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北海道文学館のたくらみ(6)

書き方の変更

○(財)北海道文学館副理事長/北海道立文学館館長・毛利正彦の文章
 私はこれまで、大きく二つの方針を立てて、「北海道文学館のたくらみ」を書いてきた。一つは、神谷忠孝、毛利正彦、平原一良以外の文学館関係者については、実名を明らかにすることなく、ローマ字書きの頭文字で書くことである。
 
 二つには、「北海道文学館のたくらみ」を昨年(2006年)の12月28日から載せ始めたわけだが、亀井志乃が北海道文学館の理事や評議員に送った文書を引用し、分析する方法を取ってきた。
 もちろん神谷忠孝をはじめ北海道文学館の幹部職員が亀井志乃に渡した文書で、それが私信でなく、公的な文書と扱い得る場合は引用し、検討するつもりだった。しかし、神谷忠孝ほかの幹部職員は極度に文書で答えることを警戒している。そのため、亀井志乃が神谷忠孝ほかの幹部職員に渡し、理事や評議員に配布したものだけを扱う結果となった。
 
 しかし私は、今年(2007年)1月18日からその方針を変えることにした。同時に、「北海道文学館のたくらみ・資料編(
http://fight-de-sports.txt-nifty.com/wagaya/)」を新たに開いた。
 その理由は、1月17日、毛利正彦が亀井志乃に渡した、次のような文書にある。
《引用》

井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について

 財団と館の意思として申上げます。
 平成19年度におけるあなたの再任用にかかわっての要求・質問等には、昨年12月27日に回答いたしました。これ以上、あなたの要求・質問にお答えするつもりはありません。
 こうした要求・質問を私どもに対し行い、一方ではインターネット上の父親のブログで、父娘関係をあえて伏せたまま、根拠のない誹謗・中傷をくりかえし、財団法人北海道文学館及び北海道立文学館並びに関係する個人の名誉と人権を不当に傷つけるあなたの行動は極めて不誠実であり、強く抗議します。
平成19年1月17日
亀井志乃嘱託員 様
                        (財)北海道文学館 副理事長
                        北海道立文学館   館長
                                毛利正彦

 毛利正彦としては、これは、今年(2007年)の1月6日に、亀井志乃が神谷忠孝や毛利正彦たちに渡した、「「任用方針」撤回の再要求」(「資料編」の資料5参照)に対する返答のつもりだったのであろう。
 亀井志乃は1月16日までに、神谷忠孝から回答を貰いたいと要求したのだが、当日までは何の音沙汰もなかった。そして翌17日、毛利正彦から上記のような文章が渡されたのである。

○毛利正彦の文章の後段について
 もちろん亀井志乃としては、こんな一片の紙切れで事を済まそうとする毛利正彦や幹部職員のやり方を受け入れるつもりはない。彼女は1月21日、「とうてい返答の体をなしていない」と、その文書を神谷忠孝に送付し、併せて「神谷忠孝理事長の責任ある回答を要求する」という要求文を送った。今日、同じものを、毛利正彦ほかの幹部職員に送った、という。理事や評議員にも近日中に、送られるだろう。

 その全文は、いずれ資料編に掲載する予定だが、亀井志乃が先の文章の後段をどのように分析し、批判していたか、その箇所を紹介しておきたい。なるほどこの程度の文章しか書けないのじゃあ、文学館の幹部連中が文書による回答を避けたがっていたはずだ。そんなことまでよく分かるからである。
《引用》

1、この文章は、文章の構成が稚拙で、内容は混乱に満ちています。念のために引用しましょう。

 「こうした要求・質問を私どもに対し行い、一方ではインターネット上の父親のブログで、父娘関係をあえて伏せたまま、根拠のない誹謗・中傷をくりかえし、財団法人北海道文学館及び北海道立文学館並びに関係する個人の名誉と人権を不当に傷つけるあなたの行動は極めて不誠実であり、強く抗議します。」(下線は引用者)

 なぜこの文章の構成が稚拙かと言いますと、毛利正彦氏は、私が下線を引いた箇所全体を、「あなたの行動」にかかる連体修飾句としているからです。4行にも及ぶ長い1文の中で、主語を文末近くに置く。その主語に長大な連体修飾句をつけている。
 しかも、「あなたの行動」という主語の述語は、「極めて不誠実であり」まででしかない。それに続く「強く抗議します。」の主語は明示されていません。

2、このように文脈を整理してみますと、毛利正彦氏が言う「私ども」(毛利正彦文学館長を含む、北海道文学館の幹部職員?)に対して、私(亀井)が質問や要求を出すことは、「財団法人北海道文学館及び北海道立文学館並びに関係する個人の名誉と人権を不当に傷つける」ことになるらしい。毛利正彦氏は、私がこれまで渡した文書のどこから、そういう認識を導き出したのでしょうか。
 神谷忠孝理事長もこの「返答」を支持するのであるならば、毛利正彦氏に代わって、私の文章から該当箇所を具体的に例示して下さい。

 
私の立場から言えば、寺嶋弘道学芸主幹の私に対する言動こそ「個人の名誉と人権を不当に傷つける」パワー・ハラスメント以外の何ものでもありません。私は具体的な事例を挙げて、そのことをアピールしました。ところが、毛利正彦氏を含む文学館の幹部職員はそれに対する具体的な反証、反論を示すことなく、一方的に「パワー・ハラスメントはなかった」と結論し、外部の第三者にまでそのように説明している。これは寺嶋弘道学芸主幹と共犯的な関係を結んで、私の名誉と人権を不当に傷つける行動と言うほかはありません。毛利正彦氏はその点を頬かぶりして、あたかも自分たちのほうが被害者であるかのような言い方をしている。これは事態の本質を誤魔化そうとする、姑息なすり替えです。
 
3、次に、毛利正彦氏の作文した長大な連体修飾句によれば、私・亀井志乃が「一方ではインターネット上の父親のブログで、父娘関係をあえて伏せたまま、根拠のない誹謗・中傷をくりかえし」ていることになるらしいのですが、私はそのようなことをしていません。毛利正彦氏は何を根拠にそう言うのか。もしそれを示すことができなければ、毛利正彦氏こそ「根拠のない誹謗・中傷」を行っていることになる。
 
そもそも寺嶋弘道学芸主幹の私に対する言動こそ「根拠のない誹謗・中傷」のくりかえしだった。その点を忘れてはなりません。また、その点から目を逸らさせるような言い方は許されません。

4、さて、毛利正彦氏の文章の拙さには目をつぶって、毛利正彦氏はじつは私の父・亀井秀雄を主語として、「一方ではインターネット上の父親のブログで」以下を言いたかったのだ、と考えてみましょう。
 確かに私の父・亀井秀雄は、「この世の眺め――亀井秀雄のアングル――」というブログで、平成18年の12月28日から何回か、北海道文学館の問題に言及しています。しかし私の見るところ、父・亀井秀雄は根拠のあることを書いているだけであって、決して「根拠のない誹謗・中傷をくりかえし」ているわけではない。もし毛利正彦氏が、亀井秀雄は「根拠のない誹謗・中傷をくりかえし」ていると考えるならば、毛利正彦氏が自分たちの具体的な、根拠ある事実を挙げて、それを証明しなけばならないでしょう。

 
また、神谷忠孝理事長も毛利正彦氏のそのような見方を支持するのであるならば、毛利正彦氏に代わって、具体的な事例を挙げ、それに即して亀井秀雄が「根拠のない誹謗・中傷をくりかえし」たことを証明して下さい。それができないならば、毛利正彦氏は私の父・亀井秀雄に対して「根拠のない誹謗・中傷」を行ったことになります。

5、また、毛利正彦氏は私の父・亀井秀雄のブログについて、「父娘関係をあえて伏せたまま」などと、何か不当な書き方をしているかのごとく匂わせていました。しかし、父・亀井秀雄は、北海道文学館の管理職的な立場の3人については実名を明かすが、それ以外の職員の姓名については、ローマ字書きにした場合の頭文字で表記する、という方針で書いているだけのことです。
 
私の父・亀井秀雄は、私が平成18年10月31日、寺嶋弘道学芸主幹のパワー・ハラスメントをアピールした時期、ブログでその問題に言及することはしませんでした。北海道文学館の幹部職員のまっとうな対応を期待していたからでしょう。
 また、私の父・亀井秀雄は、平成18年12月6日、私が来年度の雇用に関して、毛利正彦文学館長から実質的な解雇通告を受けた時も、ブログで取り上げることはしませんでした。私がその通告に対して、12月12日、北海道文学館の幹部職員に、「毛利正彦館長が通告した「任用方針」の撤回を要求する」を渡した時も、ブログで言及することは控えていました。まだ何ほどか北海道文学館の幹部職員の誠意を期待する気持ちが残っているからだ、と私は理解しています。

 
しかし、平成18年12月27日、毛利正彦文学館長と平原一良副館長が私に対して、極めて不誠実な「回答書」を返した。その翌日から、父・亀井秀雄はブログで北海道文学館の批判を開始しました。
 私としては、至極当然な対応だと思っています。

 
ただ、父・亀井秀雄はこの事態に対する一定のスタンスを保つため、寺嶋弘道学芸主幹以下の職員の名前は出さない方法を取ったものと理解しています。しかし、年が明けて、平成19年1月17日、毛利正彦氏から私に渡された「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」は、明かに私を愚弄するだけでなく、父・亀井秀雄を愚弄する文言で書かれていました。多分父・亀井秀雄は、今後は、全ての人間を実名で名指しする書き方に変えることでしょう。
《引用、終わり》

○毛利正彦文学館長の見境なし
 私はここまで引用しながら、改めて、毛利正彦という人物は本当にものごとのケジメが分からない、見境のない男なんだなあ、と思つた。
 亀井志乃は自分の疑問に思うところや、要求を文章に書き、それを渡して、誠意ある対応を求めている。それ以外のことをしているわけではない。だから、毛利正彦のやるべきことは真っ直ぐにそれに対応することなのだが、父親のブログのことを持ち出し、「強く抗議します」(この文の主語は毛利正彦自身だろう)などと、筋違いの言いがかりをつけている。職場における公人同士のルールというものを知らないのではないか。その無知があの長ったらしい修飾句の文脈の混乱として露呈してしまったわけだ。
 今さら念を押すまでもないだろうが、毛利正彦は、「この世の眺め――亀井秀雄のアングル――」を書いてきたのが亀井秀雄であることを知っていたはずだ。抗議をしたいのならば、私に抗議をすればいい。それなのに、なぜ亀井志乃に「強く抗議する」材料としたのか。

 仕方がない。あの人はそれが筋違いなことも分からないほど、被害者意識にとり憑かれて、取り乱しているのだから。第三者ならば、そう言って、笑って見ていることもできるだろうが、亀井志乃や私にしてみれば、この人、また、いつ何時、妄想たかりになって、筋違いなことを言い出すか分からない。よって、亀井志乃の名を明らかにすることにしたが、そうである以上、寺嶋弘道以下の職員の実名も明らかにする。これが筋と言うものだろう。

(付記。亀井志乃の神谷理事長宛の要求書は、1月28日に、「北海道文学館のたくらみ・資料編」( http://fight-de-sports.txt-nifty.com/wagaya/)に、資料7「神谷理事長の回答を要求する」として載せました。合せてご覧下さい。2007年1月31日午前6時30分)
 

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北海道文学館のたくらみ(5)

パワー・ハラスメントの実態(「中」の補足)
――「いい人」たち――

○不二家事件の視点から
 私はK嘱託職員の「駐在道職員の高圧的な態度について」の次の箇所を読み、いかにも平原らしい〈たくらみ〉だなあと、改めて平原一良副館長の人となりに感じ入った。
 T学芸主幹がケータイフォトコンテストを思いつき、K嘱託職員と平原一良副館長とT学芸主幹の3人が「館長室」で相談した、あの場面である。
《引用》

“〈企画〉を立てる”という事に対するあいまいさについて

・私(K嘱託職員)は、〈フォトコンテスト形式にするなら、予算的な絡みも出て来るし、そういう事は一存で決められないと思う〉と言った。
すると主幹は、〈私は、コンテストに別にしなくてもいいと考えている〉と言った。
(その時はじめて。)

・私は、〈私の立場で(前年度から碑の仕事をしているものとして)意見を言えばいいのか〉と言った。すると主幹は、〈意見ではない〉という。あくまでも〈企画〉だと言う。

・学芸副館長(平原一良副館長の当時の肩書き)と主幹は、〈要するにアイディアを出して欲しい。アイディアが出て来て、そのテーブルプランによって、業者との金銭的な絡みが出て来るところはT主幹が、画像のアップでインターネットに関わるところはSさん(社会教育主事)がやることになる。Kさんは自由にアイディアを出して欲しい〉と言った。アイディアは〈皆でもむ〉とも言った。

私は、〈では私は、基本になるアイディアを出すのであって、それを館の人が検討して、実際のプランを固めるのか〉ときいた。
すると、〈いや、Kさんに柱となってやって欲しい〉と言った。

・そして主幹は、私に、日程的な面でもプランを立ててくれ、と頼んだ。
私は、〈日程も立てるのか? 私が日程を立てれば、他の人たちとのスケジュールのバッティングもあり得るが、そういう所はどう調整するのか〉とたずねた。
すると、〈それは皆で話し合うからいい〉という事だった。
 

・しかし私が、〈それでは、アイディアが出来たら提出して、それを皆さんに見てもらって話し合って、それで具体的な仕事も日程も決まる、とそういう事か〉と改めてたずねると、学芸副館長は、〈いや、別に、全員という事でなくてもいい。なぜなら、必ず文句を言う人間は出て来るから、僕とTさんとが見て、これで良さそうだという事になれば、そこでKさんに進めていって欲しい〉と言った。

 このように書き出して見ると、皆(学芸)でもむ、皆で話し合うといいながら、“文句を言う人間をあらかじめ避けるために、平原とTの2人だけで見て計画を許可する事があり得る”という含みをあらかじめ匂わせておいたりして、不自然。

 そして、この着想自体はT主幹のものなのだから、私は〈Tさんの方から企画が出る、という事はないのか〉とたずねた。
だがなぜか、主幹は、〈なぜ私がやるのか。文学碑の事はKさんの仕事ではないか〉と言った。

 そもそも勤務先のイベント企画を出すのは、まさに正規の職員(駐在の道職員であっても正規の職員であるには違いないだろう)のすることであって、私が出す・出さないに関わらず、着想があれば主幹自身が立案・提起しても何も問題ないはずである。
ところが、学芸副館長・主幹共に、〈企画〉は絶対に私の方から出させなくては気がすまないように見える。これは、あくまで、“K自身が言いだした事”にしたいためか? そしてこれらは、“最終的には、結局、企画の収拾は全てKが負う事にしておきたい”という考えのもとの伏線作りのように思われる。(現時点における推測)

 私はこの箇所を引用しながら、最近テレビが大きく取り上げている「不二家」の事件を思い出した。大手菓子メーカーの不二家が、消費期限切れの牛乳を使った事件であるが、テレビの報ずるところによれば、安全管理のマニュアルがなく、しかも元菓子職人のパート社員に原料の仕込みを任せていたという。そのパート職員は、安全か否かの識別を、原料の色や匂いで判断していたらしく、もしそうならば、これはもう言語道断の杜撰さだったと言うほかはないだろう。
 パート社員の無神経はもちろん非難されなければならない。だが、責任そのものは会社にある。なぜなら、安全管理マニュアルを用意し、正社員の責任範囲を明らかにするシステムを、会社が作って来なかったからである。

 このように整理してみれば、K嘱託職員が求めたのは、責任範囲の明確化だったことが分かる。
 T学芸主幹は、K嘱託職員からフォトコンテストの形式に必要な条件を指摘されて、「
私は、コンテストに別にしなくてもいいと考えている」と腰砕けしてしまった。自分の思いつきがリアリティに欠けていることに気がついたのかもしれない。それなばら、自分の思いつきを取り下げればいいのだが、「文学碑の事はKさんの仕事ではないか」と、文学碑の問題にすり替えながら、あくまでもK嘱託職員に押しつけようとしていた。(現在から振り返って見れば、ここに、T学芸主幹がK嘱託職員に「サボタージュ」の汚名を着せる伏線があったことになる。)
 それに対してK嘱託職員は、〈もともとこれは正職員のT学芸主幹が思いついた企画でもあり、だから正職員の責任と権限の範囲で、こちらが仕事できる前提条件を作り、大綱を立ててみてくれ〉と言っているにすぎない。
 要するにこれはヤル気があるかないかの問題ではない。不二家のような、なし崩しのまる投げ状態による、無責任な体制に陥ることを防ぐ、ケジメの問題なのである。どちらがマトモなのか、一目瞭然だろう。
 ところが、T学芸主幹はそれを理解しない。あるいは、理解できない。平原一良副館長も理解しない。ひたすらT学芸主幹の側に立ち、K嘱託職員を何とか言いくるめて、Tの仕事の肩代わりをさせようとしている。
 どうやらこれが彼らの得意とする組織論の正体なのである。
 
○「必ず文句を言う人間」
 ただし、私がいかにも平原らしいと感じたのは、以上のことだけではない。特に私が強くそれを感じたのは、「
しかし私が、〈それでは、アイディアが出来たら提出して、それを皆さんに見てもらって話し合って、それで具体的な仕事も日程も決まる、とそういう事か〉と改めてたずねると、学芸副館長は、〈いや、別に、全員という事でなくてもいい。なぜなら、必ず文句を言う人間は出て来るから、僕とTさんとが見て、これで良さそうだという事になれば、そこでKさんに進めていって欲しい〉と言った。という下りである。
 平原が言う「必ず文句を言う人間」とは、どんな人間なのだろうか。「
いや、別に、全員という事でなくてもいい。……僕とTさんとが見て、これで良さそうだという事になれば、そこでKさんに進めていって欲しいという言葉から判断するに、平原一良副館長は文学館内部の人間を想定して、そう言ったのだろう。

 現在の北海道文学館は、館長と副館長の外に、職員は8人しかいない。そのうちの3人は業務課で、この人たちが学芸課の企画に「必ず文句を言う」はずがない。残る5人のうち、T学芸主幹とK嘱託職員は現にここで話し合っている。してみるならば、S教育社会主事とA学芸員とO司書が「必ず文句を言う人間」の候補となるわけだが、SとAはT学芸主幹と同じく駐在道職員であって、年齢も若く、平原やTが立てた(承認した)企画に「必ず文句を言う」ような立場ではない。
 
 こんなふうに消去法で該当者を絞って行くならば、O司書だけが残る。彼女は現在でこそ司書の身分だが、道立文学館が開設した当初から学芸員的な仕事をしてきた非常勤職員で、今年の4月には定年で辞めるらしい。
 
○良識人・平原一良
 ただし私自身は、O司書が「必ず文句を言う」タイプの人間だとは思っていない。確かに彼女の仕事ぶりには問題がある。それは、彼女のわがままを、まるで腫れ物にさわるみたいに大目に見てきた、神谷忠孝理事長や毛利正彦文学館長や平原一良副館長の問題でもある。
 だがその問題は、いずれこの文章のテーマに取り上げることとして、差し当たり関心を平原一良副館長の言葉に絞って言えば、O司書は良くも悪くも他人の企画に積極的に関心を持つタイプではない。自分が特別に思い入れを抱いている某研究者に関する資料や、その研究者の人間関係にかかわることだけが大事で、以外のことは、誰が何をしていようがほとんど無頓着なのである。

 そして多分、平原一良副館長も決して表立っては、O司書が「必ず文句を言う人間」だとは明言しないだろう。ただ、文学館内部の人間構成を知っている人間が、あの場面に立ち会っていれば、まず間違いなくO司書を思い浮かべてしまう。
そこが彼の巧みな「良識人」的な処世術なのであるが、何かことがうまく運んでいない/いなかった理由を説明する時、彼はほとんど必ず「口うるさい人がいる/いたから」、「誰それの息がかかった人間がいる/いたから」、「文学館と図書館の違いも分からない人間がいる/いたから」というような言い方をする。〈私(平原)自身は別なやり方を考えていたのですが、そういう人間に妨げられてうまくゆかなかった。しかし、そういう人間がいなくなれば/いなくなったから、皆さんのご希望を生かした線で進めることができると思いますよ〉というわけである。

 そこで、少し様子を知っている人は、――むしろ少し様子を知っているだけに――ついその思わせぶりにひっかかって、自分も顔見知りの、特定の人を思い浮かべながら、「口うるさい人」や「誰それの息がかかった人間」や「文学館と図書館の違いも分からない人間」に当てはめる。そして、「ふ~ん、彼/彼女ってそんな人間だったのか」という悪印象を作ってしまう。
 私は、一時期彼がしきりに「アンシャン・レジーム」を連発して、一世代上の文学館関係者を暗に貶めようとしているのに気がつき、眉に唾をつけて聞くようになったが、とにかく彼の仄めかしや思わせぶりにはそういう怖さがある。警戒するに越したことはない。

○「いい人」は怖い
 私が北大の教師だった頃、和田謹吾という15歳ほど年長の同僚がいて、良識人として大変に評判がよかった。その理由は私にもよく分かった。何か大事なことがあって相談に行くと、この人は決して「私は反対だ」とは言わない。「私はそれでよいと思うが、誰それさんが何と言うかな~。きっと一言あると思うよ」などと返事をする。そういう目配りの広さというか、気配りのよさというか、とくかく穏やかで良識に富んだ人物として評判が高かったのである。
 しかし、いい人というのは怖い。「誰それさんって、そんなに難しい、意地の悪い人なのか」と、マイナスのイメージを喚起されてしまうからである。ところが実際に会ってみると、案ずるより生むがやすし、話がするすると通ったりする。

 ある時、相談があるとの伝言があって、教養部の研究室に行ってみると、藤女子大の小笠原克も同席していた。相談というのは、〈今年の夏、近代文学会の北海道支部と東北支部の合同大会を北海道で開きたいのだが、君(亀井)の研究室で事務的なこと一切を引き受けてくれないか〉ということだった。
 教養教育担当の教授の和田謹吾には、助手もいないし、彼を指導教官とする学生もいない。数人の大学院生が彼のゼミに出ているだけだった。だから、〈亀井の研究室で〉ということは、文学部の国文学講座の助手や大学院生を動員して、という意味であり、私は「分かりました、やりましょう」と返事をした。すると、和田謹吾はクックッと特徴ある笑い方をして、「野田さんが怒るぞう」。
 制度的に言えば、学部の国文学講座は、近世文学を専門とする野田寿雄が教授を務め、私はその下の助教授だった。翌年の春、野田さんは定年で退官する。だからその年は、野田さんが北大の教壇に立つ最後の年だった。私たちは先生の業績を顕彰する行事の一つとして、――その他に記念論文集を出した――日本近世文学会という全国学会を北大で開くことにした。もちろん学会の主役は野田さんである。私は近世文学会の会員ではないが、同じ国文学講座の助教授として、全国学会開催の中心になっていた。
 そういう私の立場を分かっていながら、和田謹吾と小笠原克は近代文学会の支部合同大会を割り込ませて、私が引き受けると、「野田さんが怒るぞう」と嬉しがっている。
野田さんは、私が秋の大掛かりな学会の準備を進めながら、その間、中規模の研究集会の世話役を勤めたからと言って、ヘソを曲げるような人じゃない。それなのに和田という人は、野田さんが感情を損ねるかもしれないと、思わせぶりに仄めかす。こうなると、いい人を演じ続けて、もはや見境なし、病膏盲だな。

 平原一良は北大の学生時代、和田謹吾の授業を取ったはずであり、ひょっとしたら彼の研究室に出入りしていたかもしれない。
 「いい人」は伝染する。だから怖い。

○「いい人」の意見操作
 私がもう一つ怖いと思ったのは、〈
いや、別に、全員という事でなくてもいい。なぜなら、必ず文句を言う人間は出て来るから、僕とTさんとが見て、これで良さそうだという事になれば、そこでKさんに進めていって欲しい〉という言い方で、平原は、ことさらコミュニケーションの壁を作り、人間関係を分断化したがっていることである。
 平原がそういう言葉を発した瞬間、彼は、3人が相談している館長室を、一種の密室に変えてしまった。あるいは3人の相談を、一種の密議に変えてしまった。なぜなら、その時館長室は、「必ず文句を言う」誰かに対して閉ざされた空間になってしまったからである。こういう分断化は「必ず文句を言う」誰かだけでなく、他の職員に対しても同様な作用を及ぼす。怖い男だ。

 彼の場合も、習い性が悪癖となって、ああいう毒を含んだ言葉を、自己抑制もなく口にしてしまったのだろう。そうだとすれば一そうおぞましいことだが、彼は口先では組織内のコミュニケーションを重んずる振りをしながら、実はこのような毒のある言葉で、巧妙にコミュニケーションの分断化を図り、調整役みたいな顔をして意見を操作してゆく。
 そして、聞いている人間が特定の誰かを連想するような言葉を、さりげなく織り込みながら、「ああいう人に引っ掻き回されないように、まず我々だけで意見を固めておこう」みたいなことを言い、仲間内で都合のいい方針を作って、会議の場では、もう変更困難な既定方針に見せかけた説明をする。そういう形で、特定の誰かだけでなく、事情をよく知らない出席者の口までも封じながら、各種委員会や理事会を操ってゆく。多分それが彼の文学館渡世の方法であった。

 平原お気に入りのT学芸主幹も同じようなタイプなのだろう。そういう人間にとっては、週一回の朝の打ち合わせ会のような連絡会でさえ、自由な情報交換の場であることが許せない。平原一良副館長から預かった大切なシマだ、俺が立派に仕切ってみせますぜと大張り切り、〈事前に俺が承知したこと以外には何も言うな〉と、見せしめ的にK嘱託職員をいたぶって見せたのである。

 K嘱託職員は、しかしそういう場数を踏んできただけに、平原一良副館長の言葉に潜む毒々しいたくらみを直感してしまった。それはよほど印象的だったのだろう、次のように書き加えていた。
《引用》

このように書き出して見ると、皆(学芸)でもむ、皆で話し合うといいながら、"文句を言う人間をあらかじめ避けるために、平原とTの2人だけで見て計画を許可する事があり得る"という含みをあらかじめ匂わせておいたりして、不自然。

 そして多分、このような直感の働くK嘱託職員は、平原にとってもTにとっても煙たい存在となり、邪魔になったのである。

○栗田コレクション展中止の怪
 さて、ところで、去年の暮も押し詰まったころ、――郵便局のスタンプは「06.12.22.12-」となっている――財団・北海道文学館から、一枚の葉書が来た。平成19年1月13日(土)から同27日(土)まで開催する予定だった、「『聖と性、そして生』~栗田和久・写真コレクションから~」が中止になった、という。
 なぜ、開催間近になって、急に中止となったのか。その葉書によれば、「資料提供者の事情により中止となった」のだそうである。

 この企画展は年度当初から予定していた。だから、すでにその時点で、かなり明確な構想を立て、栗田和久のコレクションから借りる作品の候補もリストアップしてあったはずである。それから半年以上も経ち、開催まであと一ヶ月という直に、急きょご破算となる。公共の文学館や美術館の関係者ならば直ぐに気がつくことだが、これは普通には考えられない異常な事態であり、担当者の責任は重い。
 この企画展で、栗田和久さんの窓口となったのは平原一良副館長であり、担当はT学芸主幹だった。

 その中止の少し前、文学館では企画検討委員会を開いている。私はその委員会の委員ではなく、もちろん出席はしていない。だが、当日出席した人の話によれば、まずT学芸主幹が〈栗田和久さんが肺炎になったから〉という意味の説明をし、平原一良副館長がそれを引き取って、〈栗田さんは以前、肺結核を患い、もう完治したのだが、最近体調を崩されたから〉と補足したらしい。
 私は、栗田さんが体調を崩したことまで疑うわけではない。しかしこの説明は納得できない。年度当初に実施が決まってから半年、基本的な準備を進めていれば、たとえ栗田さんが最近体調を崩したとしても、展示の実施に支障が生ずるはずがないからである。
 企画検討委員会は、子供だましみたいな説明で納得してしまったわけだが、まあ、皆さん、みんな「いい人」なのだろう。だが、これでは委員会としての機能を果たしていると到底言うことはできない。

 ところが、文学館の葉書は更にその辺の事情をぼかして、「資料提供者の事情により中止」と、資料提供者(の事情)の側だけに中止の責任があるかのような言い方をしている。では、この「資料提供者」は栗田さんを指し、「事情」は栗田さんの病気なのだろうか。それが納得しがたいことは今も指摘したことだが、じつは別なふうに考えることができる。この企画展で展示を予定していたのは、栗田さんの作品というより、栗田さんが所蔵するコレクションだった。当然その中には、栗田さん以外の人の著作権や肖像権にかかわる作品もあっただろう。あるいは、そういう人の何人かから展示を拒否されたのかもしれない。

 そういう可能性もある事態として、この問題は今後も取り上げたいと思うが、いずれにせよ、年度当初から予定していた企画展を一つキャンセルする羽目になった。これは文学館として重大な失態というほかはない。

(付記。このたび、「北海道文学館のたくらみ・資料編」( http://fight-de-sports.txt-nifty.com/wagaya/)を開きました。合せてご覧下さい。2007年1月18日午後10時45分)
 

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北海道文学館のたくらみ(4)

パワー・ハラスメントの実態(中)

○10月28日の記録
 前回も紹介したように、K嘱託職員は自分に依頼された仕事の性質をよく弁え、仕事の流れを把握するために、筆まめに「道立近代文学館覚え書」というノートを取っていた。そのことは、「駐在道職員の高圧的な態度について」(「北海道文学館のたくらみ(1)」参照)というアピール文から推測できるが、おそらくこの心掛けが、彼女に、有形無形の館内の嫌がらせに抵抗する精神力と方法を与えてきた。
 相手の悪意ある言いがかりに対して、もし彼女の提出できる反論が単なるうろ覚えの記憶でしかなかったならば、相手は水掛け論に持ち込んで、彼女の言い分を無効にしてしまうことができる。あるいは数を頼んで、彼女の言い分を押さえ込んでしまう。ところが彼女は、それに対して、具体的な日時と場所に基づく事実と、事の経緯を挙げることで対抗してきたのである。

 K嘱託職員は10月28日、T学芸主幹から自分の仕事ぶりを「サボタージュ」と言われ、3日後の10月31日、A4版13ページに及ぶ「駐在道職員の高圧的な態度について」を書き上げて、神谷忠孝理事長、毛利正彦文学館長、平原一良副館長、K業務課長、T学芸主幹の5人に渡した。
 筆まめにノートを取っておく習慣がそういう素早い対応を可能としたわけだが、次に引用する「10月28日」の箇所は、ノートに書き止める時間的な余裕がなく、いわばぶっつけ本番で書いたものだろう。それだけに、出来事の経緯だけでなく、K嘱託職員の表現能力や表現の質もよく伝わってくる。引用は少し長い。
 私はこれまで、他の文章から引用する場合は、読んでくれる人が認知しやすいように、引用文を赤字に変えてきた。今回はK嘱託職員の文章によって事態を語ってもらう方法を採るため、赤字の文章が続く。眼に負担が大きいかもしれないが、ご海容をお願いする。
《引用》
 
平成18年10月28日(土)、K(本人。以下、「K」もしくは「私」と表記)は朝から閲覧室勤務であった。Kは、一人で業務を行っていた。そこに昼前(11時頃)、T主幹(以下、「T主幹」もしくは「主幹」と表記)が訪れた。
主幹は、閲覧室のプリンタを用い、印刷作業を行った。11時40分頃、作業を終え、閲覧室カウンター奥パソコンの前を離れた。そしてカウンター横を通り過ぎた時、突然、Kに対し、
 「そういえば、Kさん、文学碑の仕事はどうなっているの」と尋ねて来た。

 Kは、〈文学碑の仕事〉とは、〈北海道の文学碑データベース〉の作業であると解した。文学碑データベースについては、各市町村・自治体から特に新たな情報は入っていなかったので、更新も行っていなかった。そこで、「いいえ、特に何もやっていませんでした」と答えた。すると、主幹は
「やってないって、どういう事。文学碑のデータベースを充実させるのは、あんたの仕事でしょ。どうするの?もう、雪降っちゃうよ。」とたたみかけた

 Kは、〈データベースの充実〉と〈「もう、雪降っちゃうよ」〉という言い方とがどのようにつながるのか了解しかねたので、どういう事かたずねてみた。すると、T主幹の主張するところは、主に以下の2点であった。

・以前、T主幹と平原一良副館長(当時は学芸副館長)、それにKの3名は、館長室において文学碑データベースについて打ち合わせを行った。その際に、担当者であるKが、文学碑のデータベースをより充実させ問題点があれば見直しをはかり、さらに、Kが碑の写真を撮ってつけ加えてゆく作業をする事に決まった。

・これらは、Kが主体となって執り行うべき業務である。それを現在まで行わなかったのは、Kのサボタージュに当たる。

 しかし、後に〔データベース打ち合わせ当日の記録〕の項で詳述するが、その“館長室における打ち合わせ”の際に、上記の如き決定や申し合わせはなされていなかった。そこで、Kは、〈そのような事は決まっていない〉と反論した。しかし、主幹は、あくまで〈決まっていた〉と主張した。そして、
「どうするの。理事長も館長も、あんたがやるって思ってるよ」と言った。

 それを聞いてKは、おそらく誤った情報が神谷理事長や毛利館長に伝わっているのだろうと思った。そこで「わかりました。では、私が理事長と館長にご説明します」と言った。ところが、主幹は、
「なぜ、Kさんが理事長や館長に説明しなきゃなんないの」と言い、そのような事は不要だとした。

 Kは、一対一で押し問答に終始すべきではないと思い、「それでは、もう昼にもなるので、事務室へ行ってお話うかがいましょう」とカウンターを立った。すると、主幹は、「なに、その態度は。」と言ったが、Kは、「いいじゃないですか、みなさんのいる所でうかがっても。」と言い、事務室に向かった。主幹も「いいよ」と答え、しばらくして事務室に上がった。(なお、当時、事務室にはS社会教育主事・N主査・N主任がいて昼食をとり、部屋を出入りするなどしていた。)

 昼食後、Kは、改めて話を聞こうとした。だが、T主幹は、〈もう2度も話したから、その通りのことだ〉と言い、なぜか主張の詳細を事務室では口にしようとしなかった。〈要するに認識の相違だ〉とも言ったが、Kの“文学碑に関してそのような仕事は決まっていなかった”という主張は、依然、認められないとの事だった。

 しかし、専門性を認められて報酬を受けている嘱託職員にとって、かりそめにも〈サボタージュ〉を行ったと職場の人間に決めつけられるのは、重大な問題である。だから、Kは、〈では、その問題について、副館長もK業務課長も揃ったところで、説明させていただきます〉と言った。ところが、主幹は、
「いいかい。たかが、だよ。たかがデータベースの問題でしょう。それを、なんであんたが、平原さんやK課長に説明しなきゃなんないの」と、今度は一転、データベースの問題の重要さそのものを否定した。そして、
「説明したいんなら、まず、私に説明しなさい。」

「何かやるときには、まず、私に言いなさい。」と言い、Kが〈2人の間に認識の違いがあるというのだから、その事について、他の方に意見をうかがいたいのだ〉と言うと、「説明してわかってもらいたいなら、わたしにまず説明しなさい。私がこの学芸班を管理しているんだ。そうした決まりを守らないなら、組織の中でやっていけないよ」と発言した。

 Kは、事が、自分の雇用や勤務の在り方にまで関わる問題に発展しかねないと思ったので、机の中に入れていた録音機を取り出し、〈話の詳細を心覚えに記録させていただきますので、どうぞお話し下さい〉と言った。
すると主幹は、今度は話を続けることなく、急に
「あんたひどいね。ひどい。」

「あんた、普通じゃない。」と繰り返すにとどまった。

 Kは、主幹に、〈私に話したい事があるなら、記録を取られるからといって、なぜ、話さないのか。誰がいたとしても、一対一の時のように、はっきり言えばいいではないか〉と言った。そして、〈私は、この問題について、これからも追求してゆくつもりだ。その事は、自分自身が(自分の言葉として)これ(録音機)に記録しましたから〉と言い、午後の勤務のために事務室を出た。

これが、10月28日に起こった出来事の概要である。
                                             《引用終わり》
○T学芸主幹の嘘つき
 事の経緯は一読して明らかだと思うが、幾つか見過ごしにできない点があり、それを検討してみたい。
 その一つは、T学芸主幹はあきらかに自分が嘘をついていると自覚しながら、K嘱託職員に言がかりをつけてきたことである。

 まずT学芸主幹がいう文学碑の写真集めについて言えば、K嘱託職員が自分のノートを整理して確認したように、――その箇所も前回、紹介した――T学芸主幹はK嘱託職員が作った文学碑のデータベースを見て、ケータイによる文学碑のフォトコンテストを思いついた。だが、K嘱託職員から仕事の性質が異なることを指摘されて、結局フォトコンテストの件は自分から取り下げてしまった。要するに話が立ち消えになっただけであり、T学芸主幹が思いついたことの一部をK嘱託職員が引き継いで実現するという申し合わせさえもなかったのである。
 では、T学芸主幹はその経過を忘れてしまい、ただ〈K嘱託職員には年度内に、文学碑の写真を集める仕事がある〉と思い込んでいただけなのであろうか。

 だが、それは単なる思い込みや勘違いなどではなく、確信犯的に捏造した虚言だった。なぜならT学芸主幹は、「どうするの。理事長も館長も、あんたがやるって思ってるよ」と、理事長や館長の名前を出して自分の主張には支持者がある振りをし、ところがK嘱託職員が「わかりました。では、私が理事長と館長にご説明します」と反応するや、「なぜ、Kさんが理事長や館長に説明しなきゃなんないの」と慌ててしまったからである。
 仮に単なる思い込みであったとしても、T学芸主幹は自分の主張に自信があるならば、K嘱託職員が理事長や館長に会うことを警戒する必要がない。むしろ積極的に、K嘱託職員を理事長や館長と合わせればよかっただろう。

 そのように整理してみると、T学芸主幹は、理事長や館長がその件では何も知らないことを知っていた。あるいはT学芸主幹は、理事長や館長に、その件について、嘘のことを告げていた。だからT学芸主幹にとって、K嘱託職員が理事長や館長と直接に話することは、大いに困ることだった。そういう結論となるはずである。

○「館長室」というトリック
 要するにT学芸主幹は、言葉のトラップ(罠)を仕掛けて、K嘱託職員を慌てさせ、それにつけ込んでKの〈失態〉をあげつらうつもりだったのだろう。
 そのトラップの急所は「
館長室において文学碑データベースについて打ち合わせを行った」というT学芸主幹の主張だった。確かに5月2日の話し合いは館長室で行われ、だからうっかりすると、館長や理事長も同席していたように錯覚しかねない。または、そのように思い込まされてしまいかねない。
 だが、K嘱託職員が自分のノートに基づいて書いた「「駐在道職員の高圧的な態度について」によれば、次のような事情で、館長室を使ったのである。
《引用》
 
〈発端〉

10:00頃、学芸課(※学芸班)の打ち合わせ
T学芸主幹(以下、主幹と略)より、
「Kさんと文学碑の写真の事について話をしとかなきゃいけない」と
打ち合わせの申し入れがあった。

       ↓

「2人だけですか」と確認したところ、「誰でも入って欲しい人に入ってもらっていい」という事だったので、平原学芸副館長(以下、学芸副館長と略)(※その時点での職名)に入ってもらう事にした。
       ↓
11:00、館長室にて打ち合わせを始める
当初は、学芸副館長が〈事務室のソファーで〉と言っていたが、十数分後、同じく学芸副館長から〈館長が休みなので、館長室で〉と、変更を言って来た。
 

 こういう経緯で館長室を使うことになり、確かに文学碑データベースも話題になった。だが、その時の主たるテーマは、〈ケータイフォトコンテストを行うか否か〉、〈もし実施する方向で検討を進めるとして、では誰が、その企画書を書くべきなのか〉ということだった。そして、その話し合いの間に、〈文学館の市民に対する情報サービスとしての文学碑データベースと、イベントとしてのフォトコンテストは性格が異なる〉ということが理解されたのである。

○T学芸主幹の陰湿
 もう一つ私が注意したいのは、T学芸主幹という男の嫌がらせのパターンである。
 今回引用した最初の箇所で分かるように、10月28日、K嘱託職員は閲覧室の仕事に就いていた。閲覧室には割合にポピュラーな文学全集や、北海道の各地で発行された文芸雑誌の類が置いてある。
 来館者の中には、そういう図書を読みに来る人もいるが、むしろ北海道に関する文学書で、公共の図書館が持っていない本を探しに来る人のほうが多い。そういう人はカウンターで、閲覧を申し込み、閲覧室勤務の職員が収蔵庫から探してくる。ただしこの文学館は館外貸出しをしない。だらか、閲覧室勤務の職員は、次の来館者の申し込みに応じたり、来館者が返却した本を収蔵庫の元の場所にもどしたり、その合間に寄贈された図書を登録する作業を行っている。
 
 一見これは誰でもやれる単純な仕事のようだが、道立文学館の場合、図書館とは異なる〈独自な〉配架方法を採っているため、必ずしもそうではない。だが、配架や資料整理の問題は別な回で取り上げることにして、ともあれ10月28日、K嘱託職員はそういう仕事に就いていた。そこへT学芸主幹がやってきて、プリンタを使って印刷作業を行い、「
そしてカウンター横を通り過ぎた時、突然、Kに対し、「そういえば、Kさん、文学碑の仕事はどうなっているの」と尋ねて来た。」閲覧室に来館者がいなくなるのを見計らっていたのかもしれない。
 そこで文学碑の写真に関する押し問答が始まったわけだが、「
Kは、一対一で押し問答に終始すべきではないと思い、「それでは、もう昼にもなるので、事務室へ行ってお話うかがいましょう」とカウンターを立った。」これは当然の対応と言うべきだろう。前回紹介したように、T学芸主幹は他の職員がいないか、近くにいても口を挟みにくい状況を狙って、K嘱託職員に難癖をつけてくる。そういうT学芸主幹の傾向に、K嘱託職員は気がついていたからである。

 T学芸主幹は、K嘱託職員の態度に一瞬虚を衝かれたらしく、「なに、その態度は。と咎め立てはしたものの、結局事務室について来た。ところが、先ほどまでの態度はどこへやら、他の職員の前では「もう2度も話したから、その通りだ。としか言えない。つまりT学芸主幹という男は、仕事の内容――何をやるのか、それをする事は既に決定されたことなの、誰が担当するのかなど――については、他の職員の前では、K嘱託職員と議論することを避けたがる。他者の介入がないだろう場面を選んで、粘っこくからんでゆくのである。
 K嘱託職員はそういうT学芸主幹の陰険な陰弁慶ぶりを、以下のようにまとめている。
《引用》

要するに、10月28日、T主幹は、
・決定されていなかったばかりか、懸案にもなっていなかった事柄について、あたかもKがやると決まっていた事だったかのように言い、
・〈やっていなかった〉という事実のみを取り上げ、それがKのサボタージュだと決めつけ、
・Kが〈打ち合わせでそのような事は決まっていない〉と訂正しても決して認めようとせず、しかし、なぜか事務室で、第三者がいる中では、その主張を続ける事が出来なかった
のである。

○T学芸主幹の下士官根性
 だがその反面、T学芸主幹は強烈な序列意識の持ち主らしく、それをひけらかすチャンスがあれば、他の職員が見ている前でもお構いなしに、いや、むしろ他の職員が見ている場面であればこそ、これ見よがしに言い募る。
 
あなたがそういう動きをする事は、誰が知っているの。」、「平原さんが知っていなければ、誰があなたに対して、そういう動きをしていいと承認するの」、「そういう動きの事は、前もって私に言うべきだ」、「私が、学芸班内における動きを知らないというのはおかしい」、「なぜ、先に話し合いをしないの」、「何度同じ事を言わせるの」 、「こんなところで予定を言って、“よろしいでしょうか”って言ったって、誰も、いいなんて言えないんだよ!」、「あんた、みんなに、いいって言って欲しいんでしょう。だったら、やることちゃんとやんなさい!」
 前回の引用でも、T学芸主幹はこういう居丈高な罵詈雑言を吐き続けていたわけだが、そういう男の魂胆を一言で言えば、「お前はこの組織の序列で一番下なんだ。何かをやりたいんなら、まず俺や平原の顔を立てろ」という下士官根性だろう。
 10月28日の出来事も結局はそこに行き着く。くどいようだが、T学芸主幹という男の居丈高な下士官根性を確認するため、もう一度その箇所を引用したい。
《引用》
 
しかし、専門性を認められて報酬を受けている嘱託職員にとって、かりそめにも〈サボタージュ〉を行ったと職場の人間に決めつけられるのは、重大な問題である。だから、Kは、〈では、その問題について、副館長もK業務課長も揃ったところで、説明させていただきます〉と言った。ところが、主幹は、
「いいかい。たかが、だよ。たかがデータベースの問題でしょう。それを、なんであんたが、平原さんやK課長に説明しなきゃなんないの」と、今度は一転、データベースの問題の重要さそのものを否定した。そして、
「説明したいんなら、まず、私に説明しなさい。」

「何かやるときには、まず、私に言いなさい。」と言い、Kが〈2人の間に認識の違いがあるというのだから、その事について、他の方に意見をうかがいたいのだ〉と言うと、「説明してわかってもらいたいなら、わたしにまず説明しなさい。私がこの学芸班を管理しているんだ。そうした決まりを守らないなら、組織の中でやっていけないよ」と発言した。

 K嘱託職員の記録を読んでゆくと、このT学芸主幹に限らず、毛利正彦文学館長も平原一良副館長も、やたらに「組織」という言葉を振り回す。毛利正彦の組織論がスターリン主義でしかないことは、「北海道文学館のたくらみ(2)」で指摘しておいた。しかし、どうやらそれは褒め過ぎだったらしい。その本質は暴力団の組織論と変わらない。そのことをT学芸主幹の言いざま、態度がよく語っている。
 それにしても、駐在北海道教育委員会職員・学芸主幹という肩書きの、この人物、「
私がこの学芸班を管理しているんだ。そうした決まりを守らないなら、組織の中でやっていけないよ」とは、相当に思い上がった三下やくざだな。
 
○K嘱託職員の姿勢
 K嘱託職員はこのような事例を挙げて、――以上がその全てではないが――次のような結論を語っている。これもかなり長い引用になるが、彼女がどのように条理を通そうとしているか、その姿勢が如実に伝わってくるだろう。
《引用》

 このように経緯をたどってゆくと、T主幹の常に意図するところは、おおよそ、

1・Kが、他の上司の誰よりも主幹を優先的に扱う事
2・Kが嘱託として一任されている仕事の場合であっても、Kがその責任を果たすための行動については、すべて、あらかじめ、主幹の検閲を受ける事
3・Kがその事項について承認してほしいと思う場合は、文学館の規約を守るよりも、主幹の感情にそむかないようにする事が大事なのだと、Kに徹底的に知らしめる事

の3点であるように思われる。
 
このうち、3点目についてそう判断するのは、主幹が主張する事柄に関して、他の職員に確認をしても、これまで誰一人として、「主幹の言う事が正当である。Kはここで働く以上、その事を遵守しなければいけない」と言う人はいなかったからである。つまり、主幹の理論は、館の規約とも職業人の常識とも関わりないものであると言える。

 そして、以上の3つの意図が端的に現れたのが、10月28日の事例であると言えよう。
 これまでの経緯を見ても、K主幹との間では、〈話し合い〉に相当する対話は成立しない。そればかりか、学芸業務の依頼・指示すら一度もなされたことがない(展示作業・書籍整理・郵送等のいわゆる学芸業務についてKに依頼していたのは、S社会教育主事とA学芸員だけであった)。Kに向けられる言葉の大半は、手続き論や形式論に関する詰問・叱責・命令である。

 
主幹の方が、明らかに客観的に事実と違う事を言っている時でさえ、それを指摘されても、認める事も譲歩する事もない。主幹は常に、Kの方が“基本的な事は何も知らない奴”だという事を前提として言葉を発している。また、〈誰があなたにそれを許しているの〉〈ちゃんとやんなさい〉〈組織人としてなっていない〉等の言葉は、明らかに、それを耳にしている周囲の者に対しても〈今、自分にこのように言われているこの者は一人前の人間ではなく、職業人としてまともに遇するに価しない奴なのだ〉というメッセージを含んだものとなっている。
 このような口の利き方は、とうてい、ある年齢に達していて一定の専門性が認められている同僚職員に対するものとは言えないであろう。

 さて、個人差もあるとはいえ、通常、女性は、自分に対してこうした言葉の暴力を振るう傾向を持った人間と、2人きりで話す機会を持ちたいとは考えないものである。まして、それが職場の目上であり、自分が被雇用者の立場であれば、だれか第三者が側にいてくれる状況を求めるのが当然である。
 
また、別な面からいえば、職場で仕事をする上では、同僚とのコンセンサスの共有が一番重要な課題である。それに、現在の道立文学館においては、事務室にいる職員は全員集まっても8人程度にすぎない。その人たちがなるべく多く集まっている時に、今、どういう仕事をすすめ、どんな予定で動いているのかという事を話しておくというのは、非難されるべきでないばかりか、むしろ推奨されるべき事であろう。

 ところがT主幹は、Kのそのような動きをすべて否定し、〈すべて、まず、第一に私を通せ。私がお前を管理している。〉という内容の発言を繰り返し、また〈(たかがデータベースのことを)何で平原副館長や、K課長が揃ったところで説明しなければならないのだ〉と、聞きようによっては、財団職員をすべて自分より格下に見ているとしか受け取れない発言すらしている。
 
このような言い方で自分を特権的に扱う事を、しかも、雇用身分が最も不安定な者にのみ強要することは、きわめて悪質なパワー・ハラスメント(上司の部下に対する言葉や態度による暴力)に相当するのではないか。また、今までKは幾度か他の職員に事情を話し、一方、職員のうちの幾人かも、Kが主幹に上記のような扱いを受けている場面をしばしば見かける機会があった。それにも関わらず、これまで何ら有効な対応もなされてこなかったということは、もしかするとこの〈北海道立文学館〉という組織そのものに、ハラスメントの素地があると言えるのではないだろうか。Kは、そのように考える。
                                             《引用終わり》
 これがK嘱託職員の結論である。こういう筋道の明らかな論理で結論を導いたのち、K嘱託職員は次のように、相手に反論を促し、それによって対話を進めようとしていたのである。
《引用》
 
以上の点については、T主幹以下、それぞれの関係者から、反論もしくは別の視点からの意見も提出される事もあろう。また、内容をお認めになるという場合もあるだろう。そうしたご意見・ご回答は、すべて文書の形で、Kにお渡しいただきたい。これは、Kとしても、より正確な記録を残しながら、今後の対応を続けていきたいためである。
 例えば、

・Kには、実際これまで、身勝手かつ無責任な行為、またはサボタージュ行為等によって、館の職員もしくは来客に迷惑をかけた例がある(ボランティア時代からを含めても可)
・Kには、多少上司が圧力をかけてでも、その未然防止につとめなければならないような問題的な性癖・行動がみられる。あるいは、明らかに〈普通ではない〉と認められるような異常性がある

というようなご意見がある場合には、是非とも、具体的な事例や証言を添えて、K当人にお渡し下さるよう、切にお願いしたい。
 なお、文書でのご意見・ご回答は、11月10日(金)までにお渡しいただきたい。

                                             《引用終わり》
 しかし、T学芸主幹も、神谷忠孝理事長も毛利正彦文学館長も平原一良副館長もK業務課長も、誰もそれに答えようとしなかった。
 驚くべきことに、T学芸主幹はK嘱託職員が挙げた事例に一言半句も反論することなく、毛利正彦文学館長や平原一良副館長の陰に隠れてダンマリを決め込んでいる。他方、神谷忠孝理事長や毛利館長や平原副館長やK業務課長は、K嘱託職員が挙げた具体例に即した事実関係を調査することなく、つまり何の反証も挙げずに、パワー・ハラスメントはなかったと言い張っているのである。
                                             (この項、続く)

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北海道文学館のたくらみ(3)

パワー・ハラスメントの実態(上)

○K嘱託職員のアピール文について
 K嘱託職員は、T学芸主幹から受けたパワー・ハラスメントをアピールするために、10月31日付の、「駐在道職員の高圧的な態度について」(「北海道文学館のたくらみ(1)」参照)という文章を書き、神谷忠孝理事長、毛利正彦文学館長、平原一良副館長、K業務課長、T学芸主幹の5人に渡した。
 しかし、K嘱託職員のアピールは正当に取り扱われることがなく、逆にアピールに対する報復としか考えられない解雇通知を、毛利正彦文学館長から告げられた。そこでK嘱託職員は、「駐在道職員の高圧的な態度について」ほか、幾つかの記録文を、理事や評議員に(住所の分かる範囲で)配布することにした。道立北海道文学館のなかで何が起っているかをアピールするためである。

 それを読む限り、K嘱託職員はT学芸主幹の処分を求めているわけではない。極めて冷静に具体的な事実を挙げて、パワー・ハラスメントと考えざるをえない理由を述べているだけなのだが、そういう記述態度のおかげで、かえってよく見えてきたことがある。それはK嘱託職員が自分の立場をどうように理解し、どう弁えているかを、T学芸主幹や平原一良副館長が決して理解しようとしないことである。

○K嘱託職員の仕事ぶり
 K嘱託職員は、〈自分が雇用されたのは、文学館の仕事を処理する上で自分の知識や能力が必要とされたからだ〉と考え、その契約を果たすために、できるだけ質の高い仕事をしようと心掛けていた。それと共に、〈そういう契約関係で仕事をしているのだから、フルタイムの正職員とは仕事の範囲や、責任の範囲が異なっているはずだ〉と考えていた。
 K嘱託職員のこのような考えは、もちろんやっかいな仕事はしたくないとか、責任を負いたくないとかということではない。次は「面談記録」(「北海道文学館のたくらみ(2)」参照)からの引用であるが、それを見れば彼女の取り組み方や、責任感がよく分かるだろう。
 彼女は毛利正彦文学館長から「
あんたは常設展の助っ人で入った人だ」と言われ、自分がやってきた仕事を、このように説明している。
《引用》
 
確かに私は平成16年7月に、平成17年には常設展を全面的にリニューアルする予定だから協力して欲しいと依頼されて、嘱託職員となった。(中略)私自身は平成16年7月に任用されて以来、依頼された仕事の手を抜いたことはなかった。常設展関係の業務にしても、「展示内容を決めてゆく会議の資料に必要だから」と平原学芸副館長(当時。現在は副館長)に言われて、全道(主に道央)の大学図書館と札幌市内の公立図書館における北海道関係図書の収蔵状況を調査し、データベース化した。また、同じ理由から、常設展に関わる〈委員〉(主に財団役員等で構成されていた)から届いた文学各ジャンルの年表も、パソコンですべて図表化した。そして完成した時には、そのつど、学芸副館長に現物を見せて報告した。だが、私の知る限り、常設展の〈委員〉が一堂に集まっての会議は、一度も行われなかった。少なくとも、それらの会議資料が使われた事は一度もなかった。
 それ以外にも、外国からの観覧者のために常設展の英語キャプションを試作し、学芸副館長に提示していた。しかし、学芸副館長は、文面のチェックを依頼した英文専門の大学教授が家庭の事情で出来なくなった事を理由にそのプロジェクトを中断し(平成17年10月16日)、現在に至っている。また、一時常設展に展示されていた〈与謝野晶子百首屏風〉についても、いったん引き下げたものの、再び出す予定もあるとの事だったので、私が全文翻刻を行い、解読が完成したことを学芸副館長に告げていた。このように、私自身は、自分なりの立場で常設展の充実を図ろうと、ずっと基礎的な作業を続けていた。作業の結果は、私の使用しているパソコンにも、サーバーの方にもデータとして入っているし、プリントアウトしたもの(すべて報告済み)も私の手元にある。にもかかわらず、平原副館長は、どういう理由でなのか、いずれの場合も、それを棚上げにしたまま、その後、話題にすらのぼらせる事はない。

 K嘱託職員はこのように、自分が依頼された以上の仕事をしようとしてきた。
 K嘱託職員はまた、別な箇所でも、「
他の職員や外部から、毛筆及び手書き文献の翻刻、漢詩文の解読等に関する不時の依頼があった時も、私が対応してきた。毛利館長はそういう事実を無視して、「常設展の助っ人」などと、ことさら私の立場と能力を貶めた言い方をしている。しかし、私の行った作業の大半を棚上げにしたまま有効活用していないのは、この文学館の方ではないのか」と書いている。
 つまりK嘱託職員は、他の職員や外部の人から、「
毛筆及び手書き文献の翻刻、漢詩文の解読等」に関する能力をアテにされ、それに応えてきたのである。逆に言えば、K嘱託職員以外の、他の職員は「毛筆及び手書き文献の翻刻、漢詩文の解読等」がはなはだ不得手であるか、もしそうでないならば、能力がないのである。
 
 念のために説明すれば、〈与謝野晶子百首屏風〉というのは、与謝野晶子が自分の歌・百首を毛筆で書いた屏風のことである。北海道文学館は常設展のリニューアルに合わせて、それを新たに展示した。だが、達筆な筆字のため必ずしも読みやすいとは言えない。きちんとしたキャプションもついていない。そこでK嘱託職員は、その屏風が一たん引き下げられたのを機に、「
再び出す予定もあるとの事だったので、全文翻刻を行い、解読」しておくことにした。
 英語キャプションの試作も、観覧者に対するサービスの向上を図ってのことであろう。

 ところが平原一良副館長はそれらの結果を「棚上げにしたまま、その後、話題にすらのぼらせる事はない」。K嘱託職員は「どういう理由でなのか」と、婉曲な疑問に止めているが、私にはその理由が推測できる。ただ、それはいずれ回を改めて、彼の人格と研究業績を検討する時に取り上げることとし、差し当たりここでは、いかに平原一良副館長がK嘱託職員の能力と努力を軽視し、無視する態度を取り続けてきたかを確認しておきたい。

○K嘱託職員と文学碑データベース
 そのことを一つ確認して、T学芸主幹のパワー・ハラスメントの具体例に入るならば、ことは「文学碑データ」にかかわってくる。

 K嘱託職員は平成16年8月から北海道文学館で、週に4日、働くようになったが、依頼された仕事の一つが道内の文学碑に関するデータベースを作ることだった。彼女は各市町村の役場の文化課に情報提供を依頼したり、自分でも写真を取りに出かけたりして、750基ほどの文学碑のデータを集めて、データベースを作成した。現在それは、『ガイド 北海道の文学』(北海道立文学館・財団法人北海道文学館発行、平成17年11月)に載っており、北海道文学館に行けば検索して見ることができる。

 K嘱託職員はこの仕事を終えた後も、新しい情報が入り次第、データを更新する心づもりだった。
 新しいデータとは、例えば小樽の水天宮の境内の脇にあった石川啄木の文学碑が、昨年、水天宮の境内に移されたとか、小樽駅の近く、三角市場の傍らに、新しく石川啄木の文学碑が建ったとか、そういう情報を指す。
 
 あるいは、宗谷に岡崎古艸の句碑があり、これまで「北海道文学」の研究者は、「
たんぽぽや会津藩士の墓いづこ」と読んできた。だが、K嘱託職員の調査によれば、「たんぽぽや会津藩士の墓はここ」だった。「墓いづこ」と「墓はここ」とでは、まるで意味が違う。K嘱託職員は自分の調査結果をデータベースに載せておいたのだが、しかし彼女は必ずしも先輩研究者が間違っていたと考えているわけではない。ひょっとしたら、以前は「たんぽぽや会津藩士の墓いづこ」だったが、その墓が見つかって、新たに「墓はここ」と建て替えたかもしれない。
 もしそうならば、文学碑自体がドラマティックな歴史を持つことになる。そういう情報も、分かり次第、データを更新したいと考えていたのである。

○T学芸主幹の思いつき
 しかし、T学芸主幹は文学碑のデータベースというものの意味を理解できなかった、いや、失礼、理解する気がなかったらしい。
 
 K嘱託職員は自分の立場と、自分に依頼される仕事の性質をよく弁えておくために、「道立近代文学館覚え書」という記録を取っている。おかげで、「駐在道職員の高圧的な態度について」を書く場合も、極めて具体的な記述が可能となったわけだが、それによれば、今年度(2006年度)に入ったばかりの、4月7日、K嘱託職員が、道立近代美術館から新たに赴任したT学芸主幹に文学碑データ検索機を説明したところ、T学芸主幹は〈ケータイで一般の人たちに写真を撮ってもらい、いい写真をえらんで、検索機にのせますからどんどん応募して下さいと言って、画像を集めればよい〉、〈そうすれば、館の人間がわざわざ写真を撮りにゆかなくとも、画像は向こうから集まってくる〉という意味のことを言い、「ケータイによる文学碑写真コンテスト」というアイデアを語った。
 その後、4月28日、日本博物館協会から「ケータイフォトコンテスト」のポスターが届き、それをきっかけに、T学芸主幹は「あの企画は進めなければならない」と言った。
 そして5月2日、T学芸主幹からK嘱託職員に、「Kさんと文学碑の写真の事について話をしとかなきゃいけい」という打ち合わせの申し入れがあり、平原一良学芸副館長(当時、のち副館長となる)と3人で打ち合わせをすることになった。

○K嘱託職員の懸念
 その席上、T学芸主幹が提案したのは、「文学碑検索機のデータの、画像がないものについて写真を集めたい。一般の人に足を運んでもらい、写真を撮ってもらう。このことについて、K嘱託職員に企画書を書いてもらいたい。また、K嘱託職員が中心になってその仕事を推進してほしい」という内容のことだった。
 K嘱託職員は、いきなり「自分が中心に」と言われて驚いた。これはT学芸主幹のアイデアであり、だから当然、T学芸主幹が「企画書」を書き、中心になって推進するものと思っていたからである。そこでK嘱託職員は、二つの疑問点を確かめることにした。
 一つは、文学碑のデータベース作りと、フォトコンテストとは性質が異なるのではないか、という疑問である。
 二つには、年度途中に、かなり大きなプロジェクトとなりそうな新企画を、急に立案し、しかも嘱託職員の自分が「中心」になるとすれば、他の(人の)仕事との兼ね合いや、予算の面で支障が生じないか、という懸念である。

 実際の話し合いは、この二つが錯綜して進んでいったと思われるが、問題点を明らかにするため、まず一つ目の疑問を取り上げてみよう。
 私たち素人の目から見ても、K嘱託職員の疑問はよく理解できる。なぜなら、文学碑のデータベースは、文学碑に関心がある市民にどのような情報を提供するか、それについて一定のコンセプトと方針によって作られているからである。例えば画像のあり方一つを取り上げてみても、それは正面から撮り、碑の文字が鮮明に写っているものが望ましい。
 それに対してフォトコンテストの写真は、もっと自由な角度や距離からのものも含まれる。それでなければ「いい写真」は取れないし、だいいちコンテストに応募してくれる人も少ないだろう。その意味では「いい写真」と、情報として望ましい写真とは必ずしも一致しない。
 そこでK嘱託職員は、フォトコンテストをやるのなら、データベースのための資料集めとは切り離して、フォトコンテストとしての独自なコンセプトをもってやったほうがいいのではいか、と言つた。
 するとT学芸主幹は急にこれまでの主張を変えて、〈私は、コンテストに別にしなくてもいいと考えている。要は、一般の市民に写真を提供して下さいと働きかければいいのだ〉と言い出した。

○T学芸主幹の「まる投げ」
 つまりT学芸主幹は、〈文学館が作るデータベースの情報価とは何か〉という一番基本的な問題について、何の認識も持たなかったのであろう。何の認識もないまま、〈写真を集める〉という現象的な共通点に目をつけて、フォトコンテストを思いつき、その思いつきをK嘱託職員にまる投げしようとした。だが、K嘱託職員から考え方の曖昧さを指摘されて、俄かに考えを変えてしまったのである。

 K嘱託職員は、じつは4月29日の時点で、フォトコンテストに関する〈意見書〉を書き上げていた。――これも「駐在道職員の高圧的な態度について」と一緒に、〔参考資料1〕として、毛利正彦文学館長以下の幹部職員に渡してある――だが、それをこの時(5月2日)は、直ぐに出さなかった。T学芸主幹の「打ち合わせ」の申し入れが唐突であり、また、話の流れが彼女の考えていたこととは別な方に行ってしまったからである。
 
○T学芸主幹の高圧的な態度
 多分T学芸主幹は、K嘱託職員の慎重な態度を見て、〈Kは自分のアイデアを実行に移すのを渋っている〉と(ひがんで?)解釈したのであろう。フォトコンテストの話題を有耶無耶にしたまま、次にT学芸主幹は、K嘱託職員の出した二つ目の懸念にこだわり、K嘱託職員に対して攻撃的な態度をとり始めた。
 その時の様子は、K嘱託職員が「駐在道職員の高圧的な態度について」のなかで生きいきと描いている。少し長いがそのまま引用したい。
《引用》

 文学館職員の過剰な情緒的反応について
 私(K)がこの企画について意見を述べるにあたって、まず、
○私は、どういう立場で、この話に関与すればよいかという事
○私は、館のこうした企画について、中心的なポジションにつく事の出来る人間なのかどうか、という事。なぜなら、もし、コンテスト形式にするなら、改めて金銭的な動きも出て来るし、他の業務との絡みも出て来る。それを私が一存で事を推進していいのかという事。
以上2点をその時念頭において、学芸副館長(平原一良副館長の当時の職名)及び主幹の前で明確に確認しておきたいと思った。

 ところが、私が「私はそういう事が出来る立場では…」と言いかけたとたん、主幹は、
「そういう立場って、いったいどういう事だ。最後までちゃんと言ってみなさい!」 と、まるで、その(私の)言葉自体が、何者かに対する私の否定(もしくは反抗)であるかのような強い口調で問いつめた。

 その直後、もちろん私は、自分が嘱託であるから、という事をはっきりと説明した。しかし主幹は、〈職員ではないとはどういう事か。立派な職員ではないか。財団の一員ではないか〉という主張を続けた。
 私は、私の置かれた立場について、学芸副館長に、主幹への説明を求めた。それは、平原副館長こそ、私を〈嘱託〉として館に呼んだ当人であり、これまでの経緯を最も良く知る人物だと思ったからである。

 しかし、学芸副館長は、〈前年度までは確かにそうだったが、この春からは、Kさんは館のスタッフとなった。そして我々は、仕事の上で明確に《道》だ《財団》だという線引きはせず、みんなで一緒にやろう、一緒に負担しようという事になった〉と言った。

 ただし、私は、この時に至るまで、私の扱いが前年度に比べて少しでも変わったとは、誰からも、一言も説明をされていない。
 〈スタッフ〉という言葉も、文学館のどういう規約にもそうした役職名があるわけではなく、ただ単に学芸副館長が英単語を使ってみただけと思われる。
一方、前年度末の3月に、A副館長(平原副館長の前任者)からは、従来通りの嘱託に関する規約を示され、「Kさんは、実績さえあげてくれればいい人だから」と言われた。

 仮に、もしも私が、“今年度からの、嘱託に対するこの館の扱いの変化や申し合わせを知らなかった”という場合を想定してみても、その事だけで、主幹が、まるで私が重大な過失でも犯しているかのように声を大きくするのは理屈に合わず、不自然。
                                              《引用終り》
 K嘱託職員がどのような発想で自分の立場に言及しようとしたか。先ほど紹介した彼女の「仕事ぶり」から、その点は十分に推測がつくと思う。
 彼女のそういう発想から生まれた懸念は、常識的に見てごく当り前の懸念だったと思われるが、T学芸主幹はそれを理解しようとせず、いきなり居丈高な態度で彼女の懸念の押さえ込みにかかった。
 やむを得ずK嘱託職員は、平原一良(学芸)副館長に説明を求めたところ、平原はT学芸主幹の態度をたしなめようともせず、「
前年度までは確かにそうだったが、この春からは、Kさんは館のスタッフとなった。そして我々は、仕事の上で明確に《道》だ《財団》だという線引きはせず、みんなで一緒にやろう、一緒に負担しようという事になった」と、問題をすり替えてしまった。
 K嘱託職員が説明を求めたのは、正職員と嘱託職員との立場の違いについてだったはずだが、平原一良副館長は、財団法人・北海道文学館の正職員と、駐在道職員との関係に問題に限定し、「
線引きはせず、みんなで一緒にやろう、一緒に負担しよう」などと、優等生管理職の答弁みたいな言い方で、問題をイナしてしまったのである。
 これでは、まるでK嘱託職員が「
一緒にやろう、一緒に負担しようという事」を拒んでいるように響く。平原一良(学芸)副館長はそういう言い方で、T学芸主幹の態度を支持していたのである。

○平原一良副館長の英語好き
 K嘱託職員は別な箇所でも、平原一良副館長の曖昧な態度に言及している。
《引用》
 
しかしこの時、Kから提示された〈嘱託職員という立場でそうした仕事を主体となって進めていいのか〉〈なぜ、T主幹の思いつきなのに、主幹の企画として起案しないのか〉という疑問については、主幹が、終始高圧的な態度で押さえ込みにかかり、平原学芸副館長(当時)が“スタッフ”“テーブルプラン”等の曖昧な言葉に言い換えたにとどまり、充分な説明にはなり得ていなかった。その意味でこれ(5月2日の打ち合わせ)は、未完の問題を含みながら形だけ結論をつけた、尻切れ的な打ち合わせだったと言える。

 平原一良副館長は英語に言い換えると、ものごとがクリアに解決したかに思える、あの二世代ほど前の、幸せな、進歩的、文化的おインテリの一人なのであろう。

○「あなたは嘱託ではない、立派な財団職員だ」の押しつけ
 T学芸主幹は、この平原一良(学芸)副館長の支持に勢いを得たのか、この頃から正職員も嘱託職員も違いはないという主張を執拗に繰り返すようになった。もう一例を、K嘱託職員の「駐在道職員の高圧的な態度について」から挙げてみよう。
《引用》
 
・5月10日(水)
 5月13日に小樽の啄木忌に出席するのに午後から早退する旨、前日9日の打ち合わせ時に出席者に連絡し、了承された(その時点ではT主幹は休み)。補足しておくと、嘱託であるKには、本来〈年休〉はない。昨年までは一応形式上〈年休〉扱いとなっていたが、今年度からは本来的な扱いが徹底される事となった。その旨については、年度当初に、A副館長(当時)から直接伝えられていた。

 しかしこの10日、Kは、T主幹から、“あなたはこの〈年休〉を何時間取ると思っているのか”という事から始まり、私の休みは〈年休〉であると強調された。KはA副館長に相談し、副館長は、Kに〈年休〉はない旨、T主幹に伝えてくれた。
 ところが、この同日、16:30分頃に再び主幹が事務室のKの机の前に来て、「それでは(年休がないなら)、何で休むかについては僕が聞いておかなくてはならないね」と言い、Kが、休みの場合は通常〈私事〉とだけ書く、と述べたところ、

「それじゃ、何で休むかは聞かない。でも、業務に差し支えないかどうかは確認しておかなければならない」と言った。しかし、休暇届けの台帳に記載する以外、通常、他の職員は、わざわざ口頭での申告を求められたりしない。
 また、この日は、この直後から「あなたは嘱託ではない、立派な財団職員だ」(とKが認めよ)という5月2日の主張の蒸し返しとなり、退勤時間外(17:30頃)まで足止めされた。
(なお、その後、休みを取る理由について特に主幹に問われた事はない。しかし、では、なぜ、結局チェックしもせず、する必要もない事についてわざわざこの時言ったりしたのか、疑問が残る。)

                                             《引用終わり》
 平原一良副館長やT学芸主幹は、自分たちは嘱託職員と正職員とを差別せず、同じ「財団職員」として扱ってやろうとしているのだ、と言いたいのかもしれない。
 しかし、そういう思い上がった発想自体が既に差別なのであり、上のような事例から察するに、T学芸主幹は「
あなたは嘱託ではない、立派な財団職員だ」という恩着せがましい言い方で、自分とK嘱託職員との関係を、上司と部下の関係に擬制したかったのであろう。だがK嘱託職員の側からすれば、一定の能力を買われて契約を結んでいる嘱託職員であればこそ、文学館のどの正職員とも対等の関係にある。もちろん仕事そのものは、責任ある正職員の指示に従う場合が多いのだが、少なくともその関係は「上司の命令に部下が服する」関係とは異なるはずなのである。

 K嘱託職員はそういう基本的な考え方を、何度かT学芸主幹に説明しようとしたのだが、T学芸主幹は高圧的な態度でK嘱託職員の言葉を遮ってしまう。やむを得ずK嘱託職員は、平原一良(学芸)副館長や、A副館長から、嘱託職員の立場を説明してもらうことにしたが、平原一良(学芸)副館長は先ほどのようにT学芸主幹の態度を容認し、支持している。そしてA副館長の説明については、T学芸主幹は間もなく定年で辞めるA副館長の言葉に身を入れて耳を傾けるつもりはなかったのであろう。

○似非「一視同仁」イデオロギー
 私は昭和18年に国民学校に入り、敗戦の時は国民学校の3年生だった。だから、たくさんのことを見聞しているわけではない。だが、それでも、在郷軍人や隣保班の班長が半島出身の人(当時の朝鮮人の、一般的な呼び方)に対して、「お前たちも日本人だろう? 日本人にしてもらったんだろう? 日本人と差別しないで扱ってもらえることになったんだろう? それについて何か不服があるのか? あるんなら言ってみろ。言うことがないんなら、そんな不平たらしい面なんかしてないで、さっさと日本人らしくしろ!」と、恩着せがましく威嚇している場面を見てきた。戦後も、小説やドキュメントの中で、そういう場面を読んできた。
 子供心にもそれは何ともイヤな場面だったが、K嘱託職員の記録のT学芸主幹や平原一良副館長に関する箇所を読み、卒然とその場面を思い出した。

 私は一般論としては、一視同仁ということを否定的に考えているわけではない。しかし一視同仁のヒューマニズムを装った、恩着せがましい「平等」の押しつけは、これを心から唾棄する。

○執拗な嫌がらせとつきまとい
 ところが、先のように自分を上司に擬した、T学芸主幹の高圧的な言動は、更に次のように続いてゆく。今度の引用もだいぶ長いが、ぜひおつき合いを願いたい。
《引用》
 
・8月29日(火)
 「人生を奏でる二組のデュオ展」(K嘱託職員が担当する企画展)のための資料調査のため、8月30日にニセコの有島記念館に行って展示中の資料を見て来たいと思い、朝の打ち合わせ会でその予定について話した。K業務課長は了承し、「それでは出張計画を出してください」と言った。しかし、打ち合わせが終わった後、T主幹は、
「あなたがそういう動きをする事は、誰が知っているの。」
と言い、「今日、ここで初めて言った事です」と言うと、
「平原さんが知っていなければ、誰があなたに対して、そういう動きをしていいと承認するの」と詰問口調でたたみかけた。

業務課長が「(それを承認するのは)T主幹です」と言うと、さらにKに向かい、
「そういう動きの事は、前もって私に言うべきだ」
「私が、学芸班内における動きを知らないというのはおかしい」、
さらには
「組織で働く人間として、そもそも、なっていない」
「〈スタンドプレーだ〉と言われないようにしなさい」と叱責した。

 ・9月13日(水)
 8月29日の例を受け、Kは、それならば予定は早めに館の職員皆に伝えておこうと考え、9月12日(火)の朝の打ち合わせ会の際に「これからの動き」というプリントを提示し、外勤・出張の可能性のある所とその時期について出席者に説明した。

 ところが13日、昼過ぎ、階段の降り口のそばでT主幹から、
「昨日の出張の件については、業務課の方とはもう話がついているの」と問われ、
「いえ、昨日、初めてお話しした事ですから」と答えると、
「打ち合わせ会というのは、すでに決まった事を報告するところだから、こうしたいという事を話すところではない」と言われた。

 
しかし、そんな主旨の合意について、一度も聞いたことがなかったので、「そんな風に決まったのですか」と尋ねると、主幹は、「いや、そうなんだ」と答えた。
 そして、Tが出張でどのように動くかについては、主幹とK課長が協議して決めるのだと言った。

 なお、この直後、Kは平原副館長に会い、〈私が主担当の展覧会なのに、出張先に行けるか行けないかについて、なぜ、主幹と業務課長とが決めなければならないのか〉と尋ねた。すると副館長は、
〈そのような事はない。どこへ行くかはKさんが相手先と話した上で決める事で、Tさんはそれを聞き、「こういう事で学芸の人間が動くからよろしく」と業務課に伝えるだけだ〉と言った。そして、〈このことについては、いずれ、Tさんともゆっくり話し合うから〉とも言った。
 また、朝の打ち合わせ会の趣旨や内容の決まりについては、この日夕刻頃、通常司会をつとめているS社会教育主事に尋ねた。しかし、主事は、「別に、どんな事を言っていいとかいけないとかについて、何も別に決まりや申し合わせはありません」と答えた。

 この2日後の9月15日(金)、K業務課長が閲覧室に来た時に、Kは、〈展示計画を進めるにあたっては、打ち合わせにはT主幹だけではなく、業務課長も平原副館長も入って欲しいのですが〉と伝えたところ、課長は快諾してくれた。
 また、〈計画を提出する際に、課長と主幹と、どちらかに先に出さなくてはならないという事はあるのだろうか〉と尋ねると、〈それは全く気にしなくてよい〉との答えだった。

 ・10月3日(火)
 出張計画がおよそ固まったので、朝の打ち合わせ会の時、「人生を奏でる二組のデュオ展・出張予定(10月)」と題したプリントを皆に配布し、内容を説明した。なお、この時行ったのは、あくまでも〈説明〉であって、特にその場での承認を求めたものではなかった。最後に「ほぼ、こんなところですが。よろしいでしょうか」と声がけをしたのも、質問等はないだろうか、という意味であり、ごく普通の締めくくりであった。

 しかし、打ち合わせ会が終わってから、T主幹は、
「なぜ、先に話し合いをしないの」

「何度同じ事を言わせるの」
「こんなところで予定を言って、“よろしいでしょうか”って言ったって、誰も、いいなんて言えないんだよ!」と声を荒げた。そして
「あんた、みんなに、いいって言って欲しいんでしょう。だったら、やることちゃんとやんなさい!」とKを叱責した。
「ならば、話し合いというのは、いつ、したらいいんでしょうか」と聞くと、
「いつでもいいんだよ!」との答えだった。
                                             《引用終わり》
 K嘱託職員は、毎週火曜日に行われる、朝の打ち合わせ会を、情報を交換し共有する大切な場と考え、自分の仕事の進捗状態や出張予定などを話題にした。
 ところがT学芸主幹は、その都度、恣意的に打ち合わせ会の性格を言い換えながら、K嘱託職員のやることなすことに難癖をつけてくる。上司の指導を装った、この難癖は、故意にK嘱託職員の仕事の妨害をたくらんだ行為と解釈するほかはない。それだけでなく、打ち合わせが終った後や、階段の降り口のそばなど、人がいないところを見計らって、――あるいは、第三者が口を挟みにくい、個人的な会話の形を装って――詰問を始める。最早これは悪質なつきまといであり、嫌がらせと言うしかないであろう。

 こう引用するだけでも、T学芸主幹の執拗な嫌がらせは紛れもないが、以上はK嘱託職員が「駐在道職員の高圧的な態度について」で挙げた事例の半分程度でしかない。しかも「駐在道職員の高圧的な態度について」は、K嘱託職員が記録している「道立近代文学館覚え書」からの抜粋であり、だから嫌がらせの総数は、おそらくここに紹介した事例の何倍かに達する。

 ともあれ、そういうことが重なった後、10月28日、T学芸主幹がK嘱託職員の仕事ぶりを「サボタージュ」と侮蔑的に評した。ついにK嘱託職員はこれ以上誇りを傷つけられることに堪えられず、T学芸主幹から受けた一連のいやがらせを、パワー・ハラスメントとしてアピールすることにしたのである。(以下は次回)

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