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文学館の見え方(その9)

資料と展示の問題

○25万点は有効資料の実数か?
北海道文学館の学芸員によれば、現在、同文学館が保有する資料は25万点ほどだという。前にも書いたように、札幌中島公園の北海道文学館は、道立文学館と、財団法人北海道文学館の二つの面をもっている。北海道は、北海道文学館の管理運営を、財団法人に委託する形を取ってきたわけである。
この形態となってから10年、北海道から出る資料購入費で手に入れた資料は約1万5000点、それ以外の23万5000点ほどが財団法人北海道文学館のもの、という説明だった。

数字だけで判断すれば、財団法人のほうが遥かに大量の資料を保有しているように見える。だが、本当にそう言い切ることができるかどうか。
道の予算で購入した資料は高価なものが多く、購入に関する吟味を経て、納品や支払いについてもきちんとした記録があるはずである。
だが、財団法人が保有する資料は、その大半が寄贈された書籍であって、当然のことながら重複本が多い。有効資料の実数は23万5000点の3分の1か、4分の1程度と考えるのが妥当だろう。

○北大の例から見て
現在、北大の図書館には新渡戸稲造文庫や、内村鑑三文庫などの「個人文庫」がある。この人たちは近代の思想史や精神史に大きな足跡を残した卒業生であり、その業績を記念して「個人蔵書」を一括して保存したい。そういう考えの下に出来た「文庫」であって、だから仮に今、ある人が(またはその人の遺族が)自分の蔵書を一括寄贈するから、個人文庫を作って欲しいと申し入れたとしても、――よほど貴重な稀覯本(きこうぼん)のコレクションならばともかく――図書館は丁重にお断りするほかはないだろう。一番の現実的な理由は、書庫のキャパシティにそれだけの余裕がないからであるが、おのずからそこには、その人の業績や、蔵書の品質に関する評価が伴うからである。

私は38歳の時、国文学講座の講座担任の教官となった。「講座」の担任が何を意味したかについては、一度書いたことがある(HP「亀井秀雄の発言」掲載、「近代文学〈研究〉と大学―自伝的に―(2)」のⅤ章)。だから、ここでは省略するが、年長の卒業生から「来年、定年で退職するのだが、再就職の仕事を探してくれ」という電話が入ってくる。それも一人や二人ではない。なかには、「いま老人ホームに入っているのだが、誰か話し相手になってくれる学生を寄越してくれ」などというのもあった。
そうかと思うと、どこやらの坊さんが書いた軸物を持ち込んで、「我が家に伝わる掛け軸を、教養部の国文の先生に読んでもらおうと思ったところ、『ああ、そういうものは講座教官のところへ持っていって下さい』と言われました」という市民もいた。江戸時代の地方文書くらいは何とかなるが、悟り済ました坊さんの達筆めかした禅語ときては、とうてい私の手に負えない。これには閉口した。

そんな煩雑な仕事が定年まで25年ほども続いたが――特に初めの10年ほどがひどかった――なかでも一番多かったのは、蔵書を研究室に寄贈したいという話だった。
自分の集めた本を、後輩が役立ててくれれば、これほど嬉しいことはない。そういう気持はよく分かる。だが、その多くは国文学の専門書であり、すでに研究室に入っているものと重複する。それを受け入れるスペースはない。稀には、確かに貴重な文献もあり、そこで、「研究室にちょうだいしたいものを、こちらで選ばせてもらいたい」と問い合わせて見る。だがそれは、本人(または遺族)の望むところではない。本人(または遺族)にしてみれば、一括して受け取り、個人文庫の形で配架してもらいたいのである。

そういう経験からみて、23万5000点という数字は眉に唾をつけて聞いたほうがいい。この数は、全集1セットを1点とするのではなく、1冊を1点と数え、写真1葉も1点、葉書1葉も1点という数え方に基づいている。もし重複する書籍を1点と数えるならば、たちまち点数が半減し、あるいは3分の1に減ってしまう。なぜそう判断できるのか。財団法人の寄贈受け入れシステムに問題があるからである。

○小樽文学館の場合
小樽文学館の場合は、もちろん直接に文学館が寄贈を受けることもある。だが一般的には、市民の支援団体である「小樽文學舎」が寄贈を受け、そのなかから小樽文学館にとって資料的価値のあるものを選んで、それを文学館に寄贈する。余計な手間をかけているようだが、おかげで重複本や不用本を溜め込んでしまうことがない。いったん市立の文学館が寄贈を受け入れるならば、これは市民の財産となる。文学館の都合で、勝手にその財産を処分することはできない。そのために起こるかもしれない問題を、小樽のシステムはうまくガードしている。小樽文学館を立ち上げた市民の知恵の深さと言えるだろう。
逆に言えば、小樽文學舎にたくさんの重複本のストックが出来てしまったわけだが、これを活用する形で国際交流の道を拓くことができたのである(HP「亀井秀雄の発言」の、「「日本文学」を見直す――国際交流の視座から―」参照)。

○受け入れシステムの問題
だが、北海道文学館の場合、財団法人と、道立との関係関係は、必ずしも上のようではない。
今年(2005年)11月に開かれた、「道立文学館開館10周年」の記念行事で、財団法人北海道文学館の理事長・神谷忠孝が、「この文学館の建物ができたおかげで、多くの人が安心して本を寄贈してくれるようになった」という意味の挨拶をしていた。たぶん彼は財団法人の立場で挨拶したのだろうが、それはともかく、相変わらずこの文学館は寄贈受け入れの委員会もなければ、受け入れ基準もなく、いわば理事長や学芸員の恣意によって受け入れを決めているらしい。
財団法人を立ち上げるに当って、多くの人から寄贈を仰ぐ。これは、ことの性質上、やむを得ないことでもあり、大切なことでもあっただろう。しかし年間、道から1億7千万円も8千万円も予算をつけてもらう規模の文学館となった以上、資料購入や寄贈受け入れの基準がなければならない。購入や受け入れに、私情や恣意が紛れ込みかねないからである。

このことは、一括して寄贈された図書を「個人文庫」とするか、それとも図書館の分類に従って配架するか、という問題とも関連する。私は以前、北海道文学館の書庫を見せてもらったことがあるが、その辺の基準がよく分からなかった。個人文庫の形のものもあったが、あれは、いずれ配架し直すための過程的な処置だったのだろうか。
私個人としては、寄贈に関してよほど特別な事情がないかぎり、図書分類に従って配架したほうがよいと考えている。私はかつて評論を書いたことがあり、昭和文学を「専門」とする時期もあった。だから多分、私の蔵書は、小笠原克が持っていた本と70%ほど重なる。神谷忠孝の蔵書とも70%ほど重なっているはずである。そんなわけで、もし万が一3人の蔵書がそれぞれ個人文庫の形で、一つの建物に収まったとすれば、それだけスペースが必要になる。ばかりでなく、職員が登録して、データ化する作業量も増え、誰かが資料として利用する際にも、煩瑣な手間を要することになってしまうだろう。

もちろん私は、一つのタイトルの本は1冊あれば、それで充分だ、と考えているわけではない。例えば伊藤整の『得能五郎の生活と意見』という小説は、大東亜戦争直前の版と、大東亜戦争下の版と、戦後のGHQ占領下の版がある。それ以外にも数種類の版があるのだが、特にこの三つの版は表現に大幅な削除や加筆が見られ、それがどれほど大きい問題を孕んでいるか、私は「「得能五郎」と検閲」(岩波書店『隔月刊 文学』第4巻第5号、2003年9月)という論文で報告しておいた。
北海道の文学館としては、少なくともこの3種類だけは揃えておきたい。また、『得能五郎の生活と意見』以外の作品についても、本文の異同を研究したい人が訪れることは当然予想できる。そういう人の便宜を図るためにも、同一タイトルのテクストを一箇所にまとめて配架しておくことが必要なのである。

○心もとない数字
こんなふうに考えてみると、財団法人の学芸員がいう23万5000点が、果たしてきちんとした資料の整理と、有効資料の把握に基づく数字なのかどうか、はなはだ心もとない。書籍以外の資料に関しても同様で、自称文学者にはナルシストが多く、やたらに自分の写真や色紙などを押しつけてくる。そういう人間(またはその遺族)にかぎって、個人文庫や個人コーナーの色気がミエミエなのだが、さて、その1葉々々を、それぞれ1点と数えるとして、では、50点の写真のなかで使い物になるのは何点だろうか。これもまた、はなはだ心もとない。

○指定管理者制度への対応
ところで、北海道は来年度から、道立文学館に指定管理者制度を適用する。今年の5月27日の理事会でその話が出たが、館長や理事長の観測によれば、財団法人北海道文学館が指定されることはほぼ間違いないとのことだった。なぜなら、これほどの大量の資料を保有し、文学の展示に関して長年ノウハウを持つ組織や団体は他にはない。だから、指定を受けたいと手を挙げるところはないだろう。そういう理由だった。

そんなに都合よく事が運ぶかな? 私はチラッと疑問に思ったが、小樽で6月18日から始まる「伊藤整生誕100年」記念行事の準備に忙しく、立ち入った聞き方をしなかった。ところが、10月6日付けの文書で、財団法人の理事長・神谷忠孝から、理事会・評議員会を10月14日に開く通知が来た。議題は「北海道が平成18年度から実施する指定管理者制度の導入に伴う財団法人北海道文学館の文学資料の取扱いについて」というもので、同封の「道教委との折衝・協議の経緯」を読むと、理事長や職員はかなり慌てているらしい。
つまり、北海道教育委員会から、財団法人北海道文学館以外の組織や団体が指定管理者に選ばれた場合の、財団法人が保有する資料の取扱いの相談を受けた。教育委員会としては、当然その点の合意を作っておく必要があったのだが、財団側は、「えっ!! 自分のところ以外にも、手を挙げそうな団体や組織があるのか?」とパニックに陥ってしまった。察するに、実情はそんなところだったであろう。

私は既に10月14日の予定を立ててしまったので、出席はできない。そこで、私なりに懸念する問題点を3点挙げ、「出席の皆さんに披露し、十分に議論していただきたく、後日、議論の内容をうかがいたく存じます」と書き添えて、神谷理事長に送った。
私は、いずれ議論の内容を聞く機会があるだろうと考えていた。ところが思いがけないことに、10月21日、文学館長から電話があり、私の文書は14日の会議に紹介しなかった、という。館長は「自分の手落ちだった」と言い、私も館長を責める気はない。釈明を額面どおりに受け取っておいたのだが、考えてみれば、私は理事長の神谷忠孝宛に文書を送ったのであって、館長に宛てたのではない。当然、理事長のところにまでは届いたはずで、してみるならば、神谷理事長か、あるいは学芸副館長が握りつぶしたのだろう。ところが、11月2日の記念式典に私が出席することを知って、これはマズイと、館長に釈明してもらうことにした。姑息だなア……。

その全文をここに持ち出すつもりはないが、そのなかで私はこんなことを書いた。
《引用》

もし仮に指定管理者となった財団法人なり、民間企業なりが、財団法人北海道文学館の所有する資料を一切使わない展示やイヴェントを企画したとすれば、「資料の所有者である当財団と協議、連携」を行わねばならない義務や責任を解除される。
その場合、財団法人北海道文学館の存在理由はどうなるか。これは決して極論ではなく、理論的にも現実的にもありうることだと、私は考えています。
もしそうなれば、財団法人北海道文学館は北海道に寄託した資料の「所有権」だけを抱えて、漂流を始める。あるいは立ち枯れの状態に陥ってしまうことになるでしょう。

 きつい皮肉に聞えたかもしれないが、財団の理事長や職員がドンブリ勘定の23万5000点をご大層な財産と勘違いし、「これなしに展示は出来ないはずだ」と信じている、その視野狭窄に、私は警告を発したかったのである。

○低調な「北海道文学」の展示
そして事実、道立文学館開館10周年の記念式典に配った『北海道文学館の歩み』を見ると、私の懸念は必ずしも的外れではなかった。
そのなかの「展覧会事業別観覧者数の推移」によって、「常設展」の実態を見てみよう。それによれば、常設展の観覧者数は、平成8年度の1万3500人をピークとして、平成9、10、11、12、13年度は1万人を割って、8000人台に落ち込み、平成14、15年度は辛うじて1万人を越えたが、平成16年度はまた8000人台にまで落ちている。
 
ただ、短期間の「特別展」や「所蔵品展・企画展」では、観覧者が1日に100人を越えた場合もある。それは平成7年度の「北の夜明け―海峡を越えた探検家・紀行家たち」(特別展、34日間)や、平成11年度の「夏目漱石と芥川龍之介」(特別展、26日間)、平成13年度の「夢の世界のおくりもの―アンデルセン童話・絵本原画展」(特別展、32日間)、平成14年度の「寺山修司展―テラヤマ・ワールド きらめく闇の宇宙」(特別展、39日間)、平成11年度の「北欧叙事詩『カレワラ』の光彩―中野北溟の書作による神話世界―」(所蔵品展・企画展、11日間)、平成14年度の「谷川俊太郎展」(所蔵品展・企画展、25日間)だった。
以上が観覧者の多い展示だったが、分るように、いわゆる北海道文学や、その書き手に関する展示は、このなかに一つも入っていないのである。
 
もし文学的・文化的なイヴェントを手がけてきた、展示のプロがこれを見たら、財団の保有する資料を無視しても一向に差支えない。むしろ北海道文学などという箍を外したほうが、かえって観覧者の獲得に有利であることを、たちまち見抜いてしまうだろう。

○視点と能力の問題
 それにしても、財団がいう「保有」とはどういうことなのか。「所有」と同じなのか、違うのか。資料のなかには「寄贈」されたものと、「寄託」されたものとがあり、当然その違いに応じて、財団の「権利」にも違いがあるはずだが、その辺の説明が曖昧なのではないか。その点を指摘して、私は次のように結んだ。
《引用》
その点を踏まえながら、個々の「資料」に関して、どのような経緯で「保有」するに至ったか、それは誰にとっての/何のための資料なのか、それはどこに帰属するのが妥当なのか、などのことを確認することが必要でしょう。それと併せて、財団法人北海道文学館はその資料をどのように価値判断し、如何に活用することができるのかを、明確に把握する必要があると考えます。
文学館の「主体性」は、絶えず資料の価値を問い直す判断力と、それを活用する能力にかかっているはずだからです。

 もうこれ以上の説明は不用だと思うが、文学館の仕事は、レアもの、おタカラ感覚で、文学者の私生活を窺わせる「珍物」を溜め込むことではない。「市民にとって/どんな発見をもたらし得るか」の視点で蒐集し、展示すべきであって、もしこの視点と能力を欠いているならば、いくら指定管理者に選ばれるべきプライオリティを力説したところで、所詮は笑い話にしか聞かれないであろう。

○与謝野晶子は「北海道の文学」?
私はそう考えていたので、11月2日、常設展のリニューアル・オープンにおける学芸副館長の挨拶を聞き、定見のなさに驚いた。彼の説明によれば、〈リニューアルした常設展の目玉は、小林多喜二の自筆原稿「故里の顔」6枚と、与謝野晶子の直筆の屏風〉なのだそうである。
 『ガイド 北海道の文学』によれば、今度の常設展は、従来の「北海道文学の流れ」を改め、新たな「北海道の文学」というテーマに即したものらしいが、しかし結局のところ、従来の文学観と展示スタイルを踏襲しているにすぎない。このことは、前に指摘しておいた。
もっとも、散文系のコーナーは榎本武揚に始まって、池澤夏樹で終わっており、学芸員としては、ここら辺りに新味を出したつもりなのかもしれない。だが、気の毒ながら、何をもって「北海道の文学」と呼ぶのか。かえってそのコンセプトが分からなくなってしまった。その上、与謝野晶子が歌を書いた屏風が加わって、これが目玉だと言うのであるから、ますます訳が分からない。おまけに、この屏風の展示は、11月20日までの期間限定だ、という。常設展の展示がわずか20日間足らずの期間限定だって? それは常設展と言わないのじゃないか。

この屏風には大きく二首、歌が書いてあり、更にその余白を埋める形で、何十首もの歌が細字でびっしりと書き込んである。もし本当にこれを展示に価する貴重な資料と考えるならば、それこそ「所蔵品展・企画展」を別に設定すればよい。書き込まれた歌を全て翻刻し、晶子歌集の歌との異同を調べて、その特徴を明らかにし、この屏風の成立事情や、周辺事情を考証して、説明を附ける。それだけの手間を惜しまなければ、十分に独立した展示に耐え得るものができたはずである。

○小林多喜二の「息遣い」?
 小林多喜二の「故里の顔」について言えば、すでに全集に収められている。今までその存在を知られたことがなく、だから活字になったこともない新資料であれば、確かに話題性は高いだろう。だが、これはそのような新発見の原稿ではない。そうである以上、これを目玉の新資料として展示するには、少なくとも推敲過程の分析に基づく解説をつける必要がある。
 だが、展示にその種の説明がなく、取材した新聞記者は書くことが見つからなかったらしい。北海道新聞の木崎美和さんが、「道立文学館の挑戦」という記事で、「原稿用紙の余白にまで、メモ書きがされ、多喜二の息遣いが伝わってくるようだ」(『北海道新聞』2005年11月11日 夕刊)と書いている。気の毒に、そんな決り文句で恰好をつけておくほかなかったのだろう。
 
揚げ足を取るようだが、推敲とは生理現象ではない。自分の表現に対するダイアロジックな批評と、パラディグマティックな選択の揺れを示す、心的過程の痕跡なのである。
 ところが、一時代前までの文学研究者はその点に関する自覚も方法も持たなかったため、筆字やペン書きの「生原稿」や「書き込み」に接すると、さっそく「産みの苦しみ」やら、「息遣い」やら、〈芸術的苦悩〉のお話をひねり出し、〈文豪〉の口臭を嗅いで嬉しがるみたいな、悪趣味なことをやってきた。木崎さんは、そんな言い回しについ引きずられてしまったのだろう。

○資料の公共化に向けて
 途中でも言及したが、今年の6月、小樽文学館は「伊藤整生誕100年」の記念行事を行い、「チャタレイ裁判」に関する国際的なシンポジウムを開いた。なぜチャタレイ裁判に焦点を合わせたのか。幾つかの理由があったが、一番の理由は、伊藤整自身が大量の書き込みをした『チャタレイ夫人の恋人』という、文字通り新資料の発見があったからである。
 私はシンポジウムに先立つ、5月28日、小樽文学館で、「『チャタレイ夫人の恋人』を読む」という、新資料の紹介を兼ねた講演をした。シンポジウムの後には、「戦略的な読み――〈新資料〉伊藤整による『チャタレイ夫人の恋人』書き込み―」(岩波書店『隔月刊 文学』第6巻第5号、2005年9月)という論文を発表した。
 
また、この論文の発表に合わせて、小樽文学館のホームページに、伊藤整の書き込みが見られる箇所を――それは「チャタレイ裁判」で問題になった箇所でもあるが――画像公開した。何故そうしたのか。資料の公共化のためである。
伊藤整訳の『チャタレイ夫人の恋人』は何千冊もあるが、彼自身の書き込みが見られる『チャタレイ夫人の恋人』は1冊しかない。私は「天下唯一本」とも言うべき、この資料の紹介論文を書いたわけだが、逆に言えば、「天下唯一本」を手にし得る立場のおかげで論文を書いたことになる。このことを特権化しないためには、紹介論文と同時に、重要な箇所を画像公開し、他の人が私の読みと分析を検証できる条件を整えなければならない。
画像公開を試みた直接の理由は以上のごとくであるが、もう少し一般化して言えば、単なる資料の展示を越えて、広く市民に向けて公共化するには、どうすればよいか。この問題に関する一つの試みだったのである。
 
 しかし他方、資料を良好な状態で保存することも、文学館の責任である。求められるままにコピーを取って渡したりしていれば、資料の破損は避けられない。
 このことも画像公開を選んだ理由の一つであるが、著作権やプライバシーの問題が、それに伴って起こってくる。今度の件については、幸い伊藤整のご遺族の理解を得ることができたが、以上の事例をいきなり一般化することはできない。そのことをよく弁え、慎重に進めながら、資料の公共化を図ることが必要だろう。

 書き込みと言えば、小樽文学館は昨年、大正年間に出た阿部次郎の『三太郎の日記』を寄贈されたが、これには複数の人の書き込みが見られる。検討の結果、書き込みをした人の一人は小林多喜二だろう、と判断できたので、今年の11月3日、「書き込みに見る多喜二と同時代」という、新資料紹介の講演を行った。この講演も近いうちに文章化する予定であるが、資料の画像公開については、現在、検討をしている。

○化けそこなった北海道文学館
 ともあれ小樽文学館は、以上のように、資料の展示と資料の公共化の違いを念頭に置きながら、文学館のあり方を探っているわけだが、それだけにいっそう北海道文学館の旧態依然たる「おタカラ」感覚に驚かされた。一体どこがリニューアルなのだろう。
理事長も学芸副館長も、さすがにその中途半端さに気が引けたのか、「今回の更新はまだ「第一期工事」であるにすぎない」などと弁解していた。では、第二期の構想と、その実施時期の見通しは? 残念ながら、それはどこにも語られていない。
化けそこなった狸が、尻尾をかかえてウロウロしている。そんな光景を見せつけられた感じで、なんとも情けなかった。

〔前回の原稿を書いた後の12月24日、私は小樽文学館で、「『風の谷のナウシカ』の世界」という話をした。小樽文學舎の皆さんと、年を越えた1月の10日から東京の文学散歩に出かけ、ジブリ美術館も見学する。ナウシカ論はその予備講座だったわけだが、その準備のため、徳間書房のコミックス版『風の谷のナウシカ』全7巻を読み直し、久しぶりに質量豊かな物語世界を堪能し、だがその結果、この文章の着手が遅れ、ついに年を越えてしまった。2006年1月1日〕

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