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マス・メディアの見え方

マス・メディアの見え方

間抜けな代弁者たち
 私は現在このブログに「「美術」の見え方」を書いている。更に3、4回は続けるつもりなのだが、その間、北朝鮮のミサイル発射騒ぎがあり、気になる点があるので、書いておきたい。

〇迎撃態勢の不備は致命的か
 昨日(7月8日)の夜、フランスで制作されたドキュメント映画「皇帝ペンギン」(2005年)を観た。「映像は綺麗だった。メスから卵を託されたオスが、密集隊形で猛吹雪に耐えている姿は、胸打たれるものがあったけれど、必要以上にホームドラマ化しているネ」。そんな感想を言いながら、チャンネルを変えたところ、福留功男が司会するTBSの「ブロードキャスター」が、北朝鮮のミサイル発射問題を取り上げていた。
 
 「もし北朝鮮が日本に向けてミサイルを射ったとしても、日本はそれを迎撃して撃ち落す、防衛システムを持っていない」。額賀防衛庁長官がある番組で、こんな意味の発言をしたらしい。それを紹介して、福留もコメンテーターも、日本が「丸腰」であることに大袈裟に驚き、慨嘆し、不安がってみせる。その上で、「日本に可能な方策は、外交努力による解決しかない」みたいな結論に、議論を持っていった。
 
 何だか理屈の立て方がおかしい。仮に日本が完ぺきな迎撃システムを備えていたとしても、外交努力によって事態の打開を図るのは当然のことではないか。
 
 要するに、迎撃システムの有無は、打開策を考える絶対的な拘束条件ではない。そう私は感じたわけだが、同じことは全く逆な面からも言える。
たとえ迎撃システムを備えたとしても、現段階では、もし北朝鮮が予告なしにミサイを発射したとすれば、それに100%対応することは技術的に難しいだろう。だが、第二波、第三波の攻撃には十分に対応できる。普通に頭の働く政治家や軍事専門家ならば、当然そういう「見切り」をもって迎撃態勢を整えるはずだ。
 それと同時に、普通に頭の働く政治家や軍事専門家ならば、相手に10倍するミサイルを発射できる「防衛体制」を整えておく。監視装置が相手のミサイル発射を察知し、コンピューターが(初速や角度から判断して)日本を標的にしていることを読みとるまで、たぶん2、3分を要すると思うが、読み取ったら直ちにミサイル発射のスタンバイを出す。そして、相手のミサイルが1発でも日本の領土・領海内に落ちたら、即座に10倍以上のミサイルを発射する。
 
 福留やTBSのコメンテーターたちは、せめてその程度のリアリズムを持った上で、現実的な議論をやってもらいたい。

〇対話と圧力は二律背反か
 もう一つ気になったのは、この番組の後半、議論が、〈感情には「もっと北朝鮮に圧力をかけろ」という気持ちも分かりますが、ここは冷静に対応し、話し合いで解決する道を探るべきでしょうね〉みたいな方向に進んでいったことである。

 いかにも良識に適った意見のようだが、こういう意見が成り立つ前提には、対話=冷静、圧力論=感情的という図式がなければならない。福留やコメンテーターたちは暗黙のうちにその図式を前提とし、しかも「対話と圧力」を「対話か圧力か」の問題にすり替えていた。

 小泉純一郎は終始一貫「対話と圧力」と言って、「外交」とは言っていない。言うまでもなく日本と北朝鮮とは国交の条約を結んでいないからだが、もちろん国交さえ結んでいれば、圧力なしの対話が可能だなんて、そんな甘い話はあり得ない。だが、視点を変えて言えば、国交のない国との交渉の場合、国力の違いを背景にした対話となりがちなことは、これは避け難いところだろう。
 対話と圧力は、二者択一の選択肢ではなく、むしろ表裏一体なのである。

 北朝鮮が軍事力を誇示するならば、日本は圧倒的に優勢な経済力を背景に対抗処置を取り、6カ国協議という「対話」の場に出るよう圧力をかける。それは対話の否定ではなく、対話の一つの方法と言うべきだが、小泉は「対話と圧力」を掲げながら、圧力をかけることに優柔不断で、ただの空念仏にしてしまった。結局それは、彼が対話に消極的だった証拠にほかならない。そう評されても仕方がないところだろう

〇北朝鮮の自発的代弁者
 7月5日、私は朝、北朝鮮がミサイルを発射し、その一発はテポドンらしい、というニュースを知った。だが、それ以上詳しく知る間もなく、6時40分に家を出て、小樽に向った。
いつもより1時間ほど早く家を出たわけだが、それは、小樽の市民と室蘭の「港の文学館」を訪問し、文学スポットを見学する予定があったからで、私たちは9時15分に出発して、11時45分ころ「港の文学館」に着いた。
 まず昼食を取り、それから文学館を見学し、八木義徳の文学碑などを廻って、3時ころ室蘭を発ち、5時半に小樽の文学館にもどった。私は行きも帰りも、バスのなかで、1時間ずつ、今日の見学に関連する、文学的なことを話した。
 小樽の文学館で一息つき、6時半ころの電車に乗って、8時過ぎに帰宅した。
妻が、北朝鮮は計7発のミサイルを発射したと教えてくれた。しかし私はテレビを見る気も起らないほど、疲れていた。

 翌日(6日)は、身体の節々が痛かった。なるほど「骨身にこたえる」とはこういうことだったのか。私は大学を卒業して以来、69歳の現在まで、一度も病院のベッドに寝たことがない。成人病の薬も飲んでいない。自分の健康には安心していたのだが、やはり年齢には勝てない。こんなに疲れるとは思わなかった。
 朝食後、身体を休めるため布団に入って本を読み始めたが、たちまち眠ってしまった。昼食を取り、また同じように眠ってしまった。夜はある程度、読書が捗った。

 更にその翌日(7日)も、まだ身体が重い。こういう話題性の大きい事件が起きた時は、近くのコンビニまで新聞を買いに出るのだが、それも億劫なほど疲れが残っている。午後はソファに横になって本を読みながら、うたた寝をし、妻に注意されて布団に入った。
そして水曜日の昨日(8日)は、いつものように小樽へ出、帰りは札幌で妻と娘と落ち合って、ハーブの苗を買い、沖縄料理を食べて、8時ころ帰宅した。

 そんなわけで、今回の北朝鮮のミサイル騒ぎに関しては新聞を読まず、テレビも断片的にしか見ていない。その意味では、たぶん最も情報の乏しい立場にいるわけだが、かえってそのためだろう、テレビがこの問題を取り上げるパターンが見えてきた。
 ここに登場するキャスターやコメンテーターは、まず北朝鮮の非常識や無法な行為を大袈裟に憤慨してみせながら、北朝鮮の意図について甲論乙駁し、次には、日本政府の対応に対する論評に移って、防衛体制の遅れをあげつらい、日本の軍事的なひ弱さを強調して、不安感を掻き立てる。そして最後、次のような結論に持ってゆく。「北朝鮮は何を考えているか分からない、常識の通じない国だ。ところが日本は、ミサイル攻撃に対しては裸も同然。日米安保条約はあるけれど、アメリカが身体を張って日本を守ってくれる保障はない。こんなに危ない状態なのだから、北朝鮮がもっと強硬な態度に出ることがないよう、経済制裁などの刺激的な処置はなるべく先送りにしましょう」。
 こういう結論を日本人自身に、自発的に引き出させること。ひょっとしたらそれが北朝鮮の狙いなのかもしれない。もしそうならば、彼らは北朝鮮の思う壺にはまった、間抜けな代弁者を演じていることになる。
 この点では、渡辺宜嗣が司会する、テレビ朝日の「スーパーモーニング」も変りはない。

 今朝(9日)は、関口宏の「サンデーモーニング」を見た。いつもは大沢親分と張本さんが登場する時間を見計らって、この番組を見ることにしているのだが、今日は念のため番組の初めから見た。だが、関口宏とコメンテーターも同じことだった。

(以上は7月9日に書いたのだが、中田が引退を表明して以来、ブログの書き込みが殺到しているらしく、なかなか自分の「記事作成」まで辿り着けない。掲載は10日以後になるだろう)

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