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文学館の見え方(その8)

クロノ・トポス

○トポスとは何か
平成12(2000)年7月、「中野重治と北海道」という講演のなかで、私はクロノ・トポスについてこんなふうに説明した。
《引用》 

この言葉にはあまりなじみのない方もいらっしゃるかもしれません。ですから簡単に説明致しますと、クロノというのはクロノロジイ(chronology)の略語で、年代とか年表とかの意味ですが、ここでは時間や歴史の見方を意味すると言っていいでしょう。トポスとはトポロジイ(topology)の略語で、空間的な位相や見方を意味します。(中略)
  
それでは歴史学や文化研究で言うクロノ・トポスとはどういうことか、という疑問が生まれてくるわけですが、まずトポスのほうから説明しますと、例えば小樽という地域はどういうトポス、つまり場所なのか。そう問いかけられた時、多くの人は日本列島を頭のなかに描きながら、この日本列島の北方に位置する島の、一つの港町として説明するのではないか、と思います。それは日本という国の枠組みのなかで小樽の地理的、経済的、文化的な位相をとらえていることになるわけですが、しかし、なかには、主にサハリンやウラジオストクとの関係で小樽の地理的な位相を考える人もいるかもしれません。かつてはそういう人々も多く小樽に住んでいたでしょう。その人たちにとって小樽はかならずしも「北方」ではなかった、むしろ「南方」だったり「東方」だったりしたはずです。
  
  このように、一つの地域というのは、誰がどのような関心で、どこと比較するかによって、さまざまな側面をあらわしてくる。ですから私たちがクロノ・トポスという認識を大事にしようというのは、一つの枠組みのなかで、ある特定の地域との比較によって見出した特徴だけを、自分たちのトポスの「本質」として固定してしまうのではなくて、枠組みを変え、多様な比較対象を設定することによって、このトポスの多元性を明かにし、その豊かさを再発見しようという、学問的な目的があるからです。

 
 以上のことを、いま北海道文学(史)論の問題に近づけて言えば、こういうことになる。つまり、北海道文学(史)論を唱えた人たちが言う北海道の地域的特徴とか、風土的特色とかというものは、主に日本の本州――特に東京とその周辺――を比較対象として見出してきた。だが、もし万一、敗戦の時、日本がソ連の支配下に繰り込まれてしまったとすれば、この土地の人たちの地域意識や風土観は、直接にはサハリンを比較対象として、――同時に、モスクワやレニングラードなどを〈中央〉として意識しながら――形成されることになっただろう。
その場合、ソ連邦の辺境、極東の一小島に住む日本人は、政治的にも文化的にも、マイノリティに位置づけられてしまったにちがいない。仮に、この人たちの間から「北海道の日本文学」の自覚と主張が起ったとしても、そのモチーフや言説内容は、現在のそれと全く異なるものになっていたはずである。

○谷崎潤一郎の日本語論
以上、必要あって、やや奇矯なケースを考えてみたが、このように、私たちの自己認識(地域意識や風土観)は、どの地域の何と比較するかによって、微妙に、だが重要な差異をもって現われてくる。しかしもちろん、ある比較対象を通して見える特徴や特色が単なる仮象にすぎない、というわけではない。それは私たちの現実を構成する一つの傾向性として、確かに存在する。北海道は間違いなく東京よりも寒いし、雪が多い。
だが、傾向性としての特徴や特色を、その地域固有の本質であるかのように勘違いすると、そこに本質主義的強制、または一般論的強制とも言うべき間違いが起ってくる。

視野を拡げるために、言語論の例を挙げてみよう。
例えば、日本語の特徴を論ずるに当って、一時代前までの知識人は、しばしば、〈日本語文は必ずしも主語を必要としない〉とか、〈日本語文は、時制(テンス)の違いが明確ではない〉とか、〈単数と複数の違いが曖昧だ〉とかいう特徴を取り上げた。
日本の人間がこの特徴に気がついたのは、明治に入ってからのことで、言うまでもなくそれは、ヨーロッパの言語との比較が始まったからである。(ほんの一握り、ごく少数の蘭学者の間で始まった日本語研究は、ここでは外しておく)。

もちろんここにあげた日本語の特徴は、それ自体としては間違っていない。だが、それに言及する人たちは、そこからいきなり、次のような日本語・日本人論に走ることが多かった。「日本語は合理的な思考や、主格の観念を育てるには不向きな言語で、だから日本人は主体性が乏しい」、「だが、その反面、主客が融合した、感情移入豊かな芸術的境地を現わしてきた」と。この種のエッセイや、評論を目にした人も多いと思う。
谷崎潤一郎は『文章読本』(昭和9年)で、先の特徴を踏まえながら、学校で教える「国文法」は、これは「
非科学的な国語の構造を出来るだけ科学的に、西洋流に偽装した」ものでしかない、と断言した。つまり彼の見るところ、ヨーロッパの言語は科学的に解明することが可能な、合理的構造を持っていて、だからこそ「文法」という法則を見出すことができた。だが、日本語はそういう構造を持っていない。「テニヲハの使ひ方とか、数の数へ方とか、動詞助動詞の活用とか、仮名遣ひとか、いろいろ日本語に特有な規則はある」が、彼によれば、それはあくまでも実際的な規則であって、「日本語には明確な文法がありません」。

なるほど谷崎にとって、「せ/○/き/し/しか/○」は、ウンザリするほど煩雑な規則一つだったわけだ。しかしだからと言って、「is/was/been」が科学的な文法というわけでもないだろう? 谷崎のご高説を拝聴し、高校時代の退屈な授業を思い出しながら、ついそんな苦情を言いたくなった人もいるかもしれない。

○〈比較言論〉的な国民性論
要するに谷崎にとって、国文法は近代の「発明(invention)」でしかなかったわけだが、彼の独断は上のような国語・国文法観だけにとどまらない。以下のような国民性論にまで及んでいった。
《引用》
  
元来、われわれの国語の欠点の一つは、言葉の数が少ないと云ふ点であります。たとへば独楽や水車が転るのも、地球が太陽の周囲を廻るのも、等しくわれわれは「まはる」もしくは「めぐる」と云ひます。しかし前者は物それ自身が「まはる」であり、後者は一物が他物の周りを「まはる」のでありまして、両者は明かに違つてをりますが、日本語にはかう云ふ区別がない。が、英語は勿論、支那語でも立派に区別してゐる。支那で日本語の「まはる」もしくは「めぐる」に当る語を求めれば、転、旋、繞、環、巡、周、運、回、循等、実にその数が多いのでありまして、皆幾らかづつ意味が違ふ。(中略)然るに今日では、いかに漢語が豊富でも、もうそれだけでは間に合はなくなりました。そこでわれわれは「タクシー」「タイヤ」「ガソリン」「シリンダー」「メーター」などの如く英語をそのまゝ日本語化し、或は「形容詞」「副詞」「語彙」「科学」「文明」などの如く漢字を借りて西洋の言葉を翻訳したものを、用ひるやうになりました。

この種の〈比較言語論〉も一時よく耳にしたが、谷崎はそこから次のような国民性論を引き出している。
《引用》
  
国語と云ふものは国民性と切つても切れない関係にあるのでありまして、日本語の語彙が乏しいことは、必ずしも我等の文化が西洋や支那に劣つてゐると云ふ意味ではありません。それよりも寧ろ、我等の国民性がおしやべりでない証拠であります。我等日本人は戦争には強いが、いつも外交の談判になると、訥弁のために引けを取ります。(中略)古来支那や西洋には雄弁を以て聞えた偉人がありますが、日本の歴史には先づ見当らない。その反対に、我等は昔から能弁の人を軽蔑する風があつた。実際に又、第一流の人物には寡言沈黙の人が多く、能弁家となると、二流三流に下る場合が多いのである。

しかし、日本語のほうが遥かに豊かな語彙を持つ事柄は、幾らでもある。そう反論したいところだが、一時代前まではこの種の日本人論や日本文化論が盛んに行なわれた。これを言語決定論的な民族性論、あるいは文化論と呼ぶとしよう。取り上げられる言語現象は、恣意的な着眼と選択によるものでしかない。だが、言語という客観的な事例に即した議論に見えるだけに、案外コロリと誑かされてしまうのである。

○「本質主義」の怖さ
 以上のことをもう少し抽象してみると、認識論上の、根本的な問題が一つ浮かんでくる。
私たちは他国(他者)との比較によってしか、自国(自分たち)の特徴を見出しえないわだが、見方を変えれば、その特徴は比較対象によって規定されている。ところが私たちは、しばしばこの認識過程を見落としてしまう。他者を鏡として見出した特徴を、他者から切り離してしまうのである。そして切り離した、この特徴を、あたかも自分たちに内在的な、固有の本質であるかのように思い込んで、先験化してしまう。そういう本質主義(エッセンシャリズム/essentialism)の問題である。

日本語文は必ずしも主語を必要とせず、時制の観念も明示的ではない。これはヨーロッパの言語が、明治の知識人の前に、まるで〈最も進化した、普遍性の高い言語〉みたいな顔をして立ち現われてきた、その時代に見出された特徴だった。
だから、もし仮に別な時代、別な動機でスワヒリ語と比較することが行なわれたとすれば、別な特徴が顕在化してきたにちがいない。
一昨年(2003年)の8月、日韓交流のシンポジュウムで、私は「日韓交流における言語と文学の発見」(市立小樽文学館編『韓国の文学と文化を知る 講演記録集』2003年12月刊、または亀井のHPを参照)という発表をした。そこで指摘したように、江戸時代、対馬藩の外交官と、李王朝の高級官僚とが、互いを比較の対象としながら、相手の言葉を批評し、自国語の特徴を発見していた。それは大変に興味深く、貴重な「発見」であったが、その内容は近代のそれとは大きく異なるものであった。

そんなわけで、私たちが内在的な固有性、つまり自分たちの本質と信じ込んでいるものは、じつは比較対象に依存し、対象によって規定されている。その点を一つ押えて、北海道文学論における「北海道的なるもの」が、どんな比較対象との関係で「定立」されてきたかを検討してみればよい。そうしてみれば、確かにそんな特徴がなくもないな、という程度の、ほんの仮初めの概念でしかないことが分かるだろう。にもかかわらず、その特徴を「本質」にすり替え、大義名分化して、過去の作品の評価や、現在の創作活動に押しつけてきた。

このような本質主義的強制、または普遍主義的強制に対する批判は、私の長い間の課題だった。『「小説」論』(岩波書店、1999年)の序章でも、私は次のようなことを書いている。くどいようだが、引用しておきたい。
《引用》
  
これをもう少し一般化してみよう。比較とは一方を比較対照の鏡とし、他方の姿を映し出す認識行為を含んでいる。特に明治期に行なわれたように西洋諸国の文化や文物を規範的なモデルとして日本を映し出す場合、両者に共通する部分を日本の普遍性とし、通約不可能(インコメンシュアラブル/incommensurable)な部分を日本の特殊性として論ずる傾向を生むことになった。もし別な地域の別様な文化・文物を鏡としたならば、日本の普遍性と特殊性の発見もまた別様な形をとったかもしれない。だが、西洋諸国を規範的なモデルとする意識に囚われてしまった状況にあっては、上のような、普遍性/特殊性の観念を相対化する発想は生れにくい。そのため、こうして発見した日本の特殊性もまた日本人が共有すべき本質、つまり日本人にとっての普遍性として固定されてしまったのである。
  その意味では、明治以来の日本は二つの普遍主義にとり憑かれてきたことになる。時代の傾向が欧化主義と国粋主義とのどちらかに動くに従って、国際普遍主義と国内普遍主義とが交替でイデオロギー的な機能を果たしてきたのであるが、いずれの普遍主義も均質的(ホモジニアス/homogeneous)な共同体を理想とすることには変りがなく、内部の異質(ヘテロジニアス/heterogeneous)な要素を抑圧し、排除する結果となってしまった。

 私のみるところ、要するに北海道文学を唱えた人たちは、明治以来、日本の知識人がやってきたことを、無批判に模倣し、〈道内普遍主義〉の形で縮小再生産していたのである。

○「北緯40度圏の文学」の問題点
 さて、だいぶ遠回りをしたが、「中野重治と北海道」の講演の後、ある人がこんな質問をした。「そう言えば、昔、北大の国文学講座の教授だった風巻景次郎さんが「北緯40度圏の文学」ということを言ってましたネ。クロノ・トポスとはああいう意味ですか」。
 もちろん全く違う。私はその理由を次のように説明した。

 いま世界地図を出して、北緯40度の線を中心に上下5度の幅、つまり北緯35度から45度までのベルトを描いてみると、このベルトのなかに地中海諸国や、トルコのイスタンブール、中国の北京、アメリカのワシントンDCやニューヨークなどが、すっぽりと収まる。連合王国のイギリスはそのベルトより北に外れているが、古代ローマ帝国の圏内だったことや、フランスとの深い関係からみて、西洋圏(occidental)に繰り込むことができよう。
 
こうして見れば分るように、かつて「世界」に覇を唱えた強国は、ほとんどがこの北半球の中緯度圏に出現した。換言すれば、ヨーロッパの近代に生れた「世界史」は、この中緯度圏に起った文明と、強国の興亡を叙述する学問(?)だったのである。
そのなかで、「文明の発祥」から現代に至るまで、一貫して叙述の対象となっているのは地中海と西洋圏の諸国であり、一種のバランス感覚で「中国史」が加えられる。1960年代までの「世界史」は、おおむねこのようなものだった。これを基軸として、インドの文明や、ロシアの勃興が紹介され、近代に入ってアメリカ合衆国が書き加えられるわけだが、南半球のアフリカ、オーストラリア、南アメリカは、いわば征服と植民地化の対象として言及される程度だった。ばかりでなく、赤道を挟む低緯度地帯や、北緯60度、70度の高緯度地帯にもほとんど言及していない。世界史とは言え、その実情は北半球の中緯度圏を中心とする、「先進国」の歴史でしかなかったのである。
このような「世界史」構想には、ヘーゲルの「世界精神」や、マルクスの「全体史」の観念がらんでいるのだが、それはとにかく、この一方的で、偏頗な「世界史」がヨーロッパ中心主義の産物であることは、誰の目にも明らかだろう。

第三世界の問題が顕在化してから、中緯度圏中心主義に対する批判が始まり、ある意味でポスト・モダンや、ポスト・コロニアルもそれを担う思想運動だったと言える。
ただ、そういう運動を受けいれる日本の知識人の態度に、依然としてヨーロッパ中心主義の臭いが付着しており、私はそれが不満なのだが、さすがに現在、「北緯40度圏の文学」なんて観念を、恥かしげもなく振りかざす人間がいるとは思えない。むしろ現在必要なのは樺太、北海道、本州、四国、九州、沖縄、台湾と、南北に連なる列島圏の構想だろう。
中緯度圏的な思考は、世界に均質化を強いる本質主義的、普遍主義的な思想に陥りやすい。だが、東経130~140度の列島圏は、世界の均質化とは対極的な、地域的多様性の観念を育て、保証してくれるからである。

○「北緯40度圏の文学」の亡者
 私はそんな返事をした記憶があるのだが、驚いたことに今年、北海道文学館が「北の風土の批評精神 発生と展開~風巻景次郎から小笠原克へ~」というタイトルで、風巻景次郎と、その弟子たちを顕彰する企画展を行なった。
私のみるところ、風巻の「北緯40度圏」という思いつきと、それを風土論的文学論に仕立てた弟子たちこそが、あの〈道内普遍主義〉的言説を作った元凶にほかならない。今時それを取り上げる以上、彼らに対する批判的総括に基づき、その上で再評価する視点と方法が見つかったからなのだろう。私はそういう期待をしたのだが、そんな可能性はどこにも見られなかった。

なるほど有島武郎が北海道文学の「父」で、石川啄木が詩歌の源流で、風巻景次郎が文学の学問の開祖で、和田謹吾から小笠原克に至る、大学院講座「国文学」の教え子が、その正統な継承者なのだ。そう言いたいのだろう。相変わらずの権威主義だな。
この人たちの北大の教授ポスト、とりわけ「国文学」の教授ポストに対するこだわりは、オブセッションと言っても過言でないほど異常だった。そういうタイプの一人、札幌の私大の教授が、ある時、北大の文学部長に、「〈余人をもっては代えがたい〉と、北大の教養課程の非常勤講師を頼まれ、長年続けている。だから北大の名誉教授にしてくれ」と要求した。「〈北大のためにご尽力いただき、大変感謝しています。が、非常勤講師15年は、残念ながら名誉教授の条件には当てはまりませんので〉と、鄭重に説明しておきました」。教授会で文学部長がそう報告し、何人かは薄笑いを浮かべていたが、私は背筋が寒くなった。
 
○『梨の花』の場合
 ところで、さて、それでは「クロノ・トポス」の「クロノ」とはどういうことなのか。
中野重治の『梨の花』は、彼の少年時代を語った自伝的な小説であるが、江戸時代、たぶん天保年間に生れたお祖母さんが出てくる。このお祖母さんは、村で起こった出来事はよく覚えているのだが、それを村の外の、社会全体の動向に結びつけてとらえる発想を持っていない。つまり村の出来事は、村の言葉で意味づけることしか知らない、そういうお祖母さんだった。

それに対して、少年の良平は小学校で、村の外で起こった出来事、例えば大逆事件とか、日本による朝鮮の強制合併とか、伊藤博文の暗殺事件とか、明治天皇が死んだこととか、歴史年表では大文字で書かれるような事件を、先生から教えられる。もちろんただ客観的に伝えられるのでなく、東京の中央政府がそれらの事件に与える意味づけとともに教えられる。また、この村にも映画とか、少年雑誌とかいう、言わば商品化された文化が入ってきて、良平はそれらを通して東京の大衆文化や、少年・少女に関するマス・メディア的な言説を知って、驚いたり、反発したりしながら、次第に外の世界に眼を開かれてゆく。

そういう少年から見て、お祖母さんは何だか頼りなく、歯がゆい。だが彼は、お祖母さんをばかにしたりはせず、むしろ村の外で起こった事件と、それに関する先生やマス・メディアの言説を、お祖母さんたち、村の人の感じ方や捉え方にフィードバックさせて、相対化してしまう。そこにこの物語の魅力がある。

○文学テクストのクロノ・トポス
その意味で『梨の花』は、一つの村に重層的な時間が流れ、一人の少年のなかにもレベルの異なる歴史感覚が重層的に形成されてゆく、そのありさまを描いた作品だと言えよう。
 私はそういう作品を紹介しながら、クロノ・トポスについてこんなふうに説明した。
《引用》

そんなわけで、クロノ・トポス的な地域研究というのは、ひところよく言われた、「地方」の時代、という合言葉おける「地方」論とはかならずしも同じではありません。というのは、「地方」という言葉は「中央」という言葉との関係で用いられることが多く、たしかにそれも地域をとらえる一つの仕方ですけれども、それはまだ「中央」中心主義的な考え方や感じ方を残している、あるいは中央/地方という関係意識を中心化してしまっている、と言わざるをえないからです。(中略)

さて、それでは、クロノ・トポスのうちのクロノロジイの問題のほうはどうなるのか。その点は、すでにトポスの問題で述べたことからお分かりの方も多いと思いますが、時間とか歴史とかいうものは決して単一の、均質的なテンポで流れているものではなく、一つのトポスのそれぞれの位相に従って、異なるテンポで流れてゆくのではないか。そういう見方で歴史を見ることを指します。
  私たちはついうっかりと、東京というか「中央」というか、とにかく中心化されたトポスで起こった出来事を歴史的な事件として意味づけ、自分のトポスの出来事もそれとの関係を探しながら、歴史的に整理したり、意味づけたりしてしまう。それも一面ではやむをえないことでもあり、時には重要な視点でもありますが、あまりこれにとらわれると、そんなこととはあまり関係なく生きている人たちの時間や、出来事の意味を見落としてしまいかねない。あるいはサハリンやウラジオストクとの関係でこのトポスをとらえている人たちは、別な歴史感覚を持っているかもしれないのですが、その点に気がつかない結果になりかねません。
クロノ・トポスという見方は、そういう意識の盲点を批判して、それぞれのトポスには多様で、重層的な時間が流れ、歴史が刻まれているあり方をとらえようという試みであるわけです。

 
 今回もまた長くなってしまったが、私の言わんとすることろは納得してもらえると思う。北海道文学論というのは、その最良のものでさえ、「地方」の時代の産物でしかなかった。

北海道の各地域における、多種多様なトポロジイとクロノロジイが、それぞれの文学テクストのなかでどのように再構成され、変形され、発展されて、テクスト固有のクロノ・トポスを形成しているか。それを見出し、開示すことで、読者の享受をどれだけ豊かにすることができるか。北海道文学館が、もしこれからも「北海道」に焦点を合せたいならば、その基本はここにしかないはずである。
 文学館のまたそれ自体のクロノ・トポスを持ち、その内部で「展示」として展開されるクロノロジイは、外部のそれに回収もされなければ、還元もされない、独自の時間編成の論理を持たなければならないだろう。
 

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文学館の見え方(その7)

ジャンルの殖民
○就任講演の際に
  前回、(その6)を書いた後、11月23日、私は小樽文学館で「書き込みに見る多喜二と同時代」という話をした。その週末、法事で群馬まで出かけ、29日に帰ってきた。
そのため、だいぶ間が開いてしまったが、もう少し続けたい。

  文学館の講演で思い出したが、平成12(2000)年7月、私は「中野重治と北海道」という話をしている。この講演の依頼を受けたのは4月のことで、まだ私は文学館長ではなかった。そもそも文学館長になる話も起っていなかった。ところが、その後、俄かに話が起り、急速に進行して、6月から私は館長になった。
  私がどんなことを考えて、館長を引き受けたか。「文学館を考える――その外延と内包―」(『市立小樽文学館報』第28号。または私のHP「亀井秀雄の発言」)に書いておいたので、読んでもらえればありがたい。

  ともあれ、そのような事情のため、講演そのものは就任の挨拶を兼ねたものとなった。ちょっと勝手が違い、少しやりにくかったが、話の中ほどで私は、〈これからの文学館活動は、「ジャンルの殖民(Immigration of Genre)」と、「クロノトポス(chrono-topos)」という二つの観点が必要なのではないか〉という意味のことを語った。
  クロノトポスの説明は、次回に廻し、なぜ「ジャンルの殖民」という概念を必要としたか。まずその点を説明するならば、従来、複数の国の文学的な貸借関係を扱う学問に、比較文学があり、主として二国間の「影響(influence)」関係を重視してきた。だが、その貸借関係が政治的にニュートラル(中立的)だったはずがない。そういう問題意識から、貸借関係に潜む問題をもっと根本的にとらえるために、「ジャンルの殖民」という観点を立ててみたのである。

○ジャンルの殖民
  たとえば司馬遼太郎が『台湾紀行』で、ある世代の台湾の人たちに俳句が根づいていることを紹介し、その一例として「
平成の皇后陛下お夏痩せ」という句を紹介した。優しい心遣いを、「軽み」でくるんだ、まことに見事な句というほかはない。だがこれは一つ事柄の一面であって、反面から見れば、これだけ日本語に長けた人が存在する、それほど念入りに日本語教育が行なわれた証拠でもあるだろう。敢えてそういう言い方をすれば、かつて日本は、俳句というジャンルの入植(immigration)に成功したのである。

  それとは逆に、日本で行なわれた新ジャンル入植の例としては、明治15年8月、外山正一と矢田部良吉、井上哲次郎が編集した『新体詩抄』を挙げることができる。それ以前、ヨーロッパの詩の翻訳や紹介が行なわれなかったわけではない。また、賛美歌の翻訳や、植木枝盛の「民権田舎歌」(明治12年6月)などの民権歌謡、『小学唱歌集 初編』(明治14年11月)など、新しい表現形式の実験が始まっていた。そういう動向のなかで、先の三人は、西洋の「詩」が移植に値する、優れた文学ジャンルである理由を説き、実作を示して、新たな地平を拓いた。これは日本における自発的なジャンル入植の成功例と言えるだろう。

○わが著書から
  このように多面的な事態の全体をとらえるには、どんな視点と方法が必要か。そういう課題を持って、私は『「小説」論――『小説神髄』と近代―』(岩波書店、1999年)の研究に着手したわけだが、その序論で、次のようなことを書いた。
《引用》
 
いま思いきり視野を拡げてみるならば、人類がこれまで世界各地で作り、伝えてきた物語には、小説とか芸術とかいうカテゴリーにはけっして収まらないものが数限りなくあったし、現在もあるだろう。それらのなかには、もし強いて小説や芸術の概念を当てはめれば、たちまちそれを作り伝えてきた人たちにとっての意味を失い、破壊されてしまうものも多いはずである。(中略)
  このような視野に立ってみるならば、小説というジャンルを作ったり、それを芸術の言説によって意義づけたりすることがいかに文化的に特殊で、過剰な事柄であるかが分かる。いや、「文化」もまた小説や芸術と同じく時空間的に限定された概念であって、それを無限定に他の時代、他の地域に拡大すれば、かえってその生産―消費様式や、生活―行動様式を破壊してしまいかねない。

 直接の言及対象が『小説神髄』だったため、「物語」「小説」「芸術」などのパラダイム(関連用語)で論じているが、「物語」のところにユーカラを置き、「小説」や「芸術」のところに「叙事詩」を「文学」を置いてみてもらいたい。私がどこまで「視野」を拡げようとし、何を言おうとしていたか、分かってもらえると思う。
 小説、文学、芸術、文化などは、いつの時代、どの地域の人たちにとっても適用可能な/適用が望ましい、普遍的な観念ではないのである。

○知里むつみのこだわり
  ところで、私は今、『ガイド 北海道の文学』(2005年11月)の記述や編集を問題にしているわけだが、「アイヌ民族の文学」を担当した知里むつみは、次のように書き出している。
《引用》
 
北海道の文学は明治とともに始まった。書き文字のアイヌ文学も明治以降のシサムとの接触によってもたらされた。文字を必要としなかったアイヌ民族にとって、文学という文字中心の活動は、なじみがないものであった。

  つまりアイヌ民族から見れば、書記言語(文字)を媒介にした「文学」とは殖民者の持ち込んできたもの以外ではなく、およそ「なじみがないもの」だった。まことにその通りだったにちがいない。にもかかわらず、その「なじみがないもの」を媒介に「文学」的表現を拓くしかなく、しかもその表現は不可避的に「日本文学」へ取りこまれてしまう。そのことへの違和感をこめて、知里むつみは次のように結んでいる。
《引用》
  
アイヌ民族の作家たちは、日本語で作品を書き上げてはいるが、その作家たちの活動は、日本文学にとりこまれた姿ではなく、近現代に生きたあるいは生きているアイヌ民族の文学表現の姿なのである。これらの作家たちの活動が今に生きている多くのアイヌ民族に大きな影響をあたえてきた。そして今後も希望の火を灯してくれていることは確かなことである。

○知里むつみとの共鳴
 これらの言葉にこめられた当惑、違和感、怒り、にもかかわらず高い評価を促し得るだけの表現を達成した誇りと、だがそれを日本文学の取りこまれることへの拒否感など、これらの複雑に錯綜する感情を、想像的に、また方法的にリアライズして、芸術とか文化とかいう観念を相対化すること。私が『「小説」論』を書いたのは、もちろんこの文章に接する前であったが、ともあれこうしたことが、『小説神髄』研究のライトモチーフだった。先の文章に続けて、私はこんなことも書いている。
《引用》
 
およそ小説などとは類縁性のない物語形態を持っている人たちの間に、小説の「殖民」は可能だろうか。
  このように問いを立ててみれば、小説の「殖民」がどんな事態だったかすぐに想像がつく。これは、それまで狩猟生活を営んでいた人たちに国家的統治を押しつけたり、自動車を持ち込んだりするのとは全く次元が異なる「殖民」となるはずであり、おそらく「成功」に至るまでには幾つかの段階を踏まなければならない。まずその地域に殖民した側の人間の旅行者や定住者のなかから、その地域に題材を求めた小説が書かれ、やがては先住民の間から書き手が現われるだろうが、それが植民者の言語の書かれるか、それとも先住民の言語で書かれるか。これは重要な問題であり、多分一般にはまず前者の言語が用いられることになるだろう。

  この文章の場合、特に説明は要らないと思うが、念のため、「小説」のところに「短歌」を置いてみてほしい。短歌というジャンルを持ち込んだ人たちがいて、ある時期、啄木がやって来た。そう考えてみれば分るように、啄木の歌を「道内編」に入れるか、「道外編」に入れるか、そんなことは大して重要な問題じゃない。ところが、菱川善夫はその問題に筆を費やし、短歌というジャンル殖民のある段階で、アイヌの「歌人」が出現したことには全く言及していなかった。「北海道の短歌」を担当した山名康郎も、わずかに一言、附け足しみたいに、「アイヌ歌人のバチェラー八重子、違星北斗、森竹竹市、江口カナメの存在も忘れてはならない」と書いているにすぎない。

  かつて中野重治が、「控え帳三」(『文学界』、1935年3月号)というエッセイで、バチェラー八重子の歌集『若きウタリに』を取り上げて、「日本語および短歌形式は彼女における民族的なものではない」ことを指摘した。それと共に彼は、バチェラー八重子が「強制的にか恩恵的にか」与えられた言語と表現形式を借りながら、それと葛藤し、「アイヌ的表現、その民族的表現(それは日本的なそれに制約されているが)を通して高まる感情のゆくえが民族の革命的解放への要求を示していること」を読み取っていた。
  私は「中野重治と北海道」のなかで、このことを紹介し、「
ジャンルの入植(Immigration of Genre)という問題は、現在の私の主要な関心事であるだけでなく、これからの文学研究・文化研究の大きな課題になってゆくと思われます」と続けたわけだが、菱川善夫や山名康郎、そして次に言及する原子修も、そういう問題意識とは無縁だったのであろう。

○ジャンルのイデオロギー
 ただし、私は中野的な問題意識だけで、「ジャンルの入植」を着想したわけではない。例えば「小説」というジャンルについて語る場合、明治以降、「作者」、「主人公」、「内面」、「文体」など、一連のパラダイムが、まるで「文学論」に不可欠な用語のように使われてきた。それが「近代的な人間」というイデオロギーを作ってきたわけだが、ちょうどそのように、それぞれの文学ジャンルは、その存在理由を語る言説を伴っている。
  
  その意味で、ジャンルの殖民は、同時に、それを意味づける言説の殖民でもある。そして個々の作品の魅力が被殖民の人たちの関心を誘うだけでなく、この言説が内面化されるにつれて、――いわば内発的な慾望の形で――そのジャンルによる表現の欲求が生れて来る。
  このように巨視的にみれば、ジャンルの殖民は必ずしも一方的な押しつけとは言い切れない場合があることが分かるだろう。私が先に引用した文章で、「
それまで狩猟生活を営んでいた人たちに国家的統治を押しつけたり、自動車を持ち込んだりするのとは全く次元が異なる「殖民」となる」と言ったのは、この意味にほかならない。

 内発的な欲望に促されなければ、おそらく一定水準の表現に達することは難しいだろう。また、一定水準の質を獲得できて初めて、鋭敏な言語感覚と自己意識を持つ人のなかから、中野がいう「民族的表現(それは日本的なそれに制約されているが)を通して高まる感情のゆくえが民族の革命的解放への要求」が生まれ、知里むつみがいう「日本の短歌になじみのないアイヌ語だが、アイヌ文化の素養があればこそ使えることばを効果的に使っている」という、高度な表現操作が可能となる。さらにそれを通して、「彼らの眼差しが常にアイヌに向っている」、「かれらの居場所がアイヌ社会にある」という表現ポジションを表出できるようになる。
 一面ではそれは、殖民したジャンルをよりいっそう根づかせてしまう。そういう逆説を避けることはできない。だが、そういう難しい場所に自分を置き、この逆説を自覚的に方法化することによってしか、事態の全体を批判する表現を得ることはできなかったのである。

○原子修の自己評価
 前回も取り上げた原子修の「北海道の詩」は、以上のような知里むつみの文章の次に載っているわけだが、それだけに彼の身勝手なご都合主義と、自己中心主義がいよいよ目立ってしまう。

 彼はまず、「縄文・続縄文・擦文文化時代の詩」という節を立て、北海道には「縄文文化」「続縄文文化」「擦文文化」「アイヌ文化」という、一貫した「縄文系文化」の流れが保たれてきたことを指摘する。では、それが「北海道の詩」とどんな関係があるのか。しかし彼によれば、これらの文化を形成してきた「人々の詩は、今に痕跡をとどめていない」のだそうである。
 
  次に彼は「
アイヌ文化時代の詩」という節を設けて、「「アイヌ文化」は、自然と共に生きる暮らしぶりの中から、永続可能な生活の知恵を発達させ、その親自然的な傾向は、環境破壊にされされる現代にとって極めて貴重な示唆を含んでいる」と褒め上げている。何だか三流文化人が先住民を持ち上げる時の決まり文句そのままの言い方で、じつはそこにこそ差別が潜んでいるのだが、彼ははそういう危険には一向に頓着していない。
  そして漸く、「
世界的にも屈指の口承文芸として高く評価されているアイヌ文学」に言及するわけだが、知里真志保の『かむい・ゆうかる』の分類を紹介して、「これをみても理解できるように、アイヌの口承文芸の主体は、韻文叙事詩であり、明治期以降のこの地の詩が、おおむね短章系の形象詩を中心としているのにくらべ、際立った特色を示している。(以下、詳しくは、「アイヌ民族の文学」のコーナーを参照)」と終っている。

  要するに原子は「アイヌ民族の文学」について、何一つ実質的なことを言うつもりはなかった。そして彼自身は知里むつみの文章を「参照」することもなく、社交辞令的に褒め言葉を乱発していたにすぎない。無責任な記述態度というほかはなく、そんなことに紙数を費やすくらいならば、むしろ原子がいう「現代の詩」以前、この地にも盛んに行なわれた民謡、歌謡、唱歌、校歌、軍歌など、詩形式の表現の動向を概括すべきだっただろう。
  しかし彼にはそういう面への関心がないらしく、「「現代の詩」の創造に挑んだ〈風の詩人〉たち」の項目では、吉田一穂、小熊秀雄、左川ちかの三人を賞賛して、それ以外は上林猷夫をはじめ、五人の名前を列挙するのみ。「「現代の詩」を根づかせた〈土の詩人〉たち」の項目では、更科源蔵、和田徹三、河邨文一郎の三人を賞賛し、さて最後、こんなふうに自分を評価していた。
《引用》
 
原子修は、函館に生まれ、根室・札幌と渡りあるきつつも、一貫して北海道に土着をつづけ、古代ギリシャのヘシオドスを始源とする「現代の詩」の正統に己を位置づけようと苦闘する。アリストテレスの『詩学』に触発されて、詩劇の創作と上演に挑戦し、鋭い文明批評をテーマとする作品は国内・外で五十作品一一三公演を実現した。高密な心象美と硬質な抒情をもつ形象詩は、『未来からの銃声』(一九九四年)で第二十八回日本詩人クラブ賞、『受苦の木』(二〇〇二年)で第二回現代ポイエーシス賞を受賞するほか、詩誌「極光」(二〇〇二年)を創刊した。更に本格的な詩論『〈現代詩〉の条件』(二〇〇五年)を世に問うなど、北海道に居ながらにして日本の「現代の詩」の第一線を死守している。

 わっ!! すごい。よくここまで自分のことを言えるよな。私は感嘆を禁じえなかった。
原子はこの後、「「現代の詩」の新しい可能性を求めて」という節を立てているが、倉内佐知子、高橋秀明、松尾真由美の名を列挙するのみ。ということはつまり、原子修自身が北海道に住む現役詩人の最高、最大の詩人ということなのであろう。

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