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「歴史認識」のステレオタイプ

○怖い「北海道文学」

私のメモによると、今年の312日、たまたま北海道の民放ラジオを聞きながら仕事していたところ、夕方、アナウンサーが、「北海道文学の流れを紹介する一環として、島木健作を取り上げる」と言う。

私の世代には、高校の国語教科書で『赤蛙』を読んだ記憶を持つ人もいると思うが、一般的には当時もあまり読まれる作家ではなかった。島木を取り上げるとは、これは珍しい。そう思って耳を傾けたところ、アナウンサーが描く島木健作は、おおむねこうであった。

貧しい家に生まれ育った島木は、早くから資本家が労働者を搾取する様子に怒りを覚え、農民運動に入り、人間の自由を訴える作品を書いた。これが特高警察の目にとまり、逮捕されて、刑務所に入れられた。孤高の文学者だった。

普段私は、テレビやラジオを視聴しながらメモを取ったりはしない。だが、あまり驚いたので、つい手帳の余白に走り書きしておいたわけだが、この原稿を書いた人は恐らく島木の作品を一つも読んでいない。せめて近代文学辞典を開いて、自分の書く内容を確認してほしかったと思うが、それをした気配もない。もし参照していれば、「人間の自由を訴える作品が、特高警察の目にとまり、逮捕されて、刑務所に入れられた」などという間違いを書くはずがないからである。

では、こんないい加減な知識しかないのに、島木のことを紹介しようと考えた、その動機や理由は何だったのだろうか。それが分からない。ただ、考えているうちに、だんだんと気色が悪くなってきた。北海道文学の紹介を口実とした、ある種の偏執的なアジテーションとしか、私には思えなかった。

○権力と「本当のこと」

 それと共に私は、あるノートの「感想」を思い出した。小樽の文学館では、ノートを置いて、来館者に感想・意見を書いて貰っている。そのなかに、小林多喜二の死について、「本当のことを言ったから殺すなんてヒドイ」(中学生)と書いてあった。これを書いた中学生は、夏休みの課題か何かで見学に来たらしい。

 文学館のパネルには、もちろんそんな短絡的な解釈を生むようなことは一つも書いていない。この中学生は、そんなふうに解釈してしまう先入観を持っていたのだろうか。

 「まあ、どこやらの宗教の神様は、人間が智慧を持つことを嫉妬したらしいけど、少なくともこの地上に出現した権力のなかで、本当のことを言った人間を、それだけの理由で殺した権力というのは、多分一つもなかったと思うよ」。

 夕食の時、先ほどのノートの話をして、こんなことを言った。家族は、急に私が何を言い出したのか、腑に落ちない顔をしている。

 「もちろん自分に都合の悪いことを言う人間を圧迫したり、時には殺してしまった権力というのは、これまでも数え切れないほどあったし、現在もある。だから、多喜二の時代の権力はどういう性質の権力で、その権力にとってどういうことが都合の悪いことだったのか。せめてそういう手順を踏んだ「本当のこと」、中学でも教えて欲しいな」。

 「でも、大急ぎで書いた感想なんでしょ? その子だって、時間があれば、そんな舌足らずな言い方でなく、ちゃんと考えて書いたかもしれない。私はそう思うけど、ずいぶん神経質になってますネ」。

 「うん、そうなんだ。そんなにこだわるほどのことじゃないって、自分でも分かってるんだけど、けどネ、明治この方、日本の歴史や文学で一番貧困なのは、権力論なんだ。権力とは何か、権力者とはどういう存在なのか。そういう問題になると、変に穿ったような、偶像破壊的なコキ下ろし方をして、それがリアリズムだって思い込んできた。おかげで、卑俗で安直な権力論が蔓延して、マスメディアなんかそれ一色だけど、それが中学生の頭のなかにまで染み込んでいるのかなって思ったら、何だかウンザリしてしまった。現在の中学生にはこんな批判精神が育っているんですネって、そう話しかけられても、相槌うつ気も起らなかった……」。

○「歴史認識」の是非

これは最近のことだが、小林多喜二のドキュメントを作りたいという人が、文学館の館長室に寄っていった。

「小林多喜二を殺した、あれは国家権力の見せしめですよね。……あの時代と、今の状況と、よく似ていると思いませんか」。生き生きと、気負いこんでいる。

もちろん協力は惜しまない。

しかし、「そうですね……」。つい相槌が消極的になってしまう。この種の「歴史認識」は、どこかいかがわしい。「いま多喜二が生きていたら、こんな日本を見て何て言うでしょうか」。イラク問題にかこつけて多喜二を持ち出す人も、後を絶たない。聞いていて鳥肌が立ち、蕁麻疹になりそうな気がする。そういう形で小林多喜二を引き合いに出すって、それこそ冒涜なんじゃないか。話題にされ方が、もうすっかり類型化してしまった多喜二って気の毒だな。ただし、多分その人たちは、そういうふうに考えてみたこともないのだろう。

「そうですね……。私は歴史をアナロジーでとらえることが苦手なんで、満州事変のころと現代のどこが似ているのか、よく分からないのですが、……もし似ているということで言えば」。

 「ええ」。相手は気負いこんで、先を促す。

水をさすようで、申し訳ないが、……まあ、仕方ないか…。「もし似ているということで言うとすれば、私には、日清戦争前の極東情勢と似ているような気がします」。

 「ええ?」。

 「虎視眈々と極東進出を狙っている帝政ロシアと、巨大な北洋艦隊を作って威風堂々、東アジアを威圧しようとしている清朝と、その間に挟まれた李氏朝鮮と、その全体的な成り行きを自国の存亡の問題と見ている日本と、……まあ、そんなところですけれど」。

○ステレオタイプ

 その前後のことだが、むかし私の授業を取ったことのある人が、私のホーム・ページを読んで、メールをくれた。「日本の右傾化の中で、国際的に又、戦前のように独善的に孤立化していまいそうな時点」云々。そんな言葉があった。

 「そういう風潮に強い危惧を覚えていたところ、先生がそれに抗するような仕事をしている事を知って、心強く感じた」。そういう意味の言葉が続き、要するに私を評価してくれたわけだが、私のほうは逆に、そのステレオタイプの言い方に危惧を感じてしまった。そこでつい教師根性を出して、「ああいう言い方は、あなたの口癖かもしれないが、私の乏しい外国暮らしの経験から見て、日本は痛々しいほど健気に、諸外国に気配りをしていた。独善性を剥き出しにして、国際的に孤立化を深めているのは、北京政府の中国や、韓国のほうだったと思う。むしろこれらの国のほうが、現在、なりふりかまわずに右傾化に走っている。そう思いませんか」。そんなことを書いた。

 彼女からの返事、「先生の言うことも分かる。確かに日本は外国を気にしすぎていると思う」云々。

私は余計なことを言ってしまったな、と反省しつつ、しかし「気を配る」のと、「気にする」とは、だいぶ意味合いが違うように思うのだが……。

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