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文学館の見え方(その6)

おかしな啄木像

○菱川善夫の位置づけ

 石川啄木は道内の人なのか、それとも道外の人間なのか。こういう設問自体、じつは不毛なのだが、とりあえずこの設問に従って考えてみよう。おおかたの人は、啄木は道外の人間だと答えるだろう。ところが、菱川善夫は道内の人に数えることにしたのである.

《引用》

 小田観螢、山下秀之助、相良義重、戸塚新太郎、芥子澤新之介、酒井広治といった,海道歌壇の創設期を支えた人々は、いずれも道外から来道した人々である。もし道内編を、北海道生れの北海道育ち、ということに限定するなら、その数はいちじるしくかぎられてしまうことになる。だからここでは北海道に一定期間滞在し、作品活動や運動を通して、北海道歌壇に影響を与えた人、あるいは自己の創作活動の中に、北海道が切り離しがたく結びついている作品は、すべて道内編にくみいれて考えることにした。石川啄木、斎藤瀏、清原日出夫が道外編でなく、道内編の中に組みいれられているのは以上の理由からである。

これは昭和541979)年、立風書房から出た『北海道文学全集』第22巻「北の抒情」の「短歌」の部に、菱川善夫が附けた解説の一節であるが、一読してどうも可笑しい。だが再読して、何だかつらく、情けなくなった。どうしてこんな無理をしなければならなかったのか。

この『北海道文学全集』の第2巻は「漂泊のエレジー」(解説は和田謹吾)と題し、石川啄木、岩野泡鳴、長田幹彦、葛西善蔵の作品を収めている。タイトルからも分るように、啄木は北海道を漂泊した道外の文学者に数えられていた。ところが、同じ全集の第22巻では「道内」に繰り込まれたのである。

この全集の編集委員は小笠原克と木原直彦、和田謹吾の三人だった。彼らの編集方針がいい加減だったのか、菱川善夫が自分の判断で第22巻の〈短歌の部〉を編んだのか。いずれにせよ、一貫性を欠く編集だったと言われざるをえないだろう。

○ご都合主義の惧れ

   菱川善夫の説明が、これまた哀しい。「道内編を、北海道生れの北海道育ち、ということに限定するなら、その数はいちじるしくかぎられてしまうことになる」。つまり彼は、「道内編」が貧相に見えることにこだわったわけだが、なぜそんなことにこだわらねばならないのか。「北海道に一定期間滞在し、作品活動や運動を通して、北海道歌壇に影響を与えた人、あるいは自己の創作活動の中に、北海道が切り離しがたく結びついている作品」を「道内編」に繰り入れる。そういう姑息な操作までして、「道内編」を豊かに見せなければならない理由は何だったのだろうか。

 

 いやいや、菱川善夫の真意はそんなところにあったわけじゃない。彼は、〈「北海道生れの北海道育ち」の書き手であれば、無条件に北海道文学的な本質を備えている〉という安易な定義を保留して、新たに「自己の創作活動の中に、北海道が切り離しがたく結びついている」という、より本質的な基準を立てようとしたのだ。私はそう考え直してみた。

   私の理解はたぶん的を外していない、と思うが、たとえそれが妥当な理解だとしても、啄木以下の人たちを「道内編」に繰り入れる、菱川のやり方は、恣意を野放しにする結果しか生まないだろう。なぜなら、「一定期間」とはどの程度の期間なのか。個々の歌から、どのように「北海道が切り離しがたく結びついている」ことを読み取るのか。少し突きつめて考えてみれば分るように、判断の基準と許容範囲は、都合により、幾らでも変えることができるのである。

○山名康郎の場合

   菱川善夫にしてみれば、今頃こんな古証文を持ち出されるのは、はなはだ不本意だろう。私もこれ一つで、彼の業績を云々するつもりはない。だが、「北海道文学」を発明(invent)する過程で、どんな無理が行なわれたか、知っておく必要がある。

 菱川善夫は〈北海道の短歌〉を、「道内編」と「来道編」に別けて、「道内編」を先に置き、しかも石川啄木を「道内編」の筆頭に据えた。この位置づけはその後、一種のお約束として踏襲されてきた。

 

 北海道立文学館/財団法人北海道文学館の『ガイド 北海道の文学』(200511月)における「北海道の短歌」を担当したのは、山名康郎であるが、その書き出しはこんなふうであった.

《引用》

  明治の開拓期には伊達邦直、結城国足、角田弟彦、大竹元一らが、それぞれの地域 で文化の中心となり歌会を開いていたが、一九〇七年(明治40)石川啄木が来道して、道内歌人に大いに刺激を与えた。

一見無難な説明のようだが、山名康郎は流通(circulation)や、市場占有率(market share)の視点や、歌の質についての認識を欠いていたのではないか。そういう疑問は禁じえない。

○啄木の現実

   啄木は明治405月に函館に来、翌年の3月、釧路を去った。この、わずか10ヶ月の間に、彼は『函館日日新聞』、札幌の『北門新報』、『小樽日報』、『釧路新聞』と、4つの新聞社を渡り歩いている。啄木の日記によれば、『北門新報』の発行部数は6千部だった。その他の新聞について言えば、『函館日日新聞』は、啄木が遊軍記者となった(818日)から、わずか1週間後(825日)に、函館大火で焼失してしまった。『小樽日報』は創刊(明治401015日)したばかりだった。『釧路新聞』に関しては、福岡雅巳がHP「石川啄木の小屋」で、鳥居省三の釧路叢書『石川啄木—その釧路時代』などを参考にまとめている。それによれば、『釧路新聞』は明治35年の創刊。啄木が就職した当時、釧路の人口は約17,900人、戸数は4000ほどで、推定発行部数は1,200部。現在、全道的なシェアを誇る北海道新聞に較べれば、その1000分の1にも満たない規模だったのである。

   この点を踏まえて、啄木の来道を見るならば、「石川啄木が来道して、道内歌人に大いに刺激を与えた」などとは到底言えない、ごくローカルな出来事でしかなかったであろう。

   もちろん啄木は『小樽日報』や『釧路新聞』に歌を載せている。だが、「大きな刺激を与えた」と言えるほどインパクトの強いものであったかどうか。

《引用》

   北の海白きなみ寄るあらいその紅うれし浜茄子の花(明401015『小樽日報』)

 潮かをる北の浜辺の

  砂山のかの花薔薇(はまなす)よ

  今年も咲けるや (『一握の砂』初出)

 冬の磯氷れる砂をふみゆけば千鳥なくなり月落つる時(明41310『釧路新聞』)

 さらさらと氷の屑が

波に鳴る

  磯の月夜のゆきかへりかな (明43111『スバル』初出)

 頬()につたふ涙のごはぬ君を見て我が魂は洪水に浮く(明413『釧路新聞』)

 頬につたふ

  なみだのごはず

  一握の砂を示しし人を忘れず (明4162324作)

 個々の歌の改作過程や、改作の結果については、また別な議論が必要だが、ただ少なくとも、『小樽日報』や『釧路新聞』発表の歌の類型性は、誰も否定出来ないところだろう。

 啄木は明治414月、東京にもどり、4312月、東雲堂から『一握の砂』を出した。この歌集の評価が高まるに連れて、啄木における「渡道」の意味が論じられるようになる。また、「在道」の歌人や文学愛好家の間でも、彼の「来道」が北海道における重要な文学的事件として認識されるようになった。

  実情は恐らくそういうものだった、と思う。念のため、『北海道文学大辞典』の「来道歌人」の項目を見たところ、担当者の中山周三は、さすがに研究者らしく慎重に、「啄木は……414月、上京したが、こののち在道歌人に与えた影響ははかり知れないものがある」と書いていた。「上京したが、こののち」と書く、そのリアルな視点を忘れてはならないだろう。

○原子修の場合

だが、石川啄木の来道を、〈文化神〉の来訪みたいに待遇する記述は、以上に止まらない。同じく『ガイド 北海道の文学』で、「北海道の詩」のガイド役をつとめた原子修は、まず荘重な言葉で「アイヌ文学」に敬意を表した後、「北海道の詩」の歴史をこんなふうに説き起こした。

《引用》

   明治の大量移民期に本州以南から北海道に移り住んだ人々の中から、「現代の詩」が芽吹くのには、多くの時間が必要だった。

   この間ヨーロッパの詩の大きな影響下にあった日本の詩は、音数律定型詩一色の伝統に抗して、新しい自由律詩を求める運動が台頭し、新体詩から口語自由詩への流れが加速した。

   その風潮を帯びた石川啄木が、函館に住みつき(一九〇七年・明治40)、文芸誌「紅苜蓿」の編集に携わり、新体詩から自由律詩への予兆をはらむ作品を発表したことなどは、〈土の人〉としてこの地に根づいて生きる詩作志望者たちへの、〈風の人〉としての来道者のもたらした刺激の一つだった。    

 『紅苜蓿(べにまごやし)』は明治401月、函館で発刊された文学同人誌で、啄木は創刊号に短詩「公孫樹」「かりがね」「雪の夜」を寄せている。この雑誌の同人・松岡蕗堂との関係で、啄木は5月、函館に渡ったわけだが、『紅苜蓿』の編集責任となったのは第6号からだった。そして第7号を出し、さて、第8号の準備が整ったところ、函館大火で原稿その他を全て失ってしまった。不運というほかはない。

 もし発行部数が分かれば、原子がいう「刺激」の程度を推測することが可能だが、同人誌という性格や、7号までしか出なかった事情から見て、その「刺激」や「影響」を過大に考えるのは危険だろう。

 また、原子修のいう「音数律定型詩」が、五七調、七五調を基調とする、古来の長歌や短歌を指すのか、それとも明治15年の『新体詩抄』を重要なきっかけとする「新体の詩」を指すのか、明らかではない。ただ、いずれにせよ、啄木が『紅苜蓿』の創刊号に寄せた「公孫樹」や、編集責任者となった第6号の「水無月」などは、七五/五七調、あるいは七四/四七調という定型律の枠内にあり、口語や自由律への胎動を感じさせるものではなかった。

 さらに疑問を加えれば、原子は口語自由詩を「現代の詩」と呼んでいるらしいが、果たしてそう呼んでいいのか、なぜ「北海道の詩」と銘打って「現代の詩」しか取り上げないのか、その理由が分からない。〈土の人〉、〈風の人〉などという手製の言葉を、説明抜きに使っているが、アイヌはどこに属するのか。あるいは、アイヌから見れば〈土の人〉も〈風の人〉も大差ないじゃないか。そういう反省を欠いている。

○やっつけ仕事の『ガイド 北海道の文学』

 こんなわけで、『ガイド 北海道の文学』は、神谷忠孝の「北海道の小説・評論」をはじめ、山名康郎や原子修の説明も、あやふやな記述が多く、とてもガイドたりえない。

 おまけに、それらの説明文の後に、「北海道文学史略年表」があり、次に「フォトガイド 北海道の文学」と題する図版のページが来る。そういう編集のため、ひどく分かりにくい。しかも、説明、年表、図版の内容に有機的な関連がない。

 よほど時間に追われていたのか、あるいは書き手も編集者も、やる気や責任感を失っていたのか。本当にリニューアルを唱うのならば、まずこれを全面的に改訂するだけの覚悟と取り組みが必要だろう。

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