天皇「発言メモ」の読み方
天皇「発言メモ」の読み方
〇不見識なニュース
先日私は、テレビを見ながら、まさかそんなことはないだろう、と強い疑問を感じた。アナウンサーの言うことが、こんなふうに聞えたからである。〈つい最近、昭和天皇のメモが発見された。そのなかに「A級戦犯が靖国神社の合祀されたことに不快を覚え、それ以来、靖国神社の参拝を止めた」という意味のことが書いてある〉。
しかしこれは私の聞き違いで、アナウンサーが言う「メモ」は、元宮内庁長官の富田朝彦という人物が残したメモだった。そりゃ、そうだろうよ、天皇の直筆のメモなんてものが見つかったら、それ自体が大問題だからな。一応そのように納得したのだが、まだ釈然としない。落ち着きの悪い疑問が残った。
ただ、その時私は、北朝鮮のミサイル発射問題にかまけており、〈まあ、これが終わって、それでもまだ富田メモの問題が尾を引きずっているようだったら、その時は書いて見よう〉。そう考えて疑問は先送りし、取りあえずインターネットで新聞記事を読み、翌21日(金)には、買い物に出たついでに、北海道新聞を買ってきた。
あんなメモに引っかかるなんて不見識だし、不謹慎だ。放って置けばいいのに。そう思うのだが、今朝(23日)もまた幾つかテレビ局が話題にしていた。
もっとも、なぜ不見識で、どこが不謹慎なのか、かえってその方が納得できないという疑問もあるかもしれない。それについて少し書いてみたい。
〇直筆でないことの意味
これまで私は、寡聞にして、近代の天皇が日記をつけているとか、メモを残したとか、そういう話を聞いたことがない。おそらくほとんどの人も同様だろう。
また私はこれまで、天皇が誰かに直筆の私信を出したという話を聞いたことがない。多くの人も同様だろうと思う。
しかしもちろん、日記やメモを書くことは全くなかったと断言することはできない。だが、もしそういう私的な記録が残ったとしても、宮内庁は固く秘匿して、決して公開することはないと思う。
また「直筆の私信」について言えば、天皇はそういうものは書かなかった。万が一、いや百万に一つ、もしそういうことがあったとしても、受け取った人は固く公開を禁じられたか、そうでなければ、その人自身が深く慎んで来たにちがいない。
なぜ私がそう判断するのか。それは、天皇の私情を語った言葉は、誰によってどんなふうに利用されるか分からないからだ。もしある時、ふと天皇が「あの男は信用出来ない」とか、「私はあの男が嫌いだ」とかいう意味の言葉を洩らしたとしよう。その言葉は巡りめぐって、天皇に名指しされた人物を失脚させ、時には死に追いやってしまう。そういう恐ろしい威力を秘めているからにほかならない。
〇綸言(りんげん)、汗の如し
昔、帝王学という学問(?)があった。いや、現在も必要とされていると思うが、それは権威ある地位につき、その一言一句が巨大な影響を及ぼす立場の人間が身につけるべき、教養や心得を体系化した学問で、もちろん日本の天皇も必須の学問として学んできた。
その心得の一つに、「綸言汗の如し」という鉄則がある。これは〈一たん君主の口から出た言葉は、汗が再び身体のなかに戻ることがないように、決して取り消すことは出来ない〉という意味で、これが守られなければ、朝令暮改の混乱を惹き起こしてしまうだろう。
瀧沢馬琴の『南総里見八犬伝』で、安房の国の領主・里見義実は、敵の大群に取り囲まれ、「もし敵の大将の首を取って来る者がいたら、可愛い一人娘の伏姫(ふせひめ)を嫁にやろう」と約束する。すると、忠犬の八房(やつふさ)が矢庭に立って、一声高く吠えて駈け去り、ほどなくして敵の大将の首を咥えて来た。
義実は大変に喜んで褒美をやろうとするが、八房は見向きもせず、しきりに伏姫を求める素振りを見せる。「おのれ畜生の分際で、わが娘を欲しがるとは……」。義実が怒って、槍を構え、あわや一突きに刺し殺そうとしたところ、伏姫が割って入り、「綸言は汗の如し。たとえ相手が犬であろうとも、一たん約束したことは守らねばなりません」。そう父を諌めて、八房と共に生きる覚悟を示し、富山の奥深く姿を隠した。
これは物語の一エピソードであるが、つまり主君が口にする言葉というものは、まず本人自身が守らなければ、自ら信義を失い、他に対して信義を求める根拠も失ってしまう。それほど重いのである。
〇公表は天皇の意志か
それとこれとは必ずしも同じではないが、〈天皇たる者、軽々しく個人的な心情や、他人の好悪など口にすべきではない〉という心構えの点では、相通ずるものがある。
とはいえ、全く口を閉ざしていることには耐えられず、信頼する側近に洩らすこともあっただろう。だが、自らそれを書き留めたりはしない。証拠として残ってしまうからである。
では、側近に書き留めさせたのか。そんなことはありえない。繰り返しになるが、その理由は、「天皇のお気持ち」なるものが独り歩きを始める危険があるからで、とするならば、側近がメモに書き留めたり、公表したりすることは、天皇から受けた信頼に対する裏切りになりかねない。
富田朝彦は心覚えのためにメモを取っておいたのかもしれないが、彼自身、その公表を予定していただろうか。あるいは自分の死後、公表されることを望んでいたのだろうか。この疑問は、そもそもこの資料の出所はどこか、どういう経緯で公表に到ったのか、という疑問を誘発する。
そのように考えを詰めてゆくと、次のような問題に行きつくだろう。〈昭和天皇は自分の言葉が富田メモにあるような科白の形で、しかもこのような経緯で公表されることを望んでいただろうか〉。
〇「発言メモ」の検討
念のために、昭和天皇のものと見なされた言葉を見てみよう。(引用は、毎日新聞HP,「〈昭和天皇〉A級戦犯の靖国合祀に不快感 元宮内庁長官メモ」に拠る)
《引用》
私は 或る時に、A級が合祀されその上、松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は 平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思
っている
だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ(原文のまま)
これを引用した毎日新聞が、末尾で「(原文のまま)」とことわっている。とするならば、「松岡、白取」の「白取」(白鳥敏夫?)もまた、富田のメモの「まま」なのであろう。
同じく毎日の説明によれば、「発言メモは1988年4月で手帳に貼り付けてあった」という。「手帳」は富田の手帳である。
その前年の1987年(昭和62年)の9月、昭和天皇は腸の通過障碍を除くために入院し、術後の経過がよかったので一たん退院されたが、この年の9月、再び入院し、翌年亡くなられた。
紹介された言葉は、とうてい首尾整った発言とは言えない。毎日新聞の記事が確かならば、天皇の発言は再入院の5ヶ月ほど前になるわけだが、――その直後の6月、富田朝彦は宮内庁長官を退任している――すでにこの時、あのように首尾整わない言葉しか言えないほど弱っておられたのだろうか。
それとも、富田朝彦の記憶力および文章能力は、天皇の発話をちゃんとした文章の形では残せないほどお粗末だったのだろうか。
まさか、そのいずれでもあるはずがない。常識的にはそう考えたいところであるが、とするならば、これがどんな性質の言語テクストなのか。そこをきちんと押えておかなければならないだろう。
それに、果して昭和天皇が、靖国神社に出向く自分の行為を「参拝」と呼んでいたかどうか、その点も疑問がないわけではない。
〇テクスト論の視点
先の引用を言語テクストの面から見るならば、それは、Aという人物の発話を、Bという人物が引用する形式であり、その引用の仕方は一見、直接話法の形を取っている。
だが、いかに正確な直接話法的再現を心掛けようとも、ロシアの文学理論家、ミハイル・バフチンが指摘するように、Bによる解釈や、イデオロギー的な屈折を免れることはできない。これはAが書いた文章を、Bが正確に引用するのとは全く異なる「引用行為」なのである。
まして今回の場合、Aは昭和天皇、Bは宮内庁長官という、特殊な関係が介在している。宮内庁長官は侍従長と立場が異なり、必ずしも「お仕えする」関係ではないかもしれないが、私たち市民同士が対話するような関係ではありえない。これは否定できないところだろう。
〇半藤一利の読み方
毎日新聞はこのようなテクストに関する、小説家・半藤一利の解釈を紹介している。
《引用》
あり合わせのメモが貼り付けられていて、昭和天皇の言葉をその場で何かに書き付けた臨場感が感じられた。内容はかなり信頼できると思う。昭和天皇は人のことをあまり言わないが、メモでは案外に自分の考えを話していた。A級戦犯合祀を昭和天皇が疑問視していたことがはっきり示されている。小泉純一郎首相は、参拝するかどうかについて、昭和天皇の判断を気にしていないのではないか。あくまで首相の心の問題で、最終的には首相が判断するだろう。
これは半藤一利自身が書いたものではなく、取材した毎日新聞の記者が彼の談話を文章化し、それを半藤に見てもらったものであろう。
もし毎日の記者が半藤に了解を取ることなしに、これを発表してしまったら、半藤は腹を立て、クレームをつけたにちがいない。私はそう考え、そうであるだけに、なぜ半藤はああいう形で昭和天皇の「発話」を活字にすることに問題を見出さなかったのか、そこに疑問を覚える。
また、この文章を見る限り、半藤は実際に富田の手帳とメモを手に取ってみた立場で発言しているように読める。が、仮にそうだとしても、「昭和天皇の言葉をその場で何かに書き付けた」という判断には、飛躍がありすぎる。私の理解では、宮内庁長官が「その場」で、あり合わせの紙に、天皇の言葉を書きつけるなんて、そんな不躾なことはしない。
これは半藤が言う「その場」の空間的な幅や、時間的なスパンの取り方にもよるが、まさか富田が天皇の前から退出してから、自動車のなかで書くことも「その場」に含めると、そこまで拡大して言ってたわけではないだろう。
それやこれやを考えると、半藤が感じたという「臨場感」というのは、どうも嘘くさい。単なるレトリックではないか。
もう一つ疑問点を挙げるならば、半藤は「昭和天皇は人のことをあまり言わないが、メモでは案外に自分の考えを話していた」と言っており、前半の部分は納得できる。だが、後半の「メモ」云々の意味がよく分からない。「メモでは案外に自分の考えを話していた」というのは、言い方そのものとしても可笑しいのだが、この一般論的な言い方から判断すれば、半藤は富田のあのメモ以外にも、幾つかのメモを見ていたことになる。それは誰のメモだろうか。
それやこれや疑問が湧いてくる、不思議な文章なのだが、毎日新聞は、半藤一利の「話」を引用するに先立って、「「昭和天皇独白録」の出版に携わった作家の半藤一利さん」と紹介していた。
たしかにこの本は「対話語録」というより、「独白録」というにふさわしい。ということはつまり、昭和天皇の発話は本質的に他者との対話性を欠いた、「独白」だったのではないか。そういう視点から、天皇の発話の性格を捉える必要があるのだが、どうやら小説家の半藤一利はその用意を欠いていたのである。
〇山中恒(ひさし)の読み方
同じく作家の山中恒が「歴史認識 首相とかい離」という文章を、北海道新聞(7月21日)に書いているが、彼もあのメモが極めて特殊な引用テクストである点には関心がなかったらしい。
《引用》
昭和天皇は、ある意味で自己防衛にもたけた人だった。宮内庁長官に対して晩年にこういう発言をあえて残したのは、個人的なさまざまな思い、意図があったのだろうと思うが、小泉純一郎首相が靖国神社参拝を続ける理由を「こころの問題だ」と説明しているのに対して、昭和天皇がメモの中で「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と同様に心に言及している点が実に興味深い。ここに天皇と首相との歴史認識の違いがはっきり出ているではないか。
もし昭和天皇が「個人的なさまざまな思い、意図があっ」て、「宮内庁長官に対して晩年にこういう発言をあえて残した」とするならば、天皇は宮内庁長官に口述筆記をさせるか、あるいは長官のメモに目を通して、文言の確認をしただろう。私はそう思う。
あの「発言メモ」の不完全な文辞を見る限り、そういう手続きを踏んだとはとうてい考えることは出来ない。
その意味でも、この「発言メモ」は慎重な扱いを要するのだが、それを飛ばして、あのカタコトめいた片言隻句からいきなり昭和天皇の「歴史認識」を引き出すのは、これは過剰解釈と言われざるをえないだろう。
〇ガセネタに要注意
私は長年、文学研究を仕事とし、現在は文学館の館長をしている。その間、しばしばこの種の〈新資料発見〉事件を目撃し、私自身も新資料を紹介したことがある。
私自身が行なった、最近の例としては、「戦略的な読み―〈新資料〉伊藤整による『チャタレイ夫人の恋人』書き込み―」(岩波書店『隔月刊 文学』第6巻第5号、2005年9月)や、「書き込みに見る多喜二と同時代」(『市立小樽文学館報』29号、2006年3月)があり、後者は私のHP(「亀井秀雄の発言」)にも載せてある。読んでもらえれば、大変ありがたい。
ともあれ、そういう経験を踏まえて言えば、私たちは〈新資料〉が紹介された時、まず資料の出所や発見の経緯を検証し、さらに書体や内容が、その資料の書き手とされる人物にアイデンティファイできるかどうかを検討する。以上のうち一つでも曖昧な点があれば、当然私たちは〈新資料〉の信憑性を疑うことになるだろう。
特に今回のように、別の人物によって引用された発言の真偽を問う場合は、以上の手続きだけでは決して十分とは言えず、テクスト論や言語行為論の視点と方法も必要となってくる。
ここに書いたとこは、その初歩的な応用にすぎないのだが、書いているうちに「どうもこれはガセネタではないか」という心証が強くなってきた。
数ヶ月前、民主党の坊や議員が、ライブドアの堀江貴文のメールなるもののコピーを国会に持ち出して、自民党の武部議員を追い詰めようとし、だが、そのメールがガセネタと分かって大笑い、坊や議員が辞職して一件落着となった。
あれは文字通りガセネタだったらしく、今回の「発言メモ」とは性質が異なるが、検討すればするほど曖昧で、信じがたい点が増えてくる。
眉に唾つけて読んだほうがいい。(2006年7月23~24日)
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