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天皇「発言メモ」の読み方

天皇「発言メモ」の読み方
〇不見識なニュース
 先日私は、テレビを見ながら、まさかそんなことはないだろう、と強い疑問を感じた。アナウンサーの言うことが、こんなふうに聞えたからである。〈つい最近、昭和天皇のメモが発見された。そのなかに「A級戦犯が靖国神社の合祀されたことに不快を覚え、それ以来、靖国神社の参拝を止めた」という意味のことが書いてある〉。

 しかしこれは私の聞き違いで、アナウンサーが言う「メモ」は、元宮内庁長官の富田朝彦という人物が残したメモだった。そりゃ、そうだろうよ、天皇の直筆のメモなんてものが見つかったら、それ自体が大問題だからな。一応そのように納得したのだが、まだ釈然としない。落ち着きの悪い疑問が残った。

 ただ、その時私は、北朝鮮のミサイル発射問題にかまけており、〈まあ、これが終わって、それでもまだ富田メモの問題が尾を引きずっているようだったら、その時は書いて見よう〉。そう考えて疑問は先送りし、取りあえずインターネットで新聞記事を読み、翌21日(金)には、買い物に出たついでに、北海道新聞を買ってきた。

 あんなメモに引っかかるなんて不見識だし、不謹慎だ。放って置けばいいのに。そう思うのだが、今朝(23日)もまた幾つかテレビ局が話題にしていた。
 
もっとも、なぜ不見識で、どこが不謹慎なのか、かえってその方が納得できないという疑問もあるかもしれない。それについて少し書いてみたい。

〇直筆でないことの意味
 これまで私は、寡聞にして、近代の天皇が日記をつけているとか、メモを残したとか、そういう話を聞いたことがない。おそらくほとんどの人も同様だろう。
 また私はこれまで、天皇が誰かに直筆の私信を出したという話を聞いたことがない。多くの人も同様だろうと思う。

 しかしもちろん、日記やメモを書くことは全くなかったと断言することはできない。だが、もしそういう私的な記録が残ったとしても、宮内庁は固く秘匿して、決して公開することはないと思う。
 また「直筆の私信」について言えば、天皇はそういうものは書かなかった。万が一、いや百万に一つ、もしそういうことがあったとしても、受け取った人は固く公開を禁じられたか、そうでなければ、その人自身が深く慎んで来たにちがいない。

 なぜ私がそう判断するのか。それは、天皇の私情を語った言葉は、誰によってどんなふうに利用されるか分からないからだ。もしある時、ふと天皇が「あの男は信用出来ない」とか、「私はあの男が嫌いだ」とかいう意味の言葉を洩らしたとしよう。その言葉は巡りめぐって、天皇に名指しされた人物を失脚させ、時には死に追いやってしまう。そういう恐ろしい威力を秘めているからにほかならない。

〇綸言(りんげん)、汗の如し
 昔、帝王学という学問(?)があった。いや、現在も必要とされていると思うが、それは権威ある地位につき、その一言一句が巨大な影響を及ぼす立場の人間が身につけるべき、教養や心得を体系化した学問で、もちろん日本の天皇も必須の学問として学んできた。
 
 その心得の一つに、「綸言汗の如し」という鉄則がある。これは〈一たん君主の口から出た言葉は、汗が再び身体のなかに戻ることがないように、決して取り消すことは出来ない〉という意味で、これが守られなければ、朝令暮改の混乱を惹き起こしてしまうだろう。

 瀧沢馬琴の『南総里見八犬伝』で、安房の国の領主・里見義実は、敵の大群に取り囲まれ、「もし敵の大将の首を取って来る者がいたら、可愛い一人娘の伏姫(ふせひめ)を嫁にやろう」と約束する。すると、忠犬の八房(やつふさ)が矢庭に立って、一声高く吠えて駈け去り、ほどなくして敵の大将の首を咥えて来た。
 義実は大変に喜んで褒美をやろうとするが、八房は見向きもせず、しきりに伏姫を求める素振りを見せる。「おのれ畜生の分際で、わが娘を欲しがるとは……」。義実が怒って、槍を構え、あわや一突きに刺し殺そうとしたところ、伏姫が割って入り、「綸言は汗の如し。たとえ相手が犬であろうとも、一たん約束したことは守らねばなりません」。そう父を諌めて、八房と共に生きる覚悟を示し、富山の奥深く姿を隠した。
 これは物語の一エピソードであるが、つまり主君が口にする言葉というものは、まず本人自身が守らなければ、自ら信義を失い、他に対して信義を求める根拠も失ってしまう。それほど重いのである。

〇公表は天皇の意志か
 それとこれとは必ずしも同じではないが、〈天皇たる者、軽々しく個人的な心情や、他人の好悪など口にすべきではない〉という心構えの点では、相通ずるものがある。
 とはいえ、全く口を閉ざしていることには耐えられず、信頼する側近に洩らすこともあっただろう。だが、自らそれを書き留めたりはしない。証拠として残ってしまうからである。
 では、側近に書き留めさせたのか。そんなことはありえない。繰り返しになるが、その理由は、「天皇のお気持ち」なるものが独り歩きを始める危険があるからで、とするならば、側近がメモに書き留めたり、公表したりすることは、天皇から受けた信頼に対する裏切りになりかねない。
 富田朝彦は心覚えのためにメモを取っておいたのかもしれないが、彼自身、その公表を予定していただろうか。あるいは自分の死後、公表されることを望んでいたのだろうか。この疑問は、そもそもこの資料の出所はどこか、どういう経緯で公表に到ったのか、という疑問を誘発する。
 
 そのように考えを詰めてゆくと、次のような問題に行きつくだろう。〈昭和天皇は自分の言葉が富田メモにあるような科白の形で、しかもこのような経緯で公表されることを望んでいただろうか〉。

〇「発言メモ」の検討
 念のために、昭和天皇のものと見なされた言葉を見てみよう。(引用は、毎日新聞HP,「〈昭和天皇〉A級戦犯の靖国合祀に不快感 元宮内庁長官メモ」に拠る)
《引用》
 
私は 或る時に、A級が合祀されその上、松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
 松平は 平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思
 っている
 だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ
(原文のまま)

 これを引用した毎日新聞が、末尾で「(原文のまま)」とことわっている。とするならば、「松岡、白取」の「白取」(白鳥敏夫?)もまた、富田のメモの「まま」なのであろう。

 同じく毎日の説明によれば、「発言メモは1988年4月で手帳に貼り付けてあった」という。「手帳」は富田の手帳である。
その前年の1987年(昭和62年)の9月、昭和天皇は腸の通過障碍を除くために入院し、術後の経過がよかったので一たん退院されたが、この年の9月、再び入院し、翌年亡くなられた。
 紹介された言葉は、とうてい首尾整った発言とは言えない。毎日新聞の記事が確かならば、天皇の発言は再入院の5ヶ月ほど前になるわけだが、――その直後の6月、富田朝彦は宮内庁長官を退任している――すでにこの時、あのように首尾整わない言葉しか言えないほど弱っておられたのだろうか。
 それとも、富田朝彦の記憶力および文章能力は、天皇の発話をちゃんとした文章の形では残せないほどお粗末だったのだろうか。
 まさか、そのいずれでもあるはずがない。常識的にはそう考えたいところであるが、とするならば、これがどんな性質の言語テクストなのか。そこをきちんと押えておかなければならないだろう。
 それに、果して昭和天皇が、靖国神社に出向く自分の行為を「参拝」と呼んでいたかどうか、その点も疑問がないわけではない。

〇テクスト論の視点
 先の引用を言語テクストの面から見るならば、それは、Aという人物の発話を、Bという人物が引用する形式であり、その引用の仕方は一見、直接話法の形を取っている。
だが、いかに正確な直接話法的再現を心掛けようとも、ロシアの文学理論家、ミハイル・バフチンが指摘するように、Bによる解釈や、イデオロギー的な屈折を免れることはできない。これはAが書いた文章を、Bが正確に引用するのとは全く異なる「引用行為」なのである。

 まして今回の場合、Aは昭和天皇、Bは宮内庁長官という、特殊な関係が介在している。宮内庁長官は侍従長と立場が異なり、必ずしも「お仕えする」関係ではないかもしれないが、私たち市民同士が対話するような関係ではありえない。これは否定できないところだろう。

〇半藤一利の読み方
 毎日新聞はこのようなテクストに関する、小説家・半藤一利の解釈を紹介している。
《引用》
  
あり合わせのメモが貼り付けられていて、昭和天皇の言葉をその場で何かに書き付けた臨場感が感じられた。内容はかなり信頼できると思う。昭和天皇は人のことをあまり言わないが、メモでは案外に自分の考えを話していた。A級戦犯合祀を昭和天皇が疑問視していたことがはっきり示されている。小泉純一郎首相は、参拝するかどうかについて、昭和天皇の判断を気にしていないのではないか。あくまで首相の心の問題で、最終的には首相が判断するだろう。

 これは半藤一利自身が書いたものではなく、取材した毎日新聞の記者が彼の談話を文章化し、それを半藤に見てもらったものであろう。
 もし毎日の記者が半藤に了解を取ることなしに、これを発表してしまったら、半藤は腹を立て、クレームをつけたにちがいない。私はそう考え、そうであるだけに、なぜ半藤はああいう形で昭和天皇の「発話」を活字にすることに問題を見出さなかったのか、そこに疑問を覚える。

 また、この文章を見る限り、半藤は実際に富田の手帳とメモを手に取ってみた立場で発言しているように読める。が、仮にそうだとしても、「昭和天皇の言葉をその場で何かに書き付けた」という判断には、飛躍がありすぎる。私の理解では、宮内庁長官が「その場」で、あり合わせの紙に、天皇の言葉を書きつけるなんて、そんな不躾なことはしない。
 これは半藤が言う「その場」の空間的な幅や、時間的なスパンの取り方にもよるが、まさか富田が天皇の前から退出してから、自動車のなかで書くことも「その場」に含めると、そこまで拡大して言ってたわけではないだろう。
 それやこれやを考えると、半藤が感じたという「臨場感」というのは、どうも嘘くさい。単なるレトリックではないか。

 もう一つ疑問点を挙げるならば、半藤は「昭和天皇は人のことをあまり言わないが、メモでは案外に自分の考えを話していた」と言っており、前半の部分は納得できる。だが、後半の「メモ」云々の意味がよく分からない。「メモでは案外に自分の考えを話していた」というのは、言い方そのものとしても可笑しいのだが、この一般論的な言い方から判断すれば、半藤は富田のあのメモ以外にも、幾つかのメモを見ていたことになる。それは誰のメモだろうか。

 それやこれや疑問が湧いてくる、不思議な文章なのだが、毎日新聞は、半藤一利の「話」を引用するに先立って、「「昭和天皇独白録」の出版に携わった作家の半藤一利さん」と紹介していた。
 たしかにこの本は「対話語録」というより、「独白録」というにふさわしい。ということはつまり、昭和天皇の発話は本質的に他者との対話性を欠いた、「独白」だったのではないか。そういう視点から、天皇の発話の性格を捉える必要があるのだが、どうやら小説家の半藤一利はその用意を欠いていたのである。

〇山中恒(ひさし)の読み方
 同じく作家の山中恒が「歴史認識 首相とかい離」という文章を、北海道新聞(7月21日)に書いているが、彼もあのメモが極めて特殊な引用テクストである点には関心がなかったらしい。
《引用》
  
昭和天皇は、ある意味で自己防衛にもたけた人だった。宮内庁長官に対して晩年にこういう発言をあえて残したのは、個人的なさまざまな思い、意図があったのだろうと思うが、小泉純一郎首相が靖国神社参拝を続ける理由を「こころの問題だ」と説明しているのに対して、昭和天皇がメモの中で「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と同様に心に言及している点が実に興味深い。ここに天皇と首相との歴史認識の違いがはっきり出ているではないか。

 もし昭和天皇が「個人的なさまざまな思い、意図があっ」て、「宮内庁長官に対して晩年にこういう発言をあえて残した」とするならば、天皇は宮内庁長官に口述筆記をさせるか、あるいは長官のメモに目を通して、文言の確認をしただろう。私はそう思う。
 あの「発言メモ」の不完全な文辞を見る限り、そういう手続きを踏んだとはとうてい考えることは出来ない。
 その意味でも、この「発言メモ」は慎重な扱いを要するのだが、それを飛ばして、あのカタコトめいた片言隻句からいきなり昭和天皇の「歴史認識」を引き出すのは、これは過剰解釈と言われざるをえないだろう。

〇ガセネタに要注意
 私は長年、文学研究を仕事とし、現在は文学館の館長をしている。その間、しばしばこの種の〈新資料発見〉事件を目撃し、私自身も新資料を紹介したことがある。

 私自身が行なった、最近の例としては、「戦略的な読み―〈新資料〉伊藤整による『チャタレイ夫人の恋人』書き込み―」(岩波書店『隔月刊 文学』第6巻第5号、2005年9月)や、「書き込みに見る多喜二と同時代」(『市立小樽文学館報』29号、2006年3月)があり、後者は私のHP(「亀井秀雄の発言」)にも載せてある。読んでもらえれば、大変ありがたい。

 ともあれ、そういう経験を踏まえて言えば、私たちは〈新資料〉が紹介された時、まず資料の出所や発見の経緯を検証し、さらに書体や内容が、その資料の書き手とされる人物にアイデンティファイできるかどうかを検討する。以上のうち一つでも曖昧な点があれば、当然私たちは〈新資料〉の信憑性を疑うことになるだろう。
 特に今回のように、別の人物によって引用された発言の真偽を問う場合は、以上の手続きだけでは決して十分とは言えず、テクスト論や言語行為論の視点と方法も必要となってくる。

 ここに書いたとこは、その初歩的な応用にすぎないのだが、書いているうちに「どうもこれはガセネタではないか」という心証が強くなってきた。
 数ヶ月前、民主党の坊や議員が、ライブドアの堀江貴文のメールなるもののコピーを国会に持ち出して、自民党の武部議員を追い詰めようとし、だが、そのメールがガセネタと分かって大笑い、坊や議員が辞職して一件落着となった。
 あれは文字通りガセネタだったらしく、今回の「発言メモ」とは性質が異なるが、検討すればするほど曖昧で、信じがたい点が増えてくる。
 眉に唾つけて読んだほうがいい。(2006年7月23~24日)

 

 

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マス・メディアの見え方(5)

出す国/貰う国の不思議な関係
〇貢ぎ続けの韓国
 前回、私は、『東亜日報』の「発射費用は600億ウォン…6年間の対北支援金は3兆ウォン」(2006年7月11日)という記事を紹介したが、その時引用した文章の次にも、常識では考えられないことが書いてあった。
《引用》
 
00年の南北首脳会談以来6年間、南北協力基金で北朝鮮に支援した総額は3兆2333億7900万ウォン。これを北朝鮮の市場為替レートで換算すれば、昨年の北朝鮮予算を基準にして26年分を上回る。

 さらに、金大中(キム・デジュン)前大統領が南北首脳会談開催のために与えた5億ドルの現金まで合算すれば、韓国側の支援が、北朝鮮のミサイルと核開発の土台を提供したと指摘する専門家も少なくない。

 もしこれが事実ならば――間違いない、と私は思うが、――何と!! 韓国は北朝鮮に、過去6年間、毎年、北朝鮮の国家予算の4倍強のお金を支援しつづけているのである。
 逆に言えば、北朝鮮は過去6年間、自国の国家予算の4倍以上の金を貰い続けているのである.
 もし日本が他所の国から、国家予算の4倍以上の金を貰って「国家」を運営しているとしたら、私たちは自分の国を独立国家と見なし得るだろうか。これは、そういう深刻な疑問に誘われるような事態なのである。

 総額3兆2333億7900万ウォンという金額は、ちょっとピンと来ないかもしれない。私も実感が薄いのだが、今年の7月11日現在で、100ウォンが12円(つまり1円は8.3ウォン)ほどに当る。これによって計算すると、3兆2333億7900万ウォンは3,880億円ほどになる。これを6で割れば、1年平均が出るわけだが、そうしてみると、約647億円ずつ、韓国は北朝鮮に毎年、支援してきたわけである。
 その他、金大中前大統領が、南北首脳会談の開催のために5億ドル与えた、という。今日(7月21日)現在、1ドルは116円ほどだから、580億円を与えた計算になる。

〇GDP較べ
 では、毎年これほどのお金を支援している韓国の経済能力はどの程度なのか。国家予算というのは国家体制によって組み方が異なり、素人の私には判断が難しいので、GDP(国内総生産)で比較してみたい。
 インターネットの『ウィキペディア/フリー百科事典』に、「市場為替レートベースのGDP(国内総生産)」が載っていた。それによると、2005年度のGDPの1位は言うまでもなくアメリカ(12兆4388億7300万ドル)だったが、以下、これから言及する国の数字を上げてみると、次のようになる。
  2位  日本        4兆7990億6100万ドル
  6位  中華人民共和国 1兆8431億1700万ドル
  10位 ロシア       7554億3700ドル
  13位 大韓民国     7207億2200万ドル
  20位 中華民国     3451億500万ドル
 ただし、これは国民全体の総数であって、以上の数字を、各国の人口で割り、国民一人当たりのGDP(国民総生産)で比較すると、どうなるか。
 15位 日本         37,566ドル(約535万円)
 35位 中華民国      14,860ドル(約174円)
 36位 大韓民国      14,728ドル(約170円)
 60位 ロシア        5,340ドル(約62円)
 111位 中華人民共和国 1,410ドル(約16万円)
  (以上の順位は、全179カ国の内の位置)

 北朝鮮のデータがないのは残念だが、ともあれこうして見ると、俗に言う「中国」、つまり中華人民共和国の一人当たりGDPは、「台湾」つまり中華民国の10分の1以下であり、日本の33分の1以下でしかない。
 別な面から見れば、「台湾」は、人口では北朝鮮とほぼ同じだが、国民一人当たりのGDPは韓国を上回り、「中国」に10倍する。もちろん独自の政府を持ち、自立的な経済を営んでいる。にもかかわらず、国連において北朝鮮は国家と認知され、台湾は国連に席を持たない。奇妙な話だ。

 そんなふうに、素朴な疑問がさらに湧いてくるのだが、ついでに東京都の平成16(2004)年の「都内総生産」を挙げておこう。東京都のホームページによれば、この年の都内総生産は約84兆2766億円だった。ただ、この年の円とドルの交換レートは正確には分からない。やむを得ず、いま仮に、今日現在の1ドル116円で計算してみれば、7200億ドルほどになる。
 この年の東京の人口は、約1,250万人で、韓国の3.7分の1程度だったが、それにもかかわらず、都内総生産は、韓国のGDP(国内総生産)とほぼ同額だった。その経済力の大きさがよく分かるだろう。

〇日本の対「中国」開発援助
 一つの国家が誕生して既に半世紀も経ちながら、インフラの整備が行き届かず、国民に窮乏生活を強いているとすれば、それは国家体制が劣悪であるか、政権担当者が無能な権力主義者であるか、またはそのいずれでもある。私は単純素朴にそう見ている。また、この視点を欠くならば、国家の本質を見失ってしまう。

 そういうごく当り前の視点からすれば、未だに日本のODA(政府開発援助)に頼っている北京政府は、自立した国家の条件を満たしているかどうか、大変に疑わしい。
 在中国日本大使館のホームページを覗いてみたら、2005年5月現在の記事として、こんなことが書いてあった。
《引用》
  
対中ODAは、1979年に開始され、これまでに有償資金協力(円借款)を約3兆1331億円、無償資金協力を1457億円、技術協力を1446億円、総額約3兆円以上のODAを実施してきました。

 つまり平均すれば、1年につき、有償資金協力1213億円、無償資金協力58億2800万円、技術協力57億8400万円、合計1329億1200万円。日本政府は毎年、これだけの金額を、25年間に渉って援助し続けてきたのである。
 このうち「有償資金協力」は、その言葉だけで判断すると、相手からの返済、あるいは見返りが期待できるように見える。だが、「
有償資金協力」とは、「緩やかな条件(低金利、長期返済期間)による資金貸与」であり、「基本的にアンタイド(無制限)」と説明されている。つまり「返せる時が来たら、返して下さいネ」という、まことにお人好しな「資金貸与」なのである。

 それがどれくらい巨きな金額か。韓国は6年間に渉って、1年につき約647億円を支援してきた。これは大変な金額だが、日本はその2倍以上のお金を、25年に渉って、北京政府に渡してきたのである。

〇北京政府の「やらずぼったくり」
 日本の外務省は、日本の民間から視察団を組織して、現地を案内し、感想文を書いてもらっている。それも外務省のHPに載っており、もちろん「大変に結構な事業だと思う」といった優等生の作文が多いのだが、ただ、共通する不満はただ1点、次のようなことだった。〈どこの施設を見ても、日本の援助によって出来たという説明が明記されていない。中国側が発行したパンフレット類にも説明がなかった〉。
 たぶん北京政府はお金の出所を、自分の国民にも知らせたくなかったのであろう。こういうのを、日本では、俗に「ねこばば」とか、「やらずぶったくり」とか言う。

 この話を家族にしたところ、「ふ~ん。それじゃ、歴代の国のなかで一番出来が悪いってことにならないかしら」。
 中国大陸には古来、いろんな王朝が出現したが、誕生から半世紀くらいが、おそらく最も盛況を誇っていた。この繁栄を背景に、周辺の国と朝貢(貿易)関係が結ばれたわけで、周辺の国は臣従の印として貢物を奉る。王朝はそれに数倍する賜物を返すという、この「恩恵」があればこそ、朝貢(貿易)関係の維持が可能だった。私たちはそう理解していたのだが、それに較べて、現在の北京政府は、独立国家の日本から、ただもう援助を受け取るだけで、「やらずぼったくり」のねこばば。
 そこで、我が家は先のような感想を持ったのである。

〇白石真澄の未消化発言
 ところで、さて、以上書いたことは、前回ことわっておいたように、7月17日(月)に新聞を買うまでの「つなぎ」だったわけだが、17日の昼、朝日新聞と毎日新聞に目を通しても、期待する記事がなかった。いや、朝日新聞には「北朝鮮非難決議(全文)」が載ってはいたのだが、どの文章もほとんど体言止めで、日本語の文章として熟していない。どうやらこれは各条項の内容をかいつまんで訳した、抄訳らしい。そう考えて、検討は諦めた。

 だが、それはそれとして、朝日新聞の「時時刻刻」という欄に、次のような記事があり、なるほどそうだったのか、と思い当たった。
《引用》
  
日本政府と中国との交渉は進まなかった。自民党内から「問題は中国とのパイプがないことだ」(閣僚経験者)との声も出たが、外務省幹部は「日中安保条約はないんだから、中国とはだれがやっても意味はない」と切り捨てた。
  加えて、中国と連携するロシアとのパイプも細っていた。日本政府は手詰まりで、米国を頼りとせざるを得なかった。
  日本国連代表部筋は「米政府の立場は日本を支えることだった」と言う。日本政府高官も「日米が一枚岩で突っ込んでくるんじゃないかと中国も思っただろう」。
  だが、実際には、米国はヒル国務次官補を2度にわたり訪中させるなど中国とも緊密に連絡を取り、流れを作った。

 私が「なるほど」と思い当たったのは、この記事から教えられたからではない。この日の朝、テレビ朝日の渡辺宜嗣の「スーパーモーニング」が「、非難決議」を取り上げていて、コメンテーターの白石真澄がこれとそっくり同じことを言っていたからである。
もちろん私たちはその時点で、朝日の記事を目にしていたわけではない。そんなわけで、「ホラ、また出た。お決まりの〈日本、蚊帳の外〉論だよ」と可笑しがったり、「国交があり、お互いに大使を派遣している以上、パイプがあるに決まってるじゃないか。ナニ、頓珍漢を言ってるんだ」と、不思議がっていたのだが、どういうわけか、この時は司会の渡辺も、コメンテーターの鳥越も妙な薄ら笑いを浮かべて、相槌さえ打たなかった。
その理由が、「ははあ、なるほど」と思い当たったのである。

 そこで、家族にも新聞を見せたところ、「おやおや、あの白石って美人コメンテーターさん、まるで蒟蒻を食べたみたいに、未消化のまま出してしまったのネ……。あら、ちょっとはしたない言い方だったかしら」。なるほど、いかにお約束とはいえ、新聞記事をモロそっくり暗誦されたら、そりゃ渡辺も鳥越も受けようがなかっただろう。

〇大国って何?
 それにしても、白石さん、「パイプがある」とか「ない」とか言うけれど、誰とどういう接点を持っていれば「パイプ」になるんですか。最終的な相手は胡錦濤ですか? それともプーチンですか? そう聞いてみれば分かるように、「パイプ」なんて単なる思わせぶりに過ぎない。
 要するに〈大国の中国やロシアからそっぽ向かれたら、ことがうまく運ばないよ〉と言いたいのだろうが、北京政府やロシアが「大国」の振りをすることが出来たのは、国連の安保理で拒否権を持っていたからにほかならない。だったら、「拒否権とは何か。それを特定の国が持つ根拠は何か」から捉え返してみればいい。正体は直ちに明らかだろう。

 そんな話をしていたところ、北京から帰った、民主党の小沢一郎がテレビのインターヴュで、精一杯笑みを浮かべて、〈あれはもう事前にアメリカと中国、アメリカとロシアの間で出来上がっていたシナリオですよ〉みたいなことを言っていた。
 こういうのを、俗に「下司の訳知り顔」と言うのだが、卒然として私は、むかし愛読した大和和紀の『はいからさんが通る』という楽しい漫画を思い出した。あれには冗談社という出版社があって、コビ・ウリタとか、ヘツラ・イワオとかいう編集者が出て来て、諷刺が利いた上等なギャグが多かったなあ。(2006年7月21日)

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マス・メディアの見え方(4)

『東亜日報』の記事から
〇驚くべき記事
 昨日(16日)の朝、国連の安保理で、「非難」決議が満場一致で採択されたことを知った。国連憲章第7章への言及はなかったらしい。ほぼ予想通りの結果だった。多くの人にとっても同様だったと思う。

 「だが、細かい文言はテレビでは分からない。検討は明日の朝刊を買ってからにしよう」。そう考えて庭に出た。草取りをしてからシャワーを浴び、その後、インターネットを検索していたところ、『東亜日報』の「発射費用は600億ウォン…6年間の対北支援金は3兆ウォン」(2006年7月11日)という記事を見つけた。すごいことが書いてある。
《引用》
 
5日に北朝鮮が発射した「テポドン2」を含むミサイル7発の製造と発射費用は約600億ウォンにのぼると、軍当局は推算している。外部世界から支援を受けなければ独自生存が困難だと言われている北朝鮮が、このような巨額を空中に打ち上げることができたのは、00年の南北首脳会談以来6年間、韓国の無条件な対北朝鮮支援があったおかげだという指摘が出ている。

 04年10月、北朝鮮最高人民会議の第11期3回会議で公表された北朝鮮の05年度予算は、北朝鮮ウォンで3885億ウォン。これを北朝鮮の公式為替相場(1ドル=150ウォン)ではなく、実際の市場の為替相場(1ドル=3000ウォン)で計算すれば、1億2950万ドル程度だ。今回のミサイル発射に使用した600億ウォン(約6369万ドル)は、1年間の予算の半分に迫る巨額になる。

 これは北朝鮮が、8ヶ月間6者協議に復帰せず資金凍結の解除を求めているマカオのバンコ・デルタ・アジア(BDA)銀行に凍結されている資金2400万ドルの3倍に迫る金額だ。

 一つの国の通貨の、公式の為替相場と、実際の為替相場の間に、何と!! 20倍の開きがある。そんなことがあり得るだろうか。日本の国内で、1ドルは115円だと言われ、そのつもりでアメリカへ行き、115円を出してドルに換金しようとしたところ、5セントにしかならなかった。これは、そんな悪夢みたいな話なのである。

〇矮小な国家予算
 まず私はそのことに驚かされたが、北朝鮮の予算規模にも驚いた。
 もし上の記事が本当ならば――もちろん間違いないと思うが、――北朝鮮の2005年度の予算は1億2950万ドル程度。1ドル115円で計算すれば、148億9,250万円ほどになる。驚くほど少ない。
 ただしこれは、実際の市場の為替相場(1ドル=3000ウォン)で計算した場合であって、北朝鮮の公式為替相場(1ドル=150ウォン)に従って計算すれば、その20倍、2,978億5,000万円となる。その場合でも、国家予算としては信じられないほど少ない。

 韓国の国家予算は、東京都の予算よりもずっと少ない。以前そういう話を聞き、〈ああそういう見方もあるのか〉と、インターネットで調べたところ、確かに韓国の予算は東京都より遥かに少なかった。
 北朝鮮のことは、日本の外務省のホームページに載っていない。不正確な情報で判断するのは危険だ。そう自戒して、憶測は避けてきたのだが、実際にこういう情報に接してみると、想像していたより遥かに少額だった。
 こんな少額の予算で、人口2300万ほどの国家を運営できるのだろうか。

〇長野県との比較
 実際にそれは、どの程度の規模か。
長野県の人口は221万人、北朝鮮の約10分の1なので、これを例に取るならば、平成18(2006)年度の歳入は8,250億円が見込まれている。
 ただしこれは県税のほか、地方交付税その他を含めた総額であり、北朝鮮の国家予算との比較は、むしろ県税に限定したほうがよいかもしれない。そこで、もう一度見直してみると、長野県は平成18年度の県税として、2,151億円を見込んでいる。これが221万人の予算であり、それを北朝鮮の人口に準じて10倍してみれば、2兆1,510億円となる。

 ちなみに、長野県のホームページに「本県と同等の人口をもつ群馬県や栃木県」という言い方があったので、群馬県を調べてみると、人口は201万で、北朝鮮の約11分の1。平成18年度の歳入は7,973億円、そのうち県税は2,210億円だった。この県税を、同じく北朝鮮の人口に準じて11倍すれば、2兆4,310億円となる。

 北朝鮮の国家予算を、公式レート換算で2,978億5,000万円と見るか、実際の交換比率の換算して148億9,250万円と見るか。額面では大きな開きがあるが、たとえ前者で比較したとしても、人口が10分の1の長野県の県税より、768億5,000万円多い程度。交付税などを含む総額と比較すれば、長野県の半分にも満たない。

〇行政なき国家
 これを別な面から見てみよう。北朝鮮の国家予算が全て国民(「人民」と言うべきかも知れない)のために使われたとして、公式レート計算による金額を2,300万人で割ると、一人につき12,950円程度となる。だが、実際レート計算の場合は、一人につき約648円にしかならない。
 
 同じ視点で長野県の場合を考えてみれば、県税だけで計算しても県民一人につき97,330円を支出することになり、交付税などを合せれば、約3.8倍の370,000万円ほどになる。群馬県の場合は、県税だけで一人につき109,950円となり、交付税などを合せれば、約3.6倍の395,000円ほどになる。
 いかに物価が違うとは言え、この開きは異常なほど大きい。そう言わざるを得ないだろう。。

 しかも長野県や群馬県は軍隊も持たなければ、ミサイルを作っているわけでもない。逆に言えば、北朝鮮はあの少額からピンはねして軍隊を持ち、ミサイルを作っている。これでは、国民のためにインフラを整備する余裕などあるはずがない。
 これは行政なき国家と言うしかなく、国民は自分の知恵、才覚で水や燃料を手に入れなければならないのである。

〇恐るべきダブル・スタンダード
 まるでウソのような話だが、現実に北朝鮮が「国家」として存続している以上、それを可能にするカラクリがあるにちがいない。
 私の見るところ、そのカラクリ一つが、先に紹介した交換レートのダブル・スタンダードなのである。

 北朝鮮の政府が設定した公式の為替相場では、1ドルが150ウォンだが、実際の為替市場では1ドルが3000ウォンで交換されている。
つまり国の中で通用する価値が、対外的には20分の1にしかならない。そういう話になるわけで、たとえば北朝鮮政府から100ドルに相当する給料として、15,000ウォンを貰った人が、実際にアメリカ製品を買いに行ったところ、5ドル相当の物しか買えない。そういう、泣くに泣けない事態が起ってくる。

 日本はダブル・スタンダードではなく、外貨との関係は変動性を取っていて、現在は1ドル115円前後で推移している。もし北朝鮮のような状況となれば、115円が6円以下の価値しかなくなり、大パニックが起るだろう。

 また、外国から見れば、ダブル・スタンダード制の国の通貨ほど怖いものはない。いま私が11,500円で、100ドル相当のアメリカ製品を買い、北朝鮮に持って行って、公式レートで売ったとしよう。このレートに従えば、私は15,000ウォン受け取ることになるわけだが、そのお金でもう一度アメリカ製品を買おうとすれば、5ドルの物しか買えない。つまり私は、差し引き10,925円の損をしてしまうのである。

 そんなわけで、もし北朝鮮と貿易をしたい人がいたとしても、その人は多分北朝鮮ウォンによる支払いを決して望まないであろう。このウォンは、北朝鮮以外の国では20分の1程度しか価値を持たない。そもそも北朝鮮ウォンで支払おうとしても、それを受け取ってくれるお店はほとんどないからである。

〇言語としての通貨
 以上のことを少し抽象化して言えば、〈ある国の通貨が国外で受ける評価は、その国の経済力や経済システムの評価の指標にほかならない〉。

 マルクスが言うように、通貨は言語以前の、あるいは言語を超えた「言語」であって、経済力や経済システムがその「言語」の意味や価値を形成する。ある国の通貨は、この意味と価値をバックに、他の国の通貨との対話(交換または翻訳)関係に入るのである。

 こうして見れば、日本の円がどんなに対話能力の高い言語か――つまりどんなに流通性の高い言語か、――外国旅行を一度でもしたことのある人ならば、すぐに納得するだろう。ついでに言えば、日本国が発行するパスポートもまことに流通性が高い。
 日本人の外国旅行ブームは依然として衰えないが、それはこの二つに支えられているからであって、その意味で日本は決して「孤立」してもいなければ、「蚊帳の外」に置かれているわけでもない。
テレビのコメンテーターたちが、分かったふうな顔をして、日本の「孤立」や「蚊帳の外」を言う。それを耳にする度に、私は、何を根拠にそんなことを言うのか、聞いてみたい気がする。

 この連中、「金が全てではありません。問題は信頼関係ですよ」と開き直るかもしれな。
 〈なるほど、なるほど、では、あなたの出演料や原稿料は、北京政府の人民元か、ロシアのルーブル、あるいは韓国のウォンか、北朝鮮のウォンでお支払いしましょう〉。そう言われたら、この連中、どう答えるだろうか。おそらく「喜んで」と答える人は、滅多にいない。要するに、口で言うほど信頼などしていないのである。
 〈では、円かドルでお支払いしましょうか〉。そう聞かれれば、おそらくヘラヘラと相好を崩してしまう。
 こういう反応が出てくるのも、各国の通貨に対話能力の高低や大小があるからにほかならない。

〇ダブル・スタンダードの悪用
 私は昨日、ここまで書いて中断し、今日(18日)また、改めて書き始めたわけだが、ともあれ、以上の視点からみれば、北朝鮮ウォンの国際的な対話能力がいかに低いか、一目瞭然だろう。
 だが、私の見るところ、それこそが、北朝鮮の政府高官、または指導者層が権力と特権を手に入れるカラクリのネタなのである。

 いま彼らが、国民の一人に150ウォン払って、ある品物を作らせたとしよう。それを国外のマーケットに出して、1ドルで売り、その1ドルを実際の為替相場でウォンに変えるならば、3000ウォンを手にすることができる。
 濡れ手に粟のボロ儲け、これほどウマイ話はまたとあるまい。

 これは単純な例であるが、もしこのボロ設けのカラクリを、政府機関が全機能を挙げて企んだとすれば、どうなるだろうか。
 マス・メディアの伝えるところによれば、北朝鮮はアメリカのドル紙幣を偽造し、覚醒剤を日本に密輸し、マイルドセブンの偽物を東南アジアで売りさばいている。おそらく事実だろうと思うが、こういう悪質な手口で荒稼ぎした巨額な円やドルを、さらに自国の実際の為替相場でウォンに換金するとしよう。天文学的な数字の利益が、政府の懐に転がり込んでくるはずである。

 その金額は公表した国家予算を遥かに上回る。そうであればこそ、あれだけの数の兵士を食べさせ、武器を持たせ、ミサイルを作ることができるのだ。私はそう思う。

 その反面、こういう旨い汁にありつけない、一般の国民にとって、日本の親戚や知人から送られる円やドルがどれほど貴重か、容易に想像できる。まさに「旱天に慈雨」にちがいない。
 そして、もしこの送金システムを仕切っている人間がいるとするならば、その人間は送金の上前をはねて、巨万の隠し財産を作っていることだろう。

〇「貧困」という仕掛け
 以上から二つのことが推定できる。
 一つは、以上の手口で作った金は公表できない、秘密の裏金であり、そうである以上、この金の調達と配分の中枢を握る人間の間から、独裁者や特権階級が生れるのは避け難い。それをめぐって陰湿な権力闘争が始まり、数限りない不正と腐敗が進行してゆく。
 軍の上層部もその闘争に巻き込まれ、または自ら積極的に関与し、かくして軍は独裁者の私兵と化してしまう。

 もう一つは、この金によって、巧妙な恩恵政治が可能になったことである。基本的な生活資材にも事欠く、窮乏状態に国民を追い詰めておいて、ナントカ記念日には、普段手に入らない、ちょっとした贅沢品を支給し、派手なイヴェントを開催する。このように恩に着せながら、日常の煩いを忘れさせ、昂揚した感情に酔わせてやるのである。
 あるいは国家への奉仕と貢献を動機づけるため、「きめ細かい」報償システムを作って、思いがけないほど法外な褒美を与える。
 こうして国内には、将軍様への感謝の言葉が満ち溢れることになるわけである。

 日本のテレビ局はそういう光景を映し、私たちに〈わざとらしいヤラセ〉と印象づけようとしているようだが、私は必ずしもそうは思わない。あの陶酔的な感謝の言葉は、むしろ自発的に口を衝いて出たものと見るべきだろう。
 
〇教師の困惑
 考えてみれば、独裁者やその取巻き、政府機関の上層部にいる人間にとって、これほど旨みのある、オイシイ国家はまたとないだろう。
 こういうカラクリを教えたのは、北京政府やロシアだったかもしれず、もしそうだとすれば、北京政府が北朝鮮の頑なさに困惑しながら、しかし他方、国連の安保理では拒否権発動をちらつかせて、北朝鮮を庇わなければならなかった「苦渋」がよく分かる。独走し始めた教え子の手綱かけに失敗し、朝鮮の現体制を崩壊させてしまえば、明日は我が身、自分たちのオイシイ国家にも累が及んで来かねないからである。
 
 以上、『東亜日報』に触発された感想は、まだ書きたい点もあるが、だいぶ長くなったので、ここで一たん中断し、近日中に再開したい。(2006/7/18)
 

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マス・メディアの見え方(3)

三文シナリオと大根役者
〇倒錯した魂胆
 今日は午後から天気が崩れるらしい。午前中は庭に出ておこう。そのつもりで仕度をし、居間に行くと、みのもんたの「朝ズバッ!!」が北朝鮮ミサイル問題を取り上げている。日本のテレビ局は、よほどマゾイストが好きらしいな。

 アナウンサーによれば、「北京政府とロシアが、日米の制裁決議案の対案として、制裁条項抜きの非難決議を提案したところ、フランスとイギリスが賛意を表明し、アメリカも歩み寄りの姿勢を見せ始めた。気がついてみると、日本だけが孤立」。
 そう言えば、先日も別なテレビ局のコメンテーターが、「日本は蚊帳の外」みたいなことを言っていた。この人たちは、何かにつけて日本を「孤立」させ、「蚊帳の外」に置きたがる。不思議な習性だ。

 そこで、みのもんたが、あの形容不可能な顔をことさら歪めながら、国会議員らしい男のゲストに、〈北朝鮮が日本に向けてミサイルを発射した場合、日本には有効に反撃できない様々な制約がある〉ことを確かめ、軍事攻撃に弱い日本の現状を大仰に強調する。
 次に、女のコメンテーターが、まるで示し合わせておいたように、「ですから、北朝鮮が暴発しないように、そこは何とか……ね」と、変にしなしなと相手を宥める手つきをしながら、話を締め括る。

 かくして、〈本題はこれにて一件落着ぅ~〉というわけだが、この番組に限らず、民放の司会やコメンテーターに聞いてみたい。「北朝鮮て、そんなに分からず屋の乱暴者なのか?」。
 何を考えているのか分からない。理屈が通らない。下手に刺激すると、暴発しかねない。だから、「障らぬ神に祟りなし」で行こう。なにしろ日本は国際的に「孤立」しているのだから、北朝鮮が暴れたらお手上げだ。
 彼らが好んで口にする、この種の「良識」は、じつは北朝鮮に対する傲慢な蔑視を隠し持っているのだが、私が不快なのはそれだけではない。北朝鮮のどぎつい軍事的示威行為を、理屈の通らない乱暴者の我儘に見立てる。要するにこれは、北朝鮮のやり方を容認するためのレトリックなのではないか。
 このレトリックで、相手とサド・マゾ関係をずるずると続けて行こうという、その倒錯した魂胆が、何ともおぞましい。

〇団地の新聞事情
 そんなこともあり、今日は新聞を読んでみようと、近くのコンビニで北海道新聞と毎日新聞、朝日新聞、日本経済新聞を買ってきた。
 読売新聞と産経新聞を買わないのは、別に意図があってのことではない。コンビニに置いていなかったのである。

 だいぶ前のことだが、つくづく朝日新聞が嫌になって、今度は読売新聞を読んでみようと思つた。朝日の前は、毎日新聞を取っていたのだが、セールスマンが不快だったので、止めてしまった。更にそれ以前は北海道新聞だったが、学芸部の不誠実に腹を立てて止めてしまった。
 そんな次第で、今度は読売を、と考えたのだが、団地の新聞配達を仕切っている取次店が読売を扱っていない。それじゃあ産経新聞を、と思つたのだが、産経も扱っていない。仕方なく日本経済新聞を取ったのだが、あまりつまらないので、数ヶ月で止め、〈もう新聞を取るのは止めよう〉ということになった。
 高校野球が始まると、春の選抜大会は毎日を、夏の選手権大会は朝日を買いに行く。

 駅のキオスクまで行けば、読売も置いているはずだが、まあ今日のところは先の4紙で間に合わせて置こう。

〇「脅威」をめぐって
 一通り読んでみて、特に教えられる点はなかったが、一つだけ、ああそうだったのかと、自分の迂闊さに気づいたことがある。
 それは北京政府とロシアが提出した「制裁抜き非難決議」案の意図に関することで、前回書いたように、私はその意図を、北朝鮮に恩を売っておくための提案と見ていた。だが、それだけでなく、北京政府とロシアが〈自分たちがやってきた/これからもやるだろう〉ことの免罪符を得ておく意図を含んでいたのである。

 これは「国際連合憲章」の第7章にかかわることなので、念のため毎日新聞の記事を借りて紹介するならば、その内容は次のようになっている。
《引用》
 
平和に対する脅威、平和の破壊または侵略行為の存在を決定し、国際の平和および安全を維持または回復するため、勧告をし、または第41条および第42条に従っていかなる措置を取るか決定する。
 

 この紹介だけでは、何だか抽象的で、一向に要領を得ないかもしれないが、「脅威」をキーワードとして、毎日新聞が整理した「日米案」を見てみよう。「
北朝鮮が核兵器保有を宣言していることを考慮すれば、今回も将来もミサイル発射は国際的な平和と安全への脅威だ」と、北朝鮮の行為を「脅威」として認識している。
 ところが「中露案」は、「
地域の平和と安定に否定的な影響を与えたこと、ミサイル再発射示唆に懸念表明」となっており、「脅威」とは認識していない。
 つまり日本とアメリカは、北朝鮮の行為を「国連憲章」第7章の適用範囲に入ると見ているのに対して、北京政府とロシアは第7章に該当しないと見たのである。

 では、この認識の違いに、どんな政治的な意図が含まれているのか。先に紹介した第7章の「第41条および第42条に従っていかなる措置を取るか決定する」という文言に出てくる、第41条は「経済関係の中断を含む非軍事的措置を加盟国に要請することができる」と規定し、第42条は、それでも不十分な場合は「軍事的行動を認めている」(毎日新聞)。
 もっと簡略に言えば
、「(第41条は)禁輸などの経済制裁、運輸・通信手段の断絶、外交関係の断絶などが可能と規定する。(第42条は)非軍事的措置だけでは十分に対応できない場合、軍事行動に移ることもできるとしている」のである(日本経済新聞)。

 引用が重なって、かえって分かりにくかったかもしれないが、私が重要視したいのは、「非軍事的措置を加盟国に要請することができる」という点である。
 今回の場合で言えば、日本とアメリカの「制裁決議」案が採択されるならば、北朝鮮に対する「
禁輸などの経済制裁、運輸・通信手段の断絶、外交関係の断絶などが可能」となる。それだけでなく、北京政府やロシアに対しても同じく「断絶」などの措置を取るよう「要請することができる」。
 いや、これもまわりくどい。再び端的に言えば、北京政府やロシアは常任理事国の一員である以上、いったん「制裁決議」案が採択されるならば、いわば他の国連加盟国に先立って、「
禁輸などの経済制裁、運輸・通信手段の断絶、外交関係の断絶」などの措置を、率先して実行せねばならないのである。

 北京政府とロシアが「脅威」認識を拒むのは、こういう事態に陥ることを何としてでも避けたいためであろう。
 
 再び毎日新聞の整理によるならば、「制裁の根拠になる国連憲章第7章」に関して、「日米案」は「
第7章に基づき、ミサイル発射を非難」を提案している。だが、「中露案」は「(第7章には)言及なし」。つまり北京政府とロシアは、第7章に拘束される羽目に陥りたくないのである。
  
 そんなわけで、「加盟国に求める行動」に関する「日米案」は、「
ミサイル、大量破壊兵器開発につながる技術・物資・資金などの移転禁止」であるが、それに対して「中露案」は、「ミサイル開発に役立つ物資、技術移転防止のために全加盟国に警戒を要請」となっている。要するに拘束力のない「要請」にとどめておきたいわけだが、ついでに「日米案」にあった「大量破壊兵器」と「資金」の文言も抜け目なく削っている。
 そこが何ともいじましい。

〇ロシアの三百代言
 このような対立点を、朝日新聞は次のように整理している。
《引用》
 
大島賢三国連大使は安保理の協議で、北朝鮮の核兵器開発にふれながら、日本などの近隣地域だけでなく、国際社会全体の脅威という認識を共有するよう呼びかけた。英仏両国も「大量破壊兵器の拡散防止のために不可欠」(ドラサブリエール仏国連大使)と譲
れない一線と認めており、足並みをそろえている。

 
これに対して中国の王光亜国連大使は「地域の平和と安定に否定的な影響」という文言なら受け入れるとし、ロシアのチュルキン国連大使も「ミサイル発射は国際法違反ではない」と反論する。

 ロシアの言い方だと、まるで北朝鮮は自国内でミサイル発射実験をやったように聞える。しかし北朝鮮は、ロシアの領海のすぐ近くの公海に、そこを通る船舶には予告なしに、7発もミサイルを落としたのである。
 すると、あれかな、ロシアの理屈では、隣の住人が我が家の庭に危険物を放り込んだら、これに対しては非難し、抗議してもいい。だが、我が家のすぐ近くの道路に危険物を放り出しても、これは法律違反でない。だから、せいぜい「こんなことを続けると、お互いの関係に否定的な影響が生じますよ」と、懸念の意を表するにとどめるべきだ。そういうことになりそうだな。

 もしあの時、一発でもロシアの船舶に当り、人命の被害を出していたら、それでもロシアはこんな脳天気を言っていられるだろうか。そう考えてみれば分かるように、ロシアは北朝鮮がやったこと自体から目を逸らそうとし、また、国際社会の目を逸らさせようとしている。幸い被害を出さなかった偶然を一般化して、屁理屈を捏ね上げているにすぎないのである。

〇どこが「非難決議」なのか
 同じく朝日新聞の社説「安保理決議 一本化をめざす時だ」によれば、
《引用》
  
いま国際社会がなすべきは、違いを強調することではないはずだ。
  中ロ両国は歴史的に北朝鮮と親密な関係をもつ。とくに中国はいまも石油や食料などを支援している。その友好国を名指しする非難決議を自らつくったことの意味は大きい。それだけ今回のミサイル発射を深刻に受け止めていることの表れだろう。
  この認識こそが、安保理メンバー国を結束させる土台である。北朝鮮にミサイルを二度と発射させず、6者協議への即時復帰を求める。この点でも二つの決議案に大きな開きはない。日本をはじめ関係国は両決議案を一本化する努力を強めるべきだ。

 しかし、いま引用していて、ふと気がついたのだが、「中ロ案」は果して北朝鮮を非難しているだろうか。マス・メディアがこぞって「非難決議」「非難決議」と言っているため、つい私もそういう言い方をしてきたのだが、新聞に紹介されたかぎりで言えば、「懸念表明決議」と呼しかないような、骨抜き案に過ぎない。
 また、新聞を見るかぎりでいえば、北京政府は、朝日が言う「
とくに中国はいまも石油や食料などを支援している」という関係を止めるとは言っていない。「その友好国を名指しする非難決議を自らつくったことの意味は大きい」などと、朝日の社説は安っぽい浪花節を語っているが、あの「懸念表明決議」案はむしろこの関係を持続させるために作ったものと見るべきだろう。

〇落しどころ
 さて、最後に、はああと思い当たったことを一つ挙げておきたい。毎日新聞の社説「中露決議 実効ある行動が問われる」にこんな一節があった。
《引用》
 
北朝鮮のミサイル発射で最も脅威を受けるのは日本である。加えて、国連の甘い対応が北朝鮮を増長させてきたという指摘も過去の経緯を見れば否定できない。当たり障りのない表現で北朝鮮に誤ったメッセージを送ってはいけないという主張は当然だ。
  だが、安保理議長国のフランスが中露案を評価しているのに加え、米国の国連大使も「重要な一歩だ」としている。安保理内では日米などの案と中露案の妥協点を探る修正論議が活発化する見通しだという。そんな中で日中の対立だけがクローズアップされると、「日本は制裁を自己目的化しているのでは」などと受け取られる。日本にとって得策ではない。

なるほどみのもんたの今朝の番組は、この線に沿ってシナリオが出来ていたわけだ。
なんか一種のヤラセっぽさが感じられたのも、このせいだったのだな。しょうがない大根役者たちだ。

 私自身も、リアリズムで考えれば、実際の交渉はこの社説が素描した方向で進み、「脅威」認識をめぐるせめぎあいになるだろう。妥協点は多分、日本とアメリカは第7章への言及を譲歩して、「脅威」の文言を決議に盛り込ませる形となる。
 ただ、もしこれが芝居ならば、日本の代表が次のような見栄を切る場面があっても悪くあるまい。〈子供の使いじゃあるまいし、北朝鮮から「6カ国協議への即時復帰」や「核ミサイル発射凍結の再確認」の確約も取れずに、のこのこ帰ってきて、代案の提出とはおこがましい。順序が逆かしまだョ。顔を洗って出直してお出で〉。
 

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マス・メディアの見え方(2)

国連というピッチ
〇北京政府の手詰まり
 相変わらず私は、北朝鮮のミサイル発射問題については、新聞が何を言っているか、知りたい気にもなれないのだが、一昨日(7月11日)、健康診断のため、近所の病院へ行ったところ、待合室にスポーツ紙が一紙置いてあった。しかし、サッカーW杯の決勝戦におけるジダンの頭突き問題が紙面の大半を占め、国際問題の記事はほとんどなかった。案外これが、日本の人の正直な関心なのかもしれない。

 私の関心もそれと大差ないわけだが、今日(13日)の午後7時までの時点で言えば、中華人民共和国の北京政府は手詰まりになっているらしい。
 日本とアメリカが国連の安保理に制裁決議を提案し、10日(NY時間)に採決されるはずだった。が、拒否権を持つ北京政府とロシアが難色を示し、北京政府が説得を名目に武大偉外務次官を北朝鮮に派遣したため、安保理は採決を延期した。
 しかし、それから3日経った今日になっても、武大偉の説得が功を奏した気配は全くない。北京に入っていたアメリカのヒル国務次官補がインターヴュに答えたところによれば、「北朝鮮が6カ国協議に復帰する兆しはない」。
つまり国際社会が誇大に評価し、北京政府もそう見せかけていた、北京政府の北朝鮮に対する「影響力」は、その実態を疑われても仕方がない結果になってしまったのである。

 多分その非力さを取り繕うため、北京政府はロシアと共同して、制裁条項を含まない決議案を提案することにした。北京政府は以前から、〈厳しい姿勢で臨んでも、北朝鮮の態度を硬化させるだけだ〉と制裁決議に難色を示し、「議長声明」案を提唱していた。今回も同じ理由で「制裁なし決議」案を持ち出して、日本やアメリカの提唱する「制裁決議」を骨抜きにしようとしたのだろう。が、実はこういう形で北朝鮮に恩を売らねばならないほど、北朝鮮に追いつめられているのである。

 議長を務めるフランスの国連大使は「議長声明」案に色気を見せ、〈まず「議長声明」を。それで効果がなければ、「制裁決議」を〉という二段階方式を案出していたらしい。
しかし、誰がどういう根拠に基づいて「効果なし」と判断するか。その条件が盛り込まれないならば、事態は有耶無耶のうちに先送りされる結果に終わりかねない。フランスの狙いがそこにあったとすれば、北京政府の「制裁なし決議」案は、フランスにとっては渡りに船だろう。
 何だか三流高校の職員会議みたいになってきたな。
 フランスがせせり出てくると、大抵がそうなってしまう。
 
〇北京政府の失うもの。
 サッカーのW杯で、日本は1敗1分、さあ残るブラジル戦を、どう戦うか。それがホットな話題となった時、テレビのニュース・キャスターやコメンテーターも、日本の選手も口を揃えて、「もうここまで来れば、失うものはなにもない。思い切ってぶつかるだけだ」。
 〈当って砕けろ!! 負けてもともとだ〉と言いたいところを、こんなふうに取り繕ったのだろうが、「それじゃあ、初戦のオーストラリア戦はまだ何か〈失うもの〉を持っていたワケ?」。そういう皮肉が、思わず出そうになった。
 自分たちを代表する選手に、こんな空元気な戦いをしてもらいたくなかったからである。

 だが、それはそれとして、北朝鮮との関係で言えば、仮に北朝鮮が態度を硬化させたとしても、日本が失うものはほとんどない。アメリカも同様だと思う。逆に北京政府の失うものは、極めて大きいだろう。
 既に北京政府の「影響力」は〈どうやら虚像らしい〉弱みを曝露してしまったが、北京政府は北朝鮮に多くの権利、権益を持っている。それをちらつかせて強圧をかけようとすれば、北朝鮮はロシアとの同盟関係を選択しかねない。
 ロシアはウラジボストクの近海にミサイルを落とされ、一応ムッとして見せたが、北京政府の「制裁=態度硬化」論に同調してきた。北朝鮮に対する影響力を、北京政府に独占させるわけにはゆかないからである。
 そういうせめぎ合いの下、北京政府は北朝鮮に恩を売って、自分の優位性を確保したいのだろう。
 
 それだけでなく、万が一北朝鮮の共産党独裁政権が崩壊することになれば、北京政府は受けるダメージは計り知れないほど大きい。自分の「影響」下にあった(はずの)北朝鮮の共産党独裁政権を失う。これは、北京政府という共産党独裁政権が、東アジアで孤立してしまうことを意味する。
  もしそうなれば、中華人民共和国のなかに封じ込めていた「辺境」少数民族に対する支配力や、カンシー・チワン(広西壮)族自治区や、チベット(西蔵)自治区、シンチャン・ウィグル(新疆維吾爾)自治区、ニンシア・ホイ(寧夏回)族自治区、内モンゴル(内蒙古)自治区などの「自治区」に対する影響力の低下を惹き起こしかねない。
東ドイツの崩壊に連動してソ連邦の崩壊が起った。それと同じ事態が起らないとも限らないのである。

〇国連というピッチ
 中華人民共和国が崩壊して、幾つかの独立国に別れたとしよう。もしそうなれば、たとえ北京を中心に共産党独裁政権の国が存在したとしても、その国が国連で常任理事国であり得る正統性が揺らいでしまう。
 アメリカが言う「太平洋戦争」において連合国を構成していた中華民国は、現在も台湾を拠点に存続している。国連において中華民国が持っていた位置が、ある時点で中華人民共和国に移ったわけだが、この間の政治的駆け引きは、ここでは省略する。ただ一つ言えることは、もし先のような事態が中国大陸で起ったならば、国連の常任理事国という地位の根拠が問われることになるだろう、ということである。それと共に、中国大陸および台湾における20世紀の歴史の全面的な書き換えが始まるだろう。
 それは、現在の中華民国共和国政府が「反日」を口にする根拠も問い直されることにほかならない。
その意味で中華人民共和国の北京政府は現在、外交上の正念場に立たされている。

  これからまだ暫く、日本と北京政府は、国連というピッチに立つことになるわけだが、それは「失うものはない」日本と、「失うわけにはいかない」北京政府との角逐となるはずである。

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マス・メディアの見え方

マス・メディアの見え方

間抜けな代弁者たち
 私は現在このブログに「「美術」の見え方」を書いている。更に3、4回は続けるつもりなのだが、その間、北朝鮮のミサイル発射騒ぎがあり、気になる点があるので、書いておきたい。

〇迎撃態勢の不備は致命的か
 昨日(7月8日)の夜、フランスで制作されたドキュメント映画「皇帝ペンギン」(2005年)を観た。「映像は綺麗だった。メスから卵を託されたオスが、密集隊形で猛吹雪に耐えている姿は、胸打たれるものがあったけれど、必要以上にホームドラマ化しているネ」。そんな感想を言いながら、チャンネルを変えたところ、福留功男が司会するTBSの「ブロードキャスター」が、北朝鮮のミサイル発射問題を取り上げていた。
 
 「もし北朝鮮が日本に向けてミサイルを射ったとしても、日本はそれを迎撃して撃ち落す、防衛システムを持っていない」。額賀防衛庁長官がある番組で、こんな意味の発言をしたらしい。それを紹介して、福留もコメンテーターも、日本が「丸腰」であることに大袈裟に驚き、慨嘆し、不安がってみせる。その上で、「日本に可能な方策は、外交努力による解決しかない」みたいな結論に、議論を持っていった。
 
 何だか理屈の立て方がおかしい。仮に日本が完ぺきな迎撃システムを備えていたとしても、外交努力によって事態の打開を図るのは当然のことではないか。
 
 要するに、迎撃システムの有無は、打開策を考える絶対的な拘束条件ではない。そう私は感じたわけだが、同じことは全く逆な面からも言える。
たとえ迎撃システムを備えたとしても、現段階では、もし北朝鮮が予告なしにミサイを発射したとすれば、それに100%対応することは技術的に難しいだろう。だが、第二波、第三波の攻撃には十分に対応できる。普通に頭の働く政治家や軍事専門家ならば、当然そういう「見切り」をもって迎撃態勢を整えるはずだ。
 それと同時に、普通に頭の働く政治家や軍事専門家ならば、相手に10倍するミサイルを発射できる「防衛体制」を整えておく。監視装置が相手のミサイル発射を察知し、コンピューターが(初速や角度から判断して)日本を標的にしていることを読みとるまで、たぶん2、3分を要すると思うが、読み取ったら直ちにミサイル発射のスタンバイを出す。そして、相手のミサイルが1発でも日本の領土・領海内に落ちたら、即座に10倍以上のミサイルを発射する。
 
 福留やTBSのコメンテーターたちは、せめてその程度のリアリズムを持った上で、現実的な議論をやってもらいたい。

〇対話と圧力は二律背反か
 もう一つ気になったのは、この番組の後半、議論が、〈感情には「もっと北朝鮮に圧力をかけろ」という気持ちも分かりますが、ここは冷静に対応し、話し合いで解決する道を探るべきでしょうね〉みたいな方向に進んでいったことである。

 いかにも良識に適った意見のようだが、こういう意見が成り立つ前提には、対話=冷静、圧力論=感情的という図式がなければならない。福留やコメンテーターたちは暗黙のうちにその図式を前提とし、しかも「対話と圧力」を「対話か圧力か」の問題にすり替えていた。

 小泉純一郎は終始一貫「対話と圧力」と言って、「外交」とは言っていない。言うまでもなく日本と北朝鮮とは国交の条約を結んでいないからだが、もちろん国交さえ結んでいれば、圧力なしの対話が可能だなんて、そんな甘い話はあり得ない。だが、視点を変えて言えば、国交のない国との交渉の場合、国力の違いを背景にした対話となりがちなことは、これは避け難いところだろう。
 対話と圧力は、二者択一の選択肢ではなく、むしろ表裏一体なのである。

 北朝鮮が軍事力を誇示するならば、日本は圧倒的に優勢な経済力を背景に対抗処置を取り、6カ国協議という「対話」の場に出るよう圧力をかける。それは対話の否定ではなく、対話の一つの方法と言うべきだが、小泉は「対話と圧力」を掲げながら、圧力をかけることに優柔不断で、ただの空念仏にしてしまった。結局それは、彼が対話に消極的だった証拠にほかならない。そう評されても仕方がないところだろう

〇北朝鮮の自発的代弁者
 7月5日、私は朝、北朝鮮がミサイルを発射し、その一発はテポドンらしい、というニュースを知った。だが、それ以上詳しく知る間もなく、6時40分に家を出て、小樽に向った。
いつもより1時間ほど早く家を出たわけだが、それは、小樽の市民と室蘭の「港の文学館」を訪問し、文学スポットを見学する予定があったからで、私たちは9時15分に出発して、11時45分ころ「港の文学館」に着いた。
 まず昼食を取り、それから文学館を見学し、八木義徳の文学碑などを廻って、3時ころ室蘭を発ち、5時半に小樽の文学館にもどった。私は行きも帰りも、バスのなかで、1時間ずつ、今日の見学に関連する、文学的なことを話した。
 小樽の文学館で一息つき、6時半ころの電車に乗って、8時過ぎに帰宅した。
妻が、北朝鮮は計7発のミサイルを発射したと教えてくれた。しかし私はテレビを見る気も起らないほど、疲れていた。

 翌日(6日)は、身体の節々が痛かった。なるほど「骨身にこたえる」とはこういうことだったのか。私は大学を卒業して以来、69歳の現在まで、一度も病院のベッドに寝たことがない。成人病の薬も飲んでいない。自分の健康には安心していたのだが、やはり年齢には勝てない。こんなに疲れるとは思わなかった。
 朝食後、身体を休めるため布団に入って本を読み始めたが、たちまち眠ってしまった。昼食を取り、また同じように眠ってしまった。夜はある程度、読書が捗った。

 更にその翌日(7日)も、まだ身体が重い。こういう話題性の大きい事件が起きた時は、近くのコンビニまで新聞を買いに出るのだが、それも億劫なほど疲れが残っている。午後はソファに横になって本を読みながら、うたた寝をし、妻に注意されて布団に入った。
そして水曜日の昨日(8日)は、いつものように小樽へ出、帰りは札幌で妻と娘と落ち合って、ハーブの苗を買い、沖縄料理を食べて、8時ころ帰宅した。

 そんなわけで、今回の北朝鮮のミサイル騒ぎに関しては新聞を読まず、テレビも断片的にしか見ていない。その意味では、たぶん最も情報の乏しい立場にいるわけだが、かえってそのためだろう、テレビがこの問題を取り上げるパターンが見えてきた。
 ここに登場するキャスターやコメンテーターは、まず北朝鮮の非常識や無法な行為を大袈裟に憤慨してみせながら、北朝鮮の意図について甲論乙駁し、次には、日本政府の対応に対する論評に移って、防衛体制の遅れをあげつらい、日本の軍事的なひ弱さを強調して、不安感を掻き立てる。そして最後、次のような結論に持ってゆく。「北朝鮮は何を考えているか分からない、常識の通じない国だ。ところが日本は、ミサイル攻撃に対しては裸も同然。日米安保条約はあるけれど、アメリカが身体を張って日本を守ってくれる保障はない。こんなに危ない状態なのだから、北朝鮮がもっと強硬な態度に出ることがないよう、経済制裁などの刺激的な処置はなるべく先送りにしましょう」。
 こういう結論を日本人自身に、自発的に引き出させること。ひょっとしたらそれが北朝鮮の狙いなのかもしれない。もしそうならば、彼らは北朝鮮の思う壺にはまった、間抜けな代弁者を演じていることになる。
 この点では、渡辺宜嗣が司会する、テレビ朝日の「スーパーモーニング」も変りはない。

 今朝(9日)は、関口宏の「サンデーモーニング」を見た。いつもは大沢親分と張本さんが登場する時間を見計らって、この番組を見ることにしているのだが、今日は念のため番組の初めから見た。だが、関口宏とコメンテーターも同じことだった。

(以上は7月9日に書いたのだが、中田が引退を表明して以来、ブログの書き込みが殺到しているらしく、なかなか自分の「記事作成」まで辿り着けない。掲載は10日以後になるだろう)

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「芸術」の見え方(2)

困った美術館長さん
〇和田義彦の賛美者たち
 待てば海路の日和あり。意外にも早く、私は和田義彦の二種類の図録を手にする幸運に恵まれた。『―煌く刻―和田義彦展』(損保ジャパン東郷青児美術館、2002年)と、『ドラマとポエジーの画家 和田義彦展』(読売新聞社、2005年)である。「煌く刻」は「きらめくとき」と読む。

 前者の掲載「作品」は76点(挿絵原画は除く)、後者は74点(同前)。ただし、35点ほど重複している。ばかりでなく、前者の「悪徳の囁き(制作途中)」が、後者では完成した形になっており、この二つを重複と見るか、別な「作品」と見るか。その点にこだわり出すと、数え方が難しくなってしまうが、ともあれ実質的には110点を越える「作品」を、写真で見たことになる。和田義彦の「作品」を論ずる上で、少なすぎることはないだろう。

 それらが私にどう見えたか。私は絵画に関しては全くの素人なので、これからゆっくりと時間をかけて、とつおいつ勉強しながら分析と考察を進めたいと思うが、まず前回書いたことに関連して言えば、私の予想は的中した。
 『煌く刻』には、米倉守(美術評論家、多摩美術大学教授、松本市美術館長)が「果てしなき自叙伝――空虚が張り詰まっている。――」を書き、森村誠一(小説家)が「和田義彦作品によせて――運命の窓」を寄せている。
 『ドラマとポエジーの画家』には、加藤貞雄(茨城県近代美術館長)が「和田義彦の絵」を寄せ、毛利伊知郎(三重県立美術館学芸員)が「ドラマとポエジーの世界」を書き、舟木力英(茨城県近代美術館つくば分館長)が「和田義彦の芸術――主題とモティーフ」を書いているが、いずれも内容の7割以上が眉唾ものだった。米倉守の文章に至っては、無責任なヨタと言うほかはない。
 なぜそう言えるのか。彼らが和田の「盗作」を見抜けなかったと言うだけでなく、仮にこの2冊の図録に紹介された「作品」が全て和田の創作だったとしても、彼らの分析と評価は出鱈目と言うほかはない。和田の絵をまともに見ていないのである。

〇舟木力英の和田義彦評
 一例を挙げてみよう。舟木力英はこんなふうに和田の「画業」を説き起こしている。引用は少し長い。
《引用》
  
和田義彦は、1940(昭和15)年、三重県に生れた。父・義郎は神官で、画家はその長男である。系譜をたどると鎌倉幕府の侍所別当・和田義盛まで行き着くそうである。子供の頃から神社の森の中で過していた氏は、その「古木のうねりをふしぎな感覚で眺めていた」という記憶を大切にしている。神社の森は、少年の感受性に「深遠なる」ものと映り、「無限に広がる宇宙空間」が、身体的・感覚的にありありと感じられることがあった。
  和田少年にとって、もとよりそれは日常に近い空間であった。だが、それを見慣れた平凡なものとしてしまうのではなく、神社の森に囲まれた身近な空間がふと特殊なものと意識され、いわばそれが〈異化〉されたような体験をもったことは興味深い。
  近年の和田作品には、必ずしも氏の代表作ではないが、こうした少年時代の体験が、作品の原型的なイメージになっていると思われる一連の作品がある。《庭の中》(1990)《何処に》(1991、cat.no1―14)《旅人》(1991、cat.no1―15)《森の中に》(2001)などである。いずれも背広を着た男が孤独な佇まいで庭園や郊外の森の中(時には街の中)に俯瞰されている構図の作品である。

 和田義盛を先祖に持つというのは、これは大変に結構なことで、そう言えば北大の同僚だった和田謹吾も、和田義盛の直系の子孫と称していた。そういう結構な家系の人が、おそらく樹齢何百年という、鬱蒼たる神域の森に囲まれて育った、という。毛利伊知郎も「生まれ育った神社の深い森は、無限に広がる宇宙感覚として幼少期の和田の目に写っていた」(「ドラマとポエジーの世界」)と、判で押したように同じことを強調している。

 だが、毛利伊知郎によれば、「しかし、三重県での生活はさほど長くはなかった。和田家はその後現在の中国東北部(旧満州)に移住、終戦後引き揚げてからは愛知県名古屋市に居を構えることとなった。1959年に愛知県立旭丘高校美術科を卒業した和田は、現役合格できなかったら父の跡を継いで神職に就くという約束で東京芸術大学油画科を受験、見事に現役合格を果すことになる」(同前)。
 芸大現役合格というのは、これもまた大変に結構な話であるが、ちょっと分りにくいところがある。和田義彦は1940年4月の生れだから、1959年には19歳でなければならない。何かの事情で1学年遅れたらしい。満州からの引き揚げに手間取ったのだろうか。一瞬そう考えたのだが、しかし敗戦の時、和田はまだ5歳であって、就学年齢に達していなかった。
 ただし、私の本当の疑問はそこにはない。いつ和田の一家が満州へ移ったのか分らないが、仮に1944年とすれば、和田は4歳でしかなかった。とするならば、まだ3、4歳の子供が、自分の生活空間たる神社の森を「無限に広がる宇宙感覚」として感受し、それを記憶にとどめていたことになる。舟木によれば、それは「日常の〈異化〉」だったわけだが、そういうことがあるだろうか。
どうも腑に落ちない。何だか嘘くさい。

〇説明と「作品」とのギャップ
 いや、一般論として言えば、3、4歳の時に見た光景を長く忘れずにいることは、決してあり得ないことではない。では、その光景を、日常見慣れたものの「異化」(estrangement/alienation)として知覚し、且つそのようなものとして言語化できていたかどうか。百歩譲って、それもあり得るとしよう。しかし、そこに和田の「
神話的・原型的イメージ」(舟木)を想定し、和田の「作品」と結びつける解釈は、どう見ても嘘くさい。先に引用した文章のなかで、舟木はこんなことを言っていた。

 《庭の中》(1990)《何処に》(1991、cat.no1―14)《旅人》(1991、cat.no1―15)《森の中に》(2001)などである。いずれも背広を着た男が孤独な佇まいで庭園や郊外の森の中(時には街の中)に俯瞰されている構図の作品である。

 確かに「何処に」では、高い洋風の建物が左側に描かれ、中央から右側にかけて、形象定かではないが、たぶん建物を取巻く樹々が配され、その下方の小さな空地の隅に――画面全体の構図から言えば、中央の下方に、――髪を丁寧に撫でつけた、スーツ姿の男が立っている。ただしそれを描く画家の視点は、男よりもやや上方の、斜め後方に置かれていた。そのため男の表情は見えない。
 時刻は分らないが、建物全体を占めるガラス窓は黄色に塗られて、屋内の照明を暗示する。それに接する屋外は濃いブルーに塗りこめられて、闇を暗示している。この男に「孤独」を感ずるのは舟木の自由であるが、この洋風の庭園の情景に、日本の神社の森に囲まれて育った和田の「少年時代の体験」を感知する。またはその体験に基づく「作品の原型的なイメージ」を発見する。これはとうてい無理であろう。

 「旅人」の場合、そのギャップはもっと甚だしい。横向きに描かれた、スーツ姿の男が、両手に一つずつトランクを提げて歩いてゆくわけだが、それ以外は赤一色に塗りこめられ、具象性は極度に無視されている。
 ただ、赤一色のなかに何本かの黒い直線と曲線が走り、男の背後、つまり画面の左寄りの中ほどに、人の顔と判じられる白い色が置かれ、多分これは男とすれ違った女の映像なのだろう。しかも、男の右手、つまり男がこれから通ってゆく方向のドアらしい輪郭のなかに、大きくUSOという文字が浮いて見える。
 どう考えてもこれは街の中の光景なのである。
 USOは「嘘」と読むことができる。私が「どうも嘘くさい」と感じたのは、この印象があったためかもしれない。和田さん、あなたもけっこう悪戯が好きなんですね。呵々。が、それはともあれ、男を中心化して見るかぎり、「庭の中」と「旅人」とは連作と考えることができ、そうである以上、舟木は「こうした少年時代の体験が、作品の原型的なイメージとなっていると思われる」などという牽強付会は止めて、別な解釈を試みるべきであった。

〇姑息な取り繕い
 もっとも、舟木は私のような批判が出ることを予感していたのだろう。「背広を着た男が孤独な佇まいで庭園や郊外の森の中(時には街の中)に」と、さりげなく( )内に「時には街の中」という補足を挿入している。
 しかし、舟木がかかわった『ドラマとポエジーの画家 和田義彦展』で、実際に展示したのは「庭の中」と「旅人」の2作品だった。当然のことながら、舟木はこの2作品を中心に解説をすべきだったが、森とも庭園とも関係のない「旅人」については、いかにも言い訳めいた形で「(時には街の中)に」と取り繕っておく。これは学芸員としての不見識というだけでなく、不誠実の謗りを免れないだろう。

 では、舟木が2作品の前後、補足的に名前を挙げていた「庭の中」と「森の中に」はどうであったろうか。この二つの「作品」――「森の中に」はⅠとⅡがあり、だから実際には三つの「作品」――は、『―煌く刻―和田義彦展』の図録で見ることができるが、いずれもスーツ姿の男が一人、後ろ手に手を組んで、木立のなかに立っている。
 「庭の中」の男は、小さな空地めいた場所の隅に立っており、それを斜め前方の、高い位置から、見下ろすように描いている。これは、「何処へ」の男を別な角度から描いた、連作の一つだったのかもしれない。いずれにせよ、この三つは「何処へ」と同工異曲であって、どういう点を指して「原型的イメージ」と呼ぶのか、さっぱり見当がつかない。まして、日常の「異化」など、どもにも見出せないのである。

〇和田義彦の「景」
 私の疑問は、こういうことでもある。
 図録『ドラマとポエジーの画家』には、「何処へ」や「旅人」の他に、「森」(1994年)や「庭」(2001年)、「気」(2002年)などのテンペラ画がある。「風景」という、同じ題のドローイングも2点ある。
 なぜ舟木が言及しなかったのか、その理由は分らないが、これらの絵から判断するに、和田は屋外の「景」を描く場合、遠近法や奥行き感には無頓着だった。というより、むしろ三次元世界を二次元化し、平面化してしまう志向を持ち、多分そのためだろう、人物はシルエット化され、彼を取巻く木立は、混濁性の強い青、緑、黄で大雑把に塗りわけられるだけだった。
 その構図も配色もありふれたものでしかない。彼が好んで描くカフェやレストランなどに比べても余りに稚拙であり、ひょっとして彼は屋外の「景」を描く基本的な技法も身につけていなかったのではないか。そういう疑問さえ湧いてくるほど、明かに技術的な落差が大きいのである。

〇前田真三とゴッホの場合
 もちろん私は遠近法の無視がいけない、などと言ってるわけではない。私は時々前田真三の写真集を開いてみるが、『丘の四季』(1986年)のカヴァーにも使われた、「麦秋鮮烈・美瑛町」の場合、前田は熟れた麦の畑が広々と展開する、なだらかな丘にカメラを向けている。常識的には、その開豁な展望を印象づけるため、ずっと遠くに見える山脈までも視野に収めようとするところだろう。だが前田は、むしろそういう遠近感を否定するかのように、遠い山脈の影が入ってこないアングルから撮っているのである。


 まず眼を惹くのは、画面の中央を横に区切る、鮮明な朱色の帯であるが、多分これは黄色に熟した麦の畑が、初夏の強い陽射しを受けて、朱く火照って見えたのだろう。
 その朱い帯の上には、雲ひとつない濃紺の空が広がり、空高くなるにつれて濃さが増してゆく。逆にその朱帯の下には、新たに作付けした豆類の新芽が、緑の帯となって左右に延び、更にその下を、日蔭で暗さを増した、淡い褐色の枯れ草(たぶん)の帯が占めている。
 その点で、これは4色の横帯で構成された、まことにシンプルな「景」なのであるが、朱色の帯が右へ行くに連れて次第に幅を狭めてゆき、それに代わる形で、暗緑色の帯が右から、細い朱帯の上を、画面の4分の1ほどのところまで延びてきている。この帯は蝦夷松の防風林と思われるが、それがアクセントとなって、画面全体が単調に陥ることを防いでいるのである。
 また、よく眼を凝らしてみると、朱帯の左上にポプラの並木が小さく、実に小さく見えて、小高い麦畑の丘の向こう側に広がっているだろう「景」を想像させてくれる。

 視線を上下に運動させる、縦のラインを使わないで、横の区切りだけで画面を構成する。この大胆な構図を試みたのは、私が知るかぎり、「ひばりのいる麦畑」(1887年)や、「青い空の下の麦畑」(1890)のゴッホが最初だった。
 私はそういう見方をモーリス・メルロ=ポンティに学んだのだが、これは従来の遠近法に対する挑発的な批判と言えるだろう。ではその結果、画面の奥行き感を失ってしまったか、と言えば、決してそうではない。うすい雲のかかった青空の下、まだ鎌の入っていない麦の群生が、既に収穫を終えた畑を挟んで、ほぼ真横から描かれているわけだが、麦は稔った穂の重さで自ずと傾いたのか、それとも風が吹き過ぎていったためか、やや算を乱して左に軽く傾いている。
 ゴッホは、そういう麦畑の麦を一本々々克明に描いて、この麦畑の奥深い厚みを感じさせてくれたのである。

〇舟木力英への希望
 絵と写真の違いはあるが、前田真三はゴッホの流れを汲む実験者であって、私たちの目に衝撃を与え、「景」の知覚を刷新してくれる。このように、知覚の刷新をもたらす意味で、舟木力英は「異化」という言葉を、このように、知覚の刷新をもたらす意味で使ったのだろうか。もしそうだとすれば、舟木は和田の描く「景」、あるいは「景」の描き方そのものに、和田の少年期における「異化」体験の徴や痕跡を見出してはずである。だが、そのことについて、納得できる説明がない。私は前回、sayakaと名乗る人の和田展印象記を取りあげて、「影の実体化」と批判したが、どうやら舟木力英についても、同じ批判を下さなければならないらしい。疎ましいことだ。

 なお、私はこれまで、和田展図録の絵を、和田の「作品」として扱ってきた。ただ、それとは別に一つだけ、例外的に、マッスとしての存在感ある建物や人物を、遠近法的な構図のなかに配置した、「アドリアの海へ」(1982年)という「作品」がある。だが、この「作品」は、アルベルト・スギの作品との類似が指摘されている。また、これまで言及した「作品」のなかで、「何処へ」は、常識的な構図ながら、わずかに立体感への志向を見せている。だが、これもまたスギとの類似が指摘されている「作品」なのである。
 それやこれやを含めて、いま舟木力英は和田義彦の描く「景」をどう評価するか、ぜひ聞いてみたい。
 

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