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文学館の見え方(その6)

おかしな啄木像

○菱川善夫の位置づけ

 石川啄木は道内の人なのか、それとも道外の人間なのか。こういう設問自体、じつは不毛なのだが、とりあえずこの設問に従って考えてみよう。おおかたの人は、啄木は道外の人間だと答えるだろう。ところが、菱川善夫は道内の人に数えることにしたのである.

《引用》

 小田観螢、山下秀之助、相良義重、戸塚新太郎、芥子澤新之介、酒井広治といった,海道歌壇の創設期を支えた人々は、いずれも道外から来道した人々である。もし道内編を、北海道生れの北海道育ち、ということに限定するなら、その数はいちじるしくかぎられてしまうことになる。だからここでは北海道に一定期間滞在し、作品活動や運動を通して、北海道歌壇に影響を与えた人、あるいは自己の創作活動の中に、北海道が切り離しがたく結びついている作品は、すべて道内編にくみいれて考えることにした。石川啄木、斎藤瀏、清原日出夫が道外編でなく、道内編の中に組みいれられているのは以上の理由からである。

これは昭和541979)年、立風書房から出た『北海道文学全集』第22巻「北の抒情」の「短歌」の部に、菱川善夫が附けた解説の一節であるが、一読してどうも可笑しい。だが再読して、何だかつらく、情けなくなった。どうしてこんな無理をしなければならなかったのか。

この『北海道文学全集』の第2巻は「漂泊のエレジー」(解説は和田謹吾)と題し、石川啄木、岩野泡鳴、長田幹彦、葛西善蔵の作品を収めている。タイトルからも分るように、啄木は北海道を漂泊した道外の文学者に数えられていた。ところが、同じ全集の第22巻では「道内」に繰り込まれたのである。

この全集の編集委員は小笠原克と木原直彦、和田謹吾の三人だった。彼らの編集方針がいい加減だったのか、菱川善夫が自分の判断で第22巻の〈短歌の部〉を編んだのか。いずれにせよ、一貫性を欠く編集だったと言われざるをえないだろう。

○ご都合主義の惧れ

   菱川善夫の説明が、これまた哀しい。「道内編を、北海道生れの北海道育ち、ということに限定するなら、その数はいちじるしくかぎられてしまうことになる」。つまり彼は、「道内編」が貧相に見えることにこだわったわけだが、なぜそんなことにこだわらねばならないのか。「北海道に一定期間滞在し、作品活動や運動を通して、北海道歌壇に影響を与えた人、あるいは自己の創作活動の中に、北海道が切り離しがたく結びついている作品」を「道内編」に繰り入れる。そういう姑息な操作までして、「道内編」を豊かに見せなければならない理由は何だったのだろうか。

 

 いやいや、菱川善夫の真意はそんなところにあったわけじゃない。彼は、〈「北海道生れの北海道育ち」の書き手であれば、無条件に北海道文学的な本質を備えている〉という安易な定義を保留して、新たに「自己の創作活動の中に、北海道が切り離しがたく結びついている」という、より本質的な基準を立てようとしたのだ。私はそう考え直してみた。

   私の理解はたぶん的を外していない、と思うが、たとえそれが妥当な理解だとしても、啄木以下の人たちを「道内編」に繰り入れる、菱川のやり方は、恣意を野放しにする結果しか生まないだろう。なぜなら、「一定期間」とはどの程度の期間なのか。個々の歌から、どのように「北海道が切り離しがたく結びついている」ことを読み取るのか。少し突きつめて考えてみれば分るように、判断の基準と許容範囲は、都合により、幾らでも変えることができるのである。

○山名康郎の場合

   菱川善夫にしてみれば、今頃こんな古証文を持ち出されるのは、はなはだ不本意だろう。私もこれ一つで、彼の業績を云々するつもりはない。だが、「北海道文学」を発明(invent)する過程で、どんな無理が行なわれたか、知っておく必要がある。

 菱川善夫は〈北海道の短歌〉を、「道内編」と「来道編」に別けて、「道内編」を先に置き、しかも石川啄木を「道内編」の筆頭に据えた。この位置づけはその後、一種のお約束として踏襲されてきた。

 

 北海道立文学館/財団法人北海道文学館の『ガイド 北海道の文学』(200511月)における「北海道の短歌」を担当したのは、山名康郎であるが、その書き出しはこんなふうであった.

《引用》

  明治の開拓期には伊達邦直、結城国足、角田弟彦、大竹元一らが、それぞれの地域 で文化の中心となり歌会を開いていたが、一九〇七年(明治40)石川啄木が来道して、道内歌人に大いに刺激を与えた。

一見無難な説明のようだが、山名康郎は流通(circulation)や、市場占有率(market share)の視点や、歌の質についての認識を欠いていたのではないか。そういう疑問は禁じえない。

○啄木の現実

   啄木は明治405月に函館に来、翌年の3月、釧路を去った。この、わずか10ヶ月の間に、彼は『函館日日新聞』、札幌の『北門新報』、『小樽日報』、『釧路新聞』と、4つの新聞社を渡り歩いている。啄木の日記によれば、『北門新報』の発行部数は6千部だった。その他の新聞について言えば、『函館日日新聞』は、啄木が遊軍記者となった(818日)から、わずか1週間後(825日)に、函館大火で焼失してしまった。『小樽日報』は創刊(明治401015日)したばかりだった。『釧路新聞』に関しては、福岡雅巳がHP「石川啄木の小屋」で、鳥居省三の釧路叢書『石川啄木—その釧路時代』などを参考にまとめている。それによれば、『釧路新聞』は明治35年の創刊。啄木が就職した当時、釧路の人口は約17,900人、戸数は4000ほどで、推定発行部数は1,200部。現在、全道的なシェアを誇る北海道新聞に較べれば、その1000分の1にも満たない規模だったのである。

   この点を踏まえて、啄木の来道を見るならば、「石川啄木が来道して、道内歌人に大いに刺激を与えた」などとは到底言えない、ごくローカルな出来事でしかなかったであろう。

   もちろん啄木は『小樽日報』や『釧路新聞』に歌を載せている。だが、「大きな刺激を与えた」と言えるほどインパクトの強いものであったかどうか。

《引用》

   北の海白きなみ寄るあらいその紅うれし浜茄子の花(明401015『小樽日報』)

 潮かをる北の浜辺の

  砂山のかの花薔薇(はまなす)よ

  今年も咲けるや (『一握の砂』初出)

 冬の磯氷れる砂をふみゆけば千鳥なくなり月落つる時(明41310『釧路新聞』)

 さらさらと氷の屑が

波に鳴る

  磯の月夜のゆきかへりかな (明43111『スバル』初出)

 頬()につたふ涙のごはぬ君を見て我が魂は洪水に浮く(明413『釧路新聞』)

 頬につたふ

  なみだのごはず

  一握の砂を示しし人を忘れず (明4162324作)

 個々の歌の改作過程や、改作の結果については、また別な議論が必要だが、ただ少なくとも、『小樽日報』や『釧路新聞』発表の歌の類型性は、誰も否定出来ないところだろう。

 啄木は明治414月、東京にもどり、4312月、東雲堂から『一握の砂』を出した。この歌集の評価が高まるに連れて、啄木における「渡道」の意味が論じられるようになる。また、「在道」の歌人や文学愛好家の間でも、彼の「来道」が北海道における重要な文学的事件として認識されるようになった。

  実情は恐らくそういうものだった、と思う。念のため、『北海道文学大辞典』の「来道歌人」の項目を見たところ、担当者の中山周三は、さすがに研究者らしく慎重に、「啄木は……414月、上京したが、こののち在道歌人に与えた影響ははかり知れないものがある」と書いていた。「上京したが、こののち」と書く、そのリアルな視点を忘れてはならないだろう。

○原子修の場合

だが、石川啄木の来道を、〈文化神〉の来訪みたいに待遇する記述は、以上に止まらない。同じく『ガイド 北海道の文学』で、「北海道の詩」のガイド役をつとめた原子修は、まず荘重な言葉で「アイヌ文学」に敬意を表した後、「北海道の詩」の歴史をこんなふうに説き起こした。

《引用》

   明治の大量移民期に本州以南から北海道に移り住んだ人々の中から、「現代の詩」が芽吹くのには、多くの時間が必要だった。

   この間ヨーロッパの詩の大きな影響下にあった日本の詩は、音数律定型詩一色の伝統に抗して、新しい自由律詩を求める運動が台頭し、新体詩から口語自由詩への流れが加速した。

   その風潮を帯びた石川啄木が、函館に住みつき(一九〇七年・明治40)、文芸誌「紅苜蓿」の編集に携わり、新体詩から自由律詩への予兆をはらむ作品を発表したことなどは、〈土の人〉としてこの地に根づいて生きる詩作志望者たちへの、〈風の人〉としての来道者のもたらした刺激の一つだった。    

 『紅苜蓿(べにまごやし)』は明治401月、函館で発刊された文学同人誌で、啄木は創刊号に短詩「公孫樹」「かりがね」「雪の夜」を寄せている。この雑誌の同人・松岡蕗堂との関係で、啄木は5月、函館に渡ったわけだが、『紅苜蓿』の編集責任となったのは第6号からだった。そして第7号を出し、さて、第8号の準備が整ったところ、函館大火で原稿その他を全て失ってしまった。不運というほかはない。

 もし発行部数が分かれば、原子がいう「刺激」の程度を推測することが可能だが、同人誌という性格や、7号までしか出なかった事情から見て、その「刺激」や「影響」を過大に考えるのは危険だろう。

 また、原子修のいう「音数律定型詩」が、五七調、七五調を基調とする、古来の長歌や短歌を指すのか、それとも明治15年の『新体詩抄』を重要なきっかけとする「新体の詩」を指すのか、明らかではない。ただ、いずれにせよ、啄木が『紅苜蓿』の創刊号に寄せた「公孫樹」や、編集責任者となった第6号の「水無月」などは、七五/五七調、あるいは七四/四七調という定型律の枠内にあり、口語や自由律への胎動を感じさせるものではなかった。

 さらに疑問を加えれば、原子は口語自由詩を「現代の詩」と呼んでいるらしいが、果たしてそう呼んでいいのか、なぜ「北海道の詩」と銘打って「現代の詩」しか取り上げないのか、その理由が分からない。〈土の人〉、〈風の人〉などという手製の言葉を、説明抜きに使っているが、アイヌはどこに属するのか。あるいは、アイヌから見れば〈土の人〉も〈風の人〉も大差ないじゃないか。そういう反省を欠いている。

○やっつけ仕事の『ガイド 北海道の文学』

 こんなわけで、『ガイド 北海道の文学』は、神谷忠孝の「北海道の小説・評論」をはじめ、山名康郎や原子修の説明も、あやふやな記述が多く、とてもガイドたりえない。

 おまけに、それらの説明文の後に、「北海道文学史略年表」があり、次に「フォトガイド 北海道の文学」と題する図版のページが来る。そういう編集のため、ひどく分かりにくい。しかも、説明、年表、図版の内容に有機的な関連がない。

 よほど時間に追われていたのか、あるいは書き手も編集者も、やる気や責任感を失っていたのか。本当にリニューアルを唱うのならば、まずこれを全面的に改訂するだけの覚悟と取り組みが必要だろう。

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文学館の見え方(その5)

『ガイド 北海道の文学』の作為

○歴史教科書のでたらめな文章

 私は以前、ある出版社が出した中学校の歴史教科書を見て、驚き、あきれ、慨嘆した。それは明治維新以後、およそ40年間の文学の歴史を説明する記述だったが、まるっきりいい加減だったからである。

 このことは20037月、韓国の中央大学校で開かれた、韓国日本学連合会第一回国際学会の講演(亀井のHP、「1970年代の日本における歴史と文学」参照)でも言及したが、もう一度必要なところを引用したい。

《引用》

近代文化の課題は、西洋文明を取り入れつつ、いかに新しい日本文化をつくり出していくかというところにありました。
 近代文学の出発点となったのは、それまでの宗教や道徳にしばられた考え方や文語の表現をすてて、見たままを考えたように書くことでした。これを言文一致といい、明治20年代には、口語文は新しい文章表現方法として広まっていきました。日清戦争の前後には、個性を重んじるロマン主義が主流となり、短歌の与謝野晶子、小説の樋口一葉ら女性の文学者が活躍したのも、この時期の大きな特徴です。

また、日露戦争の前後には、社会の現実を直視する自然主義が主流となるいっぽうで、夏目漱石と森鴎外は、西洋文明と本格的に取り組んだ日本の知識人の生き方をえがいた小説を発表しました。

 

私が驚き、あきれ、慨嘆したのは、まず「見たままを考えたように書く」とは、具体的にどういう表現行為なのか、よく分からない。それだけでなく、これを明治20年前後の「言文一致」と呼ぶことは、事実の認識と概念の誤りだからである。

また、かりに「口語体」が近代文学の基本的な文体だったとしても、与謝野晶子や樋口一葉はそういう文体を用いていなかった。その関係が説明されていない。日本の自然主義を「社会の現実を直視する」文学と概括することにも問題がある。日露戦争の前後、夏目漱石と森鴎外は、「西洋文明と本格的に取り組んだ日本の知識人の生き方」を描いていただろうか。その点にも疑問がないわけではない。

 その意味で、この教科書はごく基本的な文学史の常識もなく書いていたことになる。

もっとも、同情すべき面がなかったわけではない。この教科書の場合、わずか200ページ前後のテクストのなかに日本の歴史を盛り込もうとして、「開国と近代日本の歩み」という章に40ページを充てている。この窮屈な制約のため、「近代文学の発展」という項目には、いま紹介したように400字程度、つまり原稿用紙1枚分しか割くことができなかった。 

そういう限られたスペースに、40年に及ぶ文学の歴史を書き込むには、どんな視点から、どのように概括して、誰の名前を挙げれば、「記述としての妥当性(あるいは適切さ)」を獲得することができるか。好意的に見れば、この難題を解決するため、先の文章の書き手は、期間をいわゆる「言文一致」運動以降の20年に限定して、文学運動のトピックスとしては日清戦争前後のロマン主義と、日露戦争前後の自然主義を取り上げ、漱石と鴎外という「二大文豪」はこれを落とすわけにはゆかず、しかしやはり女性作家を無視するわけにはゆかないネと、フェミニズム的動向への配慮から与謝野晶子と樋口一葉を選び、それらを継ぎはぎして、ああいう文章を作文したのであろう。

ただし、同情はできるが、こういう鵺(ぬえ)みたいな「歴史記述」は望ましくない。中学生の認識を誤らせる結果しか生まないからである。

 

○神谷忠孝の鵺的な記述

 ところが最近、北海道立文学館/財団法人北海道文学館が、常設展の更新に合わせて出した、『ガイド 北海道の文学』(200511月)のなかで、同じく鵺みたいな文章にぶつかった。それは財団法人北海道文学館の理事長・神谷忠孝が書いた「北海道の小説・評論」である。書き出して間もなく、彼はこんなことを言っている。

《引用》

日本人で初めてアイヌ民族を文学に登場させたのは、一八八五年(明治18年)から八七年まで余市の電信局に技士として勤務した幸田露伴が「雪紛々」(八九年)にシャクシャインの乱を扱ったことである。史実とは違う作為が施されているとはいえ、アイヌ民族なしに北海道の文学は語れないという方向を示唆したという意味で露伴の存在は大きい。

 露伴の『雪紛々』は寛文91669)年に起った、「シャクシャインの乱」を江戸時代の読本、あるいは明治前期の実録物のスタイルで書いた伝奇物語である。その系譜を求めるならば、建部綾足が安永21773)年に出した、『本朝水滸伝』(前編のみ。後編は写本で伝わる)の系統のものと言えるだろう。

 『本朝水滸伝』は古代に題材を求め、高野天皇(孝謙女帝)の寵を得た弓削道鏡(ゆげのどうきょう)に対して、恵美押勝(えみのおしかつ)が、皇太子の道祖王(みちのおんのおおきみ)を擁立して叛乱の兵を起こす。しかも恵美押勝の側には、越中の国司・大友家持や、胡(えみし)王のカムイポンデントピカラや、日本へ亡命した楊貴妃の一族が加担するという、奇想天外、規模壮大な構想の物語だった。

 作者の建部綾足は津軽藩の藩士の家に生まれ、「シャクシャインの乱」などの風説を耳にしながら育ったのであろう。

 神谷忠孝はそういう物語の存在に気づかず、露伴の『雪紛々』を「日本人で初めてアイヌ民族を文学に登場させた」作品とした。江戸時代は彼の専門外だから、これはやむを得ないとも言えるが、――ついでに言っておけば、露伴は「技士」ではなく、「技手」だったはず――ただ、「アイヌ民族なしに北海道の文学は語れないという方向」とは、どういう意味なのか、さっぱり分からない。

 一応考えられるのは、「アイヌ民族の口承文芸なしに北海道の文学は語れない」という意味であるが、仮にそうだとすれば、これは『雪紛々』のテーマとも内容とも関係がない。『雪紛々』はそういう「方向を示唆する」物語ではないからである。

 おそらく神谷は、「北海道の小説・評論」の最初に『雪紛々』を置いた理由を、アイヌとの関係で意味づけようとしたのだろう。だが、上のように根拠の乏しい、姑息な文学史的位置づけや、評価は、読者を欺くものと言わなければならない。

○読者を欺きかねない記述

 もう一つ挙げてみよう。神谷忠孝は有島武郎について、こんなふうに言っている。

《引用》

父が払い下げで取得した土地には小作人が住み着いており、農地解放の方に関心が移って農業経営を断念して文学に傾斜していった。しかし、北海道を離れてから発表した『カインの末裔』(一九一七年)の魅力は後代の作家たちに引き継がれた。

 これも読者を欺きかねない記述であって、有島の父が明治政府から北海道・狩太の土地を払い下げてもらった時は、まだロクに開墾の斧も入っていなかった。全く人間が足を踏み入れていなかったはずはないが、それは「小作人が住み着いて」いる状態ではなかった。

 では、神谷は、有島が父親から相続した時のことを言おうとしたのだろうか。だが、有島の父は、有島が20歳の時、有島の将来に備えて土地の払い下げを受けたのであって、幾つかの事情があって、有島の妹・愛の結婚相手、山本義直の名義とした。有島はそれを知っていたはずである。そして有島が31歳の時、狩太の農場は彼の名義に書き換えられ、それだけでなく、彼は37歳の時、さらに狩太の土地94町歩を買い足している。

当然のことながら、この間有島は、新しく小作人を入れることに消極的だったわけではない。「農地解放の方に関心が移った」のは、もっと後のことで、もしその点に言及するならば、「農地解放の方に関心が移って農業経営を断念して」ではなく、「農場経営に行きづまって、農場解放を思い立ち」と言うべきだろう。

このように、神谷忠孝の記述は、事態の認識がまるでなっていない。「農業経営を断念して文学に傾斜していった」という記述にも、それが見られる。有島の文学に少しでも通じている者ならば、誰もが知っているように、彼の「文学への傾斜」は30歳代に始まる。それは、農場経営の行きづまりや、解放(大正11年7月、有島45歳の時)のずっと以前からであった。むしろ文学的展開力の減退も「行きづまり」感の一因だったと、そう見ることさえ出来るだろう。

ちなみに、『カインの末裔』の主人公にはモデルがいたらしいが、――そして有島は、かなりネガティヴな人間像に歪めてしまったようだが――作品から読み取り得るかぎりで言えば、この人物は渡り者の契約農夫だった(大正期の渡り者については、亀井のHP、『20世紀前半の文学(その2)』の「新感覚の表現」「渡り者たち」参照。『カインの末裔』の人物形象の先行系や、表現特質の同時代的な動きを知るヒントも得られると思う)。主人公以外の「小作人」も同様だったと見ることができる。本州におけるような、「農地」に居着いていた小作人とは異なるのである。

神谷忠孝は戦後の「農地解放」と、有島の「農場解放」との区別もできていなかったらしい。

○「お約束」の問題

 「北海道の文学はアイヌ民族の口承文芸を抜きには語れない」、「有島武郎の『カインの末裔』と農場解放は、北海道文学における農民文学や、社会主義的・革命的文学の源流となった」。これらは〈北海道文学(史)〉を語る際の「お約束」だった。神谷忠孝の記述は、単なるケアレス・ミスや、勇み足ではなく、お約束に辻褄を合わせるための、意図的な作為だったと見るべきだろう。

 それを『ガイド 北海道の文学』の冒頭に置いた編集担当者も、同じく意図的にその作為に加担していた。そう言われても仕方あるまい。

 ただ、これを逆に見れば、神谷は上のような作為によって、いかに〈北海道文学論/史〉が形骸化しているかを、見事に露呈させてしまった。そう言うことができる。

 では、〈北海道文学論/史〉のお約束はどんなふうに作られたか、現在、別なジャンルでどんなふうに形骸化を晒しているか。次に菱川善夫や原子修の文章によって検討してみたい。

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文学館の見え方(その4)

「発明された伝統(invented tradition)」の問題

○日独センターの学会で

 さて、ところで「発明された伝統(invented tradition)」の問題であるが、私の記憶によれば、北海道文学館がオープンした平成7年ころ、この言葉は文化研究(Cultural Studies)で盛んに用いられていた。

 その年の10月、日独センターの呼びかけで、「カノンとアイデンテティ――トランス・カルチヤ―の視点による日本近代化の再検討―」という学会がベルリンで開かれ、ドイツ、フランス、アメリカ、日本の研究者が集まった。私は当時、コーネル大学にいたので、アメリカから参加し、「近代文学の形成における西洋的な要素――主人公と構成の問題を中心に―」という発表をしたのだが、そこでは誰も彼もが“invented tradition”を口にしている。まるで熱に浮かされたみたいに、あんまり安直に乱発するので、私は〈この言葉は決して使うまい〉と決心したほどだった。

 席上、この言葉にストイックだったのは、ハイデルベルグ大学のシャモニ教授と私だけだったのではないか、と思う。

○「文学(史)」への視点

 それから10年、さすがに最近はあまり聞かなくなった。念のために説明をしておくならば、「発明された伝統(invented tradition)」とは、「私たちが古くからの伝統と思い込んでいる事柄は、実はその大半が、近代に案出され、制度化されたのもなのだ」という意味である。つまり文化研究(Cultural Studies)の歴史家たちは、伝統の「起源」を、観念の「起源」の面からとらえて、そのイデオロギー的な機能を批判的にあばく作業に取りかかっていた。彼らが使う「発明された(invented)」という言葉には、「国民国家への帰属意識を持たせる観念的装置として考案された、or捏造された」という意味が込められていたのである。

高木博志さんの啓発的な研究、『近代天皇制の文化史的研究』校倉書房、平成92月)によれば、元旦の初詣も「発明された伝統」の一つだったらしい。

 文学も同様であって、明治に入るまで、私たちが現在普通に使っている意味の「文学」や「文学史」はなかった。文学という言葉はあったが、それは「学問」の意味だった。儒学者や国学者や学僧が、それぞれ聖典(canon)と重んずるテクストの語義を究明し、奥義を会得しようと努めること、それが学問であり、文学だったのである。その奥義を体現するために自分の言動を律し、日常を整える、そういう実践もまた文学的な行為だった。

 現在、これらの「文学」は文学部の研究対象として扱われているが、しかしそれを文学と呼ぶ人はごく少ない。その代わりに、当時「文学」には数えられなかった西鶴の浮世草子や、馬琴の読本や、春水の人情本などの草紙類が、むしろ現在では文学に数えられている。

 また、史的な認識についても、例えば『日本書紀』に、「新治(にひばり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」「日日(かが)並べて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を」という日本武尊(まやとたける)と、秉燭者(ひともせるもの)の、有名な問答歌がある。中世の連歌師は「連歌」の起源をここに求めた。二条良基は、救済(きゆうせい)と一緒に編纂した連歌集に『菟玖波(筑波)集』という名をつけて、勅撰集に準ずるものと扱っている。

 そのように、中世や近世の言語表現者たちは自分たちのジャンルの由緒を語り、自分たちの流派の系譜を大切にした。だがそれは、現代で言う「歴史」ではなかった。彼らは自分たちの由緒が立派であることを求めたが、歴史的事実に照らしてその由緒書きが正しいか否か、そんなことに気持を労することはなかった。自分たちの系譜の消長は大切に語り伝えたが、それを他のジャンルの消長と関係づけながら、その全体を包括する「文学」を構想し、その推移を「歴史」的に叙述することもなかった。そういう発想もなければ、要求もなかったのである。

 別な言い方をすれば、明治以前における「歴史」とは、由緒と系譜だったのである。

○「発明された伝統(invented tradition)」を超えて

 私自身は、昭和58年、講談社から『感性の変革』を出してもらい、もう文芸雑誌に評論を書く仕事は切り上げよう、と考えた。「近代」の問題を根本から考え直すためである。

翌年から、岩波書店の『文学』に、「近代詩史の試み」を連載し、昭和63年から、『小説神髄』研究を北大文学部の紀要に載せ始めて、平成6年に終った。そうして今(平成7年)、コーネル大学で、のちに『明治文学史』(岩波書店)の形にまとめる講義を行っている。

 ベルリンの集まりに出た時、私はそんなふうに仕事を進めていたわけだが、その間、私は次のようなことを自分に課していた。「近代を歴史的に正当な段階とみる見方を一たんカッコに括ってしまい、いわば裸の目で江戸から明治への現象を捉えたら、どう見えてくるか」。このような立場を選んだ点で、私は「発明された伝統(invented tradition)」を言う人たちと共通の問題意識を持っていたと言える。ある意味では、そういう問題意識を抱く人たちの出現を準備してきた。そう言うことも許されるだろう。

 

 当然のことながら、私には「発明された伝統(invented tradition)」という問題提起には共感があった。ただ、あんまり安易に乱発されると、かえってその安っぽさが目についてくる。いや、鼻についてくる。

 歴史的な事象を取り上げて、あれは結局「発明された伝統」でしかなかった、これも近代に仮構された「伝統」にすぎない、と手際よく捌いてみせる。それは、さほど難しいことではない。むしろ本当に難しく、だが是非ともやらねばならないのは、次のようなことだろう。〈明治のイデオローグたちが「伝統」として文化編成をした事柄を、改めて具体的に再検討して、「伝統」としての意味づけとは異なるリアリティや、失われた可能性を掘り起こし、そうすることによって「発明された伝統」の近代性を相対化する〉。

私はそういう目標をもって『小説神髄』研究を進めてきた。そんなわけで、ベルリンに集まった文化研究者たちが、「「伝統」的な意味づけとは異なるリアリティや、失われた可能性を掘り起こす」作業を抛り出して、ただ言葉だけの「近代」批判に浮かれている。私の立場からすれば、上のような作業は当然、「発明された伝統」という観念自体の相対化と批判にまで進まざるをえない。

そういう自覚を促される学会だった。

○〈北海道文学〉の発明

 私はその翌年、平成8年の2月にアメリカから帰ったわけだが、道立文学館に関わる人がコンタクトを取ってきた。文学館に出かけてみた。ところが、ここには「発明された伝統(invented tradition)」の問題意識のかけらも見られない。30年前と変らぬ、カビの生えた文学観による展示が、麗々しく行われている。それは驚きだった。

 

ここに展示された「北海道文学の流れ」は、和田謹吾、澤田誠一、山田昭夫、木原直彦、小笠原克、菱川善夫などの人たちによって「発明された伝統」だった。私の知るかぎり、この人たちは構造主義にも、ポスト構造主義にも、読書行為論にも、読者論にも関心を持たなかった。この人たちの同世代である吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』と相渉ろうともしなかった。この人たちは反映論的リアリズム論と、心情吐露的な表出論から一歩も出ようとしない。その意味できわめて閉鎖的で退屈な文学観の持ち主の集団だったが、その文学観を風土論で色づけしながら、小田切秀雄や猪野謙二たちが描いた日本近代文学史をカノンとし、その縮刷地方版を作った。北海道文学(史)とは、「発明された伝統」としての日本近代文学史の、ミニチュア的再生産だったのである。

それが誇らしげに、道立北海道文学館に再現されている。

 私は小樽文学館で小林多喜二を読む連続講座を開いたが、講座を始めるに当って、「昭和の文学者のなかで、現在もっとも研究が停滞しているのは、小林多喜二と宮本百合子についての研究だが、その原因は、日本共産党が多喜二や百合子の読み方を管理するような状態が続いてきたためだ」という意味のことを言った。

 その展示を見て、同じことを言いたくなるような歯がゆさと苛立ちを、私は覚えた。ところが、つい先日、展示のリニューアルが公開されたが、それを見てまたしても驚いた。この度のリニューアルは、要するに上の人たちの北海道文学論を顕彰し、「管理」を強めることだったのである。

○〈北海道文学〉関係者の顕彰文学館

 コーネル大学から帰って7年後、イギリスのケンブリッジ大学が、英語圏と日本の研究者の共同執筆による『日本文学史』を企画し、一昨年、20名ほどの執筆予定者がアメリカのエール大学に集まった。エール大学のエドワード・ケイメンズ教授が、共同執筆の世話をすることになったからである。

 なぜ新しい日本文学史を必要とするのか。現在、英語で読むことができる日本文学の通史には、加藤周一の日本文学史と、ドナルド・キーンの日本文学史がある。学生に一応目を通しておくように薦めるが、最近の研究動向や問題意識とのギャップが大きく、講義や演習のテクストとしては役に立たない。そういう説明だった。

 

 ケイメンズさんは、私たちが集まるに先立って、共通に目を通しておいてほしい幾つかの本や論文の名前を伝えてきた。議論の拡散を防ぐためである。名前が挙がっていたのは、“Is Literary History Possible?by David Perkinsや、“Rethinking the National Modelby Linda Hutcheonなどであり、私の「文学史の技術」(『季刊 文学』第9巻第4号)も含まれていた。私の論文はさて置き、これらのタイトルからも分るように、文学史の可能性と原理を根本から問い直す形で、新しい日本文学史に着手しようという集まりだった。

 ケイメンズさんの危惧にもかかわらず、2日間の議論は多岐に渡ったが、一つ共通の了解に近づいた点がある。それは、〈言語テクストを文学的に享受する仕方と、享受者層の変遷に焦点を合わせる。またそのことと、テクスト生産(者)とのダイナミックな関係をとらえ、立体的に記述する〉ことである。

 私が担当するのは20世紀前半の文学であるが、まさにこの時期は、Literacy(識字率)と、 Readership(読者層)と Circulation(流通システム)のあり方が、社会問題として浮上してくる時代だった。この状況のなかで、どのような文学的カノンが、どのように作られてきたか。その論文草稿は、私のホームページ(http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/)に載せておいたが、ともあれそういう仕事を進めている立場からすれば、現在の道立北海道文学館は、〈北海道文学〉関係者の顕彰文学館の臭いが強すぎる。新たな享受者層を獲得する魅力を見出すことはできなかった。

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文学館の見え方(その3)

困った館長たち

○不甲斐ない北海道文学館 

 この文章の(その1)を載せた後、私は「発明された伝統(invented tradition)」というテーマで(その2)を書き始めた。だが、北海道立文学館10周年を「祝った」中村稔の文章を読み、「ここまで言うか」とあきれて予定を変えることにした。

 私があきれたのは、「お祝いのことば」を求められながら、しかし中村稔は、財団・北海道文学館(以下、「財団」と略称)の文学館運営が破産の惨状を呈していることを暴き立てている、その無神経に驚いたからである。

それはこういうことでもある。私の見るところ、「財団」の理事長も学芸員も、文学館に関するコンセプトや展示の方法を、日本近代文学館やその館長・中村稔に多く依存してきた。中村稔のほうも、北海道立文学館を、自分が考える文学館運動の優等生的な拠点館として、大事にしているらしい。私はそう見ていた。そのこともあって、中村稔の手の平を返すような、ニベもない引導の渡し方に、人ごとながら憤慨したのである。金の切れ目が縁の切れ目じゃないけれど、けっこう調子よく手なずけておいて、経営がうまく行っていないらしいと見たら、あっさりと突き放す。それはあまりにも薄情、無責任というものだろう。

それにしても、こんな「お祝いのことば」を突っ返す気概がないなんて、理事長も館長も学芸員も不甲斐ない。腰抜けもいいところじゃないか。

○市立小樽文学館から見て

 北海道と小樽市では、予算規模の桁が違う。展示室の広さや設備も、雲泥の差がある。中村稔の指摘によれば、道立文学館の平成16年度の事業費は2800万円を越えていたわけだが、市立小樽文学館はその100分の1程度、強いて言えばそれよりもややマシかな、という程度だった。

 小樽市は財政逼迫のため、博物館や美術館や文学館にそれぞれ纏まった事業費を当てることができない。やむを得ず、年度別ローテーション方式で、重点的に事業費を当てることにし、今年は文学館にそれが当った。だが、それでも道立文学館の事業費の15分の1程度でしかない。「今まで3000万円を越えていたが、今年は2800万円台に減らされた」。小樽から見れば、これはもう夢みたいな金額であるが、しかし敢えて言えば、ここ数年、小樽文学館と道立文学館とでは、小樽のほうが桁違いに実績を挙げてきたと思う。有森裕子ではないが、「自分を褒めてやりたい」くらいなものである。

○「来館者」と収入の問題

 同じく中村稔によれば、道立文学館は年間2800万円余の事業費を使って、事業収入は378万円しかなかったという。来館者は年間15千人から2万人の間を推移し、「全国的にみれば、これはそう恥ずかしい数字ではない」そうであるが、本当にそうだろうか。この点が曖昧で、中村稔も何か勘違いをしているのではないか。

 なぜなら、道立文学館の常設展の観覧料は400円であり、だから1万人の観覧者があれば、それだけで400万円に達するはずだからである。

 

ただし、この事業収入は、常設展以外の特別展や講演会などの収入、と見ることもできる。もしそうならば、特別展の観覧料は600円だから、単純に計算すれば6300人が特別展の観覧料を払ったことになる。講演会や各種の催しに足を運んだ人もいたはずだから、その数を除けば、実際には5000人程度になるだろう。

 ともあれ、中村稔がいう「来館者」には、この数が含まれる。逆に言えば、「来館者」からこの数を引いた数字が、常設展の入館者ということになるはずで、それを123千人と見れば、常設展の収入は多めに計算して520万円程度になる。道立文学館は常設展の観覧料と、特別展の観覧料を別々に取っており、だから常設展の収入と、事業収入の378万円を合わせれば、900万円前後となる。

 しかしこれは、あくまでも好意的に見た数字であって、中村稔の説明はその点が抜け落ちている。もし一切合財を含めて、年間収入が378万円程度だったとするならば、常設展の入館者は6000人前後、特別展等の入館者は2000人前後、合計8000人前後となり、「全国的にみれば、これはそう恥ずかしい数字ではない」などと言ってはいられない。文字通り「惨澹」たる状況なのである。

 ちなみに、小樽文学館の観覧料は、市の条例により、今年の3月末までは100円だった。ただし、同じく市の条例により、特別展の観覧料は、館の考え方で設定できることになっている。私が館長になる以前は300円、500円と設定していた。だが、翻って考えれば、館の考え方によって100円据え置きにしておくことも可能なはずで、ここ数年はそうしてきた。そして、これは以前からそうだったのだが、常設展と特別展の観覧料を別々に貰うことはしていない。

財政難のため、今年の4月から、市は観覧料を300円に上げ、館はそれに準じて特別展の入館料も300円としている。

 

市の関係者から聞いたところによれば、文学館の入館者数の増減は、小樽の観光客の増減に比例しているという。このところ小樽の観光客は減少傾向にあり、特に今年度は観覧料の値上げもあって、年間の入館者は1万人を切るかもしれない。ただ、小樽文学館は道立文学館と違って、講演・講座などは1階で行い(展示室は2階)、聴講料も取らない。聴講者を入館者にカウントもしていない。もしそれらを含めて「来館者」に数えるならば、好意的に計算した場合の道立文学館の数に遜色ない数字となるだろう。

 

○仙台文学館館長・井上ひさしの見識

 文学館のような文化的な事業を、入館者の数だけで評価してもらいたくないな。こういう問題の時、必ずこの種の反論が文学館関係者の口から出てくる。私自身もそう言いたい場面に、時々出会う。だが、そう反論するためには、特別展や講演・講座などにおいて、質量ともに評価に耐えるだけの実績を挙げていなければならないだろう。

 その意味で私は、次のような井上ひさしの意見(「文学館の住人たち」。『全国文学館協議会会報』No.31200510月)には、全く賛成しない。冗談のつもりなのだろうが、冗談にしても、言うことが下司で、笑いに品がない。

《引用》

  井上でございます。仙台文学館の館長をしております。勤務状態は非常に悪い。(笑い)ただし、参りますと大体二日ほどの講座を一生懸命やっております。

  大変優秀で熱心な学芸員の方がたくさんいらっしゃいます。副館長は大変仕事のできる方ですし、長と付いたら何もするなというサゼスチョンもあるので、それを一二〇パーセント生かしまして何とか皆さんの力で館長を続けております。辞めたいと何度も申し上げましたが辞めさせてくれないというと愚痴っぽくなりますけれども、その程度の館長であります。

  ただ、仙台文学館は大変環境のいい大きな森を歩いていってその出口にある建物で大変凝った素晴らしい文学館です。特にお客さんがあまりいらっしゃらないのです。なぜいらっしゃらないのかよく分かりませんが、それでも行政が、入館者が何人あったかという数字を非常に気にします。僕が行くときは罪滅ぼしに入り口を何回も出たり入ったり出たり入ったりするのでそれがカウントされる。(笑い)ですから仙台文学館へもしいらっしゃったら、いや、ぜひいらっしゃっていただきたいのですが、入り口で出たり入ったり出たり入ったりしている人間がいればそれは多分私ではないかと思います。

 ともすれば行政は数字で成果を計りたがる。それをあげつらって、「文学が分からない俗吏の数字依存」と頭から小馬鹿にしたがる、おインテリは、「文学」の世界にもはびこっていて、「財団」にもそのテの人間が見られる。実はそういう思い上がりが、「お客さんがあまりいらっしゃらない」結果を生んでいることに、彼らは気がついていない。

 仙台文学館には魯迅のコーナーもあり、井上ひさしがその前に立つと「魯迅自身の声や魯迅の周辺にいた仙台の人たちの声、それから魯迅がやがて書くいろいろな小説の人物(の声)」が聞えてくるそうである。そこで彼は、魯迅をネタに、日本が中国へ侵略した歴史認識や、大昔から日本は中国からいろいろ学んできた関係をだらだらと啓蒙し、そうして秋篠宮さんと紀子さんが訪れた時にも、同じようなことを「延々説明」して、「宮内庁と県警のスケジュールを狂わせた」。彼はそう自慢して、「文学館にはそれだけの力があるのです」と締め括り、(笑いと拍手)を取っていた。

私は大学生の頃、スターリンの演説集を読んで、(拍手)とか、(長く鳴り止まぬ拍手)とかいう断り書きが、至るところに挿入されていることを不思議に思い、歴史研究会の先輩に疑問を語って、すっかり顰蹙を買ってしまった。そんなことを思い出しつつ、私は運よくこんな講演を聞かずにすんだことを、天に感謝した。

彼はそれだけでなく、「辞めたいと何度も申し上げましたが辞めさせてくれないというと愚痴っぽくなりますけれど、その程度の館長であります」などという卑下自慢が、仙台の人たちに対して如何に無礼であるか、まるで気がついていない。まったくひどい状況だと思う。

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文学館の見え方(その2)

北海道立文学館の現状

○中村稔の引導
今日(11月2日)、北海道立文学館で、開館10周年の式典があり、続いてリニューアルした常設展が紹介された。いろいろ感想があるのだが、今日配られた『北海道文学館のあゆみ——道立文学館開館10<周年によせて—』という冊子に、目を疑うような文章が載っていたので、感銘醒めやらぬうちに紹介しておきたい。それは、全国文学館協議会会長・中村稔の「北海道立文学館十周年に寄せて」という「お祝いのことば」である。

《引用》
(前略)ただ、収支計算書総括表をみると、必ずしも将来は楽観できない。平成十六年度には、道からの管理運営受託事業費が一億七千四百万余、札幌市等からの補助金が二百九十万円、これらをあわせた収入が一億九千万余だが、そのうち事業収入は三百七十八万円余にすぎない。つまり、収入の中、事業収入は二パーセントに足りない。道庁からの管理運営受託費、補助金も前年度に比べると漸減傾向にある。一方、支出をみると、維持運営費が九千八百万円余、管理費が五千九百万円余、事業費は二千八百万円余である。維持運営費は電気・燃料代等の建物の維持管理の費用であり、管理費は職員費、会議費等である。運営受託費、補助金の減少に見合って、これらの費用も若干節減されているが、目立つのは事業費が前年は三千万円を越していたのに一割近く減少していることである。
これは自治体が直接、間接に運営している全国の文学館にもみられる現象だが、自治体の財政が逼迫し、年々運営委託費等の名目で支出していた助成金が削減されても、建物の維持管理費はほとんど節減できないし、人件費等の節減も限度がある。その結果、事業費が大幅に削られることとならざるをえない。しかも、事業費を年々削減していけば、事業そのものを充実させるのが難しくなることは目に見えている。道立文学館の年報によれば、来館者は年間ほぼ一万五千人ないし二万人の水準で推移しているようだが、全国的にみれば、これはそう恥ずかしい数字ではない。年間五万人を越える来館者のある文学館は数えるほどしかないのが実状である。それでも、事業費支出二千八百万円余に対し事業収入が三百七十八万円、一億九千万円を越える支出に対し来館者が一万五千人から二万人ということからみれば、費用対効果は惨憺たるものといわざるをえない。

中村稔の「お祝いのことば」はこれで終りである。頑張れとか何とか、普通は何か一言、取り繕った言葉を添えて結ぶはずなのだが、どうやらそんなお愛想を言う気にもならなかった。そんな気配が伝わってくる。道立文学館にしてみれば、お祝いの言葉を求めて、引導を渡されたようなものであろう。

○自信の喪失

それでもまだピント来ない人もいるかもしれない。札幌の中島公園にある文学館は、北海道の道立文学館と、民間の財団法人・北海道文学館の二つの面をもっている。その点が少しややこしいのだが、北海道は道立北海道文学館の管理運営を、財団法人・北海道文学館に委託する形を取り、その管理運営に要する経費、年間一億九千万円余のうち、道が一億七千四百万円ほど負担し、札幌市も二百九十万円ほど補助してきた。

それ以外のお金は財団法人・北海道文学館が負担しているわけだが、それは一千万円足らずと見てよいだろう。なぜなら総額一億九千万円余を使い、そのうち事業費に二千八百万円を宛て、そうして三百七十八万円ほどの事業収入を挙げてきた。この三百七十八万円も年間収入の一億九千万円余に含まれているからである。

こうしてみると、「事業費支出二千八百万円余に対し事業収入が三百七十八万円、一億九千万円を越える支出に対し来館者が一万五千人から二万人」という数字は、確かに「惨憺たるものといわざるをえない」。この数字を見て、さすがに中村稔は「文学館という文化事業に、北海道がこの程度の支出をするのは当然ではないか」と言い切る自信を失ったのであろう。

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文学館の見え方(その1)

亀井秀雄の食言(?)

○石塚喜久三のメモを取る

 先日私は、附箋を貼りながら、九州大学日本語文学会の『九大日文』06200561)をめくっていた。『蒙疆文学』という雑誌の目次が紹介されており、石塚喜久三(190487)が何回か小説や随筆を載せているからである。

 石塚喜久三の名を知っている人はそう多くないと思うが、伊藤整と同世代の、小樽出身の文学者で、函館師範を卒業し、小樽の花園国民学校の教員となった。のち大陸に渡り、華北交通張家口鉄路局に勤務。蒙疆文芸懇話会の幹事となり、昭和18年、『纏足の頃』という作品で芥川賞を受賞している。戦後は『花の海』刊行を機に創作を再開し、『回春室』や『肉体の山河』など、復員者の抑圧された性を題材とする作品を書いた。

 この人の文学活動については、まだ分からない点が多い。念のため小樽文学館所蔵の資料とつき合わせ、もし雑誌に発表した時のものがなかったならば、この雑誌を所蔵している図書館や文学館でコピーを取らせてもらおう。そう考えながら附箋を貼っていたわけで、この時の私の関心は、間違いなく文学館の館長としてのそれであった。

○亀井秀雄の食言

 ところが、その『九大日文』に、「九州という思想」というシンポジウムの記録が載っていて、土屋忍の発言のなかに、思いがけなく私の名前が出てくる。「おやおや、土屋さん、だいぶ慎重さが足りないな」。

 土屋忍がこんなことを言っていた。

《引用》

 文学者は、最初に言った、グローバリゼーションの中での地名というものに、様々な海外の紀行文を書いたりいろんなルポルタージュを書いたりする中で関わっていると言えますし、特に文学館や文学碑に携わる文学研究者は、ローカリゼーションの中で人を地名に囲い込む作業に関わっているとも言えます。すなわち、文学館や文学碑を建設して、郷土という共同体を実体化、活性化することを通じて、郷土と呼ばれる場所で生成する地名の拘束性を強化していると思います。様々な文学館はその上に、その土地の名がつけられることが多いと思います。固有名詞を出していいのか分かりませんが、亀井秀雄さんという人がかつて日本近代文学の例会だったと思いますが、文学館批判をしたんですね。これは今回のこのプロジェクトとかなり主旨が近いご発表だったと思いますが、土地と思想、土地と文学を結びつける考え方に対して非常に批判的に、功罪の罪の方を取り上げて文学館批判をして、それは「日本近代文学」に「言説空間論再考」という形で載ったんですが、様々な形での言説上の抑圧と文学館の建設が関わっているということを、様々な角度からお話しされたわけです。しかしその後、亀井さんは小樽文学館の館長になられてしまったので(笑)、どうされるのかなと思ったんですが、それはそのままになっているということです。文学研究者であるならば文学館と関わっていかざるをえないところもまたある。もちろん私はそれが全部悪いことだと思っているわけではありませんが、それらを亀井さん流に理論的に考えていくなら、「文学館の犯罪性」なるものが浮上してくることもあるでしょう。だからと言ってそのような研究者が、自らの理論的立場を守って文学館批判を貫けるわけでもないのです。

○土屋忍の勘違い

 要するに土屋忍は、亀井の食言――文学館を批判していたくせに、文学館の館長に納まっている矛盾――を指摘して、ちょっと笑いを取りながら、〈文学研究者と文学館とはどこかで癒着している、文学研究者が文学館を批判し切るなんてドダイ無理な話だ〉と、そう言いたかったのであろう。しかし土屋忍には気の毒だが、私は「言説空間論再考」という文章のなかで、一言半句も文学館批判などやっていないのである。

確かに私は平成81130日、東京で開かれた日本近代文学会の11月例会で、「言説(空間)論再考」という口頭発表を行った。それは、『日本近代文学』第56集(19975月)に載っている。だが、文学館に関する発言はしていない。私はこの文章の末尾に、「付記」として、「発表の際には時間の都合で何箇所か省略せざるをえなかったが、ここでは用意していった原稿そのものを採録してもらうことにした。会場での幾つかに質問に対して意を尽くした答えが出来なかったため、その補足を兼ねた補論を、「註」の形で述べさせてもらった。」と書いた。だが、今その時の記憶を探っても、文学館に関する質問は浮かんでこない。そういう質問もなかったと思う。

○勘違いの根拠

 ただし、土屋忍が嘘をついているというわけではない。口頭発表に先立って私は、日本近代文学会の『会報』に「発表要旨」を載せたが、そのなかで文学館のあり方に対する批判を書いた、と記憶している。その月報が見つからないので、今はうろ覚えで書くしかないのだが、私は和田謹吾や小笠原克の北海道文学論を念頭に置きながら、風土決定論的な発想で文学の地域的特色を強調する言説を批判した。それを土屋忍は「土地と思想、土地と文学を結びつけることに対する」批判と記憶したのであろう。

 幸い私は、割合に若くして自分の著書を持つ機会に恵まれた。和田謹吾の『描写の時代』(昭和50年、北大図書刊行会)の「あとがき」や、小笠原克の『野間宏論』(昭和53年、講談社)の「あとがき」で分るように、私は自分に出来る範囲内で、彼らのために配慮し、斡旋したつもりだった。後になって、二人がどう思い返したか分らないが、少なくともその時点では、私たちの関係はけっして悪いものではなかったと思う。

ところが、彼らが立案した「北海道文学全集」を立風書房が引き受け、昭和54年に第一巻「新天地のロマン」が出た。そのころから、彼らは、常軌を逸するほどの猛り方で、高圧的に若い大学院生の疑問や批判の封じ込めようとした。助手や院生の人事まで妨害する。彼らがそうなった理由について、私なりの理解はあるが、ここはそれを語る場所ではない。ただ一つ言っておくならば、私は、福井大学の越野格や、東京大学の小森陽一など、自分が指導教官となった人たちの就職先を、出来るだけ道外に求めることにした。それは、以上のことと決して無関係ではなかった。

 平成7年、現在の北海道文学館がオープンした時、私は運良く(!)、コーネル大学の客員教授となって日本を離れていた。だが、帰って見て、「北海道文学」を大義名分とする風潮は一向に改まっていない。むしろ「文学館」という形に物象化され、ますます制度化が進んでいる。

日本近代文学会の『会報』に書いた「発表要旨」は、そういう成り行きに対する苛立ちをモティーフとしていた記憶がある。「文学館の犯罪性」という、どぎつい言葉は使っていなかったと思うが、きつい表現になっていただろうことは否定しない。

 その意味で、土屋忍は事実無根を言ったわけではなかった。

○描かれた自分の姿を引き受けて

 ただ土屋忍は、小樽文学館がどのような活動をしているか、おそらく関心がなかった。先の発言を読むかぎり、そう判断するしかない。ああいう発言をする以上、念のために小樽文学館のホームページを覗いておこう。多分そういう気持も動かなかったほど、土屋忍にとって、小樽文学館の仕事そのものは関心の外にあったのである。

だからと言って、べつに咎め立てをするつもりはない。小樽文学館は小樽市の教育委員会に属する社会教育のサービス機関であって、研究機関ではないからである。もちろん学芸員はいる。本来ならば学芸員の調査結果を報告する『紀要』を出すべきなのだが、予算的には、年に一回、145ページの『館報』を出すのが精一杯。研究者が目を向けないからとて、それをとやかく言うのは筋違いというものだろう。

こう考えてみると、要するに土屋忍は、私がその「犯罪性」をあげつらうほど文学館を批判しておきながら、数年後には文学館の館長に納まっていることに、どうも納得がゆかなかった。そこで、ついそれを笑いの種にしたくなったわけだが、なるほど俺はそう見られてもいるのだな。私はむしろその点に興味をそそられた。

そういう自分の姿を、私なりの仕方で引き受けながら、改めて文学館の問題を考えてみたい。土屋忍のような、半ば無責任な取り沙汰に対する、それが一番の対応の仕方だろう。折から、規模の大きい文学館に、指定管理者制度が導入される動きが始まり、文学館の自己脱皮が緊急の課題となってきた。他方、最近出た『全国文学館協議会会報』No.31の「発足10周年記念講演会」(200510)を見ると、仙台文学館館長の井上ひさしと、徳島県立文学書道館館長の瀬戸内寂聴が、いい気な調子で文学館の効能書きを並べ立てている。北海道文学館は開設10周年を記念して、リニューアルをやる。それらの検討を通して、文学と文学館と自分のあり方を見定めたいと思う。

 

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