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文学館の見え方(その7)

ジャンルの殖民
○就任講演の際に
  前回、(その6)を書いた後、11月23日、私は小樽文学館で「書き込みに見る多喜二と同時代」という話をした。その週末、法事で群馬まで出かけ、29日に帰ってきた。
そのため、だいぶ間が開いてしまったが、もう少し続けたい。

  文学館の講演で思い出したが、平成12(2000)年7月、私は「中野重治と北海道」という話をしている。この講演の依頼を受けたのは4月のことで、まだ私は文学館長ではなかった。そもそも文学館長になる話も起っていなかった。ところが、その後、俄かに話が起り、急速に進行して、6月から私は館長になった。
  私がどんなことを考えて、館長を引き受けたか。「文学館を考える――その外延と内包―」(『市立小樽文学館報』第28号。または私のHP「亀井秀雄の発言」)に書いておいたので、読んでもらえればありがたい。

  ともあれ、そのような事情のため、講演そのものは就任の挨拶を兼ねたものとなった。ちょっと勝手が違い、少しやりにくかったが、話の中ほどで私は、〈これからの文学館活動は、「ジャンルの殖民(Immigration of Genre)」と、「クロノトポス(chrono-topos)」という二つの観点が必要なのではないか〉という意味のことを語った。
  クロノトポスの説明は、次回に廻し、なぜ「ジャンルの殖民」という概念を必要としたか。まずその点を説明するならば、従来、複数の国の文学的な貸借関係を扱う学問に、比較文学があり、主として二国間の「影響(influence)」関係を重視してきた。だが、その貸借関係が政治的にニュートラル(中立的)だったはずがない。そういう問題意識から、貸借関係に潜む問題をもっと根本的にとらえるために、「ジャンルの殖民」という観点を立ててみたのである。

○ジャンルの殖民
  たとえば司馬遼太郎が『台湾紀行』で、ある世代の台湾の人たちに俳句が根づいていることを紹介し、その一例として「
平成の皇后陛下お夏痩せ」という句を紹介した。優しい心遣いを、「軽み」でくるんだ、まことに見事な句というほかはない。だがこれは一つ事柄の一面であって、反面から見れば、これだけ日本語に長けた人が存在する、それほど念入りに日本語教育が行なわれた証拠でもあるだろう。敢えてそういう言い方をすれば、かつて日本は、俳句というジャンルの入植(immigration)に成功したのである。

  それとは逆に、日本で行なわれた新ジャンル入植の例としては、明治15年8月、外山正一と矢田部良吉、井上哲次郎が編集した『新体詩抄』を挙げることができる。それ以前、ヨーロッパの詩の翻訳や紹介が行なわれなかったわけではない。また、賛美歌の翻訳や、植木枝盛の「民権田舎歌」(明治12年6月)などの民権歌謡、『小学唱歌集 初編』(明治14年11月)など、新しい表現形式の実験が始まっていた。そういう動向のなかで、先の三人は、西洋の「詩」が移植に値する、優れた文学ジャンルである理由を説き、実作を示して、新たな地平を拓いた。これは日本における自発的なジャンル入植の成功例と言えるだろう。

○わが著書から
  このように多面的な事態の全体をとらえるには、どんな視点と方法が必要か。そういう課題を持って、私は『「小説」論――『小説神髄』と近代―』(岩波書店、1999年)の研究に着手したわけだが、その序論で、次のようなことを書いた。
《引用》
 
いま思いきり視野を拡げてみるならば、人類がこれまで世界各地で作り、伝えてきた物語には、小説とか芸術とかいうカテゴリーにはけっして収まらないものが数限りなくあったし、現在もあるだろう。それらのなかには、もし強いて小説や芸術の概念を当てはめれば、たちまちそれを作り伝えてきた人たちにとっての意味を失い、破壊されてしまうものも多いはずである。(中略)
  このような視野に立ってみるならば、小説というジャンルを作ったり、それを芸術の言説によって意義づけたりすることがいかに文化的に特殊で、過剰な事柄であるかが分かる。いや、「文化」もまた小説や芸術と同じく時空間的に限定された概念であって、それを無限定に他の時代、他の地域に拡大すれば、かえってその生産―消費様式や、生活―行動様式を破壊してしまいかねない。

 直接の言及対象が『小説神髄』だったため、「物語」「小説」「芸術」などのパラダイム(関連用語)で論じているが、「物語」のところにユーカラを置き、「小説」や「芸術」のところに「叙事詩」を「文学」を置いてみてもらいたい。私がどこまで「視野」を拡げようとし、何を言おうとしていたか、分かってもらえると思う。
 小説、文学、芸術、文化などは、いつの時代、どの地域の人たちにとっても適用可能な/適用が望ましい、普遍的な観念ではないのである。

○知里むつみのこだわり
  ところで、私は今、『ガイド 北海道の文学』(2005年11月)の記述や編集を問題にしているわけだが、「アイヌ民族の文学」を担当した知里むつみは、次のように書き出している。
《引用》
 
北海道の文学は明治とともに始まった。書き文字のアイヌ文学も明治以降のシサムとの接触によってもたらされた。文字を必要としなかったアイヌ民族にとって、文学という文字中心の活動は、なじみがないものであった。

  つまりアイヌ民族から見れば、書記言語(文字)を媒介にした「文学」とは殖民者の持ち込んできたもの以外ではなく、およそ「なじみがないもの」だった。まことにその通りだったにちがいない。にもかかわらず、その「なじみがないもの」を媒介に「文学」的表現を拓くしかなく、しかもその表現は不可避的に「日本文学」へ取りこまれてしまう。そのことへの違和感をこめて、知里むつみは次のように結んでいる。
《引用》
  
アイヌ民族の作家たちは、日本語で作品を書き上げてはいるが、その作家たちの活動は、日本文学にとりこまれた姿ではなく、近現代に生きたあるいは生きているアイヌ民族の文学表現の姿なのである。これらの作家たちの活動が今に生きている多くのアイヌ民族に大きな影響をあたえてきた。そして今後も希望の火を灯してくれていることは確かなことである。

○知里むつみとの共鳴
 これらの言葉にこめられた当惑、違和感、怒り、にもかかわらず高い評価を促し得るだけの表現を達成した誇りと、だがそれを日本文学の取りこまれることへの拒否感など、これらの複雑に錯綜する感情を、想像的に、また方法的にリアライズして、芸術とか文化とかいう観念を相対化すること。私が『「小説」論』を書いたのは、もちろんこの文章に接する前であったが、ともあれこうしたことが、『小説神髄』研究のライトモチーフだった。先の文章に続けて、私はこんなことも書いている。
《引用》
 
およそ小説などとは類縁性のない物語形態を持っている人たちの間に、小説の「殖民」は可能だろうか。
  このように問いを立ててみれば、小説の「殖民」がどんな事態だったかすぐに想像がつく。これは、それまで狩猟生活を営んでいた人たちに国家的統治を押しつけたり、自動車を持ち込んだりするのとは全く次元が異なる「殖民」となるはずであり、おそらく「成功」に至るまでには幾つかの段階を踏まなければならない。まずその地域に殖民した側の人間の旅行者や定住者のなかから、その地域に題材を求めた小説が書かれ、やがては先住民の間から書き手が現われるだろうが、それが植民者の言語の書かれるか、それとも先住民の言語で書かれるか。これは重要な問題であり、多分一般にはまず前者の言語が用いられることになるだろう。

  この文章の場合、特に説明は要らないと思うが、念のため、「小説」のところに「短歌」を置いてみてほしい。短歌というジャンルを持ち込んだ人たちがいて、ある時期、啄木がやって来た。そう考えてみれば分るように、啄木の歌を「道内編」に入れるか、「道外編」に入れるか、そんなことは大して重要な問題じゃない。ところが、菱川善夫はその問題に筆を費やし、短歌というジャンル殖民のある段階で、アイヌの「歌人」が出現したことには全く言及していなかった。「北海道の短歌」を担当した山名康郎も、わずかに一言、附け足しみたいに、「アイヌ歌人のバチェラー八重子、違星北斗、森竹竹市、江口カナメの存在も忘れてはならない」と書いているにすぎない。

  かつて中野重治が、「控え帳三」(『文学界』、1935年3月号)というエッセイで、バチェラー八重子の歌集『若きウタリに』を取り上げて、「日本語および短歌形式は彼女における民族的なものではない」ことを指摘した。それと共に彼は、バチェラー八重子が「強制的にか恩恵的にか」与えられた言語と表現形式を借りながら、それと葛藤し、「アイヌ的表現、その民族的表現(それは日本的なそれに制約されているが)を通して高まる感情のゆくえが民族の革命的解放への要求を示していること」を読み取っていた。
  私は「中野重治と北海道」のなかで、このことを紹介し、「
ジャンルの入植(Immigration of Genre)という問題は、現在の私の主要な関心事であるだけでなく、これからの文学研究・文化研究の大きな課題になってゆくと思われます」と続けたわけだが、菱川善夫や山名康郎、そして次に言及する原子修も、そういう問題意識とは無縁だったのであろう。

○ジャンルのイデオロギー
 ただし、私は中野的な問題意識だけで、「ジャンルの入植」を着想したわけではない。例えば「小説」というジャンルについて語る場合、明治以降、「作者」、「主人公」、「内面」、「文体」など、一連のパラダイムが、まるで「文学論」に不可欠な用語のように使われてきた。それが「近代的な人間」というイデオロギーを作ってきたわけだが、ちょうどそのように、それぞれの文学ジャンルは、その存在理由を語る言説を伴っている。
  
  その意味で、ジャンルの殖民は、同時に、それを意味づける言説の殖民でもある。そして個々の作品の魅力が被殖民の人たちの関心を誘うだけでなく、この言説が内面化されるにつれて、――いわば内発的な慾望の形で――そのジャンルによる表現の欲求が生れて来る。
  このように巨視的にみれば、ジャンルの殖民は必ずしも一方的な押しつけとは言い切れない場合があることが分かるだろう。私が先に引用した文章で、「
それまで狩猟生活を営んでいた人たちに国家的統治を押しつけたり、自動車を持ち込んだりするのとは全く次元が異なる「殖民」となる」と言ったのは、この意味にほかならない。

 内発的な欲望に促されなければ、おそらく一定水準の表現に達することは難しいだろう。また、一定水準の質を獲得できて初めて、鋭敏な言語感覚と自己意識を持つ人のなかから、中野がいう「民族的表現(それは日本的なそれに制約されているが)を通して高まる感情のゆくえが民族の革命的解放への要求」が生まれ、知里むつみがいう「日本の短歌になじみのないアイヌ語だが、アイヌ文化の素養があればこそ使えることばを効果的に使っている」という、高度な表現操作が可能となる。さらにそれを通して、「彼らの眼差しが常にアイヌに向っている」、「かれらの居場所がアイヌ社会にある」という表現ポジションを表出できるようになる。
 一面ではそれは、殖民したジャンルをよりいっそう根づかせてしまう。そういう逆説を避けることはできない。だが、そういう難しい場所に自分を置き、この逆説を自覚的に方法化することによってしか、事態の全体を批判する表現を得ることはできなかったのである。

○原子修の自己評価
 前回も取り上げた原子修の「北海道の詩」は、以上のような知里むつみの文章の次に載っているわけだが、それだけに彼の身勝手なご都合主義と、自己中心主義がいよいよ目立ってしまう。

 彼はまず、「縄文・続縄文・擦文文化時代の詩」という節を立て、北海道には「縄文文化」「続縄文文化」「擦文文化」「アイヌ文化」という、一貫した「縄文系文化」の流れが保たれてきたことを指摘する。では、それが「北海道の詩」とどんな関係があるのか。しかし彼によれば、これらの文化を形成してきた「人々の詩は、今に痕跡をとどめていない」のだそうである。
 
  次に彼は「
アイヌ文化時代の詩」という節を設けて、「「アイヌ文化」は、自然と共に生きる暮らしぶりの中から、永続可能な生活の知恵を発達させ、その親自然的な傾向は、環境破壊にされされる現代にとって極めて貴重な示唆を含んでいる」と褒め上げている。何だか三流文化人が先住民を持ち上げる時の決まり文句そのままの言い方で、じつはそこにこそ差別が潜んでいるのだが、彼ははそういう危険には一向に頓着していない。
  そして漸く、「
世界的にも屈指の口承文芸として高く評価されているアイヌ文学」に言及するわけだが、知里真志保の『かむい・ゆうかる』の分類を紹介して、「これをみても理解できるように、アイヌの口承文芸の主体は、韻文叙事詩であり、明治期以降のこの地の詩が、おおむね短章系の形象詩を中心としているのにくらべ、際立った特色を示している。(以下、詳しくは、「アイヌ民族の文学」のコーナーを参照)」と終っている。

  要するに原子は「アイヌ民族の文学」について、何一つ実質的なことを言うつもりはなかった。そして彼自身は知里むつみの文章を「参照」することもなく、社交辞令的に褒め言葉を乱発していたにすぎない。無責任な記述態度というほかはなく、そんなことに紙数を費やすくらいならば、むしろ原子がいう「現代の詩」以前、この地にも盛んに行なわれた民謡、歌謡、唱歌、校歌、軍歌など、詩形式の表現の動向を概括すべきだっただろう。
  しかし彼にはそういう面への関心がないらしく、「「現代の詩」の創造に挑んだ〈風の詩人〉たち」の項目では、吉田一穂、小熊秀雄、左川ちかの三人を賞賛して、それ以外は上林猷夫をはじめ、五人の名前を列挙するのみ。「「現代の詩」を根づかせた〈土の詩人〉たち」の項目では、更科源蔵、和田徹三、河邨文一郎の三人を賞賛し、さて最後、こんなふうに自分を評価していた。
《引用》
 
原子修は、函館に生まれ、根室・札幌と渡りあるきつつも、一貫して北海道に土着をつづけ、古代ギリシャのヘシオドスを始源とする「現代の詩」の正統に己を位置づけようと苦闘する。アリストテレスの『詩学』に触発されて、詩劇の創作と上演に挑戦し、鋭い文明批評をテーマとする作品は国内・外で五十作品一一三公演を実現した。高密な心象美と硬質な抒情をもつ形象詩は、『未来からの銃声』(一九九四年)で第二十八回日本詩人クラブ賞、『受苦の木』(二〇〇二年)で第二回現代ポイエーシス賞を受賞するほか、詩誌「極光」(二〇〇二年)を創刊した。更に本格的な詩論『〈現代詩〉の条件』(二〇〇五年)を世に問うなど、北海道に居ながらにして日本の「現代の詩」の第一線を死守している。

 わっ!! すごい。よくここまで自分のことを言えるよな。私は感嘆を禁じえなかった。
原子はこの後、「「現代の詩」の新しい可能性を求めて」という節を立てているが、倉内佐知子、高橋秀明、松尾真由美の名を列挙するのみ。ということはつまり、原子修自身が北海道に住む現役詩人の最高、最大の詩人ということなのであろう。

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