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北海道文学館のたくらみ(9)

亀井志乃の戦い

○嫌がらせの波
 2007年2月17日、亀井志乃が担当する企画展「人生を奏でる二組のデュオ~有島武郎と木田金次郎 里見弴と中戸川吉二~」(―3月18日)がオープンした。
 無事オープンに漕ぎつけるまで、彼女は胃が痛くなるような緊張の毎日を過ごしてきた。労働組合もない小さな職場で、嘱託職員という一番弱い立場にありながら、いや、一番弱い立場であればこそ、〈たった一人の戦い〉を強いられ、少しのミスも許されないプレッシャーを受けながら準備を進めなければならなかった。

 亀井志乃はかなり早い段階で、まず自分の構想を、具体的に展示設計図の形で描いてみた。それを遺族の方々や研究者に送って、アポイントを取り、足を運んで、今回の取り上げ方について理解を求めたり、展示の方法について意見を聞いたり、資料の便宜を図ってもらう。
 これは展示の担当者として当然の手順であり、しかし大変に注意深い気配りを要する仕事であるが、ちょうどそれが軌道に乗り始めた時期、学芸主幹の寺嶋弘道から文学碑データベースに関するサボタージュの言いがかりをつけられた。
 それ以前から、寺嶋に侮蔑的な言葉を吐きかけられ、大学図書館へ閲覧に出かけるだけでも文書の書き直しをさせられる。これはパワー・ハラスメントではないかとアピールし、職場環境の改善を求めたところ、12月の6日、文学館長の毛利正彦から突然、来年度は雇用しない「方針」を言い渡された。展示の準備が胸突き八丁に指しかかった時期である。

 この通告が、どんなに亀井志乃の意欲に水をかけ、気勢を殺ぐものであったか、容易に察しがつくと思う。もし毛利の通告通りになってしまうならば、この展示でどんな結果を出そうとも、それが次年度の自分の仕事につながる可能性を絶たれてしまうのである。

○強いられた受け身の対応
 それに対する亀井志乃の対応が、果たして的を得ていたかどうか。あるいは、どの程度有効であったか。残念ながら、その結果はまだ見えてこない。本人も歯がゆいところが多いだろう。
 
 彼女はこの企画を実現するために、さまざまなところへ出向いて、資料を見せてもらい、借用の手続きをし、美術品運搬の専門業者や、図録の業者と打ち合わせをし、文学館では退館時間の後も残ったり、業者のもとに出向いたりして、作業を進めてきた。自宅では寝る間も惜しんで、夜遅くまで図録を編集し、原稿を書いてきた。
 私のブログを読んで、法務省の人権問題窓口へ出かけることを助言して下さった方もいた。また、亀井志乃自身も電話でおおよそのことを伝え、どう動くべきか教えてもらっている。だが、本人が記録を整理して出向くだけの時間を見つけることができなかった。毛利や神谷や平原がのらりくらりと時間稼ぎの対応をしながら、亀井志乃を排除するために既成事実を作っている。そのことが分っても、法的な対抗手段を取る時間的な余裕がない。
 だが、絶対に引き下がらない意志だけは表明しておかなければならない。そのためには、きっちりと筋道の立った異議の申し立てだけは続けよう。多分そう考えて、彼女は時間をやり繰りして、彼らの不当を指摘し、質問し、要求書を出してきた。
 そういう事情の下で、唯一可能な対応だったわけだが、失点を重ねたのは、むしろ神谷や毛利や平原や寺嶋のほうであろう。
 
 彼女にはもう一つ、2月25日(日)、「有島兄弟と北の創作者――後志文化圏と釧路の大地―」という文芸セミナーが待っているのだが、とにかく神経をすり減らすような準備作業は終わり、法務局その他、人権問題を扱う機関や組織へ出向く時間も取れるようになった。
 自分のホーム・ページを開き、これまでの経緯を、自分のノートに基づいてしっかりと書いてゆくつもりだ、という。
 
○なりふり構わぬ嫌がらせ
 その意味で新しい局面を迎えることになったわけだが、とにかく無事ここに漕ぎ着けるまで、どんな嫌がらせが続いたか。一つ二つ例を挙げるならば、寺嶋弘道が担当する企画展「『聖と性、そして生』~栗田和久・写真コレクションから~」が、開催を目前に控えて突然、中止になった。このことは「北海道文学館のたくらみ(5)」で触れておいた。

 平原一良と寺嶋弘道はそれを埋め合わせるつもりだったのかもしれない。昨年12月9日に始まった「『書斎の余滴』~中山周三旧蔵資料から~」は12月24日に終る予定だったが、期間を延長して、今年の1月27日まで続けることにした。
 つまり、栗田和久展が終る予定だった日まで、中山周三展を引き延ばしたわけだが、とにかくそれが終れば、特別展示室が空く。亀井志乃はその展示室に資料等を運び、具体的に配置しながら、全体のバランスや効果を確認する作業に入る予定だった。
 ところが寺嶋弘道はその展示室を、亀井志乃に断ることなく、――準備期間を含めてのことだが――1月28日から2月8日まで、イーゴリとかいうロシアの写真家の写真展に使ってしまったのである。
 
 全くひどい話だが、その写真展は年度当初から予定に組まれていたわけではない。いわば予定外の展示を、衝動的に割り込ませて、特別展示室を塞いでしまった。そのためだろう、北海道立文学館のホーム・ページの「行事案内」では、一言もそのことに言及していない。

 亀井志乃は憤慨するより、なりふり構わぬ妨害にむしろ呆れ果てて、「二組のデュオ」展覧会の副担当の若い学芸員に、「この写真展はいつ決まったの?」と訊いてみた。学芸員の返事は「いや~、分りません、聞いていませんでした」。
 それでもまだ亀井志乃は、少なくとも他の職員たちはこのことについて知っていると思っていた。ところが、その週は、寺嶋からも平原からも、全く説明がなかった。漸く翌週の火曜日の〈朝の打ち合わせ会〉に至って、寺嶋が「写真展をやることになりました……現在、やっております」と、事後承諾を求めた。
 
 「北海道文学館のたくらみ(3)」で紹介したように、亀井志乃が〈打ち合わせ会〉で、これからの行動予定のリストを配り、「
外勤・出張の可能性のある所と時期について説明した」。ところが寺嶋弘道はそれをあげつらって、「打ち合わせ会というのは、すでに決まったことを報告するところだ」となじった。それが筋の通らない言いがかりでしかないことは、「たくらみ(3)」で指摘しておいた。
 ただ、ある意味で「
打ち合わせ会というのは、すでに決まったことを報告するところだ」という理屈と、今回のやり方は、寺嶋の中では辻褄があっているのだろう。要するに寺嶋にとって、〈打ち合わせ会〉は、まず既成事実を作ってしまい、それを事後承諾させるための会であって、それ以外の会では都合が悪いのである。
 
 だが、それはあくまでも寺嶋自身にとっての都合であって、もし亀井志乃が同じように、まず既成事実を作り、事後承諾を求めたとすれば、寺嶋弘道はここを先途と亀井志乃の独断専行を非難し、責め立てただろう。
 寺嶋のこの身勝手な自己中心主義は、ひょっとしたら北海道教育委員会が送り出す駐在道職員に共通のキャラクターかもしれない。北海道教育委員会における寺嶋弘道の先輩職員・毛利正彦もそんな傾向が顕著に見られる。ただ、その毛利正彦の言によると、寺嶋弘道は平原一良には大変に「従順」であるらしい。
 とするならば、多分あの写真展についても、平原一良とだけは事前に相談していた。もしそうでなければ、平原から唆されていた。少なくとも寺嶋弘道の一存ではなかった。そう考えて差し支えないだろう。

○厚顔な神谷忠彦の挨拶
 ただし、その写真展が質量共に優れたものであり、しかもテーマや内容が、現在の日本人にぜひ見てもらいたいほど緊急性の高いものであるならば、突然の割り込みも、あるいはやむを得ないのではないか。
 私は一応そういう保留をつけて、その写真展の話を聞いていたのだが、実際に見てみると、そんな要素はまるでなかった。

 私は2月3日、北大の法学研究科(法学部の大学院)の林田教授や長谷川教授がやっている研究会に招かれて、「裁判と文学」の話をさせてもらった。そして6日、その時に使った資料を返すために北大の図書館へ行き、別な資料のコピーを取った後、道立文学館まで足を延ばして、展示室のほうへ降りて行った。
 すると、特別展示室の入り口から2間ほど奥に移動壁を立て、その両脇にも移動壁を立てて、臨時の小さな展示コーナーを作り、A3程度の大きさの写真が、10点ほど展示してある。そのコーナーからはみ出す形で、さらに数点の写真が、ロビーの壁にも貼ってあった。
 もちろんその程度の数だから、仮に臨時の展示コーナーの写真を全てロビーの壁に移したとしても、窮屈な印象を与える心配はない。写真そのものも、素人芸に毛が生えた程度の凡庸なものばかり。なぜこんな写真を、この時期、特別展示室の入り口を塞ぐ形で展示したのか。
 亀井志乃にしてみれば、そういう疑問は禁じえなかっただろう。
 
 もっとも、平原一良はさすがに気が引けたのか、亀井志乃に、〈写真展に使う空間は、特別展示室のごく一部でしかない。だから、入り口を塞ぐ移動壁の奥で展示の準備を進めても、別に差し障りはないのではないか〉と声をかけてきた。寺嶋のやったことを取り繕うつもりだったのかもしれない。
 ところが、寺嶋が配電盤に「照明はライティングレールのみ点灯に変更しました」と附箋を貼ってしまった。そのため、特別展示室全体の電気をつけることができない。この念入りな悪意に、亀井志乃はウンザリした表情で、苦笑いを浮かべながら、「まあ仕方がない。特別展示室が空いたら、どんな順序で資料を運び込むか、手順を考えながら、作業室で準備しておくことにした」。
 
 この展示は8日までということだったので、一応その日の夕方には、写真は撤収された。しかし9日は、亀井志乃は1日かけて岩内と道立近代美術館から作品を集荷しなければならなかった。また、翌10日には、半日かけて、地下鉄の各駅にポスターを貼ってこなければならなかった。
 この亀井志乃の行動は、事前に皆が分っていたはずである。だから寺嶋が8日に写真を撤収したからと言って、それは必ずしも彼女が直ちに展示室の作業に入れるための配慮だったわけではない。
 亀井志乃が実際に展示室の作業に入ることができたのは、実質的には2月11日からのことだった。オープンまで残された時間は、1週間を切っていた。200点を超える展示資料を配置するだけでなく、キャプションをつけ、説明や案内のパネルも貼らなければならない。亀井志乃は非出勤日も返上して、夜遅くまで作業をし、それでもまだ足らないため2日ほど札幌のホテルに泊まることにした。そして漸く16日の夜に形を整えて、11時過ぎに家に帰った。
 
 その間、展示に使うべく一括してまとめて置いた資料から、有島武郎の画帳が一冊見えなくなるという〈事故〉が起った。慌てて2時間も3時間も探し回らなければならなかったわけだが、しかしこれは嫌がらせではなく、他人の仕事にはトンと無関心な職員が、自分の仕事のために持ち去り、元に戻さないで帰宅してしまったためだった。
 準備の最終日には、その職員を含めて、学芸課の何人かが手を貸し、業務課では皆に夜食を用意してくれた、という。
 
 その翌日、簡単なオープニングのセレモニーがあり、私も出席したが、理事長の神谷忠孝が「これは学芸研究員の亀井志乃の企画だが、皆で汗かいてやった結果だ」などと挨拶していた。この男、自分たちがやってきたことを棚に上げ、人前を言葉で取り繕うことしか考えない。浅ましい人間になり果ててしまったのだろう。

○〈嫌がらせ〉総がかりの手口
 だが、寺嶋弘道だけがこのような嫌がらせを続けたわけではない。亀井志乃が寺嶋のパワー・ハラスメントをアピールして以来、一番の嫌がらせは、毛利正彦による解雇通告だったと言えるだろう。毛利正彦が亀井志乃の質問や要求を真正面から受け止めず、小馬鹿にしたような応対を続けてきたことも、もちろん嫌がらせに入る。
 
 寺嶋や毛利の、そういう嫌がらせ手口を、今、〈特定の人間をターゲットに、一種反論しにくい形で、杓子定規に「決まり」を押しつけるやり方〉と抽象化してみよう。この手口は現在、日本のさまざまな職場で見られると思うが、北海道文学館の場合、亀井志乃が毛利通告の白紙撤回を求めた頃から、文学館総がかりで、そういう状態になっていった。
 それまで亀井志乃の構想や準備の進め方には関心がなく、展示予定の資料リストを見せて意見を求めても、ただパラパラとめくるだけで、突き返してきた。その連中が、急に〈展示は皆のものだから〉と言い出し、では、手助けをするのかと言えば、そうではない。依然として構想や内容に関心を示すことなく、だが、まるで亀井志乃が自分の仕事を抱え込んでしまっているみたいな、トゲのある言葉を織り交ぜながら、杓子定規に「決まり」を適用して、彼女の行動や経費に細かいチェックを入れてくる。
 亀井志乃が、どこそこの図書館で、これこれの関係の図書を見てきたい、と起案書を書く。すると、閲覧予定の図書のタイトルを全部列挙するように、と書き直しを命ずる。そんな煩瑣なことが、日常化してきたのである。
 
 もう一つ例を挙げるならば、亀井志乃は昨年の12月14日、資料を貸してくれる人との打ち合わせのため、東京まで日帰りで行ってきた。
 彼女は時間契約の嘱託職員であり、文学館側の希望により週に4日、勤務することになっていた。12月14日の木曜日は彼女の出勤日ではなかったが、相手の都合によりこの日となったのである。東京への日帰りだから、朝の6時に家を出、夜の10時過ぎに帰宅することになった。
 当然彼女は、この日を出勤日扱いにして、翌15日は休ませてもらいたいと考え、あらかじめ業務課に申し出た。ところが業務課の返事は、「それは出来ない」ということだった。その理屈はこうだった。〈亀井志乃が相手の人と打ち合わせする、いわば勤務時間は、長く見積もってもせいぜい3時間程度。それ以外は移動のために要する時間だから、勤務時間に数えることは出来ない。よって15日も出勤してもらわなければならない〉。
 亀井志乃は「まあ、今の文学館って、そんなものなのよ」と割り切って、15日も出て行った。

 確かに業務課の言うことも一理ないわけではない。私は昨年、釧路の大学から集中講義を依頼されたが、〈移動に要する時間も勤務時間に数えてくれ〉と言い出したら、相手側が迷惑するだろう。
 私はそんなふうに、つい自分の作った理屈に自分ではまりそうになったのだが、しかし待てよ。それじゃあ、フルタイムの正職員の場合はどうなんだ? 
 平原一良や寺嶋弘道や鈴木浩が東京へ出張してくる。仕事そのものに要する時間は4時間として、それでは、往復に要した〈非勤務時間〉はどう処理するのだろう。彼らはその時間分、休館日に出てきて仕事をしたり、閉館後に残業したりして、きっちりと埋め合わせをしているだろうか。もし全てを杓子定規に処理するならば、彼らは当然そうしなければならないはずだが、亀井志乃の見るところ、「そんな几帳面なことはやっていないみたい。あの人たち、正職員の当然の権利だと思って、自分のやってることを疑問に感じたこともないでしょうね」。
 それでは逆に、亀井志乃が東京で勤務した3時間や、退館時間後も残って仕事をした時間について、契約外時間勤務手当てが出るだろうか。「う~ん。そういうお金を出すから、請求してくれ、なんて親切なことは言われたことがなかったなあ」。

○連帯感に支えられた発見の戦い
 しかし私の見るところ、亀井志乃はそういう仕打ちを受けながら、決して気持を腐らせたり、投げやりになったりすることはなかった。もちろん彼女には、卑劣なやり方で自分を追い出そうとする毛利正彦たちに対する意地があっただろう。だが、それだけでなく、もっと大きな要因として、準備過程で知り合った人たちの好意や期待や信頼に応えたいという義務感、というよりは、むしろ好意や期待や信頼を寄せられたことに対する精神的な昂揚感があり、そこから生まれた連帯感に支えられてきたのである。
 もともと彼女は、この企画を実現することにクリエーティヴな喜びを見出していたが、関連資料を所蔵する文学館や美術館を訪ねて、意見を聞き、知識を借り、自分の視野に入っていなかった資料の在り処を教えてもらい、協力をお願いに出かけてゆく。
 このように小まめに身体を動かし、丹念に資料を掘り起こし、視野も拡がってきた。その結果、有島武郎と木田金次郎の関係を、早川三代治や高田紅果たち小樽・後志圏の文学や芸術運動の中で、新たに捉えることができるようになった、という。
 
 また、有島武郎の弟・里見弴と、釧路の中戸川吉二との関係について言えば、友情に近い二人の師弟関係から、厳しい葛藤へ、そして互いに作品を発表し合う批評的競作のドラマが見えてきた。それだけでなく、中戸川の作品を通して、石川啄木や原田康子によって作られた釧路のイメージとは異なる、道東の快闊な世界を新たに甦らせることができた。里見弴たち『白樺』のグループと、芥川龍之介や菊池寛たち『新思潮』のグループの交流という、文壇史的・文学史的に重要な出来事も、中戸川の仲介なしにはありえなかった。その興味深い経緯も見えてきた。
 多くの人の協力と期待と信頼を受けて、このように誇るべき発見を得ることができ、そのおかげで精神的な昂揚が更にいっそう高まったのである。

 初めにも言ったように、亀井志乃は労働組合もない小さな職場で、〈たった一人の戦い〉を続けている。そのため職場では、相手につけ込む隙を与えないよう細心の注意を払いながら仕事を進め、家では寝る間も惜しんで、夜遅くまで作業に追われる。そういう毎日を送り、かなり疲れているはずなのだが、「不思議に、追い詰められた感じがしない」と語っていた。精神的な昂揚感のほうが勝っていたおかげだろう。
 
 以上のような意味で、2月17日にオープンした企画展は、亀井志乃自身にとっては、打ち続く嫌がらせやプレッシャーに屈しなかった証しなのである。

 

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