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北海道文学館のたくらみ(9)

亀井志乃の戦い

○嫌がらせの波
 2007年2月17日、亀井志乃が担当する企画展「人生を奏でる二組のデュオ~有島武郎と木田金次郎 里見弴と中戸川吉二~」(―3月18日)がオープンした。
 無事オープンに漕ぎつけるまで、彼女は胃が痛くなるような緊張の毎日を過ごしてきた。労働組合もない小さな職場で、嘱託職員という一番弱い立場にありながら、いや、一番弱い立場であればこそ、〈たった一人の戦い〉を強いられ、少しのミスも許されないプレッシャーを受けながら準備を進めなければならなかった。

 亀井志乃はかなり早い段階で、まず自分の構想を、具体的に展示設計図の形で描いてみた。それを遺族の方々や研究者に送って、アポイントを取り、足を運んで、今回の取り上げ方について理解を求めたり、展示の方法について意見を聞いたり、資料の便宜を図ってもらう。
 これは展示の担当者として当然の手順であり、しかし大変に注意深い気配りを要する仕事であるが、ちょうどそれが軌道に乗り始めた時期、学芸主幹の寺嶋弘道から文学碑データベースに関するサボタージュの言いがかりをつけられた。
 それ以前から、寺嶋に侮蔑的な言葉を吐きかけられ、大学図書館へ閲覧に出かけるだけでも文書の書き直しをさせられる。これはパワー・ハラスメントではないかとアピールし、職場環境の改善を求めたところ、12月の6日、文学館長の毛利正彦から突然、来年度は雇用しない「方針」を言い渡された。展示の準備が胸突き八丁に指しかかった時期である。

 この通告が、どんなに亀井志乃の意欲に水をかけ、気勢を殺ぐものであったか、容易に察しがつくと思う。もし毛利の通告通りになってしまうならば、この展示でどんな結果を出そうとも、それが次年度の自分の仕事につながる可能性を絶たれてしまうのである。

○強いられた受け身の対応
 それに対する亀井志乃の対応が、果たして的を得ていたかどうか。あるいは、どの程度有効であったか。残念ながら、その結果はまだ見えてこない。本人も歯がゆいところが多いだろう。
 
 彼女はこの企画を実現するために、さまざまなところへ出向いて、資料を見せてもらい、借用の手続きをし、美術品運搬の専門業者や、図録の業者と打ち合わせをし、文学館では退館時間の後も残ったり、業者のもとに出向いたりして、作業を進めてきた。自宅では寝る間も惜しんで、夜遅くまで図録を編集し、原稿を書いてきた。
 私のブログを読んで、法務省の人権問題窓口へ出かけることを助言して下さった方もいた。また、亀井志乃自身も電話でおおよそのことを伝え、どう動くべきか教えてもらっている。だが、本人が記録を整理して出向くだけの時間を見つけることができなかった。毛利や神谷や平原がのらりくらりと時間稼ぎの対応をしながら、亀井志乃を排除するために既成事実を作っている。そのことが分っても、法的な対抗手段を取る時間的な余裕がない。
 だが、絶対に引き下がらない意志だけは表明しておかなければならない。そのためには、きっちりと筋道の立った異議の申し立てだけは続けよう。多分そう考えて、彼女は時間をやり繰りして、彼らの不当を指摘し、質問し、要求書を出してきた。
 そういう事情の下で、唯一可能な対応だったわけだが、失点を重ねたのは、むしろ神谷や毛利や平原や寺嶋のほうであろう。
 
 彼女にはもう一つ、2月25日(日)、「有島兄弟と北の創作者――後志文化圏と釧路の大地―」という文芸セミナーが待っているのだが、とにかく神経をすり減らすような準備作業は終わり、法務局その他、人権問題を扱う機関や組織へ出向く時間も取れるようになった。
 自分のホーム・ページを開き、これまでの経緯を、自分のノートに基づいてしっかりと書いてゆくつもりだ、という。
 
○なりふり構わぬ嫌がらせ
 その意味で新しい局面を迎えることになったわけだが、とにかく無事ここに漕ぎ着けるまで、どんな嫌がらせが続いたか。一つ二つ例を挙げるならば、寺嶋弘道が担当する企画展「『聖と性、そして生』~栗田和久・写真コレクションから~」が、開催を目前に控えて突然、中止になった。このことは「北海道文学館のたくらみ(5)」で触れておいた。

 平原一良と寺嶋弘道はそれを埋め合わせるつもりだったのかもしれない。昨年12月9日に始まった「『書斎の余滴』~中山周三旧蔵資料から~」は12月24日に終る予定だったが、期間を延長して、今年の1月27日まで続けることにした。
 つまり、栗田和久展が終る予定だった日まで、中山周三展を引き延ばしたわけだが、とにかくそれが終れば、特別展示室が空く。亀井志乃はその展示室に資料等を運び、具体的に配置しながら、全体のバランスや効果を確認する作業に入る予定だった。
 ところが寺嶋弘道はその展示室を、亀井志乃に断ることなく、――準備期間を含めてのことだが――1月28日から2月8日まで、イーゴリとかいうロシアの写真家の写真展に使ってしまったのである。
 
 全くひどい話だが、その写真展は年度当初から予定に組まれていたわけではない。いわば予定外の展示を、衝動的に割り込ませて、特別展示室を塞いでしまった。そのためだろう、北海道立文学館のホーム・ページの「行事案内」では、一言もそのことに言及していない。

 亀井志乃は憤慨するより、なりふり構わぬ妨害にむしろ呆れ果てて、「二組のデュオ」展覧会の副担当の若い学芸員に、「この写真展はいつ決まったの?」と訊いてみた。学芸員の返事は「いや~、分りません、聞いていませんでした」。
 それでもまだ亀井志乃は、少なくとも他の職員たちはこのことについて知っていると思っていた。ところが、その週は、寺嶋からも平原からも、全く説明がなかった。漸く翌週の火曜日の〈朝の打ち合わせ会〉に至って、寺嶋が「写真展をやることになりました……現在、やっております」と、事後承諾を求めた。
 
 「北海道文学館のたくらみ(3)」で紹介したように、亀井志乃が〈打ち合わせ会〉で、これからの行動予定のリストを配り、「
外勤・出張の可能性のある所と時期について説明した」。ところが寺嶋弘道はそれをあげつらって、「打ち合わせ会というのは、すでに決まったことを報告するところだ」となじった。それが筋の通らない言いがかりでしかないことは、「たくらみ(3)」で指摘しておいた。
 ただ、ある意味で「
打ち合わせ会というのは、すでに決まったことを報告するところだ」という理屈と、今回のやり方は、寺嶋の中では辻褄があっているのだろう。要するに寺嶋にとって、〈打ち合わせ会〉は、まず既成事実を作ってしまい、それを事後承諾させるための会であって、それ以外の会では都合が悪いのである。
 
 だが、それはあくまでも寺嶋自身にとっての都合であって、もし亀井志乃が同じように、まず既成事実を作り、事後承諾を求めたとすれば、寺嶋弘道はここを先途と亀井志乃の独断専行を非難し、責め立てただろう。
 寺嶋のこの身勝手な自己中心主義は、ひょっとしたら北海道教育委員会が送り出す駐在道職員に共通のキャラクターかもしれない。北海道教育委員会における寺嶋弘道の先輩職員・毛利正彦もそんな傾向が顕著に見られる。ただ、その毛利正彦の言によると、寺嶋弘道は平原一良には大変に「従順」であるらしい。
 とするならば、多分あの写真展についても、平原一良とだけは事前に相談していた。もしそうでなければ、平原から唆されていた。少なくとも寺嶋弘道の一存ではなかった。そう考えて差し支えないだろう。

○厚顔な神谷忠彦の挨拶
 ただし、その写真展が質量共に優れたものであり、しかもテーマや内容が、現在の日本人にぜひ見てもらいたいほど緊急性の高いものであるならば、突然の割り込みも、あるいはやむを得ないのではないか。
 私は一応そういう保留をつけて、その写真展の話を聞いていたのだが、実際に見てみると、そんな要素はまるでなかった。

 私は2月3日、北大の法学研究科(法学部の大学院)の林田教授や長谷川教授がやっている研究会に招かれて、「裁判と文学」の話をさせてもらった。そして6日、その時に使った資料を返すために北大の図書館へ行き、別な資料のコピーを取った後、道立文学館まで足を延ばして、展示室のほうへ降りて行った。
 すると、特別展示室の入り口から2間ほど奥に移動壁を立て、その両脇にも移動壁を立てて、臨時の小さな展示コーナーを作り、A3程度の大きさの写真が、10点ほど展示してある。そのコーナーからはみ出す形で、さらに数点の写真が、ロビーの壁にも貼ってあった。
 もちろんその程度の数だから、仮に臨時の展示コーナーの写真を全てロビーの壁に移したとしても、窮屈な印象を与える心配はない。写真そのものも、素人芸に毛が生えた程度の凡庸なものばかり。なぜこんな写真を、この時期、特別展示室の入り口を塞ぐ形で展示したのか。
 亀井志乃にしてみれば、そういう疑問は禁じえなかっただろう。
 
 もっとも、平原一良はさすがに気が引けたのか、亀井志乃に、〈写真展に使う空間は、特別展示室のごく一部でしかない。だから、入り口を塞ぐ移動壁の奥で展示の準備を進めても、別に差し障りはないのではないか〉と声をかけてきた。寺嶋のやったことを取り繕うつもりだったのかもしれない。
 ところが、寺嶋が配電盤に「照明はライティングレールのみ点灯に変更しました」と附箋を貼ってしまった。そのため、特別展示室全体の電気をつけることができない。この念入りな悪意に、亀井志乃はウンザリした表情で、苦笑いを浮かべながら、「まあ仕方がない。特別展示室が空いたら、どんな順序で資料を運び込むか、手順を考えながら、作業室で準備しておくことにした」。
 
 この展示は8日までということだったので、一応その日の夕方には、写真は撤収された。しかし9日は、亀井志乃は1日かけて岩内と道立近代美術館から作品を集荷しなければならなかった。また、翌10日には、半日かけて、地下鉄の各駅にポスターを貼ってこなければならなかった。
 この亀井志乃の行動は、事前に皆が分っていたはずである。だから寺嶋が8日に写真を撤収したからと言って、それは必ずしも彼女が直ちに展示室の作業に入れるための配慮だったわけではない。
 亀井志乃が実際に展示室の作業に入ることができたのは、実質的には2月11日からのことだった。オープンまで残された時間は、1週間を切っていた。200点を超える展示資料を配置するだけでなく、キャプションをつけ、説明や案内のパネルも貼らなければならない。亀井志乃は非出勤日も返上して、夜遅くまで作業をし、それでもまだ足らないため2日ほど札幌のホテルに泊まることにした。そして漸く16日の夜に形を整えて、11時過ぎに家に帰った。
 
 その間、展示に使うべく一括してまとめて置いた資料から、有島武郎の画帳が一冊見えなくなるという〈事故〉が起った。慌てて2時間も3時間も探し回らなければならなかったわけだが、しかしこれは嫌がらせではなく、他人の仕事にはトンと無関心な職員が、自分の仕事のために持ち去り、元に戻さないで帰宅してしまったためだった。
 準備の最終日には、その職員を含めて、学芸課の何人かが手を貸し、業務課では皆に夜食を用意してくれた、という。
 
 その翌日、簡単なオープニングのセレモニーがあり、私も出席したが、理事長の神谷忠孝が「これは学芸研究員の亀井志乃の企画だが、皆で汗かいてやった結果だ」などと挨拶していた。この男、自分たちがやってきたことを棚に上げ、人前を言葉で取り繕うことしか考えない。浅ましい人間になり果ててしまったのだろう。

○〈嫌がらせ〉総がかりの手口
 だが、寺嶋弘道だけがこのような嫌がらせを続けたわけではない。亀井志乃が寺嶋のパワー・ハラスメントをアピールして以来、一番の嫌がらせは、毛利正彦による解雇通告だったと言えるだろう。毛利正彦が亀井志乃の質問や要求を真正面から受け止めず、小馬鹿にしたような応対を続けてきたことも、もちろん嫌がらせに入る。
 
 寺嶋や毛利の、そういう嫌がらせ手口を、今、〈特定の人間をターゲットに、一種反論しにくい形で、杓子定規に「決まり」を押しつけるやり方〉と抽象化してみよう。この手口は現在、日本のさまざまな職場で見られると思うが、北海道文学館の場合、亀井志乃が毛利通告の白紙撤回を求めた頃から、文学館総がかりで、そういう状態になっていった。
 それまで亀井志乃の構想や準備の進め方には関心がなく、展示予定の資料リストを見せて意見を求めても、ただパラパラとめくるだけで、突き返してきた。その連中が、急に〈展示は皆のものだから〉と言い出し、では、手助けをするのかと言えば、そうではない。依然として構想や内容に関心を示すことなく、だが、まるで亀井志乃が自分の仕事を抱え込んでしまっているみたいな、トゲのある言葉を織り交ぜながら、杓子定規に「決まり」を適用して、彼女の行動や経費に細かいチェックを入れてくる。
 亀井志乃が、どこそこの図書館で、これこれの関係の図書を見てきたい、と起案書を書く。すると、閲覧予定の図書のタイトルを全部列挙するように、と書き直しを命ずる。そんな煩瑣なことが、日常化してきたのである。
 
 もう一つ例を挙げるならば、亀井志乃は昨年の12月14日、資料を貸してくれる人との打ち合わせのため、東京まで日帰りで行ってきた。
 彼女は時間契約の嘱託職員であり、文学館側の希望により週に4日、勤務することになっていた。12月14日の木曜日は彼女の出勤日ではなかったが、相手の都合によりこの日となったのである。東京への日帰りだから、朝の6時に家を出、夜の10時過ぎに帰宅することになった。
 当然彼女は、この日を出勤日扱いにして、翌15日は休ませてもらいたいと考え、あらかじめ業務課に申し出た。ところが業務課の返事は、「それは出来ない」ということだった。その理屈はこうだった。〈亀井志乃が相手の人と打ち合わせする、いわば勤務時間は、長く見積もってもせいぜい3時間程度。それ以外は移動のために要する時間だから、勤務時間に数えることは出来ない。よって15日も出勤してもらわなければならない〉。
 亀井志乃は「まあ、今の文学館って、そんなものなのよ」と割り切って、15日も出て行った。

 確かに業務課の言うことも一理ないわけではない。私は昨年、釧路の大学から集中講義を依頼されたが、〈移動に要する時間も勤務時間に数えてくれ〉と言い出したら、相手側が迷惑するだろう。
 私はそんなふうに、つい自分の作った理屈に自分ではまりそうになったのだが、しかし待てよ。それじゃあ、フルタイムの正職員の場合はどうなんだ? 
 平原一良や寺嶋弘道や鈴木浩が東京へ出張してくる。仕事そのものに要する時間は4時間として、それでは、往復に要した〈非勤務時間〉はどう処理するのだろう。彼らはその時間分、休館日に出てきて仕事をしたり、閉館後に残業したりして、きっちりと埋め合わせをしているだろうか。もし全てを杓子定規に処理するならば、彼らは当然そうしなければならないはずだが、亀井志乃の見るところ、「そんな几帳面なことはやっていないみたい。あの人たち、正職員の当然の権利だと思って、自分のやってることを疑問に感じたこともないでしょうね」。
 それでは逆に、亀井志乃が東京で勤務した3時間や、退館時間後も残って仕事をした時間について、契約外時間勤務手当てが出るだろうか。「う~ん。そういうお金を出すから、請求してくれ、なんて親切なことは言われたことがなかったなあ」。

○連帯感に支えられた発見の戦い
 しかし私の見るところ、亀井志乃はそういう仕打ちを受けながら、決して気持を腐らせたり、投げやりになったりすることはなかった。もちろん彼女には、卑劣なやり方で自分を追い出そうとする毛利正彦たちに対する意地があっただろう。だが、それだけでなく、もっと大きな要因として、準備過程で知り合った人たちの好意や期待や信頼に応えたいという義務感、というよりは、むしろ好意や期待や信頼を寄せられたことに対する精神的な昂揚感があり、そこから生まれた連帯感に支えられてきたのである。
 もともと彼女は、この企画を実現することにクリエーティヴな喜びを見出していたが、関連資料を所蔵する文学館や美術館を訪ねて、意見を聞き、知識を借り、自分の視野に入っていなかった資料の在り処を教えてもらい、協力をお願いに出かけてゆく。
 このように小まめに身体を動かし、丹念に資料を掘り起こし、視野も拡がってきた。その結果、有島武郎と木田金次郎の関係を、早川三代治や高田紅果たち小樽・後志圏の文学や芸術運動の中で、新たに捉えることができるようになった、という。
 
 また、有島武郎の弟・里見弴と、釧路の中戸川吉二との関係について言えば、友情に近い二人の師弟関係から、厳しい葛藤へ、そして互いに作品を発表し合う批評的競作のドラマが見えてきた。それだけでなく、中戸川の作品を通して、石川啄木や原田康子によって作られた釧路のイメージとは異なる、道東の快闊な世界を新たに甦らせることができた。里見弴たち『白樺』のグループと、芥川龍之介や菊池寛たち『新思潮』のグループの交流という、文壇史的・文学史的に重要な出来事も、中戸川の仲介なしにはありえなかった。その興味深い経緯も見えてきた。
 多くの人の協力と期待と信頼を受けて、このように誇るべき発見を得ることができ、そのおかげで精神的な昂揚が更にいっそう高まったのである。

 初めにも言ったように、亀井志乃は労働組合もない小さな職場で、〈たった一人の戦い〉を続けている。そのため職場では、相手につけ込む隙を与えないよう細心の注意を払いながら仕事を進め、家では寝る間も惜しんで、夜遅くまで作業に追われる。そういう毎日を送り、かなり疲れているはずなのだが、「不思議に、追い詰められた感じがしない」と語っていた。精神的な昂揚感のほうが勝っていたおかげだろう。
 
 以上のような意味で、2月17日にオープンした企画展は、亀井志乃自身にとっては、打ち続く嫌がらせやプレッシャーに屈しなかった証しなのである。

 

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北海道文学館のたくらみ(8)

神谷忠孝の致命的な失態

○神谷忠孝の奇妙な返書
 前回に紹介したように、今年の1月17日、文学館長の毛利正彦から嘱託職員・亀井志乃に「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」という文書が渡された。しかし亀井志乃は「これは回答の体をなしていない」と批判し、理事長の神谷忠孝に「神谷忠孝理事長の責任ある回答を要求する」という要求書を送った。(「要求書」の全文は、資料編
http://fight-de-sports.txt-nifty.com/wagaya/の資料7を参照されたい)。
 それに対して、神谷忠孝からペン書きの返書が、2月6日、亀井志乃に郵送されてきた。次に紹介するように、それは形式、内容、いずれも整わず、何か無残な荒廃を感じさせるものだった。
《引用》
 
前略 平成十九年一月二十二日消印の理事長宛文書を受け取りました。二月六日までに回答書を直接渡してくださいとの要望ですが、本務校の入試業務に専心しているため手紙で回答します。
 この件については、一月十七日に毛利正彦館長から回答させた通りです。
  平成十九年二月四日
   財団法人北海道文学館理事長
        神谷忠孝 印

 
亀井志乃殿

 これを公的な文書と見れば、文書のタイトルが明記されていない。毛利正彦の「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」もひどい文章だったが、さすがにタイトルをつけることは忘れていなかった。ところが神谷の返書は「前略」と始まり、おまけに「この件」が何を指すか、この文書内では特定できない。「この件」とは、亀井志乃の「神谷忠孝理事長の責任ある回答を要求する」の内容と要求事項を指すのだろうが、その意味で神谷の返事は他人の文章に依存した、片手落ちの、非自立的な文章でしかないのである。
 この依存性は、「
一月十七日に毛利正彦館長から回答させた通りです」にも現われている。自分の言葉で説明し、回答する意志も自信もなかったのであろう。

 では、これは私信なのか。しかし彼は、館内で起った出来事の事実認識や、財団の人事に関する質問や要求への返答としてこれを書き、しかも北海道文学館における自分の地位、肩書きを明記して、署名・捺印している。公文書として受け取り、扱うほかはない。
 そこで、公文書・書式マニアの寺嶋弘道さん、一つ相談なのだが、立場の弱い嘱託職員にばかり威張らないで、おたくの上司たる毛利館長や神谷理事長に、まともな文章で、形式整った文書が作成できるよう、助言してやってくれませんか。お願いします。

○公文書とは
 しかし、まだ私には疑問が残る。
 神谷忠孝が亀井志乃に送った先ほどの文書は、一人の私人の立場で、もう一人の私人に送った私信ではない。一人の公人(財団法人北海道文学館理事長)の立場で、もう一人の公人(財団法人北海道文学館嘱託職員)に送った、公文書なのである。
 当然それは公文書として記録に残り、だから第三者が公文書として開示を求めた場合、それを開示しなければならない。この大事な原則を、神谷忠孝はどこまで自覚していただろうか。

 公文書や情報公開の問題は、私の今後の記述や行動と深く関係するので、あえて寄り道をさせてもらうならば、どうやら一般的には、〈情報公開法で言う「情報公開」とは、行政の方針や決定事項を一般に周知させることだ〉という程度に理解されているらしい。
 確かにそれも情報公開の一部ではあるが、むしろそれは行政の広報活動と言うべきだろう。情報公開法の趣旨は、行政が何ごとか方針を決定する場合のプロセスや、その実施過程を透明化することであり、だから情報公開とは、そのプロセスを示す/プロセスで用いられた公文書を開示することなのである。
 しかもこの場合の「公文書」は、単にペーパー文書だけを意味するわけではない。「北海道情報公開条例」に従うならば、「
実施機関(知事や教育委員会など、行政の主要な機関)が作成し、又は取得した文書、図画及び写真(これらを撮影したマイクロフィルムを含む。)並びに電子計算機による処理に使用された磁気テープ、磁気ディスクその他一定の事項を記録しておくことのできるこれらに類する物であって、実施機関が管理しているもの」(第二条三項)、これらが全て公文書に入るわけである。
 毛利正彦が亀井志乃に渡した「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」は、明らかにパソコンから刷り出したものであり、多分彼のパソコンにはそのデータが残っている。それも公文書であること、言うまでもない。

 ところが神谷忠孝が亀井志乃に送った文書は、便箋1枚に万年筆で手書きされたものであり、もし彼がその複写を手元に残しておかなかったならば、彼は自分の行為を公文書によって説明する手段を失ったことになる。
 
○公文書の開示
 もう少し具体的に説明してみよう。
 たとえば独立行政法人の国立大学が教員を採用する場合、現在は公募制を取ることが多い。
 
 その一般的なやり方は、まず教授会が選考委員会を作ることを決定し、選考委員を選出する。こうして結成された選考委員会が、教員候補者の募集方針を決めて、これを広く公表し、それに応募した人が提出した履歴書や研究業績一覧や、著書・研究論文などを審査して、教授会に審査結果を報告する。 
 教授会はその報告を受けて、質疑応答を行い、次回の教授会で投票して採否を決めるわけだが、この決定に至るまでの文書(応募者から提出された履歴書や著書・研究論文、審査結果の報告書、教授会義理録など)や、議事録などを、国立大学では「法人文書」と読んでいる。それに相当するものを、北海道庁では「公文書」と呼ぶらしい。
 この法人文書は、公募に応じた応募者だけでなく、たとえ第三者からであっても、開示の請求がある時は、その請求に応じなければならないのである。
 
 私は北海道大学の情報公開の方針を策定する委員会の委員をしたことがあるが、その委員会でどんな議論をしていたか。最も分りやすい具体例を、もう一つ二つ挙げるならば、私たち教師は教授会で、学生の取得単位や成績一覧表を見て、教養課程から専門課程への進級を決定したり、卒業要件を満たしているかどうかを判断したりする。この場合の取得単位表や成績一覧は教授会資料として配布されたものであり、当然公文書(現在では法人文書)として保管される。
 だが、それだけでない。この取得単位や成績には、学生の答案やレポートに関する教員の評価(採点)が反映されている。それによって私たちは進級を認めたり、卒業予定者を決定したりするわけだが、そうである以上、答案やレポートも公文書(法人文書)に入るだろう。
 また、一つの講義課目を複数の教員が担当し、学生の成績評価に関して、電子メールで意見の交換を行う場合もあり得る。この電子メールは成績評価の合意が形成される過程の記録であり、もちろん公文書(法人文書)に数えなければならない。
 
 そうなると、誰が責任をもってその公文書(法人文書)を管理するかが問題になる。教授会資料や議事録は事務部が保管・管理するわけだが、学生の答案やレポートなどは「教員保有文書」として、個々の教員に保管・管理させるのが妥当だろう。
 ただ、そのやり方をそのまま進めると、「教員保有文書」が膨大なものになりかねない。だから、次善の策として、一定の年限までは答案やレポートなどの保管を義務づけ、その期間を過ぎたものについては、保有するか廃棄するか、教員の判断に任せてもいいのではないか。
 
 では、誰が答案やレポートの開示を請求できるだろうか。点数や成績評価は個人情報として護られなければならず、だから原則として「不開示」(「北海道情報公開条例」では「非開示」)とすべきだが、本人自身から請求があった場合は、「本人情報」として開示すべきだろう。入学試験の結果に関する、受験生自身の請求も同様に扱うべきではないか。
 
 私たちはそんなふうに、想定できる様々な事例を一つ一つ検討してきた。私自身は成案ができる前に、文学部を代表する評議員の任期が終わり、それと共に情報公開に関する委員会も退いた。それから間もなくして定年退職となったわけだが、その4年後の平成16年に、「国立大学法人北海道大学情報公開規定」や「同文書管理規定」が評議会決定された。私たちの議論はこれらの規定や、これらの運用に関する申し合わせに反映されていると思う。
 
○「北海道情報公開条例」の場合
 以上のような経験を持つ私から見ると、「北海道情報公開条例」はまだかなり粗っぽい印象が強い。しかしもちろん個人のプライバシーを保護する条文は含まれており、「非開示情報」については、次のように定義している。
《引用》
 
個人の思想、宗教、身体的特徴、健康状態、家族構成、学歴、職歴、住所、所属団体、財産、所得等に関する情報(事業を営む個人の当該事業に関する情報を除く。)であって、特定の個人が識別され得るもののうち、通常他人に知られたくないと認められるもの(第十条一項)。
 
 ただし、ここに列挙されたもの全てが「非開示情報」となるわけではない。もしそんなことになれば、マスメディアは何も書けなくなってしまうだろう。
 
 平成13年に出来た「独立行政法人等の保有する情報の公開に関する法律」は、国立大学法人の情報公開規定の〈親規定〉とも言うべき法律であるが、公務員や独立行政法人の職員の場合、その役職や職務内容の情報は「不開示情報」から除外し、開示されるべきものとている。
 その条文はやたらに挿入句が多く、文脈が辿りにくいので、私なりに分りやすく砕いていえば、〈その個人が国家公務員や、独立行政法人等の役員や職員である場合、または地方公務員や、地方独立行政法人の役員や職員である場合は、その個人がどんな職に就き、どんな内容の職務を遂行しているかは、「不開示情報」に含まれない。つまり開示できるし、開示の請求を拒んではならない〉(第五条一項のハ)。
 それはそうだろう。どんな名前の人間が、どんな仕事をしているか、不開示(非開示)のお役所なんてものがあったら、それこそカフカの世界になってしまう。
 
 そんなわけで、先ほどの例にもどって言えば、教員公募に応募した人――特に教員候補者に選ばれず、落とされた人――の個人情報はどこまで守られなければならないか。私が情報公開の方針に関する委員会の委員だった時、そんなことも話題になった。個人情報が含まれているからという理由で、先のような公文書を全て非開示情報にすれば、情報公開の趣旨に反してしまう。応募者の個人名、性別、年齢などは読み取れないようにして――例えば該当箇所を墨で塗りつぶして――それ以外は全て開示すべきだろう。
 私たちはそんな議論をしたわけだが、現在は、全国の国立大学法人だけでなく、各地の自治体も、ほぼ同じ基準になっていると思う。次に引用するのは、「北海道情報公開条例」の考え方である。
《引用》
 
実施機関は、開示請求に係る文書に、非開示情報とそれ以外の情報が記録されている場合において、非開示情報とそれ以外の情報とを容易に、かつ、開示請求の趣旨が損なわれない程度に分離することができるときには、……当該非開示情報が記録されている部分を除いて、当該公文書に係る公文書の開示をしなければならない(第十条七項の2)。

 冒頭の「実施機関」は分りにくい言葉であるが、第二条の規定によれば知事、教育委員会、選挙管理委員会、監査委員会、人事委員会など、行政の主要な機関を指す。

○財団法人北海道文学館の情報公開義務
 このような条例は当然のことながら財団法人北海道文学館も拘束する。次の条文の「実施機関」を、「北海道教育委員会」と置き換えれば、その意味するところがよく分かるだろう。
《引用》
 
道が出資その他の財政上の援助を行う法人等であって、実施機関が定めるもの(以下「出資法人」という。)は、経営状況を説明する文書等その保有する文書の公開に努めるものとする。(「北海道情報公開条例」第二十七条一項)。
 
 
実施機関は、出資法人等が保有する文書であって、実施機関が管理していないものについて、その閲覧又はその写しの申し出があったときは、出資法人等に対して当該文書を実施機関に提出するよう求めるものとする。同前第二十七条二項)
 
 要するに私たちは、財団法人北海道文学館に直接公文書の開示を求めることができるし、北海道教育委員会の情報公開窓口を通して、財団法人北海道文学館の公文書の開示を求めることも出来る。言葉を換えれば、北海道教育委員会は財団法人北海道文学館の情報開示を仲介する義務と責任を負っているのである。
 
 駐在道職員の寺嶋弘道は、やたらと公文書の書き方に見識を見せていたようだが、公文書の書式に大きな違いがあるわけではない。財団のフォーマットがあるならば、それに従えばいいのであって、重要なのは、道民に対する責任として、道民への開示に耐えられる公文書をきちんと作成し、保管しておくことだろう。もし意志決定の手続きや、事業の実施とその結果にかかわる記録を残さず、情報の開示の請求に応じられないなんて羽目になったら、道職員もヘッタクレもない、そもそも公務員として失格なのである。
 
 ところが神谷忠孝は、そのヘッタクレもないことを、自ら率先してやってしまった。私は教授会で何回も情報公開の問題を説明し、全学的に理解してもらわねばならない文学部の特殊な事情があるとすれば、それは何か、意見を求めたりした。しかし神谷はどこ吹く風の上の空、いい加減な気持で聞き流していたのだろう。

○墓穴を掘った神谷忠孝
 私は、毛利正彦の「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」を見た時、毛利や神谷はずいぶん早々と白旗を掲げてしまったな、と思った。
 彼らは亀井志乃の質問や要求に全く答えることができない。その敗北宣言としか読めなかったからである。
 亀井志乃の質問の一つに、〈意思決定の正当性を、決定に至るプロセスとそれを示す公文書によって証明してくれ〉という意味のものがあった。だが、毛利たちはそれに答えることができなかった。それはきちんとしたプロセスを踏まなかったためと思われるが、ひょっとしたら、そもそも質問の発想それ自体が理解できなかったためかもしれない。

 もっとも、彼らは〈なあに、人事権は自分たちが握っている。だから亀井志乃の言うことなど一切無視して、時間を稼ぎ、4月に締め出しを食らわせれば、それで一件落着さ〉と、陰険な権力者意識で敗北感を糊塗しながら、「これ以上、あなたの要求・質問にお答えするつもりはありません」などと突き放しにかかったのだろう。
 それでも敗北感は癒し切れず、亀井志乃と私に、悔し紛れの厭味を述べ立てたわけだが、前々回(「北海道文学館のたくらみ(6)」)で紹介した毛利の文章の、「こうした要求・質問を私どもに対し行い……」以下を、もう一度読んでみて貰いたい。その厭味な言いがかりが〈ナントカの最後っ屁〉みたいで、何だかみっともない。私は可笑しかった。
 しかし亀井志乃の立場では、ただ可笑しがっているわけにもゆかず、彼女は毛利の文章を懇切丁寧に分析、批評して、神谷忠孝に送り、改めて回答を求めた。(資料編「資料7」参照)

 それに対する神谷の返事が、初めに紹介した蒟蒻文だったわけだが、本人としては「こんなことは、私が取り合う筋ではない」と大いに見識を見せたつもりかもしれない。「この件については、一月十七日に毛利正彦館長から回答させた通りで」と、毛利正彦を格下扱いにした、尊大、横柄な返答。しかし実は、舌足らずの恥の上塗り。
 なぜ恥の上塗りか。毛利正彦の敗北宣言と、見当違いな言いがかりをただ追認しているだけだからである。
 
 ただしこの場合は、単なる追認では済まされない。神谷忠孝は、亀井志乃の毛利の文書に対する批判を承知の上で、毛利の「回答」は自分の意志から出たものであることを認めた。あれは私が毛利館長に「回答」させたものだ、と。
 ということはつまり、神谷は、亀井志乃の次のような批判を、自分に向けられたものと認め、異論もなく納得した。これは「亀井志乃の権利を侵害した」事実を、神谷自身が引き受ける意志を表明したことにほかならない。
《引用》
 
(財)北海道文学館副理事長にして北海道立文学館館長である毛利正彦氏は、先ほど紹介した主文において、「これ以上、あなたの要求・質問にお答えするつもりはありません。」と答えています。また、口頭でも、「あんたへの回答は、この前の、12月27日の返事でつきていると私は思うよ。財団は、何より、いま現にやらなければならない仕事をやっていかなくちゃならないんだ」と、私に言い渡しました。
 
しかし私は、一方的に解雇通告を受けた被雇用者として、その理由と経緯について質問をする権利を持っており、毛利正彦氏または(財)北海道文学館理事長の神谷忠孝氏はそれに答える責任と義務を負っています。にもかかわらず、このように回答拒否の姿勢を示すことは、自分(たち)の責任と義務の放棄であり、私の権利の侵害を意味します。(「神谷理事長の回答を要求する」。資料編・資料7)

 神谷はこのような批判を自分の責任において引き受けたわけだが、それをずっと手繰って行けば、毛利たち幹部職員がとってきた一連の対応の責任を、今後、神谷が一手に引き受けることになったという意味になる。毛利や平原や寺嶋がそれに気がついたら、シメタ!! とばかり手を拍って喜ぶだろう。
 
 神谷の返書に対して亀井志乃がどんな対応をしたか。それは近日中に、「資料8」として資料編に紹介するつもりだが、ともあれ、自己保身術に長けたあの神谷忠孝が、こんなふうに自ら墓穴を掘ってしまったのである。

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北海道文学館のたくらみ(7)

パワー・ハラスメントの実態(下)

○財団・北海道文学館と北海道教育委員会との関係
 さて、少し間が空いてしまったが、話をパワー・ハラスメントに戻すならば、寺嶋弘道学芸主幹が亀井志乃嘱託職員をいびるために利用した、もう一つのハラスメント・パターンは、ことある毎に書類の書き方にケチをつけるやり方だった。
 そのやり方には、一種マニヤックな権力顕示の嗜好さえ感じられる。どうやらそれは、〈自分は道立文学館に駐在する北海道教育委員会の職員だ〉という自負から生じたらしい。その点を理解するために、まず道立文学館と財団・北海道文学館の関係を整理しておこう。

 現在、札幌市の中島公園に立っている北海道立文学館は、言うまでもなく道立の公共施設であって、機構上は北海道教育委員会に属する。
 ただし、北海道教育委員会が直接それを管理運営してきたわけではない。道教委はその管理運営を、昨年度(2005年度)まで、民間の有志が立ち上げた財団・北海道文学館に委託してきた。
 その委託事業費として、道は毎年、財団・北海道文学館にお金を渡してきたわけだが、その金額は1年に約1億7千5百万円。それに対して、財団・北海道文学館が自分の基金から捻出できる事業費は、年間、わずかに1千万円強でしかない。
 財団・北海道文学館はその二つを併せ、さらに札幌市等から、年に3百万円ほどの補助金を貰い、年間約1億9千万円ほどの予算で、道立文学館を管理運営してきた。要するに年間予算の92%を道から貰ってきたわけで、予算面の依存度が如何に大きいか、よく分かるだろう。
 逆に言えば、民間の財団法人で、これほど美味しい仕事をちょうだいしてきた財団は滅多にないだろう。

○指定管理者制度の旨味
 ただ、今年度(2006年度)から、美味しさの質が少し変わってきた。今年度から道が文化施設の管理運営に指定管理者制度を導入することになり、財団・北海道文学館を道立文学館の管理者に指定したからである。
 この新しいやり方と、従来の委託制度とどこが違うのか。
 従来の単年度会計と違って、道は道立文学館の運営の負担金として、財団に、今後4年間で総額5億6千937万円(『北海道新聞』2006年1月6日)を渡して、その使い方は財団に任せる。そして4年後に、指定管理者の見直しを行うことになった。
 これを表面的に見れば、道から出るお金は年に平均して3千万円ほど減り、しかも4年単位でその実績を評価される。「文学という精神的、文化的な営みの成果は長期的なスパンでなければ見えてこない。それを4年単位で実績評価し、予算は1年に3千万円も減らされる。これは文化の抑圧じゃないか」。そんなふうに憤慨してみせる〈文化人〉も多かった。
 しかし、そういう見識ぶった〈文学者〉や〈文化人〉の正論には、どこか胡散臭さが感じられる。「1年に1億7千万円であれ、1億4千万円であれ、とにかく道民の税金をたくさん使わせてもらっているわけだが、そもそも文学とか文学館とかに、それだけのお金を使う意味があるのか。文学館はどのようにして道民に「文学」を還元することができるのか」。そういう発想を欠いた見識など、要するに「やらずぶったくり」の隠れ蓑でしかないからである。道民に「文学」を還元するとは、「北海道文学を普及することだ」なんて議論は、もうとっくに破産している。
 
 ただし、そういう言い方に抵抗を感ずる人も多いだろう。もし異議があるならば、私のHP「亀井秀雄の発言」(
http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/)の「文学館を考える―その外延と内包―」や「文学館の見え方」を読んでもらえるとありがたい。
 いずれこのブログでも、北海道文学館の今年度の実績に基づいて、もう一度じっくりと考えてみたいと思っているが、差し当たり一つ、財団・北海道文学館の道に対する依存度がどれほど大きいなものか、頭に入れておいてもらいたい。その財団が、北海道教育委員会からの民間委託という形で、4年間という時間と、5億7千万円に近いお金を保証された。時間とお金の使い方を任されたのである。
 そこで早速、今年度は、企画展のドタ・キャン(「北海道文学館のたくらみ(5)」参照)という大ポカをやらかして、しかしどうやらお咎めなし。財団の職員にとって、こんな美味しい仕事は滅多にないだろう。

○駐在道職員の〈蚤取りまなこ、あら探し〉
 またしても横道に逸れかけてしまったが、ともあれ以上のような制度変化に伴って、寺嶋弘道が北海道教育委員会から駐在道職員の学芸主幹として送り込まれてきたのである。
 もちろん前年度(2005年度)まで、つまり「委託」時代にも、道からの「派遣」職員がいなかったわけではない。年度末に出た『2006 資料情報と研究』(北海道立文学館、2006年3月25日)を見れば分かるように、翻刻や資料紹介など、学芸員として不可欠の基礎的な作業をしている。ところが、「委託」から「指定管理者」制度に変わると共に、――どういう理由か分からないが――その職員たちは文学館以外の部署に移され、その代りに、寺嶋弘道という、道職員根性のバリバリ男が「駐在」することになったのである。
 
 なぜ道職員根性バリバリ男なのか。指定管理者制度に変わった以上、道立文学館の運営の主体は財団・北海道文学館に一元化され、事務上の書式も財団のそれに準ずることになったはずである。また、たとえまだ二重システム的な面が残っているとしても、財団の職員が財団の仕事に関する書類を作るに当っては、財団の書式に従う。これは至極当然なやり方だと思われるのだが、寺嶋弘道はあえてそれに干渉してきた。自分には、道職員の流儀を押しつけることが許されている、いや、それが自分の使命だ、と思い上がり/思い詰めているのだろう。
 
 財団の嘱託職員の亀井志乃は、書類作成の面でも駐在道職員の寺嶋弘道からさまざまな干渉を受けて来たが、その一例を、「質問状に対する意見交換」(資料編・http://fight-de-sports.txt-nifty.com/wagaya/)の「資料2」参照)で、次のように書いている。
《引用》
 
もう一つは、書式自体の問題である。鈴木社会教育主事・阿部学芸員の双方からかつて別々の機会に指摘があった事だが、道の書類の書式と財団のそれとは、決して同一ではない。だから、財団のものとして作成し、財団に保存されてゆく書類は、基本的に、財団の書式をクリアしていれば何も問題は生じないこととなる。
 亀井も、それが道理と思ったので、たとえば明治大学図書館に提出する〈職員派遣依頼書〉については、まず作成してから、川崎課長・永野主査・丹伊田主任に目を通していただいた。その時点で、誰からも異論は出なかった。レイアウトだけは、多少、永野主査からの直しが入った。ちなみにこの時下敷きにしたのは、文学館のサーバーに残されていた、青柳文吉事業課主査(当時)の、小樽文学館に対する職員派遣依頼書類(平成12年11月16日付)である。これはもちろん、この形式でその時に承認された書類であろうと思われる。

 
だが、寺嶋主幹は、レイアウトや標題を訂正するのみならず、「四」を「4」と直し、「申し上げる次第です」を「申し上げます」、「伺う日時」を「調査日時」とするなど、約17箇所にもわたる細かい修正を行い、その書類を亀井に差し戻した(寺嶋主幹の訂正例(3))。
 
 亀井は、その時点(10月7日)では、誰の残した書類を参考にし、誰の訂正を受けたのか、いちいち言上げすることは責任転嫁になりかねないと考え、黙っていた。しかし、もし、寺嶋主幹の訂正が、本質的に重要かつ重大な訂正ならば、主幹は、それと同じ修正を、少なくとも亀井にしたのと同じやり方と言い方で、上に挙げた諸氏にも要求、または強制しなければならないだろう。そうでなければ、館長・副館長・主幹らが常日頃主張するところの〈平等〉や〈公平性〉を、自ら裏切っている事になる。

 
また、そうではないとするならば、財団(嘱託)職員の亀井が、本質的でもない事について、ほとんど常に、道の主幹から少なくとも二回は書類を作り直させられ、起案の承認をそのつど遅らせられている実態を、この館の責任者諸氏は一体どのように考え、説明づけるのであろうか。この事に関して、こうして亀井が声をあげない限り、書類作りや業務の遂行が遅いのはいつも亀井の責任となり、対外的にも、亀井の信用が損なわれることになってしまうのである。
                                 《引用、終わり》
 こうして見ると、寺嶋弘道はその道職員バリバリ根性を、もっぱら亀井志乃嘱託職員をターゲットに発揮していたらしい。
 このブログでは紹介を省略したが、亀井志乃は何種類も寺嶋弘道が「添削(?)」した書類を手元に置いてある。この時問題となった「
明治大学図書館に提出する〈職員派遣依頼書〉」についても、毛利正彦文学館長や平原一良副館長の求めに応じて、そのコピーを、「質問状に対する意見交換」と一緒に、渡しておいた。
 
 そんなわけで、ここでは亀井志乃の説明に基づいて、検討を進めることになるわけだが、たとえ役所に勤めたことがなくても、役所と交渉がある仕事をしてきた/している人ならば、誰でも知っているように、この種の文書はフォーマットが決まっていて、本人が書き込む箇所はごく少ない。文言もほぼ決まっている。
 亀井志乃は財団の文書の前例を参照してそれを書いた。業務課ではレイアウトに一寸した手直しがあっただけで、特に問題点を指摘されることなく承認されたのだが、寺嶋弘道はマニヤックなまでに細かく字句を穿鑿して、17箇所も修正点を見つけ出し、亀井志乃に書き直しを求めた。そのやり方は、蚤取りまなこのアラ探し。これはもう小姑的な過干渉と言うほかはないだろう。
 
 そう言えば、先の北海道教育委員会の大物管理職・毛利正彦文学館長も、亀井志乃の言葉尻を捉えては、逆ねじを喰らわせる。だが、本質論には決して相渉ろうとしない。その文章力は、前回に紹介した「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」の如し。北海道教育委員会が管理職を選ぶ基準が、何となく分かるような気がする。
 
○大学図書館のルールと寺嶋弘道
 だが、そこがバリバリ男の勇み足と言うべきだろう。もともと明治大学図書館は「職員派遣依頼書」など求めてはいなかったのである。
 亀井志乃は平成19年の2月17日から始まる企画展「人生を奏でる二組のデュオ~有島武郎と木田金次郎 里見弴と中戸川吉二展~」(~3月18日)の主担当として、準備にかかっていた。早めに目を通しておきたい資料が、明治大学の図書館にあることが分かり、電話で「見せてもらえるかどうか」と問い合わせたところ、図書館が快く応じ、「お出でになる時、できれば現在の仕事先の紹介状をお持ち下さい」という返事だった。
 要するに明治大学の図書館が求めたのは「紹介状」であり、本人がそれを持参することだったのである。

 私も大学の教師だった時代、よく学生から、「この大学の図書館に、北大では見られない資料があるので、紹介状を書いて欲しい」と頼まれた。その場合の紹介状には、特に決まった書式があるわけではない。その大学の図書館に宛てて、①自分がこの紹介状を持参する学生の指導教官であること、②この学生の研究テーマはこれこれであること、③その研究のため、貴図書館が所蔵する書籍等を閲覧させて欲しいこと、つまり「人物紹介」「用件」「依頼」を簡潔に書き、その上で私の職・氏名を記し、捺印する。
 大学の図書館が求める「紹介状」とはそういうものであって、なぜ閲覧を希望する本人が持参しなければならないか。本人がそれを持参した事実によって、「本人確認」が可能となる。また、もし万一資料を破損された場合、最終的に誰がその責任を負ってくれるのか、それを確認するためである。

 亀井志乃は、明大図書館がいう「紹介状」とは、そういうものと理解した。それならば、「人物紹介」「用件」「依頼」を簡潔に書き、職場の長の氏名に公印を押してもらい、自分が持ってゆけばよいのである。
 ところが、それを聞いた寺嶋弘道は、「職員派遣依頼書」という書類を作り、事前に明治大学の図書館へ送っておかなければならないと言い出した。この寺嶋弘道という駐在道職員の学芸主幹は、大学図書館を利用したことがなかったのかもしれない。
 いくら亀井志乃が、「先方が求めたのは「紹介状」であり、自分が持参しなければ「本人確認」の意味をなさない」と説明しても、耳を貸そうとしない。「紹介状」を「職員派遣依頼状」と勘違いしたまま、――あるいは、わざと「紹介状」を「職員派遣依頼状」にすり替えて――「送るんだよ! これは公文書なんだから、先に相手側に送っておくんだよ! 10月20日に派遣するという書類を、当日持っていったってしょうがないだろ!」と怒鳴り始めた、という。
 依頼状であれ、紹介状であれ、そういう書類と本人が別々に行ったら、図書館側ではアイデンティファイに困るだろう。その理屈が寺嶋弘道には飲み込めない。飲み込むつもりもない。やむを得ず亀井志乃は前例を参照して、「職員派遣依頼書」を作ったところ、今度は字句の穿鑿でケチをつけ始めた。
  
 寺嶋弘道としては、自分は北海道教育委員会ふうに礼を尽くした公文書の書き方を教えてやっただけだ、と言い逃れするかもしれない。だが、果たしてそうならば、亀井志乃が指摘するように、「
もし、寺嶋主幹の訂正が、本質的に重要かつ重大な訂正ならば、主幹は、それと同じ修正を、少なくとも亀井にしたのと同じやり方と言い方で、上に挙げた諸氏にも要求、または強制しなければならないだろう。
 「
上に挙げた諸氏」とは鈴木社会教育主事であり、阿部学芸員であり、川崎課長であり、永野主査であり、丹伊田主任であるが、なぜ寺嶋弘道は嘱託職員の亀井志乃をターゲットに選び、これら正職員には要求も強制もしないのか。これでは、「館長・副館長・主幹らが常日頃主張するところの〈平等〉や〈公平性〉を、自ら裏切っている事になる」だろう。

○亀井志乃の態度
 以上は、書類作成に関する過干渉の一例にすぎず、亀井志乃は「質問状に対する意見交換」でなお幾つかの事例を挙げている。関心のある人は、資料編の「資料2」を見てもらいたい。見てもらえば、寺嶋弘道がどんな態度で何を目論んで干渉していたか、おおよその察しがつくだろう。亀井志乃はそれ以外にも、寺嶋弘道の過干渉を物語る「添削(?)」例を持っており、彼女の側からすれば、「
本質的でもない事について、ほとんど常に、道の主幹から少なくとも二回は書類を作り直させられ、起案の承認をそのつど遅らせられている」。それほど執拗だったのである。
 
 このような干渉が繰り返され、そして「パワー・ハラスメントの実態(上)」、「同(中)」で指摘したような、これ見よがしの、居丈高で侮蔑的な嫌がらせを繰り返す。寺嶋弘道学芸主幹の亀井志乃嘱託職員に対する嫌がらせは、日常的に常習化していた。そう言うしかないだろう。
 ところが、他の職員は見て見ぬ振りをしている。亀井志乃は「駐在道職員の高圧的な態度について」(資料編・「駐在道職員の高圧的な態度について(その3)」参照)において、次のように関心を喚起していた。
《引用》
 
今まで亀井は幾度か他の職員に事情を話し、一方、職員のうちの幾人かも、亀井が主幹に上記のような扱いを受けている場面をしばしば見かける機会があった。それにも関わらず、これまで何ら有効な対応もなされてこなかったということは、もしかするとこの〈北海道立文学館〉という組織そのものに、ハラスメントの素地があると言えるのではないだろうか。

 今度の場合も次のように、関心を促していた。
《引用》
 
(これまで述べてきたような)実態を、この館の責任者諸氏は一体どのように考え、説明づけるのであろうか。この事に関して、こうして亀井が声をあげない限り、書類作りや業務の遂行が遅いのはいつも亀井の責任となり、対外的にも、亀井の信用が損なわれることになってしまうのである。

 ただし、亀井志乃はこの問題に関しても、寺嶋弘道の処分を求めたわけではない。自分が経験したことを一般化し、どこの官公庁でも起りかねない問題として普遍化しながら、次のようなことを期待しただけなのである。
《引用》
 
しかし公文書は、公式記録として保存されるものであるため書き方に一通りの心得が必要なものである。それだけに、記入の不備を理由に、侮蔑的な態度をとったり言葉を投げかけるなどして、繰り返し書き直しを要求するような行為は、組織の上位者が最も行いやすい嫌がらせ(ハラスメント)の一つであるといえる。今回の事例以外でも、今後、そのような行為が当館で行われないよう、ここに切に願うものである。

○神谷、毛利たちの頬かむり
 しかし神谷忠孝理事長も、毛利正彦文学館長も、平原一良副館長も、川﨑信雄業務課長も、寺嶋弘道学芸主幹も、文学館の体質にかかわる、職員共通の問題として、彼女のアピールと要望を取り上げることをしなかった。
 もし取り上げるならば、寺嶋弘道の行為に何らかの判断を下さざるをえない。だが、その結果、大金主たる北海道教育委員会のご機嫌を損ねたらどうしよう。何もわざわざ虎の尻尾を踏むような危険を冒さなくてもいいじゃないか。そんな警戒と怯えがあったのだろう。

○新たなテーマ
 亀井志乃が寺嶋弘道のパワー・ハラスメントをアピールせずにいられなかった実態は、およそ以上の如くであった。
 彼女は当時も、そして現在も、自分が主担当の企画展「人生を奏でる二組のデュオ~有島武郎と木田金次郎 里見弴と中戸川吉二~」の準備に追われているわけだが、それでは、毛利正彦が言う「任用方針」の撤回を求めて以来、彼女がどんな状況の中に置かれているか。次回はそこから入ってゆきたい。

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