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芸術の見え方(1)

影の実体化
〇初発の関心
 和田義彦の画集か、そうでなければ、せめて展覧会の図録を見てみたい。そう考えて、大学図書館のHPに当ってみたのだが、あいにく札幌や小樽の大学には入っていない。古書店のHPを検索したが、出物はないらしい。残念だな。

 私が彼の絵に関心を持ったのは、言うまでもなく「盗作」疑惑が起ったからであるが、「盗作」の証拠を見つけるために画集や図録を探したわけではない。前回の「オリジナリティ・ギャグ」で分るように、どのような言説によって彼の作品が「芸術」として意味づけられてきたか。私の関心は、それを明かにすることにある。
その言説が彼の絵とどれだけ具体的に、きちんと対応しているか。それを判断する上でも、彼の絵を見たかったのである。

〇達者な印象記
 私がそう思い立った、もう一つの理由として、こんなことがある。
 先日インターネットを検索していたところ、sayakaというハンドルネームの人の“ArtsLog”というブログに行き当たった。この人は足まめに美術展を見てまわり、印象記も書き馴れているらしい。2005年09月22日の記事を、次のように達者な語り口で始めていた。
《引用》
 
ドラマとポエジーの画家 和田義彦

 最終日(19日)に見に行って来た。

 衝撃的だった。久しぶりに感じる油彩の迫力。普段は眠っている奥の方にある感覚を    呼び覚まされるような、そんな迫力のある画。ぼーつとは見ていられないというか。見ているうちに自分がどんどん興奮してくるのが分かって、アドレナリンが出てきたなー!という感じ。

 2階から見ていく。部屋に入った瞬間に“おおおっ。”と思わず言ってしまうくらいに、力 強い油画が並ぶ。グロテスクな人物像とシュールな画面設定のちょっとホラー的な画に目が釘付けになる。小さな画だけれど、ギョッと鳥肌が立ったのは、「運ぶ」。広い階段で二人の男が裸の女性を運んでいる。運んでいるのは、おそらく死体。静かなトーンの画の中にある衝撃的な場面に突然出くわしてしまったようで、見ている私がなぜかアタフタしてしまう。その他、「花飾り」の女性の力強い目、「或る室内情景」の緑の色、「白い静物」の赤い額縁が印象に残る。

 う~ん、手慣れたもんだなあ……。ある作品との劇的な出会いをパセティックに描いて、その出会いが自分にとって如何に貴重な、意味深い「芸術」体験であったかを語る。このスタイルは、まだ「洋行」や「外遊」が極めて稀で、特権的な経験に思われていた時代、芸術家や文化人が「本場」の「本物」にふれた感激を語る、芸術的/文学的ジェスチャーだった。
 それが一種の様式となり、私は昔、読書感想文コンクールの入選作を読む機会があったが、どれもこれも同じように語り始めている。それが北海道教育委員会の好みであり、また、それを規範とする国語教師の指導方針だったのだろう。

 大学の学生のなかに、セミプロ並みに読書コンクールの賞状や賞品を稼いできた学生がいて、レポートもその調子で書き、卒業論文も同じような書き方をしてきた。〈研究レポートや論文は、それとは別なレベルのことが求められる。レポートや論文の客観性は、そういう体験(記述)に固執することではなくて、むしろそれに対する自己批評よってしか生れない〉。レポート評価の際に、そういうアドヴァイスをしたのだが、不満そうな表情をするだけで、卒業論文も相変わらずワンパターンを繰り返していた。

 あの学生もこういう書き方が得意だった……、でも、展覧会印象記なんだから、傍からとやかく言うことじゃない。これはこれでいいのではないか。私はほとんど納得しかけたのだが、しかし待てよ……。

〇影の実体化
 その数日前、私は和田義彦の展覧会のタイトル「煌く刻」や「ドラマとポエジーの画家」をキーワードとして、Googleを検索し、和田の「運ぶ」(1980年)と「悪徳の囁き」(2002年)を紹介するHPを見つけた。もちろん刷り出してある。
 二枚の絵に続いて、渋谷区立松涛美術館の名前と番地があり、2005年8月2日(火)~2005年9月19日(月)という展示期間と、「和田義彦は1940年三重県海山町に生まれ」云々の紹介が載っている。松涛美術館のHPなのであろう。

 先のsayakaさんは、この展覧会を最終日に観覧したらしいのだが、とするならば、この人は致命的に「運ぶ」という絵を見間違えている。
 「
小さな画だけれど、ギョッと鳥肌が立ったのは、「運ぶ」。広い階段で二人の男が裸の女性を運んでいる。運んでいるのは、おそらく死体」。sayakaさんはそう見たわけだが、HPに紹介された「運ぶ」を見るかぎり、男は一人しかいない。(たぶん)全裸の女性を、男が後から抱え、後ずさりする形で階段を上ろうとし、それを階段の下から犬が見上げている。これが「運ぶ」の基本的な画面構成であるが、その男の影が壁に映っている。それをsayakaさんは、もう一人の男と見間違えてしまったのである。
 その意味でsayakaさんの印象記は解釈が先走り、いわば「影」を実体化しまったわけだが、もう一つ疑問を言うならば、この裸の女性を「おそらく死体」と判断させる要素はどこにも見られない。男が女性を助け、彼女の部屋に運ぼうとしているのだ。そういう解釈も十分に成り立つのである。

 このようなこともあって、私はもう少し数多く和田義彦の絵を見てみたい。併せて、彼の「画業」に関する言説の是非を確かめたい。
 先の印象記が象徴するような、「影の実体化」とも言うべき言説的操作が意識的に、あるいは無意識的に行なわれているのではないか。彼の絵を見る機会を探りながら、以上のような関心を持ち続けようと思う。

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オリジナリティ・ギャグ

オリジナリティ・ギャグ
――和田義彦の「盗作」疑惑――

和田義彦の幾つかの絵画は、イタリアの画家アルベルト・スギの盗作ではないか。そういう疑惑の報道があり、テレビの報道を見たかぎりで言えば、確かに「ぱくり」としか言いようがない。スギの了解を得ていないのならば、盗作と判断されても仕方がないだろう。

〇美術関係者の不勉強
事の発端は、匿名の投書によって、和田義彦の平成17年度・芸術選奨文部科学大臣賞受賞作品と、アルベルト・スギの作品の類似を指摘されたためらしい。和田は、安田生命東郷青児美術館大賞も受賞しており、この受賞作も類似が指摘されている。その他、河北倫明賞も受賞しているらしいが、この受賞作については疑惑を聞かない。

それにしても芸術選奨や東郷青児美術館大賞の選考委員は、こうした類似に気がつかなかったのだろうか。美術評論家や美術館の学芸員も気がつかなかったのだろうか。驚くべき怠慢と言うほかはない。国画会の絵画部は和田義彦に退会を勧告した。ということはつまり、これまで、この会の誰も気がついていなかったことになる。

仲間内の駆け引きや、馴れ合い選考ばかりやっているから、こんな醜態を晒す羽目になったのだ。そう言われても仕方あるまい。

〇オリジナリティ・ギャグ
しかし和田義彦について言えば、私は憤慨するよりも、彼のギャグ・センスに感心してしまった。
和田義彦はインターヴュに答えて、「一見したところ、よく似ている印象を受けた人もいるだろうが、絵の分る専門家が見れば決して盗作じゃない、私のオリジナリティが分かるはずだ」という意味のことを言っていた。
その言やよし! 彼自身は別な意味で言ったのだろうが、巧まずしてこれは、オリジナリティ神話に対する痛烈なギャグだった。
多くの美術評論家や文芸評論家によれば、〈芸術とは作者の内面の表白、魂の叫びであり、その深みから私たちに向けたメッセージが発せられているのだ〉ということなっている。彼らはこのような芸術観に基づいて、作者のオリジナリティを語ってきたわけだが、では、和田義彦のあれらの「作品」のインパクトをどう説明するだろうか。

審査員や評論家が和田のあれらの「作品」から何のインパクトも受けなかったはずはない。もし何のインパクトも受けずに当選作としたり、それを容認したりしてきたとするならば、それは文字通り彼らが「賞」という制度を、画壇政治の手段にしてしまった証拠にほかならないが、少なくとも最低の条件として、彼らは和田の「作品」から何らかのインパクトは受けていたはずだ。私はそう思っている。では、このインパクトは何処からきたのだろうか。アルベルト・スギから来たのか、それとも和田義彦から来たのか。あるいはそれとも、そんな「作者」問題とは関係なく、あの構図と色調そのものから来たのだろうか。

要するに作者のオリジナリティ神話など、何ほどの根拠もないことになるわけだが、こんな根本的な問題を惹き起こしながら、「見る人が見れば、私のオリジナリティは紛れがないはずだ」なんて、和田さん、あなた、相当にしたたかな皮肉屋ですね。

〇評価の決まり文句
念のためインターネットで調べてみると、芸術選奨文部科学大臣賞の授賞理由はこうなっている。
《引用》
  
氏の作画世界は、群像等で劇的な情景を設定しているが、示唆するものは社会の不条理や人々の不安、孤独など内面の実存である。常に問題意識が現代の核心に触れていて、その時事性もまた評価できる。

渋谷区立松涛美術館が2005年8月2日から9月19日まで、和田義彦展をやっていた。その宣伝で、こんなふうに和田を紹介している。
《引用》

   カフェやレストランなどに集う人々を中心主題とした和田作品は、古典絵画研究を通じ て得た高度な技術と的確なデッサン力、重厚な色彩感覚によって現代社会の人間の内面に迫る独自の表現を提示しています。

茨城つくば美術館でも、2005年11月26日から12月25日まで、和田義彦展を開いていた。その宣伝でも、こんなことを言っていた。
《引用》

   現代に生きる孤独な人間の実存と内面に迫る絵画表現によって、きわめて独自な世界を提示する。
街やカフェにたむろする男女、日常の中に潜む空虚な感覚、作者の記憶の画像によって呼び出される犬のモティーフや不可思議な庭園、奇妙に展開する食事の光景など、特に都会に生きる人間の不条理や不安や欲望に満ちた現代が和田作品の重要なテーマとなっている。

「社会の不条理や人々の不安、孤独など内面の実存」、「現代社会の人間の内面」、「現代に生きる孤独な人間の実存と内面」、「日常の中に潜む空虚な感覚」、「不条理や不安や欲望に満ちた現代」など、いかにも現代絵画をもっともらしく意味づける、出来合いの言説に「満ちて」いる。
揃いも揃って、同じ決まり文句で作品のメッセージを解読して見せているところ、一人の人間があちこちに書き散らした感じがしないでもない。しかし実際は、誰か「権威」ある人間の表現を選考委員や、美術館の学芸員が適当にアレンジして使ってきたのだろう。

〇危なかった永井龍之介さん
某テレビ局で、お宝鑑定をしている永井龍之介の永井画廊も、2005年10月7日から同21日まで「和田義彦デッサン・挿絵展」をやっている。その謳い文句は、「
作者の息遣いも聞えてくるような筆圧を感じさせ、生気を放つ女性像やドラマの一場面を思わせる臨場感に満ちた作品の数々」だった。

内容は「デッサン・挿絵展」だから、今回の疑惑の作品とは関係がなかったようだが、永井龍之介さんは今頃、冷や汗を拭っているにちがいない。もし例の「疑惑」作品が鑑定の場に持ち込まれ、「まんざら知らない人の作品でもないし……」と、つい高い値段をつけていたとするならば、さあ大変、今や取り返しのつかない失態になっていただろう。
 それとも眼光鋭く、「いやこれは盗作の疑いがあります」と、慧眼にも見抜き、断言していただろうか。

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