文学館の見え方(その1)
亀井秀雄の食言(?)
○石塚喜久三のメモを取る
先日私は、附箋を貼りながら、九州大学日本語文学会の『九大日文』06(2005.6.1)をめくっていた。『蒙疆文学』という雑誌の目次が紹介されており、石塚喜久三(1904~87)が何回か小説や随筆を載せているからである。
石塚喜久三の名を知っている人はそう多くないと思うが、伊藤整と同世代の、小樽出身の文学者で、函館師範を卒業し、小樽の花園国民学校の教員となった。のち大陸に渡り、華北交通張家口鉄路局に勤務。蒙疆文芸懇話会の幹事となり、昭和18年、『纏足の頃』という作品で芥川賞を受賞している。戦後は『花の海』刊行を機に創作を再開し、『回春室』や『肉体の山河』など、復員者の抑圧された性を題材とする作品を書いた。
この人の文学活動については、まだ分からない点が多い。念のため小樽文学館所蔵の資料とつき合わせ、もし雑誌に発表した時のものがなかったならば、この雑誌を所蔵している図書館や文学館でコピーを取らせてもらおう。そう考えながら附箋を貼っていたわけで、この時の私の関心は、間違いなく文学館の館長としてのそれであった。
○亀井秀雄の食言
ところが、その『九大日文』に、「九州という思想」というシンポジウムの記録が載っていて、土屋忍の発言のなかに、思いがけなく私の名前が出てくる。「おやおや、土屋さん、だいぶ慎重さが足りないな」。
土屋忍がこんなことを言っていた。
《引用》
文学者は、最初に言った、グローバリゼーションの中での地名というものに、様々な海外の紀行文を書いたりいろんなルポルタージュを書いたりする中で関わっていると言えますし、特に文学館や文学碑に携わる文学研究者は、ローカリゼーションの中で人を地名に囲い込む作業に関わっているとも言えます。すなわち、文学館や文学碑を建設して、郷土という共同体を実体化、活性化することを通じて、郷土と呼ばれる場所で生成する地名の拘束性を強化していると思います。様々な文学館はその上に、その土地の名がつけられることが多いと思います。固有名詞を出していいのか分かりませんが、亀井秀雄さんという人がかつて日本近代文学の例会だったと思いますが、文学館批判をしたんですね。これは今回のこのプロジェクトとかなり主旨が近いご発表だったと思いますが、土地と思想、土地と文学を結びつける考え方に対して非常に批判的に、功罪の罪の方を取り上げて文学館批判をして、それは「日本近代文学」に「言説空間論再考」という形で載ったんですが、様々な形での言説上の抑圧と文学館の建設が関わっているということを、様々な角度からお話しされたわけです。しかしその後、亀井さんは小樽文学館の館長になられてしまったので(笑)、どうされるのかなと思ったんですが、それはそのままになっているということです。文学研究者であるならば文学館と関わっていかざるをえないところもまたある。もちろん私はそれが全部悪いことだと思っているわけではありませんが、それらを亀井さん流に理論的に考えていくなら、「文学館の犯罪性」なるものが浮上してくることもあるでしょう。だからと言ってそのような研究者が、自らの理論的立場を守って文学館批判を貫けるわけでもないのです。
○土屋忍の勘違い
要するに土屋忍は、亀井の食言――文学館を批判していたくせに、文学館の館長に納まっている矛盾――を指摘して、ちょっと笑いを取りながら、〈文学研究者と文学館とはどこかで癒着している、文学研究者が文学館を批判し切るなんてドダイ無理な話だ〉と、そう言いたかったのであろう。しかし土屋忍には気の毒だが、私は「言説空間論再考」という文章のなかで、一言半句も文学館批判などやっていないのである。
確かに私は平成8年11月30日、東京で開かれた日本近代文学会の11月例会で、「言説(空間)論再考」という口頭発表を行った。それは、『日本近代文学』第56集(1997年5月)に載っている。だが、文学館に関する発言はしていない。私はこの文章の末尾に、「付記」として、「発表の際には時間の都合で何箇所か省略せざるをえなかったが、ここでは用意していった原稿そのものを採録してもらうことにした。会場での幾つかに質問に対して意を尽くした答えが出来なかったため、その補足を兼ねた補論を、「註」の形で述べさせてもらった。」と書いた。だが、今その時の記憶を探っても、文学館に関する質問は浮かんでこない。そういう質問もなかったと思う。
○勘違いの根拠
ただし、土屋忍が嘘をついているというわけではない。口頭発表に先立って私は、日本近代文学会の『会報』に「発表要旨」を載せたが、そのなかで文学館のあり方に対する批判を書いた、と記憶している。その月報が見つからないので、今はうろ覚えで書くしかないのだが、私は和田謹吾や小笠原克の北海道文学論を念頭に置きながら、風土決定論的な発想で文学の地域的特色を強調する言説を批判した。それを土屋忍は「土地と思想、土地と文学を結びつけることに対する」批判と記憶したのであろう。
幸い私は、割合に若くして自分の著書を持つ機会に恵まれた。和田謹吾の『描写の時代』(昭和50年、北大図書刊行会)の「あとがき」や、小笠原克の『野間宏論』(昭和53年、講談社)の「あとがき」で分るように、私は自分に出来る範囲内で、彼らのために配慮し、斡旋したつもりだった。後になって、二人がどう思い返したか分らないが、少なくともその時点では、私たちの関係はけっして悪いものではなかったと思う。
ところが、彼らが立案した「北海道文学全集」を立風書房が引き受け、昭和54年に第一巻「新天地のロマン」が出た。そのころから、彼らは、常軌を逸するほどの猛り方で、高圧的に若い大学院生の疑問や批判の封じ込めようとした。助手や院生の人事まで妨害する。彼らがそうなった理由について、私なりの理解はあるが、ここはそれを語る場所ではない。ただ一つ言っておくならば、私は、福井大学の越野格や、東京大学の小森陽一など、自分が指導教官となった人たちの就職先を、出来るだけ道外に求めることにした。それは、以上のことと決して無関係ではなかった。
平成7年、現在の北海道文学館がオープンした時、私は運良く(!)、コーネル大学の客員教授となって日本を離れていた。だが、帰って見て、「北海道文学」を大義名分とする風潮は一向に改まっていない。むしろ「文学館」という形に物象化され、ますます制度化が進んでいる。
日本近代文学会の『会報』に書いた「発表要旨」は、そういう成り行きに対する苛立ちをモティーフとしていた記憶がある。「文学館の犯罪性」という、どぎつい言葉は使っていなかったと思うが、きつい表現になっていただろうことは否定しない。
その意味で、土屋忍は事実無根を言ったわけではなかった。
○描かれた自分の姿を引き受けて
ただ土屋忍は、小樽文学館がどのような活動をしているか、おそらく関心がなかった。先の発言を読むかぎり、そう判断するしかない。ああいう発言をする以上、念のために小樽文学館のホームページを覗いておこう。多分そういう気持も動かなかったほど、土屋忍にとって、小樽文学館の仕事そのものは関心の外にあったのである。
だからと言って、べつに咎め立てをするつもりはない。小樽文学館は小樽市の教育委員会に属する社会教育のサービス機関であって、研究機関ではないからである。もちろん学芸員はいる。本来ならば学芸員の調査結果を報告する『紀要』を出すべきなのだが、予算的には、年に一回、14、5ページの『館報』を出すのが精一杯。研究者が目を向けないからとて、それをとやかく言うのは筋違いというものだろう。
こう考えてみると、要するに土屋忍は、私がその「犯罪性」をあげつらうほど文学館を批判しておきながら、数年後には文学館の館長に納まっていることに、どうも納得がゆかなかった。そこで、ついそれを笑いの種にしたくなったわけだが、なるほど俺はそう見られてもいるのだな。私はむしろその点に興味をそそられた。
そういう自分の姿を、私なりの仕方で引き受けながら、改めて文学館の問題を考えてみたい。土屋忍のような、半ば無責任な取り沙汰に対する、それが一番の対応の仕方だろう。折から、規模の大きい文学館に、指定管理者制度が導入される動きが始まり、文学館の自己脱皮が緊急の課題となってきた。他方、最近出た『全国文学館協議会会報』No.31の「発足10周年記念講演会」(2005.10)を見ると、仙台文学館館長の井上ひさしと、徳島県立文学書道館館長の瀬戸内寂聴が、いい気な調子で文学館の効能書きを並べ立てている。北海道文学館は開設10周年を記念して、リニューアルをやる。それらの検討を通して、文学と文学館と自分のあり方を見定めたいと思う。
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