文学館の見え方(補、その2)
ありがたい宿題
○思いがけない届き物
昨日(2月4日)、小樽文学館に出たところ、事務の人が、「こういう郵便が来ました」と封書を届けてくれた。
見ると、ごく一般的な茶色の封筒で、表に「小樽市/小樽文学館御中」とあり、裏には「一市民」と書いてあるだけだった。
しかし、郵便局を経由してきたことは間違いない。申年の記念切手(80円)が二枚貼ってある。スタンプの文字が薄いため、局の名前は判読できないが、18/2.3の数字が見える。2月3日に投函したのだろう。
封筒に手紙は入っていなかった。手紙はなくて、八つ折にした原稿だけが入っていた。原稿には伊藤整の署名があり、「新聞の思ひ出」というタイトルがついている。
原稿は400字詰め原稿用紙で5枚あり、編集者のものと思われる朱字が加えられていた。
その内容は、私の初めて目にするエッセイだった。
○貴重な資料
玉川副館長は、学芸員として長年、伊藤整の原稿や書簡を扱ってきた。「伊藤整の手になる原稿と見て、まず間違いないでしょう」と言う。私も同じ意見だった。
一市民さんの、無償の厚意を、私たちは喜んだ。小樽文学館を信頼し、資料の保存と研究を託してくれたのだろう。その気持がありがたい。自分の名を伏せ、原稿が手許にあった事情を明かさなかったのは、それなりの理由があってのことであろう。その点は尊重したいと思う。
ただ、文学館としては、これを新資料として公表する前に、幾つか確認の手続きを踏んでおかなければならない。私はさっそく『伊藤整全集』(新潮社)をめくってみた。ところが、「新聞の思ひ出」というエッセイはどの巻にも入っていない。曾根博義さんが編集した『未刊行著作集12 伊藤整』(白地社、1994年)の、「未刊行著作一覧」にも載っていない。
つまりこれは、その存在がほとんど知られていなかったエッセイの原稿だったのである。
その意味で、初めに予想した以上に貴重な資料であることが分かったが、では、どこに掲載されたエッセイだったのだろうか。
○一つの仮定
全集になく、「未刊行著作一覧」でも見かけない。となれば、かなり幅広い範囲に、調査の手を拡げなければならないだろう。大きな宿題が課されたわけだが、まったく手がかりがないわけではない。
このエッセイは「私」(伊藤整)が子どもの頃、自分の家で取っていた『北海タイムス』と『時事新報』の思い出を語ったものだが、『北海タイムス』に関する思い出のほうに、より具体性がある。しかも伊藤整は、その具体性を高めるために、次々と加筆を重ねている。例えば初めに
《引用》
「「北海タイムス」と言ふと、田舎の座敷のコタツとか、電燈のないその時代にランプのホヤを磨いた思ひ出とか、ゴム靴がなかったので、冬に学校へはい通つた藁靴だとか、思ひ出される。
と書いたが、さらに余白に言葉を加えて、次のように細部の表現を豊にしていった。
《引用》
「「北海タイムス」と言ふと、ストーヴが一般化されなかつた大正初年頃の田舎の座敷のコタツとか、電燈のないその時代にランプのホヤを磨いた思ひ出とか、ゴム靴がなかったので、冬に学校へはい通つた藁靴だとか、その頃の我が家のありさまが思ひ出される。
これは一例だが、その他にも「忍路郡塩谷尋常高等小学校」の級友については、「ボウズ頭の恰好が目に浮ぶ」と書き、さらに欄外余白に加筆して、「ボウズ頭の恰好で、着物を着て教室に並んでゐた同級生の誰彼の顔など目に浮ぶ」と、細部を膨らませている。
つまり彼は、少年時代の思い出を共有する幼馴染の読者を意識し、より強くアピールするように加筆しているのである。
その点から判断すれば、このエッセイはおそらく北海道の地元紙に寄せられたものであった。なぜなら、この回想は、「戦争中に、その「北海タイムス」が「小樽新聞」と合併して「北海道新聞」となつた時は、ちよつと残念に思つたものだつたが、また「北海タイムス」が出たと聞いて、何となくうれしく思つた」と続くのだが、ここでもまた欄外の余白に、次のような言葉が加筆されているからである。「私と同じやうな郷愁をこの新聞に感じる読者が多いことと思ふ」。
このような加筆は、『時事新報』の箇所には全く見られない。つまり私の推測によれば、これは戦後に出た『北海タイムス』に寄稿したものだったのである。
あるいは、戦後の『北海タイムス』が5周年か10周年の記念行事を企画し、その記念冊子のために依頼されたエッセイだったかもしれない。
○ありがたい宿題
私は以上の判断に基づいて、これから『北海タイムス』の調査に入る予定だが、もし私の見当が外れるならば、掲載紙(誌)の特定は意外に難航するだろう。
だが、いずれにせよ、こういう宿題は、文学館の仕事をする人間にとっては気持に張りが出る、ありがたい宿題である。
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