明徳・駒苫の問題を考える(完)
○普通の公立高校の場合
私は大学を出て、北海道の芦別高校の教員となり、3年後、札幌東高校に移った。札幌東高はいわゆる進学校で、前身が市立高等女学校だったから、スポーツはあまり強くなかった。ただ、私がクラス担任をした、昭和37年入学の学年には、箭原というコントロールのいいサウスポーがいて、札幌地区ではそこそこの好成績をおさめ、全道大会出場の期待を持たせてくれた。彼は落ち着きのある生徒で、勉強の成績も良く、考えてみれば、私が贔屓する好投手のイメージは、彼によって作られてきたような気がする。
そのチームに、加藤茂夫という選手がいた。先日、この学年の卒業40年記念に出たところ、専修大学の野球部長をやっているということだった。
今年は4137校が地区大会に参加したらしいが、その9割は、この札幌東高に近い状態だろう。活動の経費は、生徒会から出る部活費と、自分たちの部費でまかなう。練習試合の相手は、せいぜい同じ地区の同レベル校で、強豪校に招待試合を申し込んでも、体よく断られてしまう。公式戦の始まる前、1週間ほど、監督の先生に頼んで合宿をやらせて貰う。
そういう学校に、たまたま素質のある生徒が揃い、これはいい線まで行けそうだ、と頑張ったところ、気がついてみたら代表権を手に入れていた。大分の別府青山や、長崎の清峰や、三重の菰野などは、それに近かったのではないか。
○北海高校の思い出
少し横道に逸れるが、札幌東の同期会の後、専修大学の加藤さんに、現在も私は高校野球に入れ込んでいるとメールしたところ、「北海高校との対戦は今でも時々思い出します」と返事をくれた。
北海高校は昭和38年春の選抜大会で、吉沢という本格派の速球投手の投打にわたる活躍により、準優勝をした。北海道の高校野球ファンが熱狂したことは言うまでもない。札幌東が、箭原の好投で北海と競り合ったのは、その翌年だったと思うが、ともあれ箭原、加藤の時代の札幌東は、北海道を代表する私立の強豪校と好試合を演ずるほど充実していたのである。
北海高校に関しては、もう一つ、札幌商業との対戦が強く印象に残っている。それは北海が春の甲子園で準優勝をした年の、春季大会のことで、札幌東高が札幌地区の予選を世話する当番校だった。私も役員の一人として出ていて、対戦を見ることができたのである。
まだ観客を入れる前、スタンドの様子を点検していると、運営の手伝いに来ている札東の野球部の生徒が、北海の選手が煙草を吸っていると言う。高いところから見たのだが、確かに何人かの高校生が、球場の入口に近い壁際にたむろして、煙草をのんでいる。あれが北海の生徒なの? そう聞くと、はい、という返事だったので、役員室へ行き、北海高校の部長だったか、校長だったかに注意を促した。北海には飛沢栄三という有名な監督がいたが、その時は役員室にはいなかったと思う。
そうこうしているうちに、思いがけず、ジャイアンツの川上監督ほか、数人の人たちがやってきて、ネット裏に陣取った。丸山球場で公式戦があり、時間の都合をつけて吉沢を見に来たのだ、という。私は少し離れたところから見ていたのだが、役員はかなり緊張した様子だった。この情報はもちろん直ぐに北海のベンチに伝わったのだろう、吉沢は初球をホームベースのはるか手前の地面に叩きつけるなど、気の毒なほどコントロールを乱してしまった。
むしろ札幌商業の、当銀という変わった名前の投手のほうが、はるかに出来がよかった。彼はバッティングのセンスもよく、柔かい身体のこなしで遠くへ打球を飛ばしていた。
吉沢は新潟から北海に入学したらしい。卒業後は、巨人に入ったが、一軍で活躍した話は聞いていない。札商もスポーツの盛んな私立高校で、当銀は三笠という空知支庁の町から入ったらしい。彼は後に駒沢大学へ進み、阪急ブレーブスで活躍した。
北海は準優勝の翌年の春、和歌山海南に12対2と大敗し、以来、あまり思わしい成績を挙げられず、3、4年低迷した後、昭和46年春の選抜に選ばれた。だが、選手たちが札幌を立ち、函館で青函連絡船に乗ろうとした時、他の運動部の不祥事が明るみに出て、出場取消しとなって、「涙のUターン」をした。代わりに、芦別工業が出場した。前に書いた、竹内の深谷商業が出た大会である。
それから南北海道はしばらく、札幌商業・函館有斗・東海大四の時代が続いた。
○資金の問題
私の高校野球に関する現場経験はその程度なのだが、その見聞を基に、資金の問題を考えてみたい。
甲子園でベンチに入ることができるのは15人だが、実戦を想定した紅白試合や、怪我人・病人の出ることも考えれば、20人以上の生徒を連れて行く必要がある。もちろん監督や部長やコーチが同行する。飛行機やJRの運賃に、宿泊代を合わせれば、甲子園での練習、組み合わせ抽選会、開会式のリハーサルと、大会が始まる前だけでも、既に250万円前後がかかるだろう。それから1日当り25万円前後が加算される。
これは最低限の必要経費を安く見積もってのことであるが、もちろん札幌東のような普通の公立高校がそんなお金を用意しているはずがない。慌てて校長と同窓会長が相談して「後援会」を立ち上げ、卒業生に寄附をお願いすることになるわけだが、私が出た前橋高校は明治10年の創立という、呆れるほど古い学校で、卒業生が多く、政界・財界で成功した人間も多い。昭和53年春の選抜大会で、完全試合をなし遂げた時は、2回戦まで進み、ご褒美に京都見物をして帰っても、まだ余裕があった。そういう会計報告が来た。平成14年の選抜に出た時は、私はアメリカの大学に客員教授として出かけていたので、具体的なことは分らないが、同様だっただろうと思う。
ちなみに、昭和56年の春、高崎高校が選抜大会に出た時、旧制第一高等学校時代に硬式野球部にいたという福田赳夫は喜んで寄附に応じた。ところが、中曽根康弘は「たかが高校野球」とか何とか言って、いい顔をしなかったため、高崎高校の同窓生から猛反発が出た。慌てた中曽根康弘は、高崎のチームが出発をする日、高崎駅へ激励に駆けつけた。そういう記事を読んだ記憶がある。呵々。
ただし、このような条件に恵まれた高校はそれほど多くはない。戦後に出来た高校の場合、同窓会の力もそう大きくなく、地方自治体にお願いして、地域ぐるみの後援体制を作ってもらうほかはないだろう。
そんなわけで、お金の調達という面から見れば、甲子園出場は5年か6年に1回くらいの割合が丁度いい。うっかり(?!)甲子園常連校などになってもらうと、学校も同窓会も火の車になってしまう。地方自治体も一つの高校、一つのスポーツだけの面倒を見続けるわけにはいかない。そんなことをしていれば、不満や批判が噴出してくる。
同時に、見落としてならないのは、応援団の問題であって、以前は学校の先生が、応援に行く生徒や父兄の数を取りまとめ、バスや宿を手配した。現在では旅行代理店が代行しているはずだが、学校を挙げての応援となれば、1日で数千万円のお金が動く。準々決勝、準決勝と勝ち残れば、宿泊が重なり、引率の先生は生徒の健康管理でヘトヘトに疲れ、思わぬ出費が嵩んでくる。自治体は、その補助も期待されるだろう。
それやこれやを考えると、毎年のように出場する福井商業などの場合、よほど強力な後援体制が出来上がっているにちがいないが、それにしても気苦労が多いだろうな。北野監督のやつれた顔を見る度に、私はその手腕に感心すると同時に、同情を禁じえない。
○私立高校の手法
それにもかかわらず、甲子園常連校を看板とする私立高校が増えている。私が(その4)で書いたような、甲子園大会の特殊性にうまく対応すれば、十分に経営が成り立つからだろう。
公立高校で実績を挙げた監督が、野球に力を入れる私立高校の監督に招聘されるケースが見られる。言うまでもなく指導の手腕が買われたからであるが、それだけではない。そういう監督は、彼個人の後援会とも言うべき人脈を持っていて、バックアップ体制を作りやすい。またその監督の名前で、広い地域から能力の高い生徒をスカウトしてくることができるからである。
横浜高校や帝京高校、東邦高校、星陵高校などの私立高が、長期にわたって一人の監督に任せているのも、上のような意味での存在価値が大きいからであろう。
ただ、カリスマ性の大きい監督を招聘する場合、短期間で高校の名前を全国的に高めるには都合がよいが、監督が変わったときの凋落もまた早い。
それより時間がかかるが、歴史と実績のある大学野球部の人脈をアテに出来る人に頼んだほうがいい。もしその大学、あるいは高校が、全国的な組織力を持つ宗教法人と密接な関係を持っているとすれば、これはもう鬼に金棒だろう。沢山の目の肥えたスカウトによって、能力の高い生徒を集めることが可能だからである。
このような体制が整えば、必ずしも監督がカリスマ的である必要はない。母校の大学の野球部から指導のノウハウを学びつつ、集まった生徒をしっかりと鍛えるならば、十分に経営母体の期待に応えるチームを育てることができる。
○経営対象としての私立高校
こうして名前が上がれば、高校の人気が高まり、定員割れを起すようなことはなくなる。また、甲子園出場を期待して息子を入学させる両親には、入部時に、あらかじめ、様々な経費の負担を約束してもらうことができる。これは常識的に分りやすい野球部効果であるが、駒沢のような宗教法人をバックに持つ学校の場合、多分それだけではない。
実を言えば、私は札幌東高校に3年勤めた後、岩見沢の駒沢短期大学に3年勤め、北大の教師となった。つまり3年間、駒沢と縁があったわけだが、その間、何を見、どんなことを知ったか。私のHP(http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/)の、「近代文学〈研究〉と大学――自伝的に(1)―」(Ⅲ章「高校教師の時代」)という文章に、感歎ながらに書いておいた。だから、改めて駒沢の体質を云々するつもりはないが、ただ、先ほどの応援団に関して言えば、駒沢の母体たる曹洞宗は旅行会社を持っていた。本山の永平寺や総持寺にお参りする信徒のツアーや、系列学校の修学旅行を世話するためである。
以下はそれに基づく推測だが、たぶん現在はもっと経営規模が大きくなり、その旅行会社が1000人、1500人という大応援団の移動と宿泊を請負う。宿舎は、甲子園周辺の曹洞宗のお寺を借り、多少窮屈でも、生徒には本堂の雑魚寝を辛抱してもらう。朝早く起きてお勤めをしてから、応援に出かけて、宗門教育と応援の一石二鳥とする。
それだけでなく、野球の強豪校として名前が高まれば、遠方の高校からも招待試合の申込が殺到し、長距離旅行用の大型バスが必要になる。学校がバスを購入し、部長や監督が運転手を兼ねる方法もないではないが、直ぐにバスを出してくれる会社と契約をしておいたほうが、高校にとっても旅行会社にとっても好都合だろう。
公立高校の場合、これは特定業者との癒着として批判され、摘発されかねないことだが、宗教法人の経営する学校では、むしろ当然あるべき関係となる。その視点から見れば、駒沢苫小牧のような学校は、より大きな組織にとって重要な経営戦略の一環なのである。
私は駒沢の3年間で、以上のようなことに、全て気がついていたわけではない。また以上の点をもって、短絡的に公立と私立との優劣を論ずるつもりもない。ただ、金銭の取扱いを含め、何によって自分を律するか、その倫理観の大きな違いには驚かされた。別な価値観の世界だった、と言っても過言ではない。
遠方から生徒を集める以上、学校が寮を用意するのは当然の配慮と言えるが、実質的には365日合宿しているようなもので、これまた極めて特殊な環境だと言うほかはない。それを特殊と感ずる感じ方を失ってはならないだろう。この環境は密室化されやすく、「強くなるため」の独特なルールが生まれ、優先的に重んじられる。学校がそれを奨励するか、黙認するか、それとも運動部内の内部論理を絶対化しないよう注意を怠らないか、それによって部長・監督と生徒との関係、あるいは生徒間の関係、つまり全体の雰囲気ががらりと変わってくる。
小は北海・準優勝チームの喫煙から、大(?!)は、明徳義塾や駒大苫小牧の問題に至るまで、以上のようなあり方に学校が引きずられ、黙認してきた結果起ったことだ。私はそう見ている。
(この文章を書いている間、時々2チャンネルをのぞいたが、「群馬の高校野球 その5」のアスキー・アーティストが描く、政治家の似顔絵は秀逸。一見の価値あり)
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コメント
はじめまして。
ハンドル・ネームで失礼します。
先生のHP。昨年のイラク日本人人質事件以来、頻繁にアクセスし読みました。例の話題が盛んに論議されていたとき、先生の記事を最後に読むようにしていました。
TaさんもImさんも、平然とラジオ(テレビには出ないようですが)などマスコミに出て、喋っているのには少しあきれます。
今回の「明徳・駒苫の問題を考える」、本当に面白かったです。相当なフリークだなと思いました。
私は、子規の伊予ではなく、讃岐出身、関東在住者なのですが、本当に参考になります。実は私の母校も今春の選抜に出場し、一回戦で敗退した口なのですが。応援も大変だっただろうなと思います。個人的なことですが、高校時代吹奏楽部に在籍していたので、高校野球は大変だったなと深く実感します。球場が高校のすぐ側なので、その辺は楽なんですけど。プレーしている方はいいけど、周り大変なんだよ、分かってるって感じです。最近の吹奏楽ブームを見るにつけ、時代の違いと彼ら彼女らの努力に拍手という気持ちです。
新しい記事、期待しています。
先生の本業の文学分野の論文(HP上の)にも挑戦したいと思います。
よろしくお願いします。
投稿: 花風病夫 | 2005年9月 7日 (水) 20時51分
花風 病夫様
返事、遅れて申し訳ありませんでした。活字になる原稿に追われたり、選挙のことが気になったりで、ついついのびのびになってしまいました。
今日、北海道の秋季大会で、駒沢苫小牧が登場したようです。相手は、甲子園に出たこともある、鵡川高校。よく鍛えられているチームで、気が抜けなかったのでしょう。初戦敗退になったら、何といわれるか分からない。そういうプレッシャーがあって、そうとう緊張していたようです。勝つには勝ったのですが、ニュースの時間に放映された、田中投手のインタービュの表情は、最後まで固さが取れず、心理的な疲労が溜まっている感じでした。
それを見て、この夏のようなことは、もう起って欲しくないと、つくづく思いました。
ハンドル・ネームを判読してのことですが、鼻風邪はもう快復されたでしょうか。
9月13日
投稿: 亀井 秀雄 | 2005年9月13日 (火) 23時57分