文学館の見え方(その3)
困った館長たち
○不甲斐ない北海道文学館
この文章の(その1)を載せた後、私は「発明された伝統(invented tradition)」というテーマで(その2)を書き始めた。だが、北海道立文学館10周年を「祝った」中村稔の文章を読み、「ここまで言うか」とあきれて予定を変えることにした。
私があきれたのは、「お祝いのことば」を求められながら、しかし中村稔は、財団・北海道文学館(以下、「財団」と略称)の文学館運営が破産の惨状を呈していることを暴き立てている、その無神経に驚いたからである。
それはこういうことでもある。私の見るところ、「財団」の理事長も学芸員も、文学館に関するコンセプトや展示の方法を、日本近代文学館やその館長・中村稔に多く依存してきた。中村稔のほうも、北海道立文学館を、自分が考える文学館運動の優等生的な拠点館として、大事にしているらしい。私はそう見ていた。そのこともあって、中村稔の手の平を返すような、ニベもない引導の渡し方に、人ごとながら憤慨したのである。金の切れ目が縁の切れ目じゃないけれど、けっこう調子よく手なずけておいて、経営がうまく行っていないらしいと見たら、あっさりと突き放す。それはあまりにも薄情、無責任というものだろう。
それにしても、こんな「お祝いのことば」を突っ返す気概がないなんて、理事長も館長も学芸員も不甲斐ない。腰抜けもいいところじゃないか。
○市立小樽文学館から見て
北海道と小樽市では、予算規模の桁が違う。展示室の広さや設備も、雲泥の差がある。中村稔の指摘によれば、道立文学館の平成16年度の事業費は2800万円を越えていたわけだが、市立小樽文学館はその100分の1程度、強いて言えばそれよりもややマシかな、という程度だった。
小樽市は財政逼迫のため、博物館や美術館や文学館にそれぞれ纏まった事業費を当てることができない。やむを得ず、年度別ローテーション方式で、重点的に事業費を当てることにし、今年は文学館にそれが当った。だが、それでも道立文学館の事業費の15分の1程度でしかない。「今まで3000万円を越えていたが、今年は2800万円台に減らされた」。小樽から見れば、これはもう夢みたいな金額であるが、しかし敢えて言えば、ここ数年、小樽文学館と道立文学館とでは、小樽のほうが桁違いに実績を挙げてきたと思う。有森裕子ではないが、「自分を褒めてやりたい」くらいなものである。
○「来館者」と収入の問題
同じく中村稔によれば、道立文学館は年間2800万円余の事業費を使って、事業収入は378万円しかなかったという。来館者は年間1万5千人から2万人の間を推移し、「全国的にみれば、これはそう恥ずかしい数字ではない」そうであるが、本当にそうだろうか。この点が曖昧で、中村稔も何か勘違いをしているのではないか。
なぜなら、道立文学館の常設展の観覧料は400円であり、だから1万人の観覧者があれば、それだけで400万円に達するはずだからである。
ただし、この事業収入は、常設展以外の特別展や講演会などの収入、と見ることもできる。もしそうならば、特別展の観覧料は600円だから、単純に計算すれば6300人が特別展の観覧料を払ったことになる。講演会や各種の催しに足を運んだ人もいたはずだから、その数を除けば、実際には5000人程度になるだろう。
ともあれ、中村稔がいう「来館者」には、この数が含まれる。逆に言えば、「来館者」からこの数を引いた数字が、常設展の入館者ということになるはずで、それを1万2~3千人と見れば、常設展の収入は多めに計算して520万円程度になる。道立文学館は常設展の観覧料と、特別展の観覧料を別々に取っており、だから常設展の収入と、事業収入の378万円を合わせれば、900万円前後となる。
しかしこれは、あくまでも好意的に見た数字であって、中村稔の説明はその点が抜け落ちている。もし一切合財を含めて、年間収入が378万円程度だったとするならば、常設展の入館者は6000人前後、特別展等の入館者は2000人前後、合計8000人前後となり、「全国的にみれば、これはそう恥ずかしい数字ではない」などと言ってはいられない。文字通り「惨澹」たる状況なのである。
ちなみに、小樽文学館の観覧料は、市の条例により、今年の3月末までは100円だった。ただし、同じく市の条例により、特別展の観覧料は、館の考え方で設定できることになっている。私が館長になる以前は300円、500円と設定していた。だが、翻って考えれば、館の考え方によって100円据え置きにしておくことも可能なはずで、ここ数年はそうしてきた。そして、これは以前からそうだったのだが、常設展と特別展の観覧料を別々に貰うことはしていない。
財政難のため、今年の4月から、市は観覧料を300円に上げ、館はそれに準じて特別展の入館料も300円としている。
市の関係者から聞いたところによれば、文学館の入館者数の増減は、小樽の観光客の増減に比例しているという。このところ小樽の観光客は減少傾向にあり、特に今年度は観覧料の値上げもあって、年間の入館者は1万人を切るかもしれない。ただ、小樽文学館は道立文学館と違って、講演・講座などは1階で行い(展示室は2階)、聴講料も取らない。聴講者を入館者にカウントもしていない。もしそれらを含めて「来館者」に数えるならば、好意的に計算した場合の道立文学館の数に遜色ない数字となるだろう。
○仙台文学館館長・井上ひさしの見識
文学館のような文化的な事業を、入館者の数だけで評価してもらいたくないな。こういう問題の時、必ずこの種の反論が文学館関係者の口から出てくる。私自身もそう言いたい場面に、時々出会う。だが、そう反論するためには、特別展や講演・講座などにおいて、質量ともに評価に耐えるだけの実績を挙げていなければならないだろう。
その意味で私は、次のような井上ひさしの意見(「文学館の住人たち」。『全国文学館協議会会報』No.31、2005年10月)には、全く賛成しない。冗談のつもりなのだろうが、冗談にしても、言うことが下司で、笑いに品がない。
《引用》
井上でございます。仙台文学館の館長をしております。勤務状態は非常に悪い。(笑い)ただし、参りますと大体二日ほどの講座を一生懸命やっております。
大変優秀で熱心な学芸員の方がたくさんいらっしゃいます。副館長は大変仕事のできる方ですし、長と付いたら何もするなというサゼスチョンもあるので、それを一二〇パーセント生かしまして何とか皆さんの力で館長を続けております。辞めたいと何度も申し上げましたが辞めさせてくれないというと愚痴っぽくなりますけれども、その程度の館長であります。
ただ、仙台文学館は大変環境のいい大きな森を歩いていってその出口にある建物で大変凝った素晴らしい文学館です。特にお客さんがあまりいらっしゃらないのです。なぜいらっしゃらないのかよく分かりませんが、それでも行政が、入館者が何人あったかという数字を非常に気にします。僕が行くときは罪滅ぼしに入り口を何回も出たり入ったり出たり入ったりするのでそれがカウントされる。(笑い)ですから仙台文学館へもしいらっしゃったら、いや、ぜひいらっしゃっていただきたいのですが、入り口で出たり入ったり出たり入ったりしている人間がいればそれは多分私ではないかと思います。
ともすれば行政は数字で成果を計りたがる。それをあげつらって、「文学が分からない俗吏の数字依存」と頭から小馬鹿にしたがる、おインテリは、「文学」の世界にもはびこっていて、「財団」にもそのテの人間が見られる。実はそういう思い上がりが、「お客さんがあまりいらっしゃらない」結果を生んでいることに、彼らは気がついていない。
仙台文学館には魯迅のコーナーもあり、井上ひさしがその前に立つと「魯迅自身の声や魯迅の周辺にいた仙台の人たちの声、それから魯迅がやがて書くいろいろな小説の人物(の声)」が聞えてくるそうである。そこで彼は、魯迅をネタに、日本が中国へ侵略した歴史認識や、大昔から日本は中国からいろいろ学んできた関係をだらだらと啓蒙し、そうして秋篠宮さんと紀子さんが訪れた時にも、同じようなことを「延々説明」して、「宮内庁と県警のスケジュールを狂わせた」。彼はそう自慢して、「文学館にはそれだけの力があるのです」と締め括り、(笑いと拍手)を取っていた。
私は大学生の頃、スターリンの演説集を読んで、(拍手)とか、(長く鳴り止まぬ拍手)とかいう断り書きが、至るところに挿入されていることを不思議に思い、歴史研究会の先輩に疑問を語って、すっかり顰蹙を買ってしまった。そんなことを思い出しつつ、私は運よくこんな講演を聞かずにすんだことを、天に感謝した。
彼はそれだけでなく、「辞めたいと何度も申し上げましたが辞めさせてくれないというと愚痴っぽくなりますけれど、その程度の館長であります」などという卑下自慢が、仙台の人たちに対して如何に無礼であるか、まるで気がついていない。まったくひどい状況だと思う。
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