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「芸術」の見え方(3)

再開のための助走
○盆栽会館の是非
 私の家族が贔屓にしているテレビ番組に、日曜日の午後1時、「噂の! 東京マガジン」がある。ただ、あの「やって! try」という企画だけは、そろそろ止めて欲しい。そう思っているのだが、幸い先日の番組ではそれがなく、さいたま市の大宮区(?)が盆栽会館を建てる計画を取り上げていた。
 市民の反応は賛否両論。というよりは、〈一部愛好家のために5億円もかけるくらいならば、もっと有効な税金の使い方があるでしょうに、……ねエ?〉と、消極的な反対の声が多いように思われた。

 私は盆栽のことは全く分からない。しかし、「盆栽には盆栽として完成した美があるだろう。それに、樹齢何百年の盆栽ともなれば、茶器の大名物みたいな由緒を持っているはずだし、そういうものを枯れさせず、形も損なわず、きちんと維持してゆく技術も大変なものだと思う。その全体を理解し、鑑賞してもらう美術館があってもいいんじゃないか」。
 娘も、「そうね。彫刻の展示と共通する点もあると思うけど、現代彫刻って独り善がりの判じ物を、作者の名前と理屈で見せているところがあるでしょう。盆栽はそういう誤魔化しがきかないから、それだけ真剣勝負にならざるを得ないだろうし、展示の方法の工夫など、やり甲斐があると思う」。
 「うん。それに、相手は生きものだからネ。通気だとか、採光だとか、照明だとか、そっちの技術も開発しながら、菊作り名人の作品と一緒に展示して御覧。愛好会や同好会の人だけじゃなくて、一般の市民も目が開かれて喜ぶと思うよ。そういう人たちに向けて、専門的に盆栽の歴史や、展示内容を説明できる学芸員も養成するとか、そういうことにも力を入れて。……」

 そんな言葉を交わしながら、私たちはテレビを見ていたわけだが、なぜ盆栽会館につい肩入れしたくなってしまったのか。
 日本の美術館の多くは、ヨーロッパの有名な画家の作品だという理由だけで、小品やデッサンに何百万、何千万の金を出して、麗々しく展示しているが、どう見ても〈ハネもの〉を掴まされたとしか思えない。おまけに、盗作疑惑の食わせ者の絵まで見識もなく買いこんでいる。そんなことで館長や学芸員に税金を使わせるくらいならば、盆栽会館のほうがずっと意義深いのじゃないか、そう考えたのである。

○絵画鑑賞の基礎体験
 運良く私たちは、絵画を絵画として、じっくり腰を据えて鑑賞する機会を持つことができた。ミュンヘンに滞在している時、アパートから歩いて行ける距離に、アルテ・ピナコテークとノイエ・ピナコテークがあったからである。
 ドイツの美術館は平日でも料金が安かったが、日曜日は無料だった。おかげで何度も足を運び、納得できるまで見ることができたわけだが、一度アパートに帰り、疑問が湧くとまた出かけたこともある。

 森?外の『うたかたの記』はミュンヘンを舞台にした小説だが、冒頭、凱旋門の威容を叙し、続けて「その下よりルウドヰヒ町を左に折れたる処に、トリエテント産の大理石にて築きおこしたるおほいへあり。これバワリアの首府に名高き見ものなる美術学校なり。校長ピロツチイが名は、をちこちに鳴りひゞきて、……」と語ってゆく。そのピロテイ(ピロツチイ)に、ノイエ・ピナコテークは大きなスペースを割き、歴史画の大作を何点も展示していた。
 それだけでなく、アパートからミュンヘン大学へ行く途中に美術工芸大学がある。これがあの「美術学校」らしいなと思いながら、何度も中へ入ってみた。

 また『うたかたの記』には、マリイというヒロインが、カフェにたむろする画学生に向って、こんなふうに罵る場面がある。「継子よ、継子よ、汝等誰か美術の継子ならざる。フイレンチ派を学ぶはミケランジヱロ、ヰンチイが幽霊、和蘭派学ぶはルウベンス、フアン・ヂイクが幽霊、我国のアルブレヒト・ドユウレル学びたりとも、アルブレヒト・ドユウレルが幽霊ならぬは稀ならむ」。
 マリイはやや奇矯なところのある娘、という設定だったが、?外は彼女の口を借りて、既存の流派の後を追っているだけの連中に、厳しい批判の言葉を投げかけたかったのだろう。が、それはともあれ、ファン・ダイク(フアン・ヂイク)や、ルーベンス(ルウベンス)、デューラー(アルブレヒト・ドユウレル)の代表的な作品は、アルテ・ピナコテークに集中しており、世界的によく知られている。
 私たちはデューラーの出身地と聞いて、ニュルンベルグにも出かけ、記念館を訪ねてきた。

 ミュンヘン大学からさほど遠くないところに、イギリス庭園(エンゲリッシェ・ガルテン)があり、その独特の光景については、サッカーのW杯に関するブログで書いた。その近くに現代美術館があり、クレーやカンディンスキー、ダリ、グロッス、ピカソなどを見ることができた。私たちが着いた時期、Enzo Cucchiの特別展をやっていて、その独特な宇宙感覚に感銘を受けた。

 レンバッハ美術館にもカンディンスキーやクレーの充実したコレクションがある。私が一人で出かけた時は、August Mackeの特別展をやっていて、押し合い揉み合いしながら前へ進まなければならないほど、若い人がたくさん見に来ていた。
 この美術館は、もとは肖像画家として成功したレンバッハの邸宅であり、外観、内装ともに素晴らしい、広壮な建物だった。だが、残念ながら一般の美術館のように天井が高くなく、通気が悪い。二度目に妻と娘を誘った時は、前ほどの人込みではなかったが、濁った空気のため妻の具合が悪くなってしまった。以後、妻はレンバッハを敬遠し、娘と私で出かけることになった。

 以上はミュンヘンの代表的な美術館であるが、その他にもシャック・ギャラリーのように、流派別・テーマ別のコレクションに力を入れている美術館や博物館も多く、娘はよく出かけていた。後に娘はユーゲント・シュティールと白樺派の関連について論文を書くことになるが、その下地はこのころ出来たわけである。

○ヤン・ブリューゲルを追って
 私たちはドイツアルプスを案内してもらったことはあるが、アルプスを越えてイタリアやフランス、スペインの美術館を見て廻ることはしなかった。私にはミュンヘン大学で教える仕事があり、バイエルン州は夫婦が普通に暮らせる程度の給料しかくれない。つまり、時間も金も余裕がなく、せいぜいハイデルベルグやザルツブルグまで旅する程度だったが、しかしミュンヘンには上記の美術館の他、古美術収集館や彫刻品陳列館、ドイツ博物館、市民博物館、選帝侯博物館、レジデンツなど、1日や2日では見切れないほど規模の大きな博物館が幾つもあった。教会、国立劇場、市庁舎、ニュンフェンブルグ城など、どこへ出かけても、装飾や備品に美の粋を凝らし、見飽きることがなかった。
 
 こんなふうに、私たちの西洋美術体験はミュンヘン中心とならざるをえなかったわけだが、逆に言えば、一つ所に腰を据えてじっくり見ることができたのは、むしろ貴重な経験だった。アルテとノイエのピナコテークには、10回以上も通ったと思う。
 なかでも私たちが惹かれたのは、ヤン・ブリューゲルだった。日本でよく知られているブリューゲルは、農民のカーニバル的世界を描いたピーター・ブリューゲルのほうだろう。アルテ・ピナコテークにも彼の「なまけ者の天国」や「老いた農婦の顔」があり、確かに印象深かった。ヤン・ブリューゲルはその次男で、一般には花の画家として知られている。しかしアルテ・ピナコテークは、聖書に取材した景観画や、歴史画のほうを重点的に集めたらしく、宗教的な深みを感じさせる作品が揃っていた。
 ルーベンスと共同で描いた「花輪の中のマドンナ」という作品もあった。
 
 私はヤン・ブリューゲルを追ってランツフートにまで行ってみた。少し古い版だが、古本屋に英語の観光ガイドがあった。それによれば、ランツフートのレジデンツにヤン・ブリューゲルの絵が1点、展示されている。ランツフートは、バイエルン王国を興したヴィッテスバッハ家の発祥の地だと聞き、その興味もあって出かけてみたのである。
 ところが運悪く、ヤン・ブリューゲルの絵はカナダに貸し出してしまった、という。学芸員が、せっかく日本から来たのに申し訳ないと、恐縮しながら案内してくれたが、タペストリーのコレクションが素晴らしかった。

 ドイツの田舎町と言えば、私は必ずランツフートを思い出す。こじんまりとしているが、明るい空の下、どの家も窓に花を飾り、人々の物腰はおっとりしていて、まるでメルヘンの町のようだった。昼食代わりに食べたケーキも美味しかった。
 お店でレジデンツまでの道順を訊ねたところ、おかみさんは困った顔をして、店を留守に駆け出し、英語がしゃべれる人をつれて来た。
 小高い丘に立つ、古城にも行ってみた。若い女の先生に引率された子供たちが、しきりにこちらを気にして、何か囁き合いながら通ってゆく。ハローと声をかけると、はにかんだ表情で一斉に駆け出して行った。私が子供のころの、日本の田舎とそっくり同じだった。先生が恐縮して、この辺の子供には東洋の人はまだ珍しいものですから、と詫びた。
 城の中には入れなかったが、鉄格子のはまった窓から覗いてみると、薄暗い部屋の中、ずっと奥まで書棚が並び、古い書類が積み重なっていた。古文書館に使っているのかもしれない。そう言えば、ザルツブルグの城は古武器の博物館になっていた。ハイデルベルグ城は中世から近代に至る薬学の博物館になっていて、ユニコーンの角や、人魚の干物など、珍奇な薬品も並んでいた。
 
 妻と娘は身体が重いからと、この日はアパートに残ったが、多少無理強いをしてでも連れ出せばよかった。

○ピロティをめぐって
 閑話休題。話をミュンヘン体験にもどすならば、ピナコテークでは大冊のカタログの他に、学芸員の研究成果を、作品別の冊子として発行していた。
 例えばノイエ・ピナコテークが誇るピロティのコレクションのうち、「トゥスネルダ」(Thusnelda)という作品の場合、――これはゲルマンの族長の一人アルミニウスが、同族を糾合してローマ軍と戦った史伝に基づく歴史画であり、〈ドイツの歴史は「トイトブルグの森」の戦いから始まった〉と言われるほど、ドイツ人にとって重要な戦いだった。ただ、ピロティはアルミニウスを主題に選ばず、ローマ軍に囚われた彼の妻、トゥスネルダのほうを選んだ。彼女は幼い息子と共に、ローマの将軍ゲルマニクスの凱旋パレードで市中を引きまわされ、高い座から見下ろすローマ皇帝ティベリウスの前に差しかかる。だが、彼女は皇帝のほうを一顧もせず、右手に縋る息子をローマ皇帝の目から隠すように庇いながら、毅然と歩を進めてゆく。――学芸研究員は、同じ史伝に取材した先行絵画との関係や、別な題材の絵画との間に見られる構図の影響関係を分析し、個々の人物のポーズや表情のデッサンを紹介して、それらがどのように統合されているかを説明していた。

 結局私たちは、そういう研究を通して絵の見方を教えられ、また教えられたことを確かめるために、再びピロティの絵の前に立ち、そこで獲得した理解や解釈を参考に彼の他の作品や、彼の同時代の歴史画を見直し、いわば絵画におけるインターテクスチュアリティを楽しむ。そのために、何度も足を運ぶことになったのである。
 この文章の冒頭で、私は「運良く私たちは、絵画を絵画として、じっくり腰を据えて鑑賞する機会を持つことができた」と言ったが、それはこの意味にほかならない。
 
 私たちはミュンヘンの生活をこんなふうに過ごし、帰りはアムステルダムに宿を取って、ゴッホやレンブラントを堪能してきたわけだが、その後二度、アメリカに滞在する機会があった。コロンビア大学に講演に招かれ、翌日ニューヨークのメトロポリタン・ミュージアムを訪ねたところ、そこでもピロティの「トゥスネルダ」と出会った。つまりピロティには、ほぼ同一の構図を持つ「トゥスネルダ」が6点あり、私たちはノイエ・ピナコテークの作品の他、レンバッハ美術館のものと、ニュルンベルグのナショナル・ミュージアムのものを見てきたわけだが、図らずもニューヨークで四つ目の「トゥスネルダ」に出会い、あの濃密な体験を思い出し、感動したのである。

○再開の弁
 ところで、さて、私は和田義彦の「盗作」問題に触発されて、このブログに二度、「「芸術」の見え方」という文章を書いた。まだ書き続けるつもりだったが、北朝鮮のミサイル発射騒ぎがあり、元宮内庁長官の「昭和天皇、お言葉メモ」の問題があり、自分なりの見方を書いているうちに、夏の甲子園大会が始まった。
 その後は、小樽文學舎の会員の皆さんと道東へ文学ツアー(9月15~17日)に出かけることになり、その予備講座(8月19日)で「千田三四郎の世界」というレクチャーをした。ツアー後、予備講座の文章化に取りかかったところ、意外に手間取ってしまった。予備講座で十分に語れなかったことを補足しているうちに、書きたいことがどんどん増えてゆく。それを削るほうに時間を取られてしまったのである。(「千田三四郎の世界」は数日以内に、私のHP「亀井秀雄の発言」に載る予定)

 それやこれやで、「「芸術」の見え方(2)」を載せてから、早くも3ヶ月が経ち、何だか間が抜けてしまった。だが、和田問題は「芸術」に関する言説や、美術館という制度にかかわる問題なので、もう少し検討を続けたい。
 ただ、いきなり「「芸術」の見え方(2)」の次から始めようとしても、頭の働きというか、文章のリズムというか、それがまだ戻ってこない。そこで今回は、私自身、どの程度のことが言えるか、自分の「美術」体験をチェックしておくことにした。舟木力英や毛利伊知郎たちは専門の研究者として、あるいは毎日絵画に接している学芸員として、私などとは桁違いに濃密な体験を重ねているはずなのだが、率直に言って、彼らの書いたものからそれが伝わって来ない。なぜだろうか。
 そもそも彼らの専門性は、アルテやノイエのピナコテークの学芸員の専門性と質が異なるのだろうか。そういう疑問もあったからである。

 私のキャリアは昭和文学の研究から始まり、ご多分に漏れずカンディンスキーやミロやクレーの支持者だった。ミュンヘンにいる間も、心掛けてカンディンスキーやダダイズムに関する文献を手に入れてきた。
 その反面、ミュンヘンに行く以前から、ルネ・ユイグ(中山公男・高階秀爾共訳)の『見えるものとの対話』(美術出版社、1963年)などによって、宗教画や歴史画の見方を教えられてきた。こちらの関心がミュンヘンでいっそう促進されたわけである。

 そして、それとは全く相反するようだが、フロリダ州立大学の博物館で、アボリジナル・アート(Aboriginal Art)に強い衝撃を受けた。フロリダ州立大学はアフリカ研究に力を入れ、アフリカ・アジア学部を持っている。学部長はヨルバ出身のオラビイ・ヤイ教授だったが、その関係もあるのだろう、素晴らしく充実したアフリカのアボリジナル・アートのコレクションを持っていたのである。
 それ以来、私はハワイのビショップ・ミュージアムや、国立台湾大学の先住民に関するコレクションや、キャンベラ(オーストラリア)のアボリジナル・アートの美術館などを廻り、いよいよ関心が強まっていった。
 アボリジナル・アートという言葉は、オーストラリアの先住民・アボリジニのアートに限定して受け取られるかもしれない。これまで「先住民」のアートは、一般的にはプリミティ―ヴ・アートと呼ばれてきたのであるが、この呼び方には「未開から文明へ」という進化論の臭いがある。それを避けて、ここではaboriginalを広義の意味で使いたいと思う。
 
 もともと私に絵画や彫像の魅力を教えてくれたのは、ハーバート・リードだった。彼の文学論やアナーキズム論は言うまでもなく、『モダン・アートの哲学』(宇佐美英治・増野正衛共訳。みすず書房、1955年)や、『イコンとイデア』(宇佐美英治訳。みすず書房、1957年)、『芸術形式の起源』(瀬戸慶久訳。紀伊国屋書店、1966年)など、傍線を引き、書き込みをしながら読んだ記憶がある。
 彼はエジンバラ大学の美術史の教授をしたことがあり、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の副館長をし、大英博物館のオリエント部門でも責任ある地位についていた。大英博物館やヴィクトリア・アンド・アルバート美術館にも家族3人で行ったことがあり、その膨大なコレクションに感嘆しながら、〈う~ん。ハーバート・リードはこういう環境のなかで仕事ができたんだ〉と、彼の巨大な業績が由って来る所以を納得した。
 どうやらアボリジナル・アートへの関心は、彼の『イコンとイデア』や『芸術形式の起源』によって下地を作られていたらしい。こう書いてきて、ようやく思い当たった。

 ともあれ、こんなふうに私の関心は動き、拡がってきた。そのことを予めことわって、次から「本題」に入りたいと思う。

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