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北海道文学館のたくらみ(2)

いかにも北海道教育委員会的な? 対応

○T学芸主幹は「駐在道職員」
 このところ、各地の教育委員会のいじめ問題に対する対応の不手際が露呈して、市民やマスメディアの批判を招いている。そんな時、教育委員会の職員自身にハラスメント行為があった事実が表沙汰になるならば、どんな非難を浴びるか分からない。
 K嘱託職員からハラスメントのアピール文を受け取って、毛利正彦文学館館長や平原一良副館長が一番に恐れたのは、――私が見るところ、理事長の神谷忠孝という人物は良くも悪くも、そんなふうに頭が回る人間ではない――そういう事態が起ることだっただろう。

 なぜなら、K嘱託職員のアピール文を読むかぎり、彼女はT学芸主幹に対する処分を求めているわけではない。にもかかわらず、彼らがK嘱託職員を排除する形で、事なかれ主義的に問題を隠そうとしている。これは、心理的なパニックに駆られた行動としか考えられないからである。

 前回書いたことで、私の言葉が足りないところが一つあった。それはT学芸主幹の「駐在」という立場(身分?)に関することであるが、もう少し具体的に説明するならば、前回書いたように、毛利正彦は北海道教育委員会の役人を定年で辞めて、財団・北海道文学館の館長に天下った。それに対して、T学芸主幹は北海道教育委員会の役人として、今年度(2006年度)から財団・北海道文学館に駐在することになったのである。このような場合を「駐在道職員」とか「道教委(北海道教育委員会)の駐在職員」とかと呼ぶらしい。

 分かるように、T学芸主幹は現役ぱりぱりの道職員(北海道教育委員会の役人)なのであって、だから、T学芸主幹が嘱託職員にパワー・ハラスメントを働いたことを認めることは、現役ぱりぱりの道職員にパワー・ハラスメントの過失があったことを認めることにほかならない。
 当然それは北海道教育委員会の長に報告されなければならない。ことは道教委の職員が惹き起こしたトラブルだからである。

○北海道教育委員会と財団法人・北海道文学館との思惑
 しかし北海道教育委員会としては、出先機関で起こした職員の不始末の尻拭いなど、そんなに厄介な問題を持ち込んで欲しくない。マスメディアや市民の目もあれば、耳もある。それだけでなく、内部事情の面から見ても、前々年度(2004年度)、前年度(2005年度)と相次いで、それまで文学館の仕事をきちんとこなしてきた二人のベテラン道職員(学芸員)を外へ出して、トウの立った50男を畑違いの美術館から文学館へ押し込む。それについては、内部の派閥的な人脈の対立と、財団・北海道文学館の神谷忠孝理事長や毛利正彦館長や平原一良副館長の思惑がからみ、かなり鬱陶しい駆け引きや取り引きがあったと思われるが、そのT駐在道教委職員がわずか半年たらずでパワー・ハラスメントのトラブルを起した。そうなれば、当然「一体だれがあんな人事をしたのだ」という非難の声が出てくる。これは避けがたいところだろう。

 一方、T駐在道教委職員にしてみれば、せっかく主幹の肩書きを貰って文学館へ乗り込んだのに、ハラスメントと認定されてしまえば、最低でも進退伺いを出して、反省の意を表し、処分を待たなければならない。馘首にはならないかもしれないが、経歴に傷がつく。これは避けたい。

 そして他方、北海道文学館の毛利正彦館長や平原一良副館長には、T道教委職員を呼んだ責任があり、――私の見るところ、理事長の神谷忠孝は良くも悪くも、自分の責任を気に病むようなタイプの人間ではない――教育委員会やT道教委職員の意を汲みつつ、同時に恩を売りながら、対策を立てなければならない。とすれば、彼らに残された選択肢はただ一つ。それは教育委員会の役人や校長にお決まりの、例の台詞で、問題を有耶無耶のうちに揉み潰してしまうことである。「私どもの調査したかぎりでは、パワー・ハラスメントがあった証拠は見つかりませんでした」。あるいは「現段階では、パワー・ハラスメントがあったとは認識しておりません」と。

○毛利正彦文学館長の魂胆
 ところで、毛利正彦文学館長以下の幹部職員は、文書による回答を拒否したが、回答期限の11月10日(金)、毛利正彦館長と平原一良副館長はK嘱託職員を館長室に呼んで、文書による回答を拒否する理由を説明した。
 K嘱託職員はその時の内容を、「11月10日に館長室にて行われたKの質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」(以下「質問状に対する意見交換」と略記)という文書にまとめ、11月14日(火)、北海道文学館の幹部職員と、駐在道教委職員のT学芸主幹に渡し、のちに北海道文学館の理事と評議員に配布した。
 それによれば、毛利正彦文学館長が文書による回答を拒否した理由は、次のようなものだった。
《引用》
 
その後、10日当日の午前10時30分頃、館長室より呼び出しがあり、Kは、毛利館長と平原副館長から、文書「去る10月28日に…」に対する回答を聞く機会を得た。ただ、K自身は、この文書に関する意見なり取り決めは文書の形で保存したいと思い、館長にその旨を説明したが、館長は「それはただKが聞いて承諾すればよい事で、文書にしなければならないとも思わないし、その必要もない。組織のためのプラスにもならない」と文書回答を拒否し、あくまで口頭での回答をするとの姿勢を崩さなかった。

 そこでKは、依然として文書による回答を求める意志に変わりはないものの、とりあえず、その時に受けた回答及び交わされた取り決めを、自ら文章の形で心覚えとして残す事にした。

 このようなまとめに対して、毛利正彦文学館長や平原一良副館長から、文言や内容の訂正の申し入れは出なかった。ということはつまり、彼らはこのまとめを承認したことを意味するわけだが、そうである以上、彼らは現在もなお、依然として文書による回答を求める意志に変わりはないというKの要求に答えるべき義務を負っている。また彼ら自身、それを承知していることになるはずである

 そのことを確認した上で、もう一つ指摘すれば、「組織のためのプラスにもならない」の一句に、毛利正彦文学館長の魂胆がよく現われている。この「組織」のところに、T学芸主幹や神谷忠孝理事長や毛利正彦文学館長や平原一良副館長を置いてみれば、彼の魂胆がよく分かるだろう。「組織のためのプラスにもならないとは、要するに彼らのためにならない、彼らにとって都合が悪い、ということだったのである
 では、毛利正彦文学館長は、この「組織」のなかにK嘱託職員を含めていただろうか。しかし、もしK嘱託職員を組織のなかに含めているならば、その組織の一員から出されたアピールや要求を正当に取り上げ、きちんと対応しなければなるまい。きちんと対応してこそ、「組織のためのプラスが生まれるはずだからである。
 しかし、毛利正彦文学館長以下の幹部職員はそうしなかった。そうすることは、K嘱託職員にとって都合がよく、プラスになるわけだが、逆に毛利正彦文学館長以下の幹部職員にとっては都合が悪く、プラスにならないからであろう。

 そう整理してみれば分かるように、毛利正彦文学館長の一見もっともらしい「組織」論は、その裏側にK嘱託職員排除の意図を隠していたことになる。
 それだけではない。この「組織」のところにK嘱託職員を置いてみれば、これはK嘱託職員に対する暗黙の脅迫でもあったことが分かるだろう。
そんなことを要求すると/そんな文書を残せば)お前さんのためにもならないよ」と。

○スターリン主義
 神谷忠孝理事長や毛利正彦文学館長や平原一良副館長やT学芸主幹のこういうやり方を、スターリン主義と言う。
 平原一良副館長は1970年前後、大学「紛争」にかかわったことを、現在でも一つ話の「売り」にしているらしいが、それならばスターリン主義とは何か、自分のやっていることがスターリン主義でないか否かについては、十分に承知しているはずである。

○毛利正彦文学館長の強権主義
 それにしても、K嘱託職員の文書回答の要求に対する、毛利正彦文学館長の
それはただKが聞いて承諾すればよい事で、文書にしなければならないとも思わないし、その必要もないという対応は、横柄で、傲慢としか言いようがない。
 だが、この点に関してはK嘱託職員が「面談記録」(12月12日付け)できちんと指摘し、分析しているので、それをここでは紹介しておく。
 この「面談記録」の経緯については回を改めて紹介するつもりであるが、K嘱託職員はその「面談記録」も神谷忠孝理事長、毛利正彦文学館長、平原一良副館長や駐在道教委職員のT学芸主幹に渡し、のちに北海道文学館の理事と評議員にも配布している。当然のことながら、毛利正彦文学館長や平原一良副館長はそれに目を通し、内容を承認しているはずである。

《引用》
 私は、現在の業務が普通に出来るようになったからと言って、T学芸主幹のパワー・ハラスメントの問題が解決したとは思っていない。神谷忠孝理事長も毛利正彦館長も平原一良副館長もT学芸主幹も、私が文書による返事を要求した質問に、まだ一言も返答をしていない。毛利館長は、私に口頭で回答したが、その内容には納得できなかったので、きちんと検討したいから文書の形にして欲しいと、改めて要求した。しかし、なぜか毛利館長は「その必要はない」と頑なに拒んでいる。まるで毛利館長に、「必要があるかないか」を決める権限があるような言い方だった。だが、一人の弱い立場にある人間が、職場環境の問題を、職場の責任ある地位の人間に提起し、その改善を求めて、文書による回答を求めたのに対して、責任ある地位の人間が「必要ない」と拒んだとすれば、強権主義的に握りつぶしを図っていると見られても仕方がないと思う。

○毛利正彦文学館長の笑い
 K嘱託職員は「面談記録」のなかで、続けて書いている。
《引用》

 また、ハラスメント問題の口頭による回答そのものについても、毛利館長は「皆に聞いたが、誰もハラスメントに当たるようなことはないと言っていた」、「みんな、Kさんがそこまで反応する事はないと言っていた」と言ったが、事務室で確かめたところ、A学芸員も、S社会教育主事も、O司書も、館長からは何も訊かれておらず、事情も知らないという返事だった。私が数日後、毛利館長にその事を問いただすと、「いやあ、まあ、それはあんた……」と言葉をにごして、にやにやしているのみであった。

 毛利正彦文学館長や平原一良副館長が、意図的にそうしたのかどうか、それは分からないが、彼らは肝心な点を手抜きしている。それは、K嘱託職員が「駐在道職員の高圧的な態度について」(「北海道文学館のたくらみ(1)」参照)で挙げたパワー・ハラスメントの事例に即して、第三者の立会いの下に、T駐在道教委職員から事情聴取を行い、その後それぞれ二人の言い分を整理し、検討することである。そして、その記録を取っておくことである。
 その肝心な点を飛ばして、「
皆に聞いた」としても、客観的な事実がつかめるはずがない。こんないい加減な〈調査〉を裏づけとして、「誰もハラスメントに当たるようなことはないと言っていたと結論を押しつける。しかも、実際はそんな〈調査〉さえも、まともにしていなかった。なぜなら、文学館の職員は館長と副館長を除いて8人いるのだが、この8人から当事者たるTとKを除き、更に管理職たるK業務課長を除けば、5人となる。そのうちの3人がK嘱託職員の確認に対して、「館長からは何も訊かれておらず、事情も知らない」と答えたとすれば、毛利正彦文学館長が言う「皆」は根拠を失ってしまうからである。
 ところが毛利正彦文学館長は、K嘱託職員からそのことを指摘されると、今度はにやにやと笑いながら言葉を濁している。破廉恥極まりない、無責任な対応と言うしかないだろう。

 最近テレビで、校長や教育委員会の役人がいじめ問題に関して、こんな切り口上の答弁をしている場面をよく見かける。「私どもの調査したかぎりでは、いじめがあった証拠は見つかりませんでした」、「現段階では、いじめがあったとは認識しておりません」と。
 こういう答弁における「調査」や「認識」は、毛利正彦文学館長のそれと本質的に同じなのではないか。毛利正彦文学館長は北海道教育委員会の役人だった。それだけに、毛利正彦文学館長の対応からその実態を垣間見た印象が強く、つい懐疑的になってしまったのである。

○見抜かれた茶番劇
 K嘱託職員は「面談記録」のなかで、もう一箇所、「意見交換」に言及していた。
《引用》

 平原副館長も、私がT学芸主幹のハラスメントをアピールして以来、急に「いやあ、TさんもKさんの能力を高く評価していましたよ」などと、とってつけたように「評価」の安売りを始めた。どう考えてもこれは、私を宥めすかして、T学芸主幹を庇うためとしか思えない。
 「Tさんも悩んでいたんですよ」、「彼も、なかなかうまくコミュニケーションがとれないんで、だんだん、あんな風(に暴言を吐く)ようになっちゃったんじゃないかなあ」というのが、その時の、毛利館長と平原副館長の息の合ったやりとりであった。これは、たえ難いほど迷惑を受けてきた女性が、その不快感をアピールした時、上司がしばしば行いがちなレトリックであると思われるが、実際は、事態をきちんと把握し、迷惑をかけている人間に対して厳しい態度を取るのが怖いだけであろう。そのため、このように一見客観的で物分かりのよさそうな、「大人の常識論」に逃げ込んでしまう。そして、その自分の無責任な逃げ腰を
取り繕うため、第三者に対しては、迷惑を受けた女性にも、いや、女性のほうにこそ根本的な問題があったように説明する。私はそういう例を、大学や前の職場で幾つも見てきた。

 私はこの箇所を読んで、危うく自分の常識が崩れそうになった。だって、ここで問題になっているTという男は、50歳を過ぎているんだろう? それなのに、毛利と平原のこの庇い方! まるで小学生扱いじゃないか。…………しかし、やがて私は納得した。そう言えば、毛利正彦文学館長も平原一良副館長も、T道教委職員の「従順」を見込んで学芸主幹に抜擢したんだっけ。道理で、Tから事情聴取するなんて思いもよらなかったはずだ。

 「いやあ、彼は本当はあなたが好きなんじゃないかと思いますよ。でも、ああいう不器用な男ですからね。そこで、つい自分の気持ちと裏腹な行動を取ってしまう。そのところを察して、広い心で接してやってもらえないかな……」、「う~ん。でもねえ~。加害者は加害者なりに苦しんでいるんですよ。問題はそういう人間の心の闇をどう理解するか、……ですよネ」。職場や学校でハラスメントやいじめのアピールがあった時、上司や教師はしばしばこの種の分かったふうな台詞を口にする。しかし、通俗心理学をこねあわせたような、こういう安っぽい良識を持ち出したとしたら、それは上司が逃げ腰になっている徴候と見たほうがよい。K嘱託職員が見抜いたように、「実際は、事態をきちんと把握し、迷惑をかけている人間に対して厳しい態度を取るのが怖い……そのため、このように一見客観的で物分かりのよさそうな、「大人の常識論」に逃げ込んでしまっている」だけだからである。

  同じくK嘱託職員によれば、そういう小ずるい上司に限って、「自分の無責任な逃げ腰を取り繕うため、第三者に対しては、迷惑を受けた女性にも、いや、女性のほうにこそ根本的な問題があったように説明する」。なるほどなあ。では、神谷忠孝理事長や毛利正彦文学館長や平原一良副館長や、そしてT学芸主幹自身は、どうなんだろう。見抜かれているとも気がつかずに、今ごろせっせと、第三者向けの物語作りに励んでいるかもしれない。

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コメント

私の直感では、"怨恨による報復人事"と思われます。論点を理解し易くするために全て固有名詞で論ずること、また事件の詳細な記述がなされることを希望します。本問題に関心を有する人であれば、イニシアルが誰であるかは明白と思います。誰でも分かるからといって、固有名詞にすることとイニシアルにすることとは別であるとの論法は、少なくとも私としては価値判断として取りたくありません。処分の不当性を論じるには最小限必要な情報のみで十分との考えもありますが、無駄と思われる情報が真相理解を助けることもあり得ます。最終的には、法的手段に訴える必要があると判断します。

投稿: 直感子 | 2007年1月 3日 (水) 01時14分

直感子様

関心をお持ちくださって、ありがとうございます。T学芸主観等の実名を出すことについては、もう少し時期を見たいと思います。
ご忠告のように、私も「最低限必要な情報のみでは不十分」だと思います。
これまでの2回では、パワー・ハラスメントの実態にはふれていませんでした。現在、「パワー・ハラスメントの実態(上)」を書いているところです。

投稿: 亀井 秀雄 | 2007年1月 3日 (水) 20時31分

こんにちは。
私の感じたことを率直に述べさせていただきます。

まず、勝手ですが2点に論点を絞り、要約させていただきます。

K嘱託職員は、「打ち合わせ」の意味を理解せず、未決定事項を打ち合わせの場で出した。
このことの注意を「パワーハラスメント」としている。

また、K嘱託職員が作成した資料が使われなかったことも「パワーハラスメント」としている。

この2点についてですが。

民間企業でも、「打ち合わせ」は決定事項を報告しあい、共通認識にするための場であって、「何かを決定する」場ではありません。
K嘱託職員が、ビジネスの通念を理解していなかっただけのことであり、そのように注意されたのならば「そういうものなんだ」と素直に学ぶべきことであったと思います。
誰でも、ビジネスの通念すべてを知っているわけではありません。だからこそ、「それは違う」といわれたときに学ぶものなのだと思います。

ふたつめ。
作った資料が使われないと言うことは、端的に述べれば「よくある話」です。
「もしかしたら使うかもしれない」ということで「備えておく」ために作っておくことはよくあります。それで使われなかったといって「パワーハラスメントである」とするのは、飛躍しすぎた考えだと思います。
引用文から考えるに、該当資料は、K嘱託職員が自分の判断で作成したものと思われます。最初から「備えておく」必要すらない資料だったのかもしれません。
勝手に作って勝手に拗ねている、そのように取られても仕方ないのではないでしょうか。

私には、この「パワーハラスメント」はK嘱託職員の飛躍した考え、ビジネス通念を学ぼうとしない姿勢によって作られた、言葉を乱暴にすると「被害妄想」に思えて仕方ありません。
それを擁護し、このようにブログで発表される亀井秀雄氏のお考えには首を傾げます。また、一般社会の通念との激しいずれを感じずにいられません。

このような反対派の意見は、ブログには反映されないものと思いますが、このように感じた人間もいるということを知っていただきたいと思います。

長文失礼いたしました。

投稿: 澤井はるか | 2007年1月 8日 (月) 23時13分

澤井はるか様

ご注意、ありがとうございます。あなたのコメントは「北海道文学館のたくらみ(2)」に対するものとなっているようですが、「北海道文学館のたくらみ(3)」に対するものと受けとっておきます。

ただ、拝読して、あなたはずいぶん〈飛ばし読み〉をする人だな、と感じました。
「打ち合わせ会」の性格については、K嘱託職員は、9月13日、T学芸主幹が着任する以前から文学館に勤め、年度当初からは司会をしてきた、S社会教育主事に確かめ、「何も別に決まりや申し合わせはありません」という返事を得ていたようです。それを踏まえて、10月3日、連絡事項として計画表を渡して、内容を説明したようですが、「なお、この時行ったのは、あくまでも〈説明〉であって、特にその場での承認を求めたものではなかった。最後に「ほぼ、こんなところですが、よろしいでしょうか」と声がけしたのも、質問等ないだろうか、という意味であり、ごく普通の締めくくりであった」とことわっています。
私には、K嘱託職員のやりかたは、ごく常識にも道理にも適ったことだと思われます。
ところが、T学芸主幹は、「よろしいでしょうか」という言葉尻をとらえて、あたかもK嘱託職員が「「打ち合わせ」の意味も理解せず、未決定事項を打ち合わせの場で出した」かのように、いきりたった。あの場面は、そう理解できます。T学芸主幹が、あくまでも「打ち合わせ会」を、「未決定事項は出すべきではない」会に限定したいならば、まず司会のS主事にアピールし、その結論を「打ち合わせ会」に諮るべきでしょう。それが、前からの慣例を変える、一番常識的で道理にかなったやり方だと思います。

それから、ご指摘の二つ目ですが、K嘱託職員は、自分が作った資料が使われないことを挙げて、パワー・ハラスメントの例とはしていなかったと思います。

私の考えでは、職場におけるパワー・ハラスメントは、「ある人間が、職務の上下関係を背景に、相手の尊厳や人格や生活権を犯す行為を、どのような言動によって、どういう場面で、どんな強度で、どのような頻度で行っているか」によって認識されます。
私はそう考えて、K嘱託職員の文章に対しているのですが、あなたの分析を見ると、T学芸主幹の言動の問題はあなたの視野にほとんど入っていないのではないか、そう思えてなりません。

また、上のような視点でパワー・ハラスメントを見るならば、果たしてK嘱託職員の認識を「被害妄想」で片付けられるかどうか。私には、もっと検討すべき余地があるように思います。
一般的に見ても、「北海道文学館のたくらみ(2)」で引用した、K嘱託職員の記録に出てくる毛利館長や、平原副館長のような人が、とかく「被害妄想」や「あなたの感じ過ぎ」などの決まり文句で、問題をスルーしたがるようです。

とまれ、K嘱託職員がどんな論理と認識でパワー・ハラスメントの結論を導き出したか、それを紹介する「北海道文学館のたくらみ(4)」がほぼ出来上がりました。今日明日のうちに載せることができると思います。

投稿: 亀井 秀雄 | 2007年1月 9日 (火) 10時21分

亀井様

ご返事ありがとうございます。

私も、いささか感情的になった部分は否めません。
また、コメントを投稿する記事を間違えましたこと、お詫び申し上げます。

私も不安定な雇用で働いている身です。
私の場合は派遣社員ですので、嘱託職員とは異なる性質なのであろうと存じます。
しかし、いわゆる「正社員」とは違う立場、違う姿勢で仕事をすることが求められるという経験から、この度のK嘱託職員が「スタンドプレー」をしているように感じ、コメントを寄せさせていただいた次第です。

読み返してみても、やはり「よくある話」と感じ、「パワーハラスメント」というほど大きな出来事には思えません。「パワーハラスメント」という言葉が世に出るようになったため、K嘱託職員も「使ってみただけと思われる」のです。
しかし、「被害妄想」という言葉は行過ぎた表現であったかもしれません。一度、この場では撤回いたします。申し訳ありません。
ですが、「“パワーハラスメント”とするのは大袈裟である」との表現に変えさせていただきます。

ただ、個人の尺度というのもあるのかもしれない、とも思います。
私が「これくらいのことでパワーハラスメントだなんて」と感じるのは、あくまでも私の尺度であるということです。
派遣社員としていろいろな職場で働き、ひどく理不尽な扱いを受けることもあるため、感覚が麻痺しているのかもしれません。

まだ連載の途中であり、少し結論を急ぎすぎたと思っております。
すべての記事が公開された後、再び読み返して思うところがあれば、またコメントを寄せさせていただきたく存じます。

投稿: 澤井はるか | 2007年1月 9日 (火) 19時19分

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