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文学館の見え方(完)

地名の問題

○「九州」という枠組み
 土屋忍があるシンポジウムで、私の進退に言及した。私から見て、それはかなり軽はずみな言い方だった。異議あり、と訂正を求めるほど強い動機ではなかったが、それをきっかけに、かねて考えていた文学館に関する問題を書いてみたわけだが、思いがけず長い文章になった。加えて、今年に入って2度、東京へ旅行したため、いささか間の抜けた文章になってしまった。
 最後に、そのシンポジウムから触発されたことを述べて、この連載(?)を終わりにしたい。

 土屋忍が加わったシンポジウムは、「九州という思想」(九州大学日本語文学会『九大日文』06、2005年6月1日刊)と言い、「九州という思想は存在するか、地名で括ることの問題をめぐって。」というサブ・タイトルがついていた。
 司会の石川巧によれば、このテーマは花田俊典の着想に由来するらしい。
《引用》
  
地名で括ることの問題が、なぜここに出てきたかといいますと、昨年急逝された花田俊典氏(九州大学教授・日本近代文学)が、事あるごとに、人間を土地の名で括っていく言説のあり方に不満を抱いておられまして、いつか、それを文学の問題として議論したいとおっしゃっていたわけです。残念ながら花田氏の構想は実現されませんでしたが、せめてそれをテーマとした企画を立ち上げて、花田氏の問題編成に少しでも迫ってみたいと考えました。

ふーん、花田さんはそんなことを考えていたのか。……しかし、何だかちょっと腑に落ちないところがある。
花田俊典さんには、「西日本文学史」という副題を持つ、『清新な光景の軌跡』(西日本新聞社、2002年)がある。九州だけでなく、山口と沖縄を加えた地域に「ゆかり」の、戦後の文学を、「しっかり歩け」「被告席」「監禁状態」などのシンボリックなテーマでまとめた、大部な著書(本文761頁)だった。ただしその内容は、〈九州的なもの〉を求めているわけでもなければ、〈西日本文学〉というカテゴリーを立てようとしているわけでもない。その点では、和田謹吾や小笠原克や木原直彦が求心的に〈北海道的なもの〉を求め、〈北海道文学〉を実体化しようとしたやり方とは、著しく性格が異なる。
ひょっとして花田さんは、このような仕事をした結果、「人間を土地の名で括っていく言説のあり方に不満を抱」くようになったのだろうか。

○地名の役割
私はここ15年ほど、花田俊典さんと一緒に仕事をし、年に何回か会議で顔を合わせて来た。その付き合いが始まって間もない頃、懇親会の席で、花田さんがこんな意味のことを言った。

〈人間を人種や民族で判断するのは危険だという意見には、自分も賛成している。人種や民族に関するステレオタイプの見方に囚われて、差別や排除を生んでしまうからだ。それはまことにその通りだと思う。だが、実際に私たちが予備知識の全くない外国の人に出会った時、先入観に囚われない、裸の目で見て、だからより正確な理解をしているのだと言えるかどうか。実際は、そんな旨い具合に、事は運んでゆかない。むしろあの人は何国人か、この人は何人か、という形で、まず国籍や民族名で括ってみる。そこにはステレオタイプの見方に伴う偏見や思い込みが、沢山つきまとっているだろう。けれども、まずそれを手がかりにつき合い始め、だんだん具体的、個別的にその人自身を理解しながら、偏見や思い込みを克服して行くのじゃないか〉。

花田さんは、「好漢」の「漢(おとこ)」という言葉がぴったりの風貌だったが、酒はむしろ苦手だったらしい。だが、酒席の雰囲気には自ら乗ってゆくタイプで、訥弁の雄弁とも言うべき博多弁(?)で以上のようなことを、熱っぽく語っていた。
なぜそんなことを私が覚えているか。私は花田さんの言葉を、昼間の会議における私の意見に対するアンチテーゼとして聞いていたからである。

私はその会議で、安直な「地域」論が惹き起こす「本質主義」的強制や、国民性論や民族性論への批判を語った。その内容は、(その8)で書いたことと重複するので、ここでは繰り返さない。「本質主義」的思考は警戒を要するが、しかしその反面、加藤周一の「日本文化の雑種性」のような考え方にも警戒を要する。私はそんなことも語った。なぜなら、加藤は西洋/日本という二項対立に安易に寄りかかり、しかも「西洋」の方を、あたかも「純粋な(非雑種的な)」文化的統一体のように仕立てているからだ。それはヨーロッパ中心主義の一変種と見るべきだろう。
席上、そのことに対する、特に強い反論も、異議も出なかった。ただ、花田さんが「おっしゃることは分かりますが、でも、ヨーロッパもまた日本を映し出す重要な「鏡」の一つであることを、私たちは忘れてはならないでしょう」と言った。花田さんは会議の議論が一方向に流れ、硬直化しはじめた、その危険を敏感に察して、アンチテーゼを出したのである。
その意味で花田さんは、空気をよく読むことのできる人だった。「確かにそう言える。……花田さんは地名や国籍を、他者認識の発展過程における媒介的な役割として評価したいのだな」。私は感心し、納得しながら聞いていた。

○石川巧のまとめ方
そのような記憶があり、そこで私は「ふーん、花田さんはそんなことを考えていたのか」と感じたわけだが、しかしまだ腑に落ちない点がある。
司会・石川巧のテーマの立て方や話の持ってゆき方が、どうもおかしい。このシンポジウムは花田さんの追悼を兼ねていたらしいのだが、もし本当に花田さんが「事あるごとに、人間を土地の名で括っていく言説のあり方に不満を抱いて」いたのだとすれば、「九州という思想」などというテーマを立てること自体が、追悼の主旨にそぐわないことになっている。それとも、花田さんの問題意識を踏まえて検討しなければならないほど、それほど強力な「九州という思想」が、九州には存在するのだろうか。
《引用》
 
いま日本の各大学では中国、韓国を中心とした東アジア地域との連携や東アジアそのものの研究が盛んに行われていますが、「九州という思想」というタイトルの背景にあるのは、この「東アジア」という概念と向き合うものとして「九州」を再構築してゆこうという考え方です。これは考えようによっては時流に乗り遅れまいとする安直なテーマでありまして、いまさら「九州」という枠組みを強化してどうするんだと批判されても仕方がないところがあります。また、果たしてそんなものが存在するのか……という反論もありうるでしょう。

石川巧はこんなふうにことわっていたが、どう読んでも物欲しげで、そのくせ腰の引けた動機説明でしかない。要するに「中国、韓国を中心とした東アジア地域」なんて括りを、現在の文化的・政治的な最重要の緊急課題みたいに言いはやす言説に色目を使いたい。だけど、あんまりミエミエにはならないようにネ、などと妙な気を廻しているだけのことじゃないか。

《引用》
  
ここで、私自身のもくろみを少しお話しさせて頂きます。私がこの企画について考えているのは、九州という枠組みで文化の様態を考えること自体がそもそも可能なのか、ということです。そういう粗雑な括り方で人間を規定し、内と外を線引きするという思考の在り方は、地名だけでなく、固有名の問題であったり、肩書きの問題であったり、その人間を名付けていく様々な思考の在り方とつながっているわけですから、この企画も、そこに接続させていけるのではないかと思っています。

私の理解する花田さんは、「九州という枠組み」を、必ずしも「粗雑な括り方」と見下しはしなかった。石川巧は花田さんの問題意識をよく理解できなかったのではないか。私の疑問はそこにあるのだが、「地名」と「固有名」とでは機能も次元も異なる。このことは、「固有名で括る」という言い方に現実性があるか、それは果して可能か、と考えてみれば、すぐに分かるだろう。地名を問題したいならば、あくまでもトポスの問題として、クロノ・トポスの視点から始めなければなるまい。

○川口隆行のアリバイ作り
 テーマがこのように曖昧で、司会の説明が及び腰だったためであろう、結局シンポジウムは「九州」の問題に踏み込むことなく終わってしまった。
 その意味では、パネラーに選ばれた人たちには気の毒だった気がしないでもない。だが、それはそれとして、今どき「東アジア」なんて問題にコミットしている大学の人間は、どこか道徳的に退廃しているのではないか。そういう印象は否めなかった。
その一人、台湾の大学で日本語を教えているという川口隆行(台湾東海大学)が、こんなことを言っている。
《引用》

そんなことを考えながら今台湾で仕事をしているんですけれど、二点目として、私が台中市の大学で行っている研究とか教育というのを、大局的に学生の一人一人の気持ちなど考えずにかなり乱暴に大雑把にまとめて言えば、結局のところ、学生が日本語を学び、日本を知ることを通して、日本と同一化することを促進しているのではないかと。つまり学生に、日本に認められたい、日本に留学したい、日本語が上手になって日本人の友達を作りたい、要はニッポンに認められたいという欲望を日々喚起しながら、学習意欲をそそって、身体化させてゆくのだろうなと。二等国民、二級帝国民生産装置としての、日本語教育、日本研究ということをやっている。実はこれを全く内面化しているのが台湾人の先生達なのですね。つまり日本に留学して、日本語や日本の研究をして、日本で学位を取って戻ってくる。そのときに、日本に認められた私、という認識がかなり強固に作られている。勿論それは日本人の教師も似たようなところがあって――海外に出て自分自身がやっている役割というものを、良くも悪くも「日本」を普及するということを日々やっている。

 私はこの箇所を読み、何とも言いようがないほど不快を覚えた。
私も台湾からの留学生を教えたことがある。だが、その人たちが日本語や日本文学を勉強する動機を、こんなふうに高括りして、侮蔑的に捉えることなど思ってもみなかった。また、留学生を教える自分の行為を、これほど卑しめて語ることができる人間がいるとは、到底考えることができなかった。
台湾の学生の様々な動機を、こんなふうに「乱暴に大雑把にまとめ」てしまう。その上、日本に留学したことのある台湾の先生を、〈二等国民、二級帝国民生産装置としての、日本語教育、日本研究を内面化している〉と言い切ってはばからない。この傲慢さに、川口の差別的な植民主義者の思い上がりが、隠しようもなく表出されている。川口が何を基準として、「二等国民」とか「二級帝国民」とかいう言い方をしているのか、私にはよく分からないが、もし仮に「二等国民」とか「二級帝国民」とかいう人間が存在するとすれば、それは川口隆行自身のことであろう。

川口は続けてこんなことも言っている。
《引用》

あるいはまた、「日本」を媒介にして、「台湾」を立ち上げようとする手助けをしているのかなと。これは「日本」に向うのと何か逆方向に見えますけど、台湾ナショナリズムというのがあって、台湾という地域、国家を立ち上げるときに、いま日本がどうしても必要になってくる。それは歴史的に見ても、中国大陸との切断ということを考えたときに、日本植民地時期というものが、良くも悪くもそこが大陸と自分たちを切断してゆく、歴史的なポイントなんだと。例えば、本当はポストコロニアル的な問題意識から始まっていたはずの植民地研究が、植民地期を議論するという行為において――否定する肯定するに関わらず――今それは台湾という地域を立ち上げてゆくのと抜き差しならぬ関係にある。(中略)二一世紀前半における日本の地域的なヘゲモニー、つまり東アジアの中で仲良しでやってゆけるという幻想を抱けそうな地域が台湾だとすれば、その台湾という地域を立ち上げることが日本の国益にとっても必要なんだと。したがって、日本語を勉強して「日本」化することと、日本語を勉強して「台湾」化することとは、いまのところ実は全然矛盾していなくて全くの共犯関係です。森宣雄さんが言うところの「台湾/日本―連鎖するコロニアリズム」といった事態です。

 ひどい話だ。もし現在の台湾に、「台湾ナショナリズム」が強いとすれば、それは、北京の中華人民共和国政府が台湾に対して取っている態度と無関係ではありえない。私はそう理解するが、しかしその「台湾ナショナリズム」が、「中国大陸との切断ということを考え」ているのだろうか。この「切断」という言葉は、むしろ北京の中華人民共和国政府の側に立ち、台湾の動きを監視的に見ている立場の言葉ではないか。
ばかりでなく、川口によれば、「
二一世紀前半における日本の地域的なヘゲモニー」なんて概念が成立するらしい。だが、なぜこの言葉を、「つまり東アジアの中で仲良しでやってゆけるという幻想を抱けそうな地域が台湾だとすれば」云々と言い換えることができるのか、文脈・内容ともに全く分からない。

私の見るところ、日本が「東アジアの中で仲良しでやってゆけそうな地域」は、――「幻想を抱けそうな地域」ではない――台湾だけでない。が、それはそれとして、川口は、台湾が日本を必要とし、日本が台湾を必要とする関係を「共犯関係」と呼んでいる。一体それは誰の目から見て「共犯」なのだろうか。
 川口によれば、自分が台湾で日本語の教師をしていることは、この「共犯関係」に巻き込まれ、片棒を担がされることらしいが、本当にそうとしか思えないのならば、台湾で禄を食むのは止めたほうがいい。

《引用》
そんな中で日々やっているのですが、では自分はどうしたらいいのかなとつらつら思うのですがよく分かりません。よく分からないながらも二つの方向があるかなと思っています。一つは日本語という他者の言葉を彼らが学ぶことを手助けしながら――それは同時に私自身も言語を学ぶ行為でもあるのですけれど、そうしたことを内在的に批判・解体する作業、つまり日本語を勉強しつつそれをもう一度解体してゆく。かなり難しい作業、しかしむしろ伝統的なやり方なのかもしれません。もう一つ最近思っているのは、日本語習得という究極の目標を止めようということです。これは日本語文学科という所においては殆んどアイデンティティを解体することなのですが、日本語がうまくなるという最終的な目標を、目標から下ろしてしまえと。もちろん日本語を勉強するなということでは全然ないのですが、それを唯一の究極目標にするということを止めてしまって「とりあえず手にした」日本語を――学生はいろんな日本語を話し、書きます、或る意味ぐちゃぐちゃです――そのぐちゃぐちゃな日本語を使いながら、何か「日本」と「台湾」の往復運動のようなものとは異なる回路を作れないのかなと。これは同僚が中心になって構想しているのですが、日本語を勉強しているアジアの学生と一緒に何か問題を考えてみる会議をしてみようとか、そういうことを考えています。

 冗談じゃねえよ、まったく。
私が思うに、日本語を勉強する台湾の学生のなかで、日本語学習を「唯一の究極目標」にしている人は、そう多くない。恐らくほとんどいない。日本語学習は他の目標のステップであり、手段であると割り切っている人のほうが、圧倒的に多いだろう。にもかかわらず、日本語学習が台湾の学生にとって唯一の究極目標であるかのようにすり替えて、「
そうしたことを内在的に批判・解体する」? なに血迷って、世迷言を言ってるんだ。 
言ってることは一見もっともらしいが、要するに、「共犯」者と見られないアリバイを作っておきたい、アリバイを作りながら、「内在的に批判・解体」のポーズを取って、居座ってしまおう。つき詰めて言えば、それが川口の本音じゃないか。

○土屋忍の倒錯
さてところで、土屋忍(武蔵野大学)によれば、「地名で人間を括る考え方」は、功罪の罪の方が大きい。けれども、「功」もないわけではない。「
ではどういう功があるんだろうか」。
《引用》

例えば最近木村一信さんという立命館大学の先生が、世界思想社から『昭和作家の〈南洋行〉』という本を出されました。それに先行する『もうひとつの文学史』(増進会出版社)において彼は、個人的な経験、体験に触れつつ、なぜこういう研究をしているのか、文学作品を通じて日本の南方関与、日本と東南アジアについて考えるという研究を、なぜしているのかということに触れた箇所があります。インドネシアに滞在していたときの話です。海外で日本人が一人で食事をしたりお酒を飲んだりしているときには、当然その土地の人、あるいはその土地に来ている人、あるいはその土地にいる様々な国の人と交渉するきっかけがあるわけです。木村さんがインドネシア人の友人とビールを飲んでいるときに話しかけてくる人があって、その人とカタコトのインドネシア語を通じてお話しをしていたところ、自分が日本人であるということが分かった途端に相手が席を立ってしまった。その相手はオランダ人だった。そういう経験が書かれています。と同時に、川村湊さんも、非常に早い段階で、今のように韓国ブームが無かった時代に、釜山に行って日本語の先生をしていたのですが、そのときに、ある酒席で突然殴られた経験について書いている。恐らく木村一信さんにしても川村湊さんにしても、そういう経験は、一つの、それ以降研究を持続する大きなきっかけとなっていったと思います。つまり、海外で、自分は勿論好きで行ってその土地でいろいろ勉強していたわけですが、日本人であるということを引き受けざるを得ないような経験として、その経験が残るわけですね。つまり、ここでは地名ということを、――国名、日本というものも一つの地名だと思うので、国名、国籍のことを私は話そうと思うのですが――日本が好きか嫌いかは別にしても、もしかしたら嫌いかもしれないし、自分は日本人であると自信満々で海外に行っているとは限らないわけですが、そうであるにもかかわらず自分の国籍というものを背負わされることがある。そのときには当然、特にアジアの場合には、自分が知らない先祖達、といいますか、日本がしてきた負の遺産というものを個人的に引き受けざるを得ない。そういうことがある。これは個人的にですから、引き受けようが引き受けまいがいいのですが、そこで敢えて引き受けるという行為ですね。このことは一つ、もしかしたら大事なことなのではないか。

これが土屋の言う「功」なのだが、なんという倒錯だろう。川村湊が釜山にいた時、どんな経緯で「突然殴られた」のか、私には分からない。ただ、文脈から判断するに、殴りかかったのは韓国の人間であり、その人間が突然殴りかかった理由は、川村湊が日本人だからだった。土屋はそういう前提で話を進めている。
もし事態が土屋の言うようなことだったとするならば、川村湊の一番正当な対応は、相手を殴り返すことであろう。なぜなら、その韓国の人間が日本と韓国との関係をどう考えていようとも、それは川村湊に突然殴りかかる理由にはならない、不当な暴力行為だからである。

もちろん場面と場合よっては、直接に殴り返すわけにもいかないこともある。むしろその場合の方が多いだろう。だが、相手が不当に暴力をふるった事実は消えないし、それを不当と見なす認識は最後まで貫かなければならない。

それが正当な態度だと思うが、土屋忍は、いきなり席を立ってしまったオランダ人の無礼や、突然殴りかかった韓国人の不当な行為は不問に付してしまっている。国名で人間を括ったのは、そのオランダ人や韓国人のほうなのだが、そこから生まれた無礼や暴力を、土屋は「自分が知らない先祖達、といいますか、日本がしてきた負の遺産」の問題に置き替えてしまう。そして、この「負の遺産」を日本人として引き受けよう、と言うのである。「これは個人的にですから、引き受けようが引き受けまいがいいのですが、そこで敢えて引き受けるという行為ですね。このことは一つ、もしかしたら大事なことなのではないか」と。
土屋の理屈で言えば、これが「地名で人間を括る考え方」の「功」なのである。ということはつまり、これを遡って言えば、「地名で人間を括」って無礼な態度を取ったり、暴力を振るったりしたオランダ人や韓国人の「功」ということになるわけである。
しかし、このテの「歴史認識」論的な言説どんなに理不尽か、いま北朝鮮に拉致された人や、その家族に対して同じ言い方をした場合を考えてみれば、容易に納得できるだろう。

私はこういう教師を持つ武蔵野大学の学生に同情する。そして、まかり間違ってもこういう教師とインドネシアや韓国へ出かけないように、心から忠告する。

○「無関係の関係」の方法化
以上、文学館の問題とは直接にかかわらない事柄を取上げてきたが、書いていて一つ気がついたことがある。以上見てきた人たちの発想は、居座り狙いのアリバイ作りと、これまたアリバイ作りとしか言いようがない「負の遺産」引き受け論と、この二点に要約することができるだろう。私は北海道文学館の図録や、それを担当した職員の言動に胡散臭さを感じ、それがこの連載を書き続けるモチーフだったわけだが、その胡散臭さは何に由来するか。それは上の二点に類する発想が、随所に見られたからにほかならない。

 ただ、それとは別に、花田俊典の『清新な光景の軌跡』から改めて気づかされたことがある。それは、花田さんの「西日本」は一種の発見法的な(heuristic)仕掛けだったのじゃないか、ということである。
通常の文学史や思想史で、徳田球一と河上徹太郎と火野葦平が一緒に取上げられることは、まずあり得ない。ところが花田さんは、「西日本」という括りによって、三人の対比的な関係性を浮かび上がらせ、読者に新たな発見を促してくる。とは言え、彼はそこから、三人に共通する「九州的なもの」や、「西日本的なもの」を引き出そうとしているわけではない。当然のことながら、この三人を生んだ風土的、歴史的な条件を見つけ出そうというわけでもない。そうではなくて、彼の仕事の魅力は、一瞬のうちに思いがけない関係性を気づかせる。その瞬間芸にも似た、鮮やかな着眼と着想にある。それを続けるには柔軟な読みと、高い連想能力が不可欠の条件だが、彼はこの能力を駆使して、それぞれの文学者や作品に思いがけないアスペクトを見出し、新たな関連を作ってゆくのである。

以上のことを別な言葉で、もう少し抽象化すれば、次のようになる。つまり、トポスとは偶然の面白さに満ちた空間なのであって、例えば明治のある時期、北海道の小樽には、すれ違いの形ではあったが、永倉新八が住み、中江兆民が住んでいた。また永倉新八と石川啄木は、これは間違いなく小樽の街角ですれ違う可能性を持っていた。
普通私たちが(特に歴史上の)人物を話題にする場合、意識すると否とにかかわらず、一定のジャンルやイデオロギーに拘束されている。その限りでは、この三人は無関係に生きていたことになるわけだが、小樽というトポスを設定してみると、「無関係のままの接点」ともいうべき偶然の同時性、または同居性の関係が見えてくる。地域を設定する、地名で括るとは、この「無関係の関係」の多様性を見出し、無関係なままの響き合いを豊に描き出す、その意味での発見法的な(heuristic)仕掛けと言えるだろう。

文学館の成否はこの仕掛けにかかっている。

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