仕切りなおし
○昨日(8月12日)で、甲子園出場校が全部登場した。その間私は原稿の仕事に追われ、残念ながらあまり身を入れて見ることができなかった。このブログを作り、「はじめまして」の挨拶を書いた時は、一つの原稿を書き終え、さあ、これでゆっくりと甲子園大会を楽しむことができるぞ、と喜んでいたのだが、私の勘違いで、その原稿の内容が依頼のテーマをずれていた。編集者から「念のため私どもの依頼状をお確かめいただけないでしょうか」というメールがあり、調べてみると確かに私の思い違いだった。新たに見つかった資料、『チャタレイ夫人の恋人』の書き込み本(訳者伊藤整の)について書く約束だったのだが、いつの間にか、私の頭のなかでは「チャタレイ裁判」の問題に変わっていたのである。
正直なところ、『チャタレイ夫人の恋人』という小説は、私には一向に面白くない。「チャタレイ裁判」についてならば、書きたいことが山ほどある。どうも気が進まないなと思っているうちに、書きたいことのほうがテーマになってしまったわけで、しかし、まあ、こんなふうに気持が我儘になっているのも、歳を取った証拠かな。そんな反省をしつつ、「どうも申し訳ありません。2週間ほどお時間を下さい」とお詫びして、漸く昨日書き上げて、岩波書店に送った。さあ、これからが、私にとっては今年の甲子園だ。ただ、負け惜しみみたいだが、「チャタレイ裁判」についての原稿は、私の判断では、けっして悪い出来ではない。いずれ、私のホームページ「亀井秀雄の発言」に載せたいと思う。
○さてその間、ある人から「今でも2ちゃんねるをご覧になっていますか」というメールが入った。昨年、2ちゃんねるについて、肯定的な意見をホームページに書いたところ、何人かの人が私の仕事にも関心を持って、メールをくれるようになった。以来、時々メールを交換しているのだが、「今は少し仕事が立て込んで、あまり見ていません。高校野球が始まったら、また2ちゃんねるに入れ込むことになるでしょう」と返事をした。
結果的には、その返事通り、ここ1週間ほどは、試合の経過や結果を、2ちゃんねるで確かめることになった。「熱闘! 甲子園」というテレビ番組もあるのだが、どうも私の肌に合わない。負けたチームにもキラリと光るプレーがあった。グランドでプレーする選手だけでなく、縁の下で支えている人たちにも照明を当てよう。そういうコンセプトは分からないでもないが、それを汗と涙と友情の感動物語に仕立てる、メロドラマっぽい編集と、自己陶酔的なナレーション、その押しつけがましさが、鼻持ちならない。あの評判の投手はどんな球を投げたのかな。それを知るには、「熱闘! 甲子園」に頼らざるをえない場合もあるのだが、そんな時は音量を落として映像だけを見る。ところが、この番組の製作者はやたらアップ撮りが好きで、スポーツそれ自体、プレーそれ自体の魅力や凄さを伝える気持はないらしい。「捏造! 甲子園」
それに較べて、2ちゃんねるは、映像の具体性を欠いてはいるのだが、試合経過の伴う一喜一憂、歓喜憤慨が、時系列的に展開して面白い。対戦したチームの応援スレを読み較べてみると、一層面白い。一方が、「キターッ!」と得点を喜べば、他方は悔しがり、その間、相手チームの贔屓を装った厭味が混じり、第三者を装った野次が入り込んで、その全体が外野席めいている。一見どのスレも同じに思えるが、少しつき合っていると、自ずから夫々の特徴が見えてきて、あくどい厭味な言葉が乱発されるスレもあれば、どこか優しみの感じられるスレもある。
今年の佐賀商業は、福島の聖光学園の好投手・船田に、あわやノーヒット・ノーランまで追い詰められたが、それを取り上げた「俺だけでも佐賀の高校野球を語るスレPart7」が、なかなか良い。特に306、308、311の、3コマ漫画とも言うべき、アスキアートが秀逸だった。電車のなかで、「遠くから来た甲斐があったよ」「帰って熱闘甲子園みないと」と盛り上がっている猫たちの片隅に、一匹だけショボーンと落ち込んでいる猫(306)。向かいのホームでは、母子ずれが「球場まで見に行って良かったわね」「勝った~」と喜んでおり、こちらのホームでは、バッグを前に置いた猫が、一人ポツン(308)。自動車の往来が激しい、大都会のビル街の歩道を、ひとり肩を落として、向こうに去ってゆく猫(311)。この猫の後ろ姿には哀愁が漂っていた。
多分同じ人の作品ではないかと思うが、確かサッカーのスレで、炬燵に当たりながらテレビを見ている猫の、3コマものがあった。炬燵の上には湯飲みが置いてあり、猫はこちらに背を向けている。どうやら贔屓のチームが負けてしまったらしい。猫は黙って立ち上がり、布団を敷いて、ペタンと寝てしまう。その落ち込んだ感じが、なんともおかしかった。
今日は小樽へ出かけたので、テレビを見ることができなかったが、コンビニに寄ったところ、12日付の「東スポ」が置いてあった。一面の見出しに、大きく「高知高/幻の選手騒動/悲劇の上田君」と出ている。明徳義塾に代わって出場することになった、高知高校の上田選手が、自転車の全国一周旅行に出てしまい、なかなか連絡がつかない。そういう内容の2ちゃんねるスレがあったのだが、なんだ、あれは絵空事だったのか。半ばマに受けていた私は、思わず笑ってしまった。それにしても、タイミングよく、もっともらしい話題をうまく仕掛けたものだな。私は感心した。
○帰宅してテレビを入れると、大阪桐蔭高校と茨城の藤代高校との対戦が、終盤に入っていた。藤代の選手は、まるで魅入られたみたいに、大阪桐蔭の辻内投手の球を空振りしている。「関東の高校野球を語る」スレあたりで、だいぶ叩かれそうだな。
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コメント
はじめまして、ではありませんがこちらのブログには初めてお邪魔いたします。
以前一緒にお仕事をさせていただいた者で、2ちゃんねるについてのご発言を自分のメールエッセイで取り上げてよいでしょうか、とメール差し上げた者、と書けばお分かりでしょうか。
私も「熱闘甲子園」は嫌いです。「熱闘甲子園」のみならず
すべてスポーツを感動ドラマに仕立て上げようという風潮が嫌いです。
「筋書きのないドラマ」だから面白いのであって、テレビが無理やり汗と涙の感動ドラマにしたものは、面白くないどころか選手たちのプレーに失礼だと思っています。
「チャタレイ裁判」についての論文も楽しみにしております。
投稿: KISA | 2005年8月16日 (火) 13時41分
KISAさんへ
「熱闘甲子園」は、北海道では35チャンネルでやっているのですが、この局のスポーツ実況放送は一種独特な臭味がありますね。国際的な試合になると、必ず「新生○○ジャパンを占う」とか、「絶対負けられない一戦」とか、「宿命の対決」とか、キャッチ・フレーズを用意しておいて、あらゆるシーンを、無理やりその物語に押し込めようとする。実況中継中に、監督や選手のアップを挿入するやり方から、インタビューに至るまで。その間、アナウンサーはこのキャッチ・フレーズをしつっこく繰り返し、CMが入る前には、特に声を張り上げて絶叫する。こうして、KISAさんがおっしゃるように、「感動のドラマ」を仮構してゆくわけです。
私は、スポーツは過酷で、非情なものだと思っています。この過酷な非情は、人間がルールを作って能力や技術を競うことを楽しむ、その不可避的な反面であって、これを避けようとすれば、ただのお遊びになってしまう。対戦のあらゆる瞬間に待ち構えている、あるいは相手が仕掛けてくる、この非情を想定し、予測し、自分(たち)の技術を磨き、それを克服すべくチャレンジし続ける。スポーツに全力を打つ込む充足感、それを見る感動は、ここにあると言えるでしょう。
「熱闘甲子園」のうとましさは、その非情を、感動物語のスパイス程度に卑小化してしまっているからではないでしょうか。
投稿: 亀井 秀雄 | 2005年8月16日 (火) 22時04分
私は、スポーツの非情さは「勝ち負け」という、優越感あるいは屈辱感を伴わせる根源的なルールによるものだと思っています。
もちろんそれが悪いというのではなく、勝ち負けがあるからこそ勝とうと思ってあらゆる神経を研ぎ澄まし、あらゆる場面を想定して対策を練るのであり、それらの本来表に出ることのないはずの努力が「熱闘甲子園」などのメディアでは「いかにも」のわかりやすい形で、先生のお言葉を借りれば「感動物語のスパイス」というようにお手軽に差し出されているのではないかと思います。
本来それらの「努力」は「なんだかんだ言ったって、負けたら終わりなんだよな」という危機感のもとになされるものであって、感動を作ろうとしているのではないはずなのです。
けれども今は高校生までが「みんなに感動を与える野球を」と言っている、このことにこそ私は危機を感じます。
確かジェームス三木だったと思いますが、シナリオには36通りのパターンしかない、と言った脚本家がいました。
それらのパターンにスポーツも、これから本格的にスポーツを目指す少年少女も、乗っかっていこうとしているのではないか。その象徴とも言うべきものが「熱闘甲子園」なのかもしれないと感じます。
投稿: KISA | 2005年8月17日 (水) 03時01分