「芸術」の見え方(2)
困った美術館長さん
〇和田義彦の賛美者たち
待てば海路の日和あり。意外にも早く、私は和田義彦の二種類の図録を手にする幸運に恵まれた。『―煌く刻―和田義彦展』(損保ジャパン東郷青児美術館、2002年)と、『ドラマとポエジーの画家 和田義彦展』(読売新聞社、2005年)である。「煌く刻」は「きらめくとき」と読む。
前者の掲載「作品」は76点(挿絵原画は除く)、後者は74点(同前)。ただし、35点ほど重複している。ばかりでなく、前者の「悪徳の囁き(制作途中)」が、後者では完成した形になっており、この二つを重複と見るか、別な「作品」と見るか。その点にこだわり出すと、数え方が難しくなってしまうが、ともあれ実質的には110点を越える「作品」を、写真で見たことになる。和田義彦の「作品」を論ずる上で、少なすぎることはないだろう。
それらが私にどう見えたか。私は絵画に関しては全くの素人なので、これからゆっくりと時間をかけて、とつおいつ勉強しながら分析と考察を進めたいと思うが、まず前回書いたことに関連して言えば、私の予想は的中した。
『煌く刻』には、米倉守(美術評論家、多摩美術大学教授、松本市美術館長)が「果てしなき自叙伝――空虚が張り詰まっている。――」を書き、森村誠一(小説家)が「和田義彦作品によせて――運命の窓」を寄せている。
『ドラマとポエジーの画家』には、加藤貞雄(茨城県近代美術館長)が「和田義彦の絵」を寄せ、毛利伊知郎(三重県立美術館学芸員)が「ドラマとポエジーの世界」を書き、舟木力英(茨城県近代美術館つくば分館長)が「和田義彦の芸術――主題とモティーフ」を書いているが、いずれも内容の7割以上が眉唾ものだった。米倉守の文章に至っては、無責任なヨタと言うほかはない。
なぜそう言えるのか。彼らが和田の「盗作」を見抜けなかったと言うだけでなく、仮にこの2冊の図録に紹介された「作品」が全て和田の創作だったとしても、彼らの分析と評価は出鱈目と言うほかはない。和田の絵をまともに見ていないのである。
〇舟木力英の和田義彦評
一例を挙げてみよう。舟木力英はこんなふうに和田の「画業」を説き起こしている。引用は少し長い。
《引用》
和田義彦は、1940(昭和15)年、三重県に生れた。父・義郎は神官で、画家はその長男である。系譜をたどると鎌倉幕府の侍所別当・和田義盛まで行き着くそうである。子供の頃から神社の森の中で過していた氏は、その「古木のうねりをふしぎな感覚で眺めていた」という記憶を大切にしている。神社の森は、少年の感受性に「深遠なる」ものと映り、「無限に広がる宇宙空間」が、身体的・感覚的にありありと感じられることがあった。
和田少年にとって、もとよりそれは日常に近い空間であった。だが、それを見慣れた平凡なものとしてしまうのではなく、神社の森に囲まれた身近な空間がふと特殊なものと意識され、いわばそれが〈異化〉されたような体験をもったことは興味深い。
近年の和田作品には、必ずしも氏の代表作ではないが、こうした少年時代の体験が、作品の原型的なイメージになっていると思われる一連の作品がある。《庭の中》(1990)《何処に》(1991、cat.no1―14)《旅人》(1991、cat.no1―15)《森の中に》(2001)などである。いずれも背広を着た男が孤独な佇まいで庭園や郊外の森の中(時には街の中)に俯瞰されている構図の作品である。
和田義盛を先祖に持つというのは、これは大変に結構なことで、そう言えば北大の同僚だった和田謹吾も、和田義盛の直系の子孫と称していた。そういう結構な家系の人が、おそらく樹齢何百年という、鬱蒼たる神域の森に囲まれて育った、という。毛利伊知郎も「生まれ育った神社の深い森は、無限に広がる宇宙感覚として幼少期の和田の目に写っていた」(「ドラマとポエジーの世界」)と、判で押したように同じことを強調している。
だが、毛利伊知郎によれば、「しかし、三重県での生活はさほど長くはなかった。和田家はその後現在の中国東北部(旧満州)に移住、終戦後引き揚げてからは愛知県名古屋市に居を構えることとなった。1959年に愛知県立旭丘高校美術科を卒業した和田は、現役合格できなかったら父の跡を継いで神職に就くという約束で東京芸術大学油画科を受験、見事に現役合格を果すことになる」(同前)。
芸大現役合格というのは、これもまた大変に結構な話であるが、ちょっと分りにくいところがある。和田義彦は1940年4月の生れだから、1959年には19歳でなければならない。何かの事情で1学年遅れたらしい。満州からの引き揚げに手間取ったのだろうか。一瞬そう考えたのだが、しかし敗戦の時、和田はまだ5歳であって、就学年齢に達していなかった。
ただし、私の本当の疑問はそこにはない。いつ和田の一家が満州へ移ったのか分らないが、仮に1944年とすれば、和田は4歳でしかなかった。とするならば、まだ3、4歳の子供が、自分の生活空間たる神社の森を「無限に広がる宇宙感覚」として感受し、それを記憶にとどめていたことになる。舟木によれば、それは「日常の〈異化〉」だったわけだが、そういうことがあるだろうか。
どうも腑に落ちない。何だか嘘くさい。
〇説明と「作品」とのギャップ
いや、一般論として言えば、3、4歳の時に見た光景を長く忘れずにいることは、決してあり得ないことではない。では、その光景を、日常見慣れたものの「異化」(estrangement/alienation)として知覚し、且つそのようなものとして言語化できていたかどうか。百歩譲って、それもあり得るとしよう。しかし、そこに和田の「神話的・原型的イメージ」(舟木)を想定し、和田の「作品」と結びつける解釈は、どう見ても嘘くさい。先に引用した文章のなかで、舟木はこんなことを言っていた。
《庭の中》(1990)《何処に》(1991、cat.no1―14)《旅人》(1991、cat.no1―15)《森の中に》(2001)などである。いずれも背広を着た男が孤独な佇まいで庭園や郊外の森の中(時には街の中)に俯瞰されている構図の作品である。
確かに「何処に」では、高い洋風の建物が左側に描かれ、中央から右側にかけて、形象定かではないが、たぶん建物を取巻く樹々が配され、その下方の小さな空地の隅に――画面全体の構図から言えば、中央の下方に、――髪を丁寧に撫でつけた、スーツ姿の男が立っている。ただしそれを描く画家の視点は、男よりもやや上方の、斜め後方に置かれていた。そのため男の表情は見えない。
時刻は分らないが、建物全体を占めるガラス窓は黄色に塗られて、屋内の照明を暗示する。それに接する屋外は濃いブルーに塗りこめられて、闇を暗示している。この男に「孤独」を感ずるのは舟木の自由であるが、この洋風の庭園の情景に、日本の神社の森に囲まれて育った和田の「少年時代の体験」を感知する。またはその体験に基づく「作品の原型的なイメージ」を発見する。これはとうてい無理であろう。
「旅人」の場合、そのギャップはもっと甚だしい。横向きに描かれた、スーツ姿の男が、両手に一つずつトランクを提げて歩いてゆくわけだが、それ以外は赤一色に塗りこめられ、具象性は極度に無視されている。
ただ、赤一色のなかに何本かの黒い直線と曲線が走り、男の背後、つまり画面の左寄りの中ほどに、人の顔と判じられる白い色が置かれ、多分これは男とすれ違った女の映像なのだろう。しかも、男の右手、つまり男がこれから通ってゆく方向のドアらしい輪郭のなかに、大きくUSOという文字が浮いて見える。
どう考えてもこれは街の中の光景なのである。
USOは「嘘」と読むことができる。私が「どうも嘘くさい」と感じたのは、この印象があったためかもしれない。和田さん、あなたもけっこう悪戯が好きなんですね。呵々。が、それはともあれ、男を中心化して見るかぎり、「庭の中」と「旅人」とは連作と考えることができ、そうである以上、舟木は「こうした少年時代の体験が、作品の原型的なイメージとなっていると思われる」などという牽強付会は止めて、別な解釈を試みるべきであった。
〇姑息な取り繕い
もっとも、舟木は私のような批判が出ることを予感していたのだろう。「背広を着た男が孤独な佇まいで庭園や郊外の森の中(時には街の中)に」と、さりげなく( )内に「時には街の中」という補足を挿入している。
しかし、舟木がかかわった『ドラマとポエジーの画家 和田義彦展』で、実際に展示したのは「庭の中」と「旅人」の2作品だった。当然のことながら、舟木はこの2作品を中心に解説をすべきだったが、森とも庭園とも関係のない「旅人」については、いかにも言い訳めいた形で「(時には街の中)に」と取り繕っておく。これは学芸員としての不見識というだけでなく、不誠実の謗りを免れないだろう。
では、舟木が2作品の前後、補足的に名前を挙げていた「庭の中」と「森の中に」はどうであったろうか。この二つの「作品」――「森の中に」はⅠとⅡがあり、だから実際には三つの「作品」――は、『―煌く刻―和田義彦展』の図録で見ることができるが、いずれもスーツ姿の男が一人、後ろ手に手を組んで、木立のなかに立っている。
「庭の中」の男は、小さな空地めいた場所の隅に立っており、それを斜め前方の、高い位置から、見下ろすように描いている。これは、「何処へ」の男を別な角度から描いた、連作の一つだったのかもしれない。いずれにせよ、この三つは「何処へ」と同工異曲であって、どういう点を指して「原型的イメージ」と呼ぶのか、さっぱり見当がつかない。まして、日常の「異化」など、どもにも見出せないのである。
〇和田義彦の「景」
私の疑問は、こういうことでもある。
図録『ドラマとポエジーの画家』には、「何処へ」や「旅人」の他に、「森」(1994年)や「庭」(2001年)、「気」(2002年)などのテンペラ画がある。「風景」という、同じ題のドローイングも2点ある。
なぜ舟木が言及しなかったのか、その理由は分らないが、これらの絵から判断するに、和田は屋外の「景」を描く場合、遠近法や奥行き感には無頓着だった。というより、むしろ三次元世界を二次元化し、平面化してしまう志向を持ち、多分そのためだろう、人物はシルエット化され、彼を取巻く木立は、混濁性の強い青、緑、黄で大雑把に塗りわけられるだけだった。
その構図も配色もありふれたものでしかない。彼が好んで描くカフェやレストランなどに比べても余りに稚拙であり、ひょっとして彼は屋外の「景」を描く基本的な技法も身につけていなかったのではないか。そういう疑問さえ湧いてくるほど、明かに技術的な落差が大きいのである。
〇前田真三とゴッホの場合
もちろん私は遠近法の無視がいけない、などと言ってるわけではない。私は時々前田真三の写真集を開いてみるが、『丘の四季』(1986年)のカヴァーにも使われた、「麦秋鮮烈・美瑛町」の場合、前田は熟れた麦の畑が広々と展開する、なだらかな丘にカメラを向けている。常識的には、その開豁な展望を印象づけるため、ずっと遠くに見える山脈までも視野に収めようとするところだろう。だが前田は、むしろそういう遠近感を否定するかのように、遠い山脈の影が入ってこないアングルから撮っているのである。
まず眼を惹くのは、画面の中央を横に区切る、鮮明な朱色の帯であるが、多分これは黄色に熟した麦の畑が、初夏の強い陽射しを受けて、朱く火照って見えたのだろう。
その朱い帯の上には、雲ひとつない濃紺の空が広がり、空高くなるにつれて濃さが増してゆく。逆にその朱帯の下には、新たに作付けした豆類の新芽が、緑の帯となって左右に延び、更にその下を、日蔭で暗さを増した、淡い褐色の枯れ草(たぶん)の帯が占めている。
その点で、これは4色の横帯で構成された、まことにシンプルな「景」なのであるが、朱色の帯が右へ行くに連れて次第に幅を狭めてゆき、それに代わる形で、暗緑色の帯が右から、細い朱帯の上を、画面の4分の1ほどのところまで延びてきている。この帯は蝦夷松の防風林と思われるが、それがアクセントとなって、画面全体が単調に陥ることを防いでいるのである。
また、よく眼を凝らしてみると、朱帯の左上にポプラの並木が小さく、実に小さく見えて、小高い麦畑の丘の向こう側に広がっているだろう「景」を想像させてくれる。
視線を上下に運動させる、縦のラインを使わないで、横の区切りだけで画面を構成する。この大胆な構図を試みたのは、私が知るかぎり、「ひばりのいる麦畑」(1887年)や、「青い空の下の麦畑」(1890)のゴッホが最初だった。
私はそういう見方をモーリス・メルロ=ポンティに学んだのだが、これは従来の遠近法に対する挑発的な批判と言えるだろう。ではその結果、画面の奥行き感を失ってしまったか、と言えば、決してそうではない。うすい雲のかかった青空の下、まだ鎌の入っていない麦の群生が、既に収穫を終えた畑を挟んで、ほぼ真横から描かれているわけだが、麦は稔った穂の重さで自ずと傾いたのか、それとも風が吹き過ぎていったためか、やや算を乱して左に軽く傾いている。
ゴッホは、そういう麦畑の麦を一本々々克明に描いて、この麦畑の奥深い厚みを感じさせてくれたのである。
〇舟木力英への希望
絵と写真の違いはあるが、前田真三はゴッホの流れを汲む実験者であって、私たちの目に衝撃を与え、「景」の知覚を刷新してくれる。このように、知覚の刷新をもたらす意味で、舟木力英は「異化」という言葉を、このように、知覚の刷新をもたらす意味で使ったのだろうか。もしそうだとすれば、舟木は和田の描く「景」、あるいは「景」の描き方そのものに、和田の少年期における「異化」体験の徴や痕跡を見出してはずである。だが、そのことについて、納得できる説明がない。私は前回、sayakaと名乗る人の和田展印象記を取りあげて、「影の実体化」と批判したが、どうやら舟木力英についても、同じ批判を下さなければならないらしい。疎ましいことだ。
なお、私はこれまで、和田展図録の絵を、和田の「作品」として扱ってきた。ただ、それとは別に一つだけ、例外的に、マッスとしての存在感ある建物や人物を、遠近法的な構図のなかに配置した、「アドリアの海へ」(1982年)という「作品」がある。だが、この「作品」は、アルベルト・スギの作品との類似が指摘されている。また、これまで言及した「作品」のなかで、「何処へ」は、常識的な構図ながら、わずかに立体感への志向を見せている。だが、これもまたスギとの類似が指摘されている「作品」なのである。
それやこれやを含めて、いま舟木力英は和田義彦の描く「景」をどう評価するか、ぜひ聞いてみたい。
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