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文学館の見え方(完)

地名の問題

○「九州」という枠組み
 土屋忍があるシンポジウムで、私の進退に言及した。私から見て、それはかなり軽はずみな言い方だった。異議あり、と訂正を求めるほど強い動機ではなかったが、それをきっかけに、かねて考えていた文学館に関する問題を書いてみたわけだが、思いがけず長い文章になった。加えて、今年に入って2度、東京へ旅行したため、いささか間の抜けた文章になってしまった。
 最後に、そのシンポジウムから触発されたことを述べて、この連載(?)を終わりにしたい。

 土屋忍が加わったシンポジウムは、「九州という思想」(九州大学日本語文学会『九大日文』06、2005年6月1日刊)と言い、「九州という思想は存在するか、地名で括ることの問題をめぐって。」というサブ・タイトルがついていた。
 司会の石川巧によれば、このテーマは花田俊典の着想に由来するらしい。
《引用》
  
地名で括ることの問題が、なぜここに出てきたかといいますと、昨年急逝された花田俊典氏(九州大学教授・日本近代文学)が、事あるごとに、人間を土地の名で括っていく言説のあり方に不満を抱いておられまして、いつか、それを文学の問題として議論したいとおっしゃっていたわけです。残念ながら花田氏の構想は実現されませんでしたが、せめてそれをテーマとした企画を立ち上げて、花田氏の問題編成に少しでも迫ってみたいと考えました。

ふーん、花田さんはそんなことを考えていたのか。……しかし、何だかちょっと腑に落ちないところがある。
花田俊典さんには、「西日本文学史」という副題を持つ、『清新な光景の軌跡』(西日本新聞社、2002年)がある。九州だけでなく、山口と沖縄を加えた地域に「ゆかり」の、戦後の文学を、「しっかり歩け」「被告席」「監禁状態」などのシンボリックなテーマでまとめた、大部な著書(本文761頁)だった。ただしその内容は、〈九州的なもの〉を求めているわけでもなければ、〈西日本文学〉というカテゴリーを立てようとしているわけでもない。その点では、和田謹吾や小笠原克や木原直彦が求心的に〈北海道的なもの〉を求め、〈北海道文学〉を実体化しようとしたやり方とは、著しく性格が異なる。
ひょっとして花田さんは、このような仕事をした結果、「人間を土地の名で括っていく言説のあり方に不満を抱」くようになったのだろうか。

○地名の役割
私はここ15年ほど、花田俊典さんと一緒に仕事をし、年に何回か会議で顔を合わせて来た。その付き合いが始まって間もない頃、懇親会の席で、花田さんがこんな意味のことを言った。

〈人間を人種や民族で判断するのは危険だという意見には、自分も賛成している。人種や民族に関するステレオタイプの見方に囚われて、差別や排除を生んでしまうからだ。それはまことにその通りだと思う。だが、実際に私たちが予備知識の全くない外国の人に出会った時、先入観に囚われない、裸の目で見て、だからより正確な理解をしているのだと言えるかどうか。実際は、そんな旨い具合に、事は運んでゆかない。むしろあの人は何国人か、この人は何人か、という形で、まず国籍や民族名で括ってみる。そこにはステレオタイプの見方に伴う偏見や思い込みが、沢山つきまとっているだろう。けれども、まずそれを手がかりにつき合い始め、だんだん具体的、個別的にその人自身を理解しながら、偏見や思い込みを克服して行くのじゃないか〉。

花田さんは、「好漢」の「漢(おとこ)」という言葉がぴったりの風貌だったが、酒はむしろ苦手だったらしい。だが、酒席の雰囲気には自ら乗ってゆくタイプで、訥弁の雄弁とも言うべき博多弁(?)で以上のようなことを、熱っぽく語っていた。
なぜそんなことを私が覚えているか。私は花田さんの言葉を、昼間の会議における私の意見に対するアンチテーゼとして聞いていたからである。

私はその会議で、安直な「地域」論が惹き起こす「本質主義」的強制や、国民性論や民族性論への批判を語った。その内容は、(その8)で書いたことと重複するので、ここでは繰り返さない。「本質主義」的思考は警戒を要するが、しかしその反面、加藤周一の「日本文化の雑種性」のような考え方にも警戒を要する。私はそんなことも語った。なぜなら、加藤は西洋/日本という二項対立に安易に寄りかかり、しかも「西洋」の方を、あたかも「純粋な(非雑種的な)」文化的統一体のように仕立てているからだ。それはヨーロッパ中心主義の一変種と見るべきだろう。
席上、そのことに対する、特に強い反論も、異議も出なかった。ただ、花田さんが「おっしゃることは分かりますが、でも、ヨーロッパもまた日本を映し出す重要な「鏡」の一つであることを、私たちは忘れてはならないでしょう」と言った。花田さんは会議の議論が一方向に流れ、硬直化しはじめた、その危険を敏感に察して、アンチテーゼを出したのである。
その意味で花田さんは、空気をよく読むことのできる人だった。「確かにそう言える。……花田さんは地名や国籍を、他者認識の発展過程における媒介的な役割として評価したいのだな」。私は感心し、納得しながら聞いていた。

○石川巧のまとめ方
そのような記憶があり、そこで私は「ふーん、花田さんはそんなことを考えていたのか」と感じたわけだが、しかしまだ腑に落ちない点がある。
司会・石川巧のテーマの立て方や話の持ってゆき方が、どうもおかしい。このシンポジウムは花田さんの追悼を兼ねていたらしいのだが、もし本当に花田さんが「事あるごとに、人間を土地の名で括っていく言説のあり方に不満を抱いて」いたのだとすれば、「九州という思想」などというテーマを立てること自体が、追悼の主旨にそぐわないことになっている。それとも、花田さんの問題意識を踏まえて検討しなければならないほど、それほど強力な「九州という思想」が、九州には存在するのだろうか。
《引用》
 
いま日本の各大学では中国、韓国を中心とした東アジア地域との連携や東アジアそのものの研究が盛んに行われていますが、「九州という思想」というタイトルの背景にあるのは、この「東アジア」という概念と向き合うものとして「九州」を再構築してゆこうという考え方です。これは考えようによっては時流に乗り遅れまいとする安直なテーマでありまして、いまさら「九州」という枠組みを強化してどうするんだと批判されても仕方がないところがあります。また、果たしてそんなものが存在するのか……という反論もありうるでしょう。

石川巧はこんなふうにことわっていたが、どう読んでも物欲しげで、そのくせ腰の引けた動機説明でしかない。要するに「中国、韓国を中心とした東アジア地域」なんて括りを、現在の文化的・政治的な最重要の緊急課題みたいに言いはやす言説に色目を使いたい。だけど、あんまりミエミエにはならないようにネ、などと妙な気を廻しているだけのことじゃないか。

《引用》
  
ここで、私自身のもくろみを少しお話しさせて頂きます。私がこの企画について考えているのは、九州という枠組みで文化の様態を考えること自体がそもそも可能なのか、ということです。そういう粗雑な括り方で人間を規定し、内と外を線引きするという思考の在り方は、地名だけでなく、固有名の問題であったり、肩書きの問題であったり、その人間を名付けていく様々な思考の在り方とつながっているわけですから、この企画も、そこに接続させていけるのではないかと思っています。

私の理解する花田さんは、「九州という枠組み」を、必ずしも「粗雑な括り方」と見下しはしなかった。石川巧は花田さんの問題意識をよく理解できなかったのではないか。私の疑問はそこにあるのだが、「地名」と「固有名」とでは機能も次元も異なる。このことは、「固有名で括る」という言い方に現実性があるか、それは果して可能か、と考えてみれば、すぐに分かるだろう。地名を問題したいならば、あくまでもトポスの問題として、クロノ・トポスの視点から始めなければなるまい。

○川口隆行のアリバイ作り
 テーマがこのように曖昧で、司会の説明が及び腰だったためであろう、結局シンポジウムは「九州」の問題に踏み込むことなく終わってしまった。
 その意味では、パネラーに選ばれた人たちには気の毒だった気がしないでもない。だが、それはそれとして、今どき「東アジア」なんて問題にコミットしている大学の人間は、どこか道徳的に退廃しているのではないか。そういう印象は否めなかった。
その一人、台湾の大学で日本語を教えているという川口隆行(台湾東海大学)が、こんなことを言っている。
《引用》

そんなことを考えながら今台湾で仕事をしているんですけれど、二点目として、私が台中市の大学で行っている研究とか教育というのを、大局的に学生の一人一人の気持ちなど考えずにかなり乱暴に大雑把にまとめて言えば、結局のところ、学生が日本語を学び、日本を知ることを通して、日本と同一化することを促進しているのではないかと。つまり学生に、日本に認められたい、日本に留学したい、日本語が上手になって日本人の友達を作りたい、要はニッポンに認められたいという欲望を日々喚起しながら、学習意欲をそそって、身体化させてゆくのだろうなと。二等国民、二級帝国民生産装置としての、日本語教育、日本研究ということをやっている。実はこれを全く内面化しているのが台湾人の先生達なのですね。つまり日本に留学して、日本語や日本の研究をして、日本で学位を取って戻ってくる。そのときに、日本に認められた私、という認識がかなり強固に作られている。勿論それは日本人の教師も似たようなところがあって――海外に出て自分自身がやっている役割というものを、良くも悪くも「日本」を普及するということを日々やっている。

 私はこの箇所を読み、何とも言いようがないほど不快を覚えた。
私も台湾からの留学生を教えたことがある。だが、その人たちが日本語や日本文学を勉強する動機を、こんなふうに高括りして、侮蔑的に捉えることなど思ってもみなかった。また、留学生を教える自分の行為を、これほど卑しめて語ることができる人間がいるとは、到底考えることができなかった。
台湾の学生の様々な動機を、こんなふうに「乱暴に大雑把にまとめ」てしまう。その上、日本に留学したことのある台湾の先生を、〈二等国民、二級帝国民生産装置としての、日本語教育、日本研究を内面化している〉と言い切ってはばからない。この傲慢さに、川口の差別的な植民主義者の思い上がりが、隠しようもなく表出されている。川口が何を基準として、「二等国民」とか「二級帝国民」とかいう言い方をしているのか、私にはよく分からないが、もし仮に「二等国民」とか「二級帝国民」とかいう人間が存在するとすれば、それは川口隆行自身のことであろう。

川口は続けてこんなことも言っている。
《引用》

あるいはまた、「日本」を媒介にして、「台湾」を立ち上げようとする手助けをしているのかなと。これは「日本」に向うのと何か逆方向に見えますけど、台湾ナショナリズムというのがあって、台湾という地域、国家を立ち上げるときに、いま日本がどうしても必要になってくる。それは歴史的に見ても、中国大陸との切断ということを考えたときに、日本植民地時期というものが、良くも悪くもそこが大陸と自分たちを切断してゆく、歴史的なポイントなんだと。例えば、本当はポストコロニアル的な問題意識から始まっていたはずの植民地研究が、植民地期を議論するという行為において――否定する肯定するに関わらず――今それは台湾という地域を立ち上げてゆくのと抜き差しならぬ関係にある。(中略)二一世紀前半における日本の地域的なヘゲモニー、つまり東アジアの中で仲良しでやってゆけるという幻想を抱けそうな地域が台湾だとすれば、その台湾という地域を立ち上げることが日本の国益にとっても必要なんだと。したがって、日本語を勉強して「日本」化することと、日本語を勉強して「台湾」化することとは、いまのところ実は全然矛盾していなくて全くの共犯関係です。森宣雄さんが言うところの「台湾/日本―連鎖するコロニアリズム」といった事態です。

 ひどい話だ。もし現在の台湾に、「台湾ナショナリズム」が強いとすれば、それは、北京の中華人民共和国政府が台湾に対して取っている態度と無関係ではありえない。私はそう理解するが、しかしその「台湾ナショナリズム」が、「中国大陸との切断ということを考え」ているのだろうか。この「切断」という言葉は、むしろ北京の中華人民共和国政府の側に立ち、台湾の動きを監視的に見ている立場の言葉ではないか。
ばかりでなく、川口によれば、「
二一世紀前半における日本の地域的なヘゲモニー」なんて概念が成立するらしい。だが、なぜこの言葉を、「つまり東アジアの中で仲良しでやってゆけるという幻想を抱けそうな地域が台湾だとすれば」云々と言い換えることができるのか、文脈・内容ともに全く分からない。

私の見るところ、日本が「東アジアの中で仲良しでやってゆけそうな地域」は、――「幻想を抱けそうな地域」ではない――台湾だけでない。が、それはそれとして、川口は、台湾が日本を必要とし、日本が台湾を必要とする関係を「共犯関係」と呼んでいる。一体それは誰の目から見て「共犯」なのだろうか。
 川口によれば、自分が台湾で日本語の教師をしていることは、この「共犯関係」に巻き込まれ、片棒を担がされることらしいが、本当にそうとしか思えないのならば、台湾で禄を食むのは止めたほうがいい。

《引用》
そんな中で日々やっているのですが、では自分はどうしたらいいのかなとつらつら思うのですがよく分かりません。よく分からないながらも二つの方向があるかなと思っています。一つは日本語という他者の言葉を彼らが学ぶことを手助けしながら――それは同時に私自身も言語を学ぶ行為でもあるのですけれど、そうしたことを内在的に批判・解体する作業、つまり日本語を勉強しつつそれをもう一度解体してゆく。かなり難しい作業、しかしむしろ伝統的なやり方なのかもしれません。もう一つ最近思っているのは、日本語習得という究極の目標を止めようということです。これは日本語文学科という所においては殆んどアイデンティティを解体することなのですが、日本語がうまくなるという最終的な目標を、目標から下ろしてしまえと。もちろん日本語を勉強するなということでは全然ないのですが、それを唯一の究極目標にするということを止めてしまって「とりあえず手にした」日本語を――学生はいろんな日本語を話し、書きます、或る意味ぐちゃぐちゃです――そのぐちゃぐちゃな日本語を使いながら、何か「日本」と「台湾」の往復運動のようなものとは異なる回路を作れないのかなと。これは同僚が中心になって構想しているのですが、日本語を勉強しているアジアの学生と一緒に何か問題を考えてみる会議をしてみようとか、そういうことを考えています。

 冗談じゃねえよ、まったく。
私が思うに、日本語を勉強する台湾の学生のなかで、日本語学習を「唯一の究極目標」にしている人は、そう多くない。恐らくほとんどいない。日本語学習は他の目標のステップであり、手段であると割り切っている人のほうが、圧倒的に多いだろう。にもかかわらず、日本語学習が台湾の学生にとって唯一の究極目標であるかのようにすり替えて、「
そうしたことを内在的に批判・解体する」? なに血迷って、世迷言を言ってるんだ。 
言ってることは一見もっともらしいが、要するに、「共犯」者と見られないアリバイを作っておきたい、アリバイを作りながら、「内在的に批判・解体」のポーズを取って、居座ってしまおう。つき詰めて言えば、それが川口の本音じゃないか。

○土屋忍の倒錯
さてところで、土屋忍(武蔵野大学)によれば、「地名で人間を括る考え方」は、功罪の罪の方が大きい。けれども、「功」もないわけではない。「
ではどういう功があるんだろうか」。
《引用》

例えば最近木村一信さんという立命館大学の先生が、世界思想社から『昭和作家の〈南洋行〉』という本を出されました。それに先行する『もうひとつの文学史』(増進会出版社)において彼は、個人的な経験、体験に触れつつ、なぜこういう研究をしているのか、文学作品を通じて日本の南方関与、日本と東南アジアについて考えるという研究を、なぜしているのかということに触れた箇所があります。インドネシアに滞在していたときの話です。海外で日本人が一人で食事をしたりお酒を飲んだりしているときには、当然その土地の人、あるいはその土地に来ている人、あるいはその土地にいる様々な国の人と交渉するきっかけがあるわけです。木村さんがインドネシア人の友人とビールを飲んでいるときに話しかけてくる人があって、その人とカタコトのインドネシア語を通じてお話しをしていたところ、自分が日本人であるということが分かった途端に相手が席を立ってしまった。その相手はオランダ人だった。そういう経験が書かれています。と同時に、川村湊さんも、非常に早い段階で、今のように韓国ブームが無かった時代に、釜山に行って日本語の先生をしていたのですが、そのときに、ある酒席で突然殴られた経験について書いている。恐らく木村一信さんにしても川村湊さんにしても、そういう経験は、一つの、それ以降研究を持続する大きなきっかけとなっていったと思います。つまり、海外で、自分は勿論好きで行ってその土地でいろいろ勉強していたわけですが、日本人であるということを引き受けざるを得ないような経験として、その経験が残るわけですね。つまり、ここでは地名ということを、――国名、日本というものも一つの地名だと思うので、国名、国籍のことを私は話そうと思うのですが――日本が好きか嫌いかは別にしても、もしかしたら嫌いかもしれないし、自分は日本人であると自信満々で海外に行っているとは限らないわけですが、そうであるにもかかわらず自分の国籍というものを背負わされることがある。そのときには当然、特にアジアの場合には、自分が知らない先祖達、といいますか、日本がしてきた負の遺産というものを個人的に引き受けざるを得ない。そういうことがある。これは個人的にですから、引き受けようが引き受けまいがいいのですが、そこで敢えて引き受けるという行為ですね。このことは一つ、もしかしたら大事なことなのではないか。

これが土屋の言う「功」なのだが、なんという倒錯だろう。川村湊が釜山にいた時、どんな経緯で「突然殴られた」のか、私には分からない。ただ、文脈から判断するに、殴りかかったのは韓国の人間であり、その人間が突然殴りかかった理由は、川村湊が日本人だからだった。土屋はそういう前提で話を進めている。
もし事態が土屋の言うようなことだったとするならば、川村湊の一番正当な対応は、相手を殴り返すことであろう。なぜなら、その韓国の人間が日本と韓国との関係をどう考えていようとも、それは川村湊に突然殴りかかる理由にはならない、不当な暴力行為だからである。

もちろん場面と場合よっては、直接に殴り返すわけにもいかないこともある。むしろその場合の方が多いだろう。だが、相手が不当に暴力をふるった事実は消えないし、それを不当と見なす認識は最後まで貫かなければならない。

それが正当な態度だと思うが、土屋忍は、いきなり席を立ってしまったオランダ人の無礼や、突然殴りかかった韓国人の不当な行為は不問に付してしまっている。国名で人間を括ったのは、そのオランダ人や韓国人のほうなのだが、そこから生まれた無礼や暴力を、土屋は「自分が知らない先祖達、といいますか、日本がしてきた負の遺産」の問題に置き替えてしまう。そして、この「負の遺産」を日本人として引き受けよう、と言うのである。「これは個人的にですから、引き受けようが引き受けまいがいいのですが、そこで敢えて引き受けるという行為ですね。このことは一つ、もしかしたら大事なことなのではないか」と。
土屋の理屈で言えば、これが「地名で人間を括る考え方」の「功」なのである。ということはつまり、これを遡って言えば、「地名で人間を括」って無礼な態度を取ったり、暴力を振るったりしたオランダ人や韓国人の「功」ということになるわけである。
しかし、このテの「歴史認識」論的な言説どんなに理不尽か、いま北朝鮮に拉致された人や、その家族に対して同じ言い方をした場合を考えてみれば、容易に納得できるだろう。

私はこういう教師を持つ武蔵野大学の学生に同情する。そして、まかり間違ってもこういう教師とインドネシアや韓国へ出かけないように、心から忠告する。

○「無関係の関係」の方法化
以上、文学館の問題とは直接にかかわらない事柄を取上げてきたが、書いていて一つ気がついたことがある。以上見てきた人たちの発想は、居座り狙いのアリバイ作りと、これまたアリバイ作りとしか言いようがない「負の遺産」引き受け論と、この二点に要約することができるだろう。私は北海道文学館の図録や、それを担当した職員の言動に胡散臭さを感じ、それがこの連載を書き続けるモチーフだったわけだが、その胡散臭さは何に由来するか。それは上の二点に類する発想が、随所に見られたからにほかならない。

 ただ、それとは別に、花田俊典の『清新な光景の軌跡』から改めて気づかされたことがある。それは、花田さんの「西日本」は一種の発見法的な(heuristic)仕掛けだったのじゃないか、ということである。
通常の文学史や思想史で、徳田球一と河上徹太郎と火野葦平が一緒に取上げられることは、まずあり得ない。ところが花田さんは、「西日本」という括りによって、三人の対比的な関係性を浮かび上がらせ、読者に新たな発見を促してくる。とは言え、彼はそこから、三人に共通する「九州的なもの」や、「西日本的なもの」を引き出そうとしているわけではない。当然のことながら、この三人を生んだ風土的、歴史的な条件を見つけ出そうというわけでもない。そうではなくて、彼の仕事の魅力は、一瞬のうちに思いがけない関係性を気づかせる。その瞬間芸にも似た、鮮やかな着眼と着想にある。それを続けるには柔軟な読みと、高い連想能力が不可欠の条件だが、彼はこの能力を駆使して、それぞれの文学者や作品に思いがけないアスペクトを見出し、新たな関連を作ってゆくのである。

以上のことを別な言葉で、もう少し抽象化すれば、次のようになる。つまり、トポスとは偶然の面白さに満ちた空間なのであって、例えば明治のある時期、北海道の小樽には、すれ違いの形ではあったが、永倉新八が住み、中江兆民が住んでいた。また永倉新八と石川啄木は、これは間違いなく小樽の街角ですれ違う可能性を持っていた。
普通私たちが(特に歴史上の)人物を話題にする場合、意識すると否とにかかわらず、一定のジャンルやイデオロギーに拘束されている。その限りでは、この三人は無関係に生きていたことになるわけだが、小樽というトポスを設定してみると、「無関係のままの接点」ともいうべき偶然の同時性、または同居性の関係が見えてくる。地域を設定する、地名で括るとは、この「無関係の関係」の多様性を見出し、無関係なままの響き合いを豊に描き出す、その意味での発見法的な(heuristic)仕掛けと言えるだろう。

文学館の成否はこの仕掛けにかかっている。

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文学館の見え方(その9)

資料と展示の問題

○25万点は有効資料の実数か?
北海道文学館の学芸員によれば、現在、同文学館が保有する資料は25万点ほどだという。前にも書いたように、札幌中島公園の北海道文学館は、道立文学館と、財団法人北海道文学館の二つの面をもっている。北海道は、北海道文学館の管理運営を、財団法人に委託する形を取ってきたわけである。
この形態となってから10年、北海道から出る資料購入費で手に入れた資料は約1万5000点、それ以外の23万5000点ほどが財団法人北海道文学館のもの、という説明だった。

数字だけで判断すれば、財団法人のほうが遥かに大量の資料を保有しているように見える。だが、本当にそう言い切ることができるかどうか。
道の予算で購入した資料は高価なものが多く、購入に関する吟味を経て、納品や支払いについてもきちんとした記録があるはずである。
だが、財団法人が保有する資料は、その大半が寄贈された書籍であって、当然のことながら重複本が多い。有効資料の実数は23万5000点の3分の1か、4分の1程度と考えるのが妥当だろう。

○北大の例から見て
現在、北大の図書館には新渡戸稲造文庫や、内村鑑三文庫などの「個人文庫」がある。この人たちは近代の思想史や精神史に大きな足跡を残した卒業生であり、その業績を記念して「個人蔵書」を一括して保存したい。そういう考えの下に出来た「文庫」であって、だから仮に今、ある人が(またはその人の遺族が)自分の蔵書を一括寄贈するから、個人文庫を作って欲しいと申し入れたとしても、――よほど貴重な稀覯本(きこうぼん)のコレクションならばともかく――図書館は丁重にお断りするほかはないだろう。一番の現実的な理由は、書庫のキャパシティにそれだけの余裕がないからであるが、おのずからそこには、その人の業績や、蔵書の品質に関する評価が伴うからである。

私は38歳の時、国文学講座の講座担任の教官となった。「講座」の担任が何を意味したかについては、一度書いたことがある(HP「亀井秀雄の発言」掲載、「近代文学〈研究〉と大学―自伝的に―(2)」のⅤ章)。だから、ここでは省略するが、年長の卒業生から「来年、定年で退職するのだが、再就職の仕事を探してくれ」という電話が入ってくる。それも一人や二人ではない。なかには、「いま老人ホームに入っているのだが、誰か話し相手になってくれる学生を寄越してくれ」などというのもあった。
そうかと思うと、どこやらの坊さんが書いた軸物を持ち込んで、「我が家に伝わる掛け軸を、教養部の国文の先生に読んでもらおうと思ったところ、『ああ、そういうものは講座教官のところへ持っていって下さい』と言われました」という市民もいた。江戸時代の地方文書くらいは何とかなるが、悟り済ました坊さんの達筆めかした禅語ときては、とうてい私の手に負えない。これには閉口した。

そんな煩雑な仕事が定年まで25年ほども続いたが――特に初めの10年ほどがひどかった――なかでも一番多かったのは、蔵書を研究室に寄贈したいという話だった。
自分の集めた本を、後輩が役立ててくれれば、これほど嬉しいことはない。そういう気持はよく分かる。だが、その多くは国文学の専門書であり、すでに研究室に入っているものと重複する。それを受け入れるスペースはない。稀には、確かに貴重な文献もあり、そこで、「研究室にちょうだいしたいものを、こちらで選ばせてもらいたい」と問い合わせて見る。だがそれは、本人(または遺族)の望むところではない。本人(または遺族)にしてみれば、一括して受け取り、個人文庫の形で配架してもらいたいのである。

そういう経験からみて、23万5000点という数字は眉に唾をつけて聞いたほうがいい。この数は、全集1セットを1点とするのではなく、1冊を1点と数え、写真1葉も1点、葉書1葉も1点という数え方に基づいている。もし重複する書籍を1点と数えるならば、たちまち点数が半減し、あるいは3分の1に減ってしまう。なぜそう判断できるのか。財団法人の寄贈受け入れシステムに問題があるからである。

○小樽文学館の場合
小樽文学館の場合は、もちろん直接に文学館が寄贈を受けることもある。だが一般的には、市民の支援団体である「小樽文學舎」が寄贈を受け、そのなかから小樽文学館にとって資料的価値のあるものを選んで、それを文学館に寄贈する。余計な手間をかけているようだが、おかげで重複本や不用本を溜め込んでしまうことがない。いったん市立の文学館が寄贈を受け入れるならば、これは市民の財産となる。文学館の都合で、勝手にその財産を処分することはできない。そのために起こるかもしれない問題を、小樽のシステムはうまくガードしている。小樽文学館を立ち上げた市民の知恵の深さと言えるだろう。
逆に言えば、小樽文學舎にたくさんの重複本のストックが出来てしまったわけだが、これを活用する形で国際交流の道を拓くことができたのである(HP「亀井秀雄の発言」の、「「日本文学」を見直す――国際交流の視座から―」参照)。

○受け入れシステムの問題
だが、北海道文学館の場合、財団法人と、道立との関係関係は、必ずしも上のようではない。
今年(2005年)11月に開かれた、「道立文学館開館10周年」の記念行事で、財団法人北海道文学館の理事長・神谷忠孝が、「この文学館の建物ができたおかげで、多くの人が安心して本を寄贈してくれるようになった」という意味の挨拶をしていた。たぶん彼は財団法人の立場で挨拶したのだろうが、それはともかく、相変わらずこの文学館は寄贈受け入れの委員会もなければ、受け入れ基準もなく、いわば理事長や学芸員の恣意によって受け入れを決めているらしい。
財団法人を立ち上げるに当って、多くの人から寄贈を仰ぐ。これは、ことの性質上、やむを得ないことでもあり、大切なことでもあっただろう。しかし年間、道から1億7千万円も8千万円も予算をつけてもらう規模の文学館となった以上、資料購入や寄贈受け入れの基準がなければならない。購入や受け入れに、私情や恣意が紛れ込みかねないからである。

このことは、一括して寄贈された図書を「個人文庫」とするか、それとも図書館の分類に従って配架するか、という問題とも関連する。私は以前、北海道文学館の書庫を見せてもらったことがあるが、その辺の基準がよく分からなかった。個人文庫の形のものもあったが、あれは、いずれ配架し直すための過程的な処置だったのだろうか。
私個人としては、寄贈に関してよほど特別な事情がないかぎり、図書分類に従って配架したほうがよいと考えている。私はかつて評論を書いたことがあり、昭和文学を「専門」とする時期もあった。だから多分、私の蔵書は、小笠原克が持っていた本と70%ほど重なる。神谷忠孝の蔵書とも70%ほど重なっているはずである。そんなわけで、もし万が一3人の蔵書がそれぞれ個人文庫の形で、一つの建物に収まったとすれば、それだけスペースが必要になる。ばかりでなく、職員が登録して、データ化する作業量も増え、誰かが資料として利用する際にも、煩瑣な手間を要することになってしまうだろう。

もちろん私は、一つのタイトルの本は1冊あれば、それで充分だ、と考えているわけではない。例えば伊藤整の『得能五郎の生活と意見』という小説は、大東亜戦争直前の版と、大東亜戦争下の版と、戦後のGHQ占領下の版がある。それ以外にも数種類の版があるのだが、特にこの三つの版は表現に大幅な削除や加筆が見られ、それがどれほど大きい問題を孕んでいるか、私は「「得能五郎」と検閲」(岩波書店『隔月刊 文学』第4巻第5号、2003年9月)という論文で報告しておいた。
北海道の文学館としては、少なくともこの3種類だけは揃えておきたい。また、『得能五郎の生活と意見』以外の作品についても、本文の異同を研究したい人が訪れることは当然予想できる。そういう人の便宜を図るためにも、同一タイトルのテクストを一箇所にまとめて配架しておくことが必要なのである。

○心もとない数字
こんなふうに考えてみると、財団法人の学芸員がいう23万5000点が、果たしてきちんとした資料の整理と、有効資料の把握に基づく数字なのかどうか、はなはだ心もとない。書籍以外の資料に関しても同様で、自称文学者にはナルシストが多く、やたらに自分の写真や色紙などを押しつけてくる。そういう人間(またはその遺族)にかぎって、個人文庫や個人コーナーの色気がミエミエなのだが、さて、その1葉々々を、それぞれ1点と数えるとして、では、50点の写真のなかで使い物になるのは何点だろうか。これもまた、はなはだ心もとない。

○指定管理者制度への対応
ところで、北海道は来年度から、道立文学館に指定管理者制度を適用する。今年の5月27日の理事会でその話が出たが、館長や理事長の観測によれば、財団法人北海道文学館が指定されることはほぼ間違いないとのことだった。なぜなら、これほどの大量の資料を保有し、文学の展示に関して長年ノウハウを持つ組織や団体は他にはない。だから、指定を受けたいと手を挙げるところはないだろう。そういう理由だった。

そんなに都合よく事が運ぶかな? 私はチラッと疑問に思ったが、小樽で6月18日から始まる「伊藤整生誕100年」記念行事の準備に忙しく、立ち入った聞き方をしなかった。ところが、10月6日付けの文書で、財団法人の理事長・神谷忠孝から、理事会・評議員会を10月14日に開く通知が来た。議題は「北海道が平成18年度から実施する指定管理者制度の導入に伴う財団法人北海道文学館の文学資料の取扱いについて」というもので、同封の「道教委との折衝・協議の経緯」を読むと、理事長や職員はかなり慌てているらしい。
つまり、北海道教育委員会から、財団法人北海道文学館以外の組織や団体が指定管理者に選ばれた場合の、財団法人が保有する資料の取扱いの相談を受けた。教育委員会としては、当然その点の合意を作っておく必要があったのだが、財団側は、「えっ!! 自分のところ以外にも、手を挙げそうな団体や組織があるのか?」とパニックに陥ってしまった。察するに、実情はそんなところだったであろう。

私は既に10月14日の予定を立ててしまったので、出席はできない。そこで、私なりに懸念する問題点を3点挙げ、「出席の皆さんに披露し、十分に議論していただきたく、後日、議論の内容をうかがいたく存じます」と書き添えて、神谷理事長に送った。
私は、いずれ議論の内容を聞く機会があるだろうと考えていた。ところが思いがけないことに、10月21日、文学館長から電話があり、私の文書は14日の会議に紹介しなかった、という。館長は「自分の手落ちだった」と言い、私も館長を責める気はない。釈明を額面どおりに受け取っておいたのだが、考えてみれば、私は理事長の神谷忠孝宛に文書を送ったのであって、館長に宛てたのではない。当然、理事長のところにまでは届いたはずで、してみるならば、神谷理事長か、あるいは学芸副館長が握りつぶしたのだろう。ところが、11月2日の記念式典に私が出席することを知って、これはマズイと、館長に釈明してもらうことにした。姑息だなア……。

その全文をここに持ち出すつもりはないが、そのなかで私はこんなことを書いた。
《引用》

もし仮に指定管理者となった財団法人なり、民間企業なりが、財団法人北海道文学館の所有する資料を一切使わない展示やイヴェントを企画したとすれば、「資料の所有者である当財団と協議、連携」を行わねばならない義務や責任を解除される。
その場合、財団法人北海道文学館の存在理由はどうなるか。これは決して極論ではなく、理論的にも現実的にもありうることだと、私は考えています。
もしそうなれば、財団法人北海道文学館は北海道に寄託した資料の「所有権」だけを抱えて、漂流を始める。あるいは立ち枯れの状態に陥ってしまうことになるでしょう。

 きつい皮肉に聞えたかもしれないが、財団の理事長や職員がドンブリ勘定の23万5000点をご大層な財産と勘違いし、「これなしに展示は出来ないはずだ」と信じている、その視野狭窄に、私は警告を発したかったのである。

○低調な「北海道文学」の展示
そして事実、道立文学館開館10周年の記念式典に配った『北海道文学館の歩み』を見ると、私の懸念は必ずしも的外れではなかった。
そのなかの「展覧会事業別観覧者数の推移」によって、「常設展」の実態を見てみよう。それによれば、常設展の観覧者数は、平成8年度の1万3500人をピークとして、平成9、10、11、12、13年度は1万人を割って、8000人台に落ち込み、平成14、15年度は辛うじて1万人を越えたが、平成16年度はまた8000人台にまで落ちている。
 
ただ、短期間の「特別展」や「所蔵品展・企画展」では、観覧者が1日に100人を越えた場合もある。それは平成7年度の「北の夜明け―海峡を越えた探検家・紀行家たち」(特別展、34日間)や、平成11年度の「夏目漱石と芥川龍之介」(特別展、26日間)、平成13年度の「夢の世界のおくりもの―アンデルセン童話・絵本原画展」(特別展、32日間)、平成14年度の「寺山修司展―テラヤマ・ワールド きらめく闇の宇宙」(特別展、39日間)、平成11年度の「北欧叙事詩『カレワラ』の光彩―中野北溟の書作による神話世界―」(所蔵品展・企画展、11日間)、平成14年度の「谷川俊太郎展」(所蔵品展・企画展、25日間)だった。
以上が観覧者の多い展示だったが、分るように、いわゆる北海道文学や、その書き手に関する展示は、このなかに一つも入っていないのである。
 
もし文学的・文化的なイヴェントを手がけてきた、展示のプロがこれを見たら、財団の保有する資料を無視しても一向に差支えない。むしろ北海道文学などという箍を外したほうが、かえって観覧者の獲得に有利であることを、たちまち見抜いてしまうだろう。

○視点と能力の問題
 それにしても、財団がいう「保有」とはどういうことなのか。「所有」と同じなのか、違うのか。資料のなかには「寄贈」されたものと、「寄託」されたものとがあり、当然その違いに応じて、財団の「権利」にも違いがあるはずだが、その辺の説明が曖昧なのではないか。その点を指摘して、私は次のように結んだ。
《引用》
その点を踏まえながら、個々の「資料」に関して、どのような経緯で「保有」するに至ったか、それは誰にとっての/何のための資料なのか、それはどこに帰属するのが妥当なのか、などのことを確認することが必要でしょう。それと併せて、財団法人北海道文学館はその資料をどのように価値判断し、如何に活用することができるのかを、明確に把握する必要があると考えます。
文学館の「主体性」は、絶えず資料の価値を問い直す判断力と、それを活用する能力にかかっているはずだからです。

 もうこれ以上の説明は不用だと思うが、文学館の仕事は、レアもの、おタカラ感覚で、文学者の私生活を窺わせる「珍物」を溜め込むことではない。「市民にとって/どんな発見をもたらし得るか」の視点で蒐集し、展示すべきであって、もしこの視点と能力を欠いているならば、いくら指定管理者に選ばれるべきプライオリティを力説したところで、所詮は笑い話にしか聞かれないであろう。

○与謝野晶子は「北海道の文学」?
私はそう考えていたので、11月2日、常設展のリニューアル・オープンにおける学芸副館長の挨拶を聞き、定見のなさに驚いた。彼の説明によれば、〈リニューアルした常設展の目玉は、小林多喜二の自筆原稿「故里の顔」6枚と、与謝野晶子の直筆の屏風〉なのだそうである。
 『ガイド 北海道の文学』によれば、今度の常設展は、従来の「北海道文学の流れ」を改め、新たな「北海道の文学」というテーマに即したものらしいが、しかし結局のところ、従来の文学観と展示スタイルを踏襲しているにすぎない。このことは、前に指摘しておいた。
もっとも、散文系のコーナーは榎本武揚に始まって、池澤夏樹で終わっており、学芸員としては、ここら辺りに新味を出したつもりなのかもしれない。だが、気の毒ながら、何をもって「北海道の文学」と呼ぶのか。かえってそのコンセプトが分からなくなってしまった。その上、与謝野晶子が歌を書いた屏風が加わって、これが目玉だと言うのであるから、ますます訳が分からない。おまけに、この屏風の展示は、11月20日までの期間限定だ、という。常設展の展示がわずか20日間足らずの期間限定だって? それは常設展と言わないのじゃないか。

この屏風には大きく二首、歌が書いてあり、更にその余白を埋める形で、何十首もの歌が細字でびっしりと書き込んである。もし本当にこれを展示に価する貴重な資料と考えるならば、それこそ「所蔵品展・企画展」を別に設定すればよい。書き込まれた歌を全て翻刻し、晶子歌集の歌との異同を調べて、その特徴を明らかにし、この屏風の成立事情や、周辺事情を考証して、説明を附ける。それだけの手間を惜しまなければ、十分に独立した展示に耐え得るものができたはずである。

○小林多喜二の「息遣い」?
 小林多喜二の「故里の顔」について言えば、すでに全集に収められている。今までその存在を知られたことがなく、だから活字になったこともない新資料であれば、確かに話題性は高いだろう。だが、これはそのような新発見の原稿ではない。そうである以上、これを目玉の新資料として展示するには、少なくとも推敲過程の分析に基づく解説をつける必要がある。
 だが、展示にその種の説明がなく、取材した新聞記者は書くことが見つからなかったらしい。北海道新聞の木崎美和さんが、「道立文学館の挑戦」という記事で、「原稿用紙の余白にまで、メモ書きがされ、多喜二の息遣いが伝わってくるようだ」(『北海道新聞』2005年11月11日 夕刊)と書いている。気の毒に、そんな決り文句で恰好をつけておくほかなかったのだろう。
 
揚げ足を取るようだが、推敲とは生理現象ではない。自分の表現に対するダイアロジックな批評と、パラディグマティックな選択の揺れを示す、心的過程の痕跡なのである。
 ところが、一時代前までの文学研究者はその点に関する自覚も方法も持たなかったため、筆字やペン書きの「生原稿」や「書き込み」に接すると、さっそく「産みの苦しみ」やら、「息遣い」やら、〈芸術的苦悩〉のお話をひねり出し、〈文豪〉の口臭を嗅いで嬉しがるみたいな、悪趣味なことをやってきた。木崎さんは、そんな言い回しについ引きずられてしまったのだろう。

○資料の公共化に向けて
 途中でも言及したが、今年の6月、小樽文学館は「伊藤整生誕100年」の記念行事を行い、「チャタレイ裁判」に関する国際的なシンポジウムを開いた。なぜチャタレイ裁判に焦点を合わせたのか。幾つかの理由があったが、一番の理由は、伊藤整自身が大量の書き込みをした『チャタレイ夫人の恋人』という、文字通り新資料の発見があったからである。
 私はシンポジウムに先立つ、5月28日、小樽文学館で、「『チャタレイ夫人の恋人』を読む」という、新資料の紹介を兼ねた講演をした。シンポジウムの後には、「戦略的な読み――〈新資料〉伊藤整による『チャタレイ夫人の恋人』書き込み―」(岩波書店『隔月刊 文学』第6巻第5号、2005年9月)という論文を発表した。
 
また、この論文の発表に合わせて、小樽文学館のホームページに、伊藤整の書き込みが見られる箇所を――それは「チャタレイ裁判」で問題になった箇所でもあるが――画像公開した。何故そうしたのか。資料の公共化のためである。
伊藤整訳の『チャタレイ夫人の恋人』は何千冊もあるが、彼自身の書き込みが見られる『チャタレイ夫人の恋人』は1冊しかない。私は「天下唯一本」とも言うべき、この資料の紹介論文を書いたわけだが、逆に言えば、「天下唯一本」を手にし得る立場のおかげで論文を書いたことになる。このことを特権化しないためには、紹介論文と同時に、重要な箇所を画像公開し、他の人が私の読みと分析を検証できる条件を整えなければならない。
画像公開を試みた直接の理由は以上のごとくであるが、もう少し一般化して言えば、単なる資料の展示を越えて、広く市民に向けて公共化するには、どうすればよいか。この問題に関する一つの試みだったのである。
 
 しかし他方、資料を良好な状態で保存することも、文学館の責任である。求められるままにコピーを取って渡したりしていれば、資料の破損は避けられない。
 このことも画像公開を選んだ理由の一つであるが、著作権やプライバシーの問題が、それに伴って起こってくる。今度の件については、幸い伊藤整のご遺族の理解を得ることができたが、以上の事例をいきなり一般化することはできない。そのことをよく弁え、慎重に進めながら、資料の公共化を図ることが必要だろう。

 書き込みと言えば、小樽文学館は昨年、大正年間に出た阿部次郎の『三太郎の日記』を寄贈されたが、これには複数の人の書き込みが見られる。検討の結果、書き込みをした人の一人は小林多喜二だろう、と判断できたので、今年の11月3日、「書き込みに見る多喜二と同時代」という、新資料紹介の講演を行った。この講演も近いうちに文章化する予定であるが、資料の画像公開については、現在、検討をしている。

○化けそこなった北海道文学館
 ともあれ小樽文学館は、以上のように、資料の展示と資料の公共化の違いを念頭に置きながら、文学館のあり方を探っているわけだが、それだけにいっそう北海道文学館の旧態依然たる「おタカラ」感覚に驚かされた。一体どこがリニューアルなのだろう。
理事長も学芸副館長も、さすがにその中途半端さに気が引けたのか、「今回の更新はまだ「第一期工事」であるにすぎない」などと弁解していた。では、第二期の構想と、その実施時期の見通しは? 残念ながら、それはどこにも語られていない。
化けそこなった狸が、尻尾をかかえてウロウロしている。そんな光景を見せつけられた感じで、なんとも情けなかった。

〔前回の原稿を書いた後の12月24日、私は小樽文学館で、「『風の谷のナウシカ』の世界」という話をした。小樽文學舎の皆さんと、年を越えた1月の10日から東京の文学散歩に出かけ、ジブリ美術館も見学する。ナウシカ論はその予備講座だったわけだが、その準備のため、徳間書房のコミックス版『風の谷のナウシカ』全7巻を読み直し、久しぶりに質量豊かな物語世界を堪能し、だがその結果、この文章の着手が遅れ、ついに年を越えてしまった。2006年1月1日〕

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