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文学館の見え方(その4)

「発明された伝統(invented tradition)」の問題

○日独センターの学会で

 さて、ところで「発明された伝統(invented tradition)」の問題であるが、私の記憶によれば、北海道文学館がオープンした平成7年ころ、この言葉は文化研究(Cultural Studies)で盛んに用いられていた。

 その年の10月、日独センターの呼びかけで、「カノンとアイデンテティ――トランス・カルチヤ―の視点による日本近代化の再検討―」という学会がベルリンで開かれ、ドイツ、フランス、アメリカ、日本の研究者が集まった。私は当時、コーネル大学にいたので、アメリカから参加し、「近代文学の形成における西洋的な要素――主人公と構成の問題を中心に―」という発表をしたのだが、そこでは誰も彼もが“invented tradition”を口にしている。まるで熱に浮かされたみたいに、あんまり安直に乱発するので、私は〈この言葉は決して使うまい〉と決心したほどだった。

 席上、この言葉にストイックだったのは、ハイデルベルグ大学のシャモニ教授と私だけだったのではないか、と思う。

○「文学(史)」への視点

 それから10年、さすがに最近はあまり聞かなくなった。念のために説明をしておくならば、「発明された伝統(invented tradition)」とは、「私たちが古くからの伝統と思い込んでいる事柄は、実はその大半が、近代に案出され、制度化されたのもなのだ」という意味である。つまり文化研究(Cultural Studies)の歴史家たちは、伝統の「起源」を、観念の「起源」の面からとらえて、そのイデオロギー的な機能を批判的にあばく作業に取りかかっていた。彼らが使う「発明された(invented)」という言葉には、「国民国家への帰属意識を持たせる観念的装置として考案された、or捏造された」という意味が込められていたのである。

高木博志さんの啓発的な研究、『近代天皇制の文化史的研究』校倉書房、平成92月)によれば、元旦の初詣も「発明された伝統」の一つだったらしい。

 文学も同様であって、明治に入るまで、私たちが現在普通に使っている意味の「文学」や「文学史」はなかった。文学という言葉はあったが、それは「学問」の意味だった。儒学者や国学者や学僧が、それぞれ聖典(canon)と重んずるテクストの語義を究明し、奥義を会得しようと努めること、それが学問であり、文学だったのである。その奥義を体現するために自分の言動を律し、日常を整える、そういう実践もまた文学的な行為だった。

 現在、これらの「文学」は文学部の研究対象として扱われているが、しかしそれを文学と呼ぶ人はごく少ない。その代わりに、当時「文学」には数えられなかった西鶴の浮世草子や、馬琴の読本や、春水の人情本などの草紙類が、むしろ現在では文学に数えられている。

 また、史的な認識についても、例えば『日本書紀』に、「新治(にひばり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」「日日(かが)並べて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を」という日本武尊(まやとたける)と、秉燭者(ひともせるもの)の、有名な問答歌がある。中世の連歌師は「連歌」の起源をここに求めた。二条良基は、救済(きゆうせい)と一緒に編纂した連歌集に『菟玖波(筑波)集』という名をつけて、勅撰集に準ずるものと扱っている。

 そのように、中世や近世の言語表現者たちは自分たちのジャンルの由緒を語り、自分たちの流派の系譜を大切にした。だがそれは、現代で言う「歴史」ではなかった。彼らは自分たちの由緒が立派であることを求めたが、歴史的事実に照らしてその由緒書きが正しいか否か、そんなことに気持を労することはなかった。自分たちの系譜の消長は大切に語り伝えたが、それを他のジャンルの消長と関係づけながら、その全体を包括する「文学」を構想し、その推移を「歴史」的に叙述することもなかった。そういう発想もなければ、要求もなかったのである。

 別な言い方をすれば、明治以前における「歴史」とは、由緒と系譜だったのである。

○「発明された伝統(invented tradition)」を超えて

 私自身は、昭和58年、講談社から『感性の変革』を出してもらい、もう文芸雑誌に評論を書く仕事は切り上げよう、と考えた。「近代」の問題を根本から考え直すためである。

翌年から、岩波書店の『文学』に、「近代詩史の試み」を連載し、昭和63年から、『小説神髄』研究を北大文学部の紀要に載せ始めて、平成6年に終った。そうして今(平成7年)、コーネル大学で、のちに『明治文学史』(岩波書店)の形にまとめる講義を行っている。

 ベルリンの集まりに出た時、私はそんなふうに仕事を進めていたわけだが、その間、私は次のようなことを自分に課していた。「近代を歴史的に正当な段階とみる見方を一たんカッコに括ってしまい、いわば裸の目で江戸から明治への現象を捉えたら、どう見えてくるか」。このような立場を選んだ点で、私は「発明された伝統(invented tradition)」を言う人たちと共通の問題意識を持っていたと言える。ある意味では、そういう問題意識を抱く人たちの出現を準備してきた。そう言うことも許されるだろう。

 

 当然のことながら、私には「発明された伝統(invented tradition)」という問題提起には共感があった。ただ、あんまり安易に乱発されると、かえってその安っぽさが目についてくる。いや、鼻についてくる。

 歴史的な事象を取り上げて、あれは結局「発明された伝統」でしかなかった、これも近代に仮構された「伝統」にすぎない、と手際よく捌いてみせる。それは、さほど難しいことではない。むしろ本当に難しく、だが是非ともやらねばならないのは、次のようなことだろう。〈明治のイデオローグたちが「伝統」として文化編成をした事柄を、改めて具体的に再検討して、「伝統」としての意味づけとは異なるリアリティや、失われた可能性を掘り起こし、そうすることによって「発明された伝統」の近代性を相対化する〉。

私はそういう目標をもって『小説神髄』研究を進めてきた。そんなわけで、ベルリンに集まった文化研究者たちが、「「伝統」的な意味づけとは異なるリアリティや、失われた可能性を掘り起こす」作業を抛り出して、ただ言葉だけの「近代」批判に浮かれている。私の立場からすれば、上のような作業は当然、「発明された伝統」という観念自体の相対化と批判にまで進まざるをえない。

そういう自覚を促される学会だった。

○〈北海道文学〉の発明

 私はその翌年、平成8年の2月にアメリカから帰ったわけだが、道立文学館に関わる人がコンタクトを取ってきた。文学館に出かけてみた。ところが、ここには「発明された伝統(invented tradition)」の問題意識のかけらも見られない。30年前と変らぬ、カビの生えた文学観による展示が、麗々しく行われている。それは驚きだった。

 

ここに展示された「北海道文学の流れ」は、和田謹吾、澤田誠一、山田昭夫、木原直彦、小笠原克、菱川善夫などの人たちによって「発明された伝統」だった。私の知るかぎり、この人たちは構造主義にも、ポスト構造主義にも、読書行為論にも、読者論にも関心を持たなかった。この人たちの同世代である吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』と相渉ろうともしなかった。この人たちは反映論的リアリズム論と、心情吐露的な表出論から一歩も出ようとしない。その意味できわめて閉鎖的で退屈な文学観の持ち主の集団だったが、その文学観を風土論で色づけしながら、小田切秀雄や猪野謙二たちが描いた日本近代文学史をカノンとし、その縮刷地方版を作った。北海道文学(史)とは、「発明された伝統」としての日本近代文学史の、ミニチュア的再生産だったのである。

それが誇らしげに、道立北海道文学館に再現されている。

 私は小樽文学館で小林多喜二を読む連続講座を開いたが、講座を始めるに当って、「昭和の文学者のなかで、現在もっとも研究が停滞しているのは、小林多喜二と宮本百合子についての研究だが、その原因は、日本共産党が多喜二や百合子の読み方を管理するような状態が続いてきたためだ」という意味のことを言った。

 その展示を見て、同じことを言いたくなるような歯がゆさと苛立ちを、私は覚えた。ところが、つい先日、展示のリニューアルが公開されたが、それを見てまたしても驚いた。この度のリニューアルは、要するに上の人たちの北海道文学論を顕彰し、「管理」を強めることだったのである。

○〈北海道文学〉関係者の顕彰文学館

 コーネル大学から帰って7年後、イギリスのケンブリッジ大学が、英語圏と日本の研究者の共同執筆による『日本文学史』を企画し、一昨年、20名ほどの執筆予定者がアメリカのエール大学に集まった。エール大学のエドワード・ケイメンズ教授が、共同執筆の世話をすることになったからである。

 なぜ新しい日本文学史を必要とするのか。現在、英語で読むことができる日本文学の通史には、加藤周一の日本文学史と、ドナルド・キーンの日本文学史がある。学生に一応目を通しておくように薦めるが、最近の研究動向や問題意識とのギャップが大きく、講義や演習のテクストとしては役に立たない。そういう説明だった。

 

 ケイメンズさんは、私たちが集まるに先立って、共通に目を通しておいてほしい幾つかの本や論文の名前を伝えてきた。議論の拡散を防ぐためである。名前が挙がっていたのは、“Is Literary History Possible?by David Perkinsや、“Rethinking the National Modelby Linda Hutcheonなどであり、私の「文学史の技術」(『季刊 文学』第9巻第4号)も含まれていた。私の論文はさて置き、これらのタイトルからも分るように、文学史の可能性と原理を根本から問い直す形で、新しい日本文学史に着手しようという集まりだった。

 ケイメンズさんの危惧にもかかわらず、2日間の議論は多岐に渡ったが、一つ共通の了解に近づいた点がある。それは、〈言語テクストを文学的に享受する仕方と、享受者層の変遷に焦点を合わせる。またそのことと、テクスト生産(者)とのダイナミックな関係をとらえ、立体的に記述する〉ことである。

 私が担当するのは20世紀前半の文学であるが、まさにこの時期は、Literacy(識字率)と、 Readership(読者層)と Circulation(流通システム)のあり方が、社会問題として浮上してくる時代だった。この状況のなかで、どのような文学的カノンが、どのように作られてきたか。その論文草稿は、私のホームページ(http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/)に載せておいたが、ともあれそういう仕事を進めている立場からすれば、現在の道立北海道文学館は、〈北海道文学〉関係者の顕彰文学館の臭いが強すぎる。新たな享受者層を獲得する魅力を見出すことはできなかった。

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