘義務規定との関係をこんなふうに論じている。それを手がかりに考えてみたい。
《引用》
 
国家公務員法第100条等、行政機関の職員に守秘義務を課している規定における秘密とは、実質秘(非公知の事実であって、実質的にそれを秘密として保護するに値するものをいう。)に限られるとされており、実質秘を漏らせば国家公務員法等違反となり、懲戒処分又は刑事罰の対象となる。後略)

 たしかに警察の人が捜査の手の内をぺらぺら喋ってしまったら、犯人を取り逃がしてしまいかねない。その意味で、刑事が捜査の過程で知った事実のある部分は、「実質秘」として扱わなければならない。言葉を換えれば、「実質秘」とは、その行政機関や組織が本来の任務や業務を遂行する上で、「まだ一般に知られていない事実であって、しかも一般に知られない秘密として守っておくだけの価値がある事実」ということになる。もしそれを漏らしたら、本来の任務や業務の遂行を妨げ、その機関や組織がもたらす公益を侵害してしまうからである。
 
 そんなわけで、賄賂を受け取った事実は、受け取った役人本人にとっては「それを秘密として保護」しておきたい事実かもしれない。だが、それに気がついた別な役人にとって、「秘密として保護するに値するもの」であるわけではない。もし賄賂を受け取った役人が、守秘義務を理由として、別な役人に沈黙を強いたとすれば、それは二重に不正な行為であり、沈黙に同意した役人は不正な行為の加担者となってしまう。
 
 私の見るところ、現在の北海道文学館は守秘義務という言葉を一人歩きさせる形で、暗黙の緘口令を布いている気配であるが、実質秘でないかぎり、沈黙を守らなければならない理由などあるはずがない。
 それに第一、そもそも文学館という文化サービスの施設に、もし守秘義務を要することがあるとすれば、それはどんな「秘密」なのだろうか。そう考えてみれば分かるように、文化施設のよいところは、そんな義務など必要がないように透明化してゆくことができることなのである。
 
○実質秘と形式秘
 ただし実質秘に対して、もう一つ法律用語(?)に形式秘という言葉があり、身﨑壽が言う「守秘義務」の「秘密」はこれに属するのかもしれない。
 インターネットのGoogleで「実質秘」と「形式秘」を並べて検索したところ、和歌山県議会平成2年2月定例第6号の議事録が載っていて、宇治田栄蔵という人の発言に分りやすい用例が見られた。それを引用させてもらう。
《引用》
(前略)
次に、情報の公開ということと関連いたしまして、公務員の守秘義務についてお伺いしたいと思います。
 過日の委員会審議におきまして、「この点については公務員の守秘義務の範囲内であるので答弁は差し控えさせていただきたい」という答弁がございました。また、行政上の事務について「行政の秘密に属することなので申し上げられません」というような答えはよく
聞かれるところであります。しかしながら、私たちにとりましては、なぜ秘密にする必要があるのかという疑問を生じることがしばしばあるわけでございます。(中略)
 地方公務員法第三十四条には、「職員は、職務上知り得た秘密を漏らしてはならない」と規定されております。しかし、ここで「秘密」とはどういう意味を言うのでしょうか。

 
秘密には、形式秘すなわち行政官庁が秘密にすべき必要があると判断し、指定権者を通じて秘密と指定したものと、実質秘すなわちその事実、内容を秘匿することが客観的に見て相当の利益があるものとがあります。ここに秘密とは実質秘を言うものと解釈しなければならないのでございます。
 判例を見ましても、「行政機関が、ある事項について形式的に秘扱いの指定をしただけでは足りず、ここに『秘密』とは非公知の事実であって、実質的にもそれを秘密として保護するに値すると認められるものを言う」と判示してございます。
 そこで、総務部長にお尋ねをいたします。

 
地方公務員法三十四条の秘密とは形式秘を言うのか、実質秘を言うのか、そして、後者であるとするなら実質秘の判定はいかなる基準をもってしているのか、また具体的処理についてはどのように取り扱っているかをお示しいただきたいと思います。

 どうやら宇治田さんも、お役人がやたらに守秘義務、守秘義務と連発することに閉口し、苛立っているようだが、差し当たり私が注目したいのは、「形式秘すなわち行政官庁が秘密にすべき必要があると判断し、指定権者を通じて秘密と指定したもの」という考え方である。防衛省でも、まず大きく「防衛秘密」という形式秘の枠組みで、防衛省の職員や自衛隊員の言動を拘束しているらしい。
 ただ、形式秘とは具体的にどういうものなのか、そこがよく分からない。先の質問に対して、和歌山県庁の総務部長の斉藤恒孝さんが、地方公務員法第三十四条第一項で言うところの「秘密」は、「
ここで秘密に当たる事項としましては、行政実例では、一般に知らされていない事実であって、それを一般に知らせることが一定の利害の侵害になると客観的に考えられるものとされているところでございます」と答えている。
 
 こうしてみると、実質秘と形式秘の違いは、「まだ一般に知られていない事実であって、しかも一般に知られない秘密として守っておくだけの価値がある事実」と、「一般に知られていない事実であって、それを一般に知らせることが一定の利害の侵害になると客観的に考えられるもの」との違いということになる。要するにおなじ事を別な言い方で表わしたにすぎないようだが、しかし「一般に知らせることが一定の利害の侵害になると客観的に考えられるもの」という形式秘は、「一般に知られない秘密として守っておくだけの価値がある事実」という実質秘の一部分であって、ぴったりと重なるわけではない。

○守秘義務と開示義務
 細かいことのようだが、以上のように実質秘と形式秘の違いを整理し、その上で身﨑壽の立場に立ってみよう。
 もし彼の委員会がまだ審議中であり、それにもかかわらず、私がその内容について情報を求めたとしよう。身﨑壽は「守秘義務」を理由に私の要求を退けることができる。なぜなら、内容を私に漏らすことは、指定管理者にエントリーした3団体のうちのどれかに不利益をもたらす可能性がないとは言えないからである。つまり選定過程中の審議内容は、「一般に知られていない事実であって、それを一般に知らせることが一定の利害の侵害になると客観的に考えられるもの」に該当するわけである。
 そしてこのような場合に限り、私は、形式秘という枠組みが必要であることを認める。またその意味で、形式秘とは行政によって暫定的に定められた一時的、過渡的なものであって、絶対的なものではない。私はそう考える。
 
 ところが、身﨑壽の委員会は既に選定を終え、その結論を踏まえて、北海道教育委員会は財団法人北海道文学館を指定管理者の候補者とした。その原案は、平成18年北海道議会第1会定例会で承認された。
 当然のことながら、その選定プロセスは透明でなければならない。道議会が財団法人北海道文学館を指定管理者に決定した段階で、選定委員会に課されていた形式秘は解除されたはずだからである。私が形式秘は一時的、過渡的なものだと言ったのも、この意味にほかならない。
 また以上のような理由により、この時点で身﨑壽には新たな義務と責任が生じ、それは守秘義務ではなく、開示義務と説明責任のはずである。
 
○身﨑壽の不透明
 ただし、差し当たり私が知りたいと思ったのは選定プロセスではなくて、選定された財団法人北海道文学館の「業務計画書」の内容のほうだった。
 4年間で総額5億6千937万円(『北海道新聞』2006年1月6日)の税金を注ぎ込む団体の業務計画に「秘密」があるはずもない。また「秘密」があってはならない。むしろ身﨑壽は私の質問に答えてこそ、財団法人北海道文学館を選定した妥当性と正当性が、より明らかになるはずだろう。
 それなのに身﨑壽は一体何を恐れ、何にはばかって、自分たちの委員会が責任をもって選んだ団体の「業務計画」を実質秘にしたがるのであろうか。
 
 ちなみに、身﨑壽と私の関係について言えば、私は「北海道文学館のたくらみ(5)」で、野田寿雄という教授と私の関係に言及した。つまり野田さんが北大文学部の国文学講座の教授の時、私はその助教授だったわけだが、その後私が野田さんの立場になり、身﨑壽が私の立場となった。それから15年ほど経って、私は定年で北大を辞めたわけだが、身﨑壽はまだ現役の教授であること、言うまでもない。
 私は先月で70歳となり、本を読むスピードも、理解し考える能力も、現役時代の3分の1以下に落ちてしまった。脳も臓器の一つであり、だから疲れることもあるのだということを、最近とみに痛感している。その私が、現役の身﨑壽に、こんなことを噛んで含めるように書いている。何とも情けない。

○身﨑壽の回避術
 もう一つ私が奇異に感じたのは、身﨑壽は自分が用いた言葉の概念までも実質秘にしたがっている点である。
 〈あなたは牛と馬と象を較べて、馬が一番乗り物に適していると結論を下しましたが、その場合の「乗り物に適している」の意味は、背中に乗った時のことですか、それとも、車を引かせた時のことですか〉。そう訊かれて、「
守秘義務がございますところから、審議内容にかかわる御照会の事項につきましては、小生からお答えはいたしかねます」と答える奴は、この世にそうたんとはいないだろう。
 私は牛や象のどこが気に入らなかったのか訊いているわけではない。「乗り物に適している」という文言における、「乗り物」の概念や、「適している」という判断基準を訊いているのである。
 
 それとも、身﨑壽自身は「北方文学」なんて言葉は使わなかったし、財団法人北海道文学館の「業務計画」もそれほど評価していなかった。それにもかかわらず、北海道教育委員のお役人に作文されてしまった。そこで、「
なお、先生から御照会がありましたことは、担当事務局であります道教育庁文化・スポーツ課に連絡しておきましたので、御不審に点につきましては、同課にお問い合わせいただければと存じます」と返事するほかなくなってしまったのだろうか。

 しかし多分、身﨑壽は、私が道教育庁文化・スポーツ課に出向いたとしても、聞きたいことの説明を得られないことは予想していただろう。なぜなら、道教育庁文化・スポーツ課が責任をもって対応できるのは、公文書の開示請求に対してだけだからである。概念や判断基準に関しては、「いや~、私どもは身﨑先生をはじめ、学識経験者の先生方のご意見を尊重して、ああ書いたわけでございまして、先生方のご意見の意味内容について、立ち入った解釈をすることは遠慮させていただきます。やはり、先生方から責任あるご説明を伺うのが、一番間違いのないところではないでしょうか」。おそらくこんな応対があるだけであろう。
 だが私は、必ずしもお役人の逃げ口上とは思わない。身﨑壽たち学識経験者(!!)に頼んで、選定委員会に入ってもらった側の立場としては、これは当然の節度だからである。
 そのあたり、身﨑壽は抜け目なく計算して対応してきたな。その点、いかにも手馴れた感じの身﨑壽の回避術に、私は深く感じ入った。

○絶対秘という考え方
 なお、最後に一つ加えるならば、日本国の情報公開法の第8条は、「
開示請求に対し、当該開示請求に係る行政文書が存在しているか否かを答えるだけで、不開示情報を開示することとなるときは、行政機関の長は、当該行政文書の存否を明らかにしないで、当該開示請求を拒否することができる」となっている。北海道情報公開条例においても、第12条は、「実施機関は、開示請求に係る公文書が存在しているかどうかを答えるだけで、特定の個人の生命、身体又は名誉が侵害されると認められる場合に限り、当該公文書の存否を明らかにしないことができる」となっている。
 
 北海道情報公開条例第12条は個人の情報についての例外的事例、情報公開法第8条は行政の情報についての例外的な事例を主題にしているわけだが、共通する論理はこうなるだろう。私が今ある病院に対して、「Aさんのカルテを見せて下さい」と情報の開示を求めたとする。病院は「これはAさんの個人情報ですから、お見せすることはできません」と答えるはずで、これは個人情報の保護に当たる。
 ただし、Aさんがその病院で治療を受けた/受けている、という事実そのものは、病院も認めているわけである。
 では、私が「AさんのHIVに関するカルテを見せて下さい」と情報の開示を求めたとしよう。もし病院が「いえ、AさんのHIVのカルテは個人情報ですからお見せすることはできません」と答えたとすれば、AさんがHIVに感染した事実そのものは認めてしまったことになる。しかし、そういう事実を認めること自体がAさんの「生命、身体又は名誉」を侵害する惧れがある場合は、「そのようなカルテが存在するとも、存在しないとも、お答えすることはできません」と言って、開示を拒否することができる。これが情報公開法第8条、北海道公開条例12条の論理なのである。
 その意味でこれは絶対秘と呼ぶべきかもしれない。

 私はこの意味での絶対秘が必要なことを認める。と同時に、私たちの社会から絶対秘が出来るだけ縮小していることを望んでいる。それは不可能ではない。HIVに対する排他的、攻撃的な社会的偏見がなくなれば、HIVのカルテを絶対秘とする理由がなくなるだろう。

○北海道文学館の絶対秘?
 私は以上のことを考えているのだが、今これを書いているうちに、えっ?! ひょっとしたら寺嶋弘道や毛利正彦たちは、あのロジックを自己防衛的、自己保身的に使って、亀井志乃が寺嶋のパワー・ハラスメントとしてアピールした事柄を、一種の絶対秘にしてしまおうとしているのではないか。そんなことに思い当たった。
 寺嶋弘道は、亀井志乃が寺嶋のパワー・ハラスメントをアピールして以来、亀井志乃に対して一度も反論しなければ、釈明し、謝罪することもしていない。一切そのことに触れようとしていないわけで、どうやら〈もし反論すれば、反論したこと自体、何らかの行為があったことを認めることになる。だからパワー・ハラスメントがあったともなかったともお答えできなせん〉という作戦らしい。
 神谷忠孝も毛利正彦も平原一良も、亀井志乃が実態の調査と判断を何回要求しても、一切取り合わず、黙殺を続けている。これも、〈実態の調査をしたとも、しなかったとも、お答えできません〉という戦術なのであろう。
 
 しかしもちろん情報公開法第8条や北海道情報公開条例第12条が護ろうとしていることと、寺嶋弘道や毛利正彦たちが「護ろう」としていることとは、まるで違う。動機も内容も正反対である。
 だが、〈私どもとしてはあったとも、なかったとも言いようがないことを、ブログで書きたてている人がいて、困っています〉みたいな彼らの〈言い分〉に、耳を貸す人もいるらしい。一見もっともらしいロジックに引っかかって、鵜呑みにしてしまう人がいたのである。

 いや、いや、彼らにそんな作戦・戦術があるわけでなく、ただひたすら知らぬ顔の半兵衛を決め込んで、時間稼ぎをしているにすぎない。要するに身﨑壽が「守秘義務」に逃げ込んだ手口に刺戟された、私の深読みではないか。そんなふうに考え直しているところであるが、そう言えば身﨑壽の切り口上は、毛利正彦の「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」(「資料編・資料7」参照)に似ている。何だかそんな気がしてきた。

【2007年3月21日追記;資料編 http://fight-de-sports.txt-nifty.com/wagaya/に資料9「北海道文学館の隠蔽体質」を載せました。身﨑壽が何故ああいう返事をしたか、北海道文学館がなぜ異常なほど亀井秀雄と亀井志乃を警戒しているのか、その背景がお分かりいただけると思います。】

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

北海道文学館のたくらみ(10)

新聞とブログ

○文学館側の〈言い分〉?
 一昨々日(2月27日)、北海道新聞社の記者から電話があった。〈亀井秀雄のブログで、北海道文学館で起ったパワー・ハラスメントのアピールほか、一連の記述を読み、文学館に問い合わせたところ、パワー・ハラスメントはなかったという返事だった。文学館の言い分とは食い違う点があるので、もっと事情を知りたい。もう一つ、なぜブログを使ったのか、その理由も知りたい〉。そんな主旨だった。
 
 新聞記者としては当然の配慮だろう。だから私は、べつに悪意に受け取ったわけではないが、「文学館の言い分」という言い方にカチンと来たので、つい言葉がきつくなってしまった。
 それは〈言い分〉ではなくて、〈言い訳〉〈言い逃れ〉〈誤魔化し〉ではないか。
 亀井志乃はきちんと事実を挙げ、条理明らかな形で質問をし、要求をしてきた。ところが文学館側は、亀井志乃が挙げた事実と認識に対して、何一つ反証していない。また、亀井志乃が問いかけた「任用方針」の決定のプロセスや、決定の正当性について、文学館側は全く答えようとしていない。はぐらかし、拒否し、その後は知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる。これは、文学館側には何の〈言い分〉もない証拠ではないか。
 
 もし文学館側が亀井志乃の挙げる事実を具体的に検討し、亀井志乃の論理と認識に対応し/対抗し得る論理と認識を主張し、それでもまだ互いに納得できない点が残るならば、「双方に〈言い分〉がある」と言うことも出来るだろう。つまり対等の〈言い分〉と扱うことが許されるだろう。
 しかし、拉致被害者の家族の訴えと主張と、北朝鮮の反応を見て、両者双方に対等の〈言い分〉があると考える人はまずいないだろう。仮に北朝鮮がモスクワや北京に対して何か説明らしい言辞を弄したとしても、そんなことは横田さん夫妻にとって――そして全地球の大部分の人にとっても――何の〈言い分〉にもならないのである。

 私は以上のようなことを、そのままそっくり道新の記者に言つたわけではない。ただ、私が「北海道文学館の側には〈言い分〉などない」と言つた理由は分ってもらえたと思う。
 丸山真男の「「である」ことと「する」こと」の言い方を借りるようだが、事実を挙げ、条理を通そうとする言説実践(実績)なしに〈言い分〉は生まれないのである。

○ブログの効用――空間性―
 そしてその翌日、つまり一昨日(2月28日)、その記者が小樽文学館に私を訪ねてきた。記事にする方向で取材をしている、という。印象のよい人で、質問も当を得ており、私もできるだけ率直に答えた。
 それが記事にどう反映されるか。それを待つことにして、具体的な応答の紹介は省略したいと思う。ただ、前日の質問にあったことでもあり、私のブログの使い方について語った内容だけは、ここに紹介しておきたい。私はあらましこんなふうに答えた。

 いま仮に私がブログを使わない人間だとしよう。その状態で、亀井志乃が去年から経験してきた事態が起ったとすれば、どんなに亀井志乃がパワー・ハラスメントをアピールし、解雇の不当性を訴えても、これまでの経過で明らかなように、文学館側ははぐらかしたり、黙殺したりして、訴えや要求を握りつぶし、なし崩しに時間稼ぎをして、最後は雇用期間切れを理由で追い出してしまうだろう。
 その経過をよく知らない人が、何かの機会に、亀井志乃が辞めた理由を聞いたとしても、「いや、あの人はむずかしい性格の人だったので」とか、「臨時で働いてもらった仕事が一応終りましたので」とか、文学館に都合のいい理屈で言いくるめられてしまう。そういう結果は目に見えている。
 
 私は初めからブログで取り上げたわけでなく、文学館側が誠実に対応することを期待して、様子を見ていた。だが昨年末の12月27日、館長毛利正彦の名による「回答」を読み、その不誠実な対応から、毛利以下の幹部職員がほとんど問答無用で亀井志乃を追い出そうとしている意図を察知した。そこで、北海道文学館でどんなに理不尽なことが行われようとしているか、ことの経緯を、ブログで明らかにすることにした。
 
 この記事については、アメリカや韓国からもメールや手紙が届いているが、日本の大学は言うまでもなく、アメリカや韓国の大学でも、若くて立場の弱い研究者たちがパワー・ハラスメントやアカデミック・ハラスメントに苦しめられ、しかし効果的な対応策も立てられないまま、泣き寝入りを強いられている。ブログによる、こういう戦い方もあるのだと、教えられ、勇気づけられた。そういう反響が来ている。

○ブログの効用――時間性―
 ブログというメディアの有利な点は、このように空間的に国際的な拡がりを持ち得ることだが、「時間」的にも独特な強みを持っている。
 その一つは時間的に素早く対応できることであって、ペーパーメディアを通して何事かをアピールする場合、編集者に事情を聞いてもらったり、原稿を送って掲載の可否を判断してもらったり、活字になるまで時間がかかる。いや、活字にしてもらう以前に、ありふれた話として聞き流されたり、原稿がボツになったり、結局空振りに終ってしまうかもしれない。
 ブログはそれに対して、事態の動きに同時進行的に対応しながら、現場感覚で事情を説明したり、意見を述べたりすることができる。
 今日(2月28日)取材したことが記事になり、それを拝見して私が何らかの意見を持った場合、それを北海道新聞に書かせてくれと要求することがあるかもしれないが、そんな歯がゆいことは飛ばして、むしろブログで即座に反応する方法を選ぶだろう。そんな意味のことも語った

 ブログには必ずその記事をアップした日時が明示され、しかも他者の意見や反論が書き込めるように「開かれている」。その書き込みの日時も明示される。
 その意味で、時間的な記録性、あるいは証拠能力が極めて高い。
 「北海道文学館のたくらみ」という一連の記事も、何時の時点でアップしたか、ちゃんと記録されている。また、今年の1月18日から「資料編」を始めたわけだが、資料に書かれた日付けだけでなく、その資料をブログに紹介した日時も明示されている。
 このように形成された記録のリアリティに、もし文学館側が対抗したいならば、文学館のブログを開くか、または私のブログにコメントを書きつける形で、自分たちが何時どのようなことを行い、それをどの時点で相手に伝えたかを明記するしかない。その時系列的な対応関係に裏づけられない〈言い訳〉を、どんなにもっともらしく新聞記者にしゃべっても、それは何のリアリティも持たないし、効力も持ち得ないだろう。

○瞬時の現前性
 ブログの記事は、いつでも鮮度の高い情報を伝えることができる。ペーパーメディアの記事は、時間の経過とともに、紙の堆積の中に埋もれてしまい、よほど高い関心の持ち主でないかぎり、わざわざ埃を払い、ページをめくって読もうとはしないだろう。まして何日か間を置いて、飛び飛びに書かれた関連記事や、週刊誌記事や、月刊誌記事など、全部を探し出して目を通そうという人は、ごく稀にしかいない。
 ところがブログの記事は、そのURLをクリックするだけで、何ヶ月前、何年前の記事も、瞬時に現前し、鮮度はいささかも失われていない。連載記事も続けて読むことができ、事態の推移や書き手の考え方を容易に辿ることができる。
 
 私のブログは現在、1日平均250くらいのアクセスがある。(ホーム・ページのほうは、最近更新をしていないので、1日に平均60前後。)何百万という発行部数を誇る新聞に較べれば、ごくごく僅かな人の目にしか触れないわけだが、しかし見方を変えれば、250の何倍かの人が積極的な関心を持ち、半月か一ヶ月に一遍くらいの頻度で読みに来てくれる。これほど心強いことはない。
 その中には私に批判的な人もいるだろうが、にもかかわらず関心を持続してもらえることの意義は大きい。
 もし私が北海道新聞に書かせてもらうならば、その文章は何百万かの人の目に触れる可能性があるわけだが、文化欄に目を通す人はその何百分の1程度だろう。仮に目を通したとしても、そんなこともあるんだな、と読み流してしまう。北海道文学館の現状に関心を喚起され、問題意識を抱いてくれる人は、またその何百分の1程度かもしれない。もちろんそのメリットは大きいが、私自身としては、継続的に私のURLをクリックしてくれる人を大切にし、その人たちの理解に賭けたいと思う。
 
○北海道情報公開条例の保証
 私は1月25日の「北海道文学館のたくらみ(6)」から、寺嶋弘道主幹や、川崎信雄業務課長の実名を出すことにした。もともと彼らは対外的な責任を負う管理職であり、特に寺嶋弘道は自分を管理職扱いにすることを高圧的に強要してきた男であるから(「北海道文学館のたくらみ(4)」参照)、実名を出すことに何の問題もない。いや、実名を出さないで、彼のプライドを傷つけていたかもしれない。
 ただ、私の当面の狙いは、神谷理事長や毛利館長や平原副館長の対応を糾すことだった。そのため、寺嶋や川崎の実名は伏せておいたのだが、「北海道文学館のたくらみ(6)」で書いたように、毛利正彦の筋違いな言いがかりがあり、それならば亀井志乃の名前を出す。同時に寺嶋や川崎の名前も出させてもらうぞ、ということになったわけである。

 理由はそれだけではない。「北海道情報公開条例」の第11条に、「実施機関は、開示請求に係る公文書に非開示情報が記録されている場合であっても、当該情報を開示することが人の生命、身体、健康又は生活の保護のため公益上必要があると認めるときは、当該公文書に係る公文書の開示をするものとする。」とある。
 仮に寺嶋弘道や川崎信雄の実名が非開示の個人情報であるとしても、文学館内の人権侵害や、一方的な生活権の侵害を止めさせ、文学館内の風紀を正すことが、そのまま公益を守り、高めることにつながる以上、彼らの実名が記された公文書――亀井志乃のアピール文や質問・要求文、それに対する毛利正彦や神谷忠孝の「回答」「返答」も公文書であること、言うまでもない――の開示は可能であり、開示すべきなのである。

○できれば私のURLを
 私は以上のほかにも、私におけるブログの意味について語ったが、少し自慢話も混じっているので紹介は遠慮したい。どういう記事になるのか、もちろん分らないが、一つ希望を言えば、私のブログのURLを紹介してもらいたい。できるだけたくさんの人に、私の記事と資料編をきちんと読み通し、その上で是非を判断してもらいたいからである。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »