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文学館の見え方(その5)

『ガイド 北海道の文学』の作為

○歴史教科書のでたらめな文章

 私は以前、ある出版社が出した中学校の歴史教科書を見て、驚き、あきれ、慨嘆した。それは明治維新以後、およそ40年間の文学の歴史を説明する記述だったが、まるっきりいい加減だったからである。

 このことは20037月、韓国の中央大学校で開かれた、韓国日本学連合会第一回国際学会の講演(亀井のHP、「1970年代の日本における歴史と文学」参照)でも言及したが、もう一度必要なところを引用したい。

《引用》

近代文化の課題は、西洋文明を取り入れつつ、いかに新しい日本文化をつくり出していくかというところにありました。
 近代文学の出発点となったのは、それまでの宗教や道徳にしばられた考え方や文語の表現をすてて、見たままを考えたように書くことでした。これを言文一致といい、明治20年代には、口語文は新しい文章表現方法として広まっていきました。日清戦争の前後には、個性を重んじるロマン主義が主流となり、短歌の与謝野晶子、小説の樋口一葉ら女性の文学者が活躍したのも、この時期の大きな特徴です。

また、日露戦争の前後には、社会の現実を直視する自然主義が主流となるいっぽうで、夏目漱石と森鴎外は、西洋文明と本格的に取り組んだ日本の知識人の生き方をえがいた小説を発表しました。

 

私が驚き、あきれ、慨嘆したのは、まず「見たままを考えたように書く」とは、具体的にどういう表現行為なのか、よく分からない。それだけでなく、これを明治20年前後の「言文一致」と呼ぶことは、事実の認識と概念の誤りだからである。

また、かりに「口語体」が近代文学の基本的な文体だったとしても、与謝野晶子や樋口一葉はそういう文体を用いていなかった。その関係が説明されていない。日本の自然主義を「社会の現実を直視する」文学と概括することにも問題がある。日露戦争の前後、夏目漱石と森鴎外は、「西洋文明と本格的に取り組んだ日本の知識人の生き方」を描いていただろうか。その点にも疑問がないわけではない。

 その意味で、この教科書はごく基本的な文学史の常識もなく書いていたことになる。

もっとも、同情すべき面がなかったわけではない。この教科書の場合、わずか200ページ前後のテクストのなかに日本の歴史を盛り込もうとして、「開国と近代日本の歩み」という章に40ページを充てている。この窮屈な制約のため、「近代文学の発展」という項目には、いま紹介したように400字程度、つまり原稿用紙1枚分しか割くことができなかった。 

そういう限られたスペースに、40年に及ぶ文学の歴史を書き込むには、どんな視点から、どのように概括して、誰の名前を挙げれば、「記述としての妥当性(あるいは適切さ)」を獲得することができるか。好意的に見れば、この難題を解決するため、先の文章の書き手は、期間をいわゆる「言文一致」運動以降の20年に限定して、文学運動のトピックスとしては日清戦争前後のロマン主義と、日露戦争前後の自然主義を取り上げ、漱石と鴎外という「二大文豪」はこれを落とすわけにはゆかず、しかしやはり女性作家を無視するわけにはゆかないネと、フェミニズム的動向への配慮から与謝野晶子と樋口一葉を選び、それらを継ぎはぎして、ああいう文章を作文したのであろう。

ただし、同情はできるが、こういう鵺(ぬえ)みたいな「歴史記述」は望ましくない。中学生の認識を誤らせる結果しか生まないからである。

 

○神谷忠孝の鵺的な記述

 ところが最近、北海道立文学館/財団法人北海道文学館が、常設展の更新に合わせて出した、『ガイド 北海道の文学』(200511月)のなかで、同じく鵺みたいな文章にぶつかった。それは財団法人北海道文学館の理事長・神谷忠孝が書いた「北海道の小説・評論」である。書き出して間もなく、彼はこんなことを言っている。

《引用》

日本人で初めてアイヌ民族を文学に登場させたのは、一八八五年(明治18年)から八七年まで余市の電信局に技士として勤務した幸田露伴が「雪紛々」(八九年)にシャクシャインの乱を扱ったことである。史実とは違う作為が施されているとはいえ、アイヌ民族なしに北海道の文学は語れないという方向を示唆したという意味で露伴の存在は大きい。

 露伴の『雪紛々』は寛文91669)年に起った、「シャクシャインの乱」を江戸時代の読本、あるいは明治前期の実録物のスタイルで書いた伝奇物語である。その系譜を求めるならば、建部綾足が安永21773)年に出した、『本朝水滸伝』(前編のみ。後編は写本で伝わる)の系統のものと言えるだろう。

 『本朝水滸伝』は古代に題材を求め、高野天皇(孝謙女帝)の寵を得た弓削道鏡(ゆげのどうきょう)に対して、恵美押勝(えみのおしかつ)が、皇太子の道祖王(みちのおんのおおきみ)を擁立して叛乱の兵を起こす。しかも恵美押勝の側には、越中の国司・大友家持や、胡(えみし)王のカムイポンデントピカラや、日本へ亡命した楊貴妃の一族が加担するという、奇想天外、規模壮大な構想の物語だった。

 作者の建部綾足は津軽藩の藩士の家に生まれ、「シャクシャインの乱」などの風説を耳にしながら育ったのであろう。

 神谷忠孝はそういう物語の存在に気づかず、露伴の『雪紛々』を「日本人で初めてアイヌ民族を文学に登場させた」作品とした。江戸時代は彼の専門外だから、これはやむを得ないとも言えるが、――ついでに言っておけば、露伴は「技士」ではなく、「技手」だったはず――ただ、「アイヌ民族なしに北海道の文学は語れないという方向」とは、どういう意味なのか、さっぱり分からない。

 一応考えられるのは、「アイヌ民族の口承文芸なしに北海道の文学は語れない」という意味であるが、仮にそうだとすれば、これは『雪紛々』のテーマとも内容とも関係がない。『雪紛々』はそういう「方向を示唆する」物語ではないからである。

 おそらく神谷は、「北海道の小説・評論」の最初に『雪紛々』を置いた理由を、アイヌとの関係で意味づけようとしたのだろう。だが、上のように根拠の乏しい、姑息な文学史的位置づけや、評価は、読者を欺くものと言わなければならない。

○読者を欺きかねない記述

 もう一つ挙げてみよう。神谷忠孝は有島武郎について、こんなふうに言っている。

《引用》

父が払い下げで取得した土地には小作人が住み着いており、農地解放の方に関心が移って農業経営を断念して文学に傾斜していった。しかし、北海道を離れてから発表した『カインの末裔』(一九一七年)の魅力は後代の作家たちに引き継がれた。

 これも読者を欺きかねない記述であって、有島の父が明治政府から北海道・狩太の土地を払い下げてもらった時は、まだロクに開墾の斧も入っていなかった。全く人間が足を踏み入れていなかったはずはないが、それは「小作人が住み着いて」いる状態ではなかった。

 では、神谷は、有島が父親から相続した時のことを言おうとしたのだろうか。だが、有島の父は、有島が20歳の時、有島の将来に備えて土地の払い下げを受けたのであって、幾つかの事情があって、有島の妹・愛の結婚相手、山本義直の名義とした。有島はそれを知っていたはずである。そして有島が31歳の時、狩太の農場は彼の名義に書き換えられ、それだけでなく、彼は37歳の時、さらに狩太の土地94町歩を買い足している。

当然のことながら、この間有島は、新しく小作人を入れることに消極的だったわけではない。「農地解放の方に関心が移った」のは、もっと後のことで、もしその点に言及するならば、「農地解放の方に関心が移って農業経営を断念して」ではなく、「農場経営に行きづまって、農場解放を思い立ち」と言うべきだろう。

このように、神谷忠孝の記述は、事態の認識がまるでなっていない。「農業経営を断念して文学に傾斜していった」という記述にも、それが見られる。有島の文学に少しでも通じている者ならば、誰もが知っているように、彼の「文学への傾斜」は30歳代に始まる。それは、農場経営の行きづまりや、解放(大正11年7月、有島45歳の時)のずっと以前からであった。むしろ文学的展開力の減退も「行きづまり」感の一因だったと、そう見ることさえ出来るだろう。

ちなみに、『カインの末裔』の主人公にはモデルがいたらしいが、――そして有島は、かなりネガティヴな人間像に歪めてしまったようだが――作品から読み取り得るかぎりで言えば、この人物は渡り者の契約農夫だった(大正期の渡り者については、亀井のHP、『20世紀前半の文学(その2)』の「新感覚の表現」「渡り者たち」参照。『カインの末裔』の人物形象の先行系や、表現特質の同時代的な動きを知るヒントも得られると思う)。主人公以外の「小作人」も同様だったと見ることができる。本州におけるような、「農地」に居着いていた小作人とは異なるのである。

神谷忠孝は戦後の「農地解放」と、有島の「農場解放」との区別もできていなかったらしい。

○「お約束」の問題

 「北海道の文学はアイヌ民族の口承文芸を抜きには語れない」、「有島武郎の『カインの末裔』と農場解放は、北海道文学における農民文学や、社会主義的・革命的文学の源流となった」。これらは〈北海道文学(史)〉を語る際の「お約束」だった。神谷忠孝の記述は、単なるケアレス・ミスや、勇み足ではなく、お約束に辻褄を合わせるための、意図的な作為だったと見るべきだろう。

 それを『ガイド 北海道の文学』の冒頭に置いた編集担当者も、同じく意図的にその作為に加担していた。そう言われても仕方あるまい。

 ただ、これを逆に見れば、神谷は上のような作為によって、いかに〈北海道文学論/史〉が形骸化しているかを、見事に露呈させてしまった。そう言うことができる。

 では、〈北海道文学論/史〉のお約束はどんなふうに作られたか、現在、別なジャンルでどんなふうに形骸化を晒しているか。次に菱川善夫や原子修の文章によって検討してみたい。

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